第三章 七月二十八日~澱む死体
目が覚めた瞬間、赤橋は咄嗟に自分がどこにいるのかわからなかった。そして、窮屈なテントのようなものの中で寝ているのを確認すると、台風のせいで絶海の孤島の廃墟水族館の中に避難せざるを得なかったという状況を思い出していた。
反射的に枕元に置いていた携帯を見やる。相変わらず圏外だが、時刻と日付だけは確認できた。二〇〇八年七月二十八日月曜日午前六時……すでに日付は変わり、もう朝方になりつつある時間だった。耳をすますと、まだかすかに強風が吹き荒れる音が聞こえてくる。どうやら、台風はまだピークを過ぎていないようだ。
この時間では誰も起きていないだろう。そう思ってもう一度寝ようとしたが、一度覚めてしまった頭は余計な事ばかり考えてしまい、どうしても寝付く事ができなかった。
「……仕方がないか」
赤橋はため息をついて体を起こすと、救命いかだの側面にもたれかかってしばらくボーっとしていた。だが、やがて狭い空間で何もせずにいる事にどうも落ち着かない気分になってきて、赤橋はしばらくすると小さく息を吐いて気分転換に一度テントから出る事にした。
「ん?」
いかだから出ると、誰も起きていないと思っていた赤橋の予想とは裏腹に、ビニールシートのランタン懐中電灯の前に誰かが座っているのが見えた。近づいてみると、それは限られた光源の下で一心不乱にスケッチブックに絵を描いている美柑であった。
「何をしてるんだ?」
赤橋が後ろから呼び掛けると、彼女はビクリと一瞬体を震わせて恐々と後ろを振り返り、そこに立っていたのが赤橋だと確認してホッとしたように息を吐いた。
「赤橋君……脅かさないでください」
「すまん、どうにも寝付けなくてな。だが、それを言うなら夏沢もこんな時間にここで何をしてるんだ?」
「えっと……絵を描いていました」
美柑は少し恥ずかしそうに言う。赤橋は首を振ると、放っておけずにやむなく彼女の隣に腰を落ち着けた。目の前の大水槽は相変わらずどんよりと濁った水で満たされており、まだ夜明け前である事もあって中に何があるのかは昨日の夕方以上に全く見えない状態である。それが何とも不気味であると同時に、今まで経験した事もない神秘さも醸し出していた。
「しかし、奥が見えない水槽がこんなに不気味なものだなんて、思ってもみなかった。暗い深海にいる深海魚というのはこういう気分なんだろうな」
「はい……何というか、今にも水の奥からいきなり何かが出てきそうで怖いです」
美柑もそれに同調する。赤橋は話題を絵に戻す事にした。
「それより、絵を描いていたというのは?」
「あ、はい。その……記憶が残っているうちにこの廃墟の絵を描いておこうかと思って。不謹慎かもしれませんけど、こんな被写体に出会える機会、多分もう二度とないと思いますから」
確かに、生きて帰れさえすれば、こんな経験は恐らくもう二度とできないだろう。赤橋自身としても、『死なない蛸』の研究をする身として、廃墟と化した水族館での今回の経験は今後の研究のインスピレーションに活かせそうだというのが正直な感想だった。
「それで、できたのか?」
「一応、下書きは。ここでは色は塗れませんから、下書きだけして色は助かった後にでもつけようかと」
そう言って美柑はスケッチブックを見せる。懐中電灯の明かりの下で見ると、そこには今日見た光景が何枚か忠実に書かれているのが見て取れた。崖の上に立つ廃墟の水族館の遠景。歪んだ光が差し込む澱んだ大水槽。瓦礫が散乱する館内の通路……。さすがにプロだけあって、なかなか再現率の高い絵であった。
「さすがだな」
「私の唯一の特技ですから……」
そう言って美柑は顔を赤らめた。そのまま、何とも言えない沈黙がその場を支配する。
「……私たち、どうなっちゃうんでしょう?」
と、唐突に美柑が不安げな表情でそんな事を言った。やはり、この状況で不安を覚えないはずがなかったらしく、そう考えると絵を描いていたのも恐怖から気を紛らわせるためだったのかもしれないと赤橋は思った。
「大丈夫だ。俺たちが別荘にいない事は遅れてきた綿野が気付くはず。綿野が警察に通報してくれれば、時間はかかってもいつかは捜索隊が来るはずだ」
「そうでしょうか……」
納得しつつも、美柑はまだ不安そうな顔をしていた。もっとも、それは無理からぬところではあるのだが。
「……こうしてると懐かしいよな」
「え?」
「昔、どっかの鍾乳洞に探検に行った時も、こんな感じでみんなでテント張って騒いだもんだ。ま、今回はテントじゃなくて救命いかだだが……あの時に比べたら、随分マシだろ。何しろちゃんと屋根があって風雨を防いでくれるんだからな」
「……ふふっ、鍾乳洞だってそうですよ」
美柑はクスリと笑いながら言葉を返してくれた。
「あぁ、そうか」
「ごめんなさい。そしてありがとう。心配してくれたんですよね」
「……とにかく、少しは楽観的に考えた方がいい。実際はどうであれ、そっちの方が気が楽だ」
「そうですね。そうしてみます」
さっきに比べて少し美柑の表情が和らぎ、赤橋はホッとした表情を浮かべた。
「悪い、邪魔したな。それじゃ、せっかくだから俺はもう少し寝る事に……」
そう言って、赤橋がいかだに戻ろうと立ち上がった……その瞬間だった。
突然、激しい水音が響いたかと思うと、目の前の大水槽の澱んだ水の中に、何かが水槽の上から飛び込んできたのである。
その瞬間、赤橋と美柑は何が起こったのかわからずその場に固まってしまっていた。そして直後、美柑は反射的に上に乗ったペットボトルを落としてランタンにしていた懐中電灯を手に取り、真っ暗に澱んだ水槽の中へと向けていた。
何かが水槽の中に落下したのは間違いない。現に、さっきまで波一つ立っていなかった水面が激しく揺らいでいる。だが、まだ夜明け前で日光が差し込んでおらず、なおかつ長年の汚れですっかり澱んでいる水槽の内部は、懐中電灯で照らしても全く何も見えない状態だった。だが、この何も見えない水槽の中に何かがあるのは確実なのである。それはまるで、『ある物凄い缺乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた』と書かれた『死なない蛸』の結びの一文を思い出させる状況だった。
「一体……一体何があったんですか!」
美柑が叫びたいのを必死に我慢するような声で尋ねる。が、そんな事は赤橋の方が聞きたい事だった。
「わからない。だが、何かが水槽に飛び込んだのは間違いない」
問題の「何か」は水槽の上から落ちてきた。もちろん、何もないのに勝手に何かが水槽に落下するはずがない。という事は、誰も入れないはずのこの水族館の二階に何か得体の知れないものがいるという事につながりかねない。現状、島からの脱出手段を持たない赤橋たちにとって、それは脅威以外の何物でもなかった。
「おい、何だ、今の音は!」
「何! 何が起こったの!」
そうこうしているうちに、いくつかのいかだからそんな声が上がって何人かが飛び出してきた。全員ではないが、今の音に気付いた者も多かったらしい。出てきたのは迫水、稲城、武美、真凛の四人であった。戸塚、白松、純子、リタの四人は寝ているのか姿を見せる気配はない。
「赤橋君、何があったんですか?」
「いや、それが……」
稲城の問いに赤橋が答えようとする。とにかく、この場は全員で状況を共有すべきだと考えたのだ。だが、その直後だった。
「あっ!」
美柑が急にそんな声を上げて懐中電灯の光を水槽の中央部分に向けた。その声に、この場にいる他の全員の視線がそこに集まる。
そして……彼らは後に伝説と化す、ある衝撃的な光景をその場で目撃する事となった。
「なっ……」
それはすなわち……
澱んだ水槽の闇の奥からまるで浮かび上がるように出現し、懐中電灯の光の中、髪と服を海藻のように漂わせながら、水槽の向こうから青白い顔で恨めし気にこちらを見やる、つい数時間までは「山中純子」の名前だったはずの女性の水死体であった……。
「い……」
その次の瞬間、美柑と真凛の絶叫が、廃墟と化した水族館に響き渡った。
「イヤァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
午前六時半……惨劇が、今、始まった。
美柑と真凛の絶叫に寝ていた他のメンバーもさすがに目が覚めたらしく、顔を見せていなかった戸塚、白松、リタの三人がそれぞれいかだから顔を出し、そして目の前の大水槽に浮かび上がる恐怖に満ちたあり得ない光景にそれぞれが絶句していた。無論、顔を出した面々の中に大水槽の向こうから死に顔を向けている日帝航空キャビンアテンダント・山中純子の姿はない。赤松ら悲鳴を上げなかった面々も、目の前に出現した思考の斜め上をいく光景に、何の行動も起こせず固まるしかなくなっていた。
「これは……一体……どういう……」
迫水がようやくといった風に言葉を絞り出す。同時に、全員の呪縛が一気に解けた。
「な、何で山中が……何がどうなってんだよ!」
戸塚の叫びに、しかし誰も答えられる者はない。暗く澱んだ水槽に不気味に浮かぶ彼女は、生前の明るい性格など微塵も思い出させないような虚ろな表情で、無言でこちらの様子を眺めつづけている。その目に生気がないのは、誰の目にも明らかな事だった。
「い、いかだは!」
白松が叫び、反射的に近くにいたリタが純子のテントの中を確認する。
「……誰も中にいないわね」
実際、中には誰の姿もなかった。それは、水槽で浮かんでいるのが純子である事を補強する情報であった。目の前の悪夢に、全員がパニック状態に陥りそうになる。
「みんな落ち着いて!」
最初に冷静さを取り戻したのは、やはり自衛官としてある程度の修羅場を潜り抜けている武美だった。次いで、医者として死体を見た経験がある白松も、青白い顔ながらも気持ちを落ち着けようと深呼吸している。
だが、ついさっきまで一緒に話していた人間が目の前で死体になって浮かんでいるという光景はそう簡単に気持ちを落ち着けられるものではなく、当の武美も表には出していないが、よく見れば手が小さく震えているようだった。だが、それでも彼女は気丈に全員に指示を出す。
「とにかく、一刻も早く純子を水槽から出さないと。このままにしておくわけにはいかない!」
「そ……そうだ。早く、助けないと……死んでいるとは限らないし……」
震えながらも戸塚が声を絞り出す。だが、ここで赤橋は恐ろしい事実を告げなければならなかった。
「ちょっと待て、水槽から出すと言ったが、一体どうやってだ! それをするには二階のバックヤードに行かないといけないんだぞ!」
「そ、そうよ! 二階へ行く扉には鍵がかかっていたはずじゃないの?」
真凛の言葉に、一行はハッとした表情を浮かべると同時に背筋が凍った。そう、純子は出入りができなかったはずの二階のバックヤードから水槽に落ち、こうして水槽内部に死体となって出現しているのである。それはすなわち、彼女がどうやって入れないはずの二階に侵入したのかという問題が出現した事を意味していた。
「おい、二階に行くには東通路の北にあった階段室に行くしかないんだよな!」
白松が問いかける。実際、中を確認したわけではないが、北西の隅の部屋が倉庫、南東の隅の部屋がトイレである以上、該当しそうな部屋はもうあそこしかなかった。だが、あの扉に鍵がかかっているのは前日に確認済みである。
「何にしても、ここで固まっていても仕方がない。確認しに行こう」
武美の言葉に、全員が弾かれたように動き、一斉に東通路へ飛び出した。本心としては、もうこれ以上水槽に不気味に浮かぶ純子の死体を見続けたくなかったというものがあったが、あえてそれを言う人間はこの場に誰もいないようだった。
だが、全員が走って東通路を進み、北東の角に着いた時点でさらなる驚愕が追い打ちをかけた。
「これは……どうなってるんだ!」
昨日まで開いていた東通路と北通路を繋ぐ扉……昨日ここを通る時に間違いなく開けたその扉が、今はがっちりと閉じてしまっていたのである。慌てて戸塚と迫水が駆け寄って開けようとするが、なぜか扉はびくともしなかった。
「な、何でだ! 何で開かない!」
戸塚が叫び、他のメンバーの何人かは青白い表情を浮かべていた。そんな中、武美は唇を噛み締めながらあくまで冷静に事実を告げる。
「どうやら……私たちはこの東通路と南通路で構成された空間に閉じ込められてしまったようだね。誰の仕業かはわからないけど」
一方、バックヤードのドアを調べていた白松は絶望的な表情で首を振った。
「駄目だ、やっぱり閉まってる。こじ開けた形跡もない。ここから二階に行くのは無理だ」
「そんな……じゃあ、山中さんはどうやって二階に入ったんですか? それに、私たちを閉じ込めたのは誰なんですか?」
美柑が今にも泣きそうな声で尋ねる。だが、それに答えられる人間は誰もいなかった。
「それを考えるのは後だ。どうする? このまま山中を放っておくわけにもいかないし、色々考える前に、どうにかして二階に行くか、この封鎖されたエリアから脱出するのが最優先だと思うが……」
「どっちにしろ、手段が必要だね」
武美が考え込む。他のメンバーも必死に知恵を絞っていた。と、ここでリタが不意に手を上げた。
「脱出する手段は思いつかないけど、二階に行く手段だったら一つ考えがあるわ」
「どうやってだ? 倉庫の時みたいにここをこじ開けるか?」
迫水の言葉にリタは首を振る。
「違うわ。私たちがさっきいた南通路だけど、南側にいくつか……えーっと、汽車窓式の水槽があったわよね。大水槽と違って、こっちはほとんど水が抜かれていたわ。そして、元々水槽だったって事は、この水槽の上には……」
「二階のバックヤードがある!」
真凛が叫んだ。リタは頷いて自身の考えを述べる。
「つまり、あの南側の水槽のどれか一つのガラスを割れば、水槽を通じて二階に行けるかもしれないって事。もちろん、ガラスを割る事ができれば、だけど」
「……それしかないか」
赤橋はそう言ってリタの案に賛成した。他のメンバーも反対者はいないようである。
ただ、そうなるとあの浮かんだ死体が見える南通路に戻らなければならないという問題があった。当然戻りたくないという人間の方が多く、結局この中で比較的度胸がありそうな赤橋、迫水、武美の三人に、純子の生死確認が必要という事で医者の白松が加わった四人が二階の探索を行う事になった。あとのメンバーは東通路のトイレの前で待機する事となった。
「じゃあ、行こう」
懐中電灯を持つ武美の音頭で、探索四人組はできるだけ大水槽の純子を見ないようにしながらいかだが並ぶ南通路に戻った。今までの事が全部夢であってくれればいいのにと赤橋は思ったが、残念ながら純子はさっきまでと変わらぬ姿で水の中を漂い続けていた。
「さて、どれを割ろうか」
南側……つまり並んだいかだの後ろ側にいくつか並んでいる水槽を見ながら武美が呟いた。結果、底に水が溜まっていたり、大量の瓦礫が散乱していたりする水槽を省いていき、最終的に真ん中の水槽のガラスを割る事になった。中を見ると瓦礫はそこまで散乱しておらず、しかも他の水槽と違ってガラスにひびや小さな穴も開いていて割るのが容易そうなのもメリットだった。
「よし、やろう」
トイレの近くで見つけた古い消火器を片手に迫水が言う。彼は目を閉じて水槽に近づくと、そのまま消火器を振り上げてガラス目がけて叩きつけた。直後、ガラスが派手に砕け散る音が南通路に響き渡る。すぐさま、赤橋と白松がトイレから拝借したデッキブラシやホウキで水槽の中に散らばったガラス片を掃き、さらに水槽の底に同じくトイレで入手した黒のビニール袋を敷く事で安全を確保する。そして、四人は頷き合うと、そのまま一人ずつ水槽の中へよじ登っていった。
水槽は一メートル四方程度の広さで、一度に二人入るのが限界だった。最初に武美と赤橋が入り、そのまま水槽の上を見上げる。水槽の上部は予想通りバックヤードと思しき開けた空間だが、そこから出るには二メートルほどの高さがあり、何か台座が必要であった。
「仕方がない。肩車でいこう」
武美の言葉に赤橋はギョッとしたが、結局押し切られる形で赤橋が武美を水槽の中で肩車する事になった。それで何とか水槽の淵に手が届いたらしく、武美はそこに指をかけると懸垂の要領で水槽をよじ登り、そのまま淵の向こう側へ姿を消した。しばらくして、上から何かが下ろされてくる。それは、脚立だった。
「手伝ってくれ!」
武美の言葉に赤橋は梯子の下を支えて脚立を水槽の上部に立てかける。赤橋たち三人はその脚立を上って水槽の上部に到達する事ができた。
懐中電灯の明かりに照らされたそこは、バックヤードと思しき通路のようだった。通路の南側に水槽がずらりと並んでおり、本来ならこの通路から水槽を上から見下ろす事ができるのだろう。とはいえ水がたまっていない現状、その水槽は単なるいくつもの空洞にしか見えなかった。今、赤橋たちはその水槽の一つからここに登ってきたわけである。
一方、水槽の反対側である通路の北側の壁には金属製の棚が置かれていて、いくつもの備品が今も放置されている。先程の脚立もここにあったようだ。そして、通路の東西にはそれぞれ金属の扉があり、その先がまだある事を示していた。
「位置関係的に、大水槽はこの壁の向こうにあるはずだ」
武美が通路北側の棚の方を見ながら言う。
「行く方法は?」
「どう考えてもあの扉から出るしかないだろう」
昇ってきた迫水がそう言い、武美も頷いた。
「私もそう思う。でも、さっき君たちが昇ってくるまでに西側の扉を確認したけど、そっちは鍵がかかっていて開きそうになかった。今から東の扉を確認するつもりだけど……」
その言葉に、全員の視線が向かって右手にある東の扉の方を向いた。武美の懐中電灯に照らされ、その扉は何とも言えない不気味さを醸し出している。しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。四人は武美を先頭に、東の扉の方へと慎重に歩みを勧めた。
やがて扉の前に着くと、武美が慎重な様子でドアノブに手をかける。こちらも開かないようなら万事休すであったが、直後、扉は鈍い音を立てて外側に開き、同時に何か腐ったような潮のきつい臭いがバックヤードに流れ込んできた。
「うっ」
全員が思わず鼻をふさぐ。が、武美は意を決したように扉を開け、そのまま扉の向こうのエリア……場所的には東通路の頭上に位置するエリアに足を踏み入れた。
そこは位置的には一階東側通路のちょうど真上に位置する場所だった。ただ、こちらは一階と違って通路になっておらず、外側の壁に沿うように四つの扉……つまり四つの部屋が並んでいる状態だった。北東と南東の角に一部屋ずつと、東側の壁に沿うように二部屋で、東側の二部屋の前のエリアは作業用なのか開けた通路になっている。それぞれの部屋の扉にはプレートがはめ込まれていて、錆びていて読みにくくはなっているものの、北東の角部屋の扉には「階段室」、南東の角部屋の扉には一階の同じ位置同様に「男子トイレ」と「女子トイレ」、その二部屋に挟まれた東側の壁に接する二部屋には、北から順に「調餌室」「冷凍室」の文字が見えた。また、階段室のすぐ左手には別の金属のドアがあり、そこには「北バックヤード」の文字が見える。
だが、問題は調餌室と冷凍室の前の通路の左手だった。そこにはこの建物の中央に位置する大水槽が鎮座していて、その大水槽が濁って腐った海水で一杯になっている光景を真上から見る事ができた。どうやら、この臭いはこの大水槽から漏れる腐った海水によるものであるようである。その大水槽の上には中央でも作業できるようにという配慮のためか、ど真ん中に金属製の足場……いわゆるキャットウォークとでも言うべきものが対岸の西通路の上に相当するエリアまで東西に伸びていた。また、昨日の稲城の予想通り、この大水槽の真上の天井部分は一面ガラス張りになっていて、今そのガラスにはどんよりとした朝の曇り空の中で台風による豪雨が打ち付けている状態だった。幸い明け方で徐々に外が明るくなってきている事もあって、少しずつ二階部分も明かりが差し込むようになってきている。とはいえ、まだ懐中電灯が必要な事には変わりがなかった。
一行は恐る恐る通路を進んで大水槽のキャットウォークの入口の辺りにまで到達した。念のために迫水が先行して北バックヤードの扉を確認するが、すぐに首を振る。どうやらここも鍵が閉じているようだ。
要するに、この二階は中央の大水槽を中心に南北にそれぞれバックヤード、東西に各種の部屋があるエリアが存在する事となる。東西エリアを行き来するには南北のバックヤードの通路を使うか大水槽の真上にかかるキャットウォークを通るしかないが、南北双方のバックヤードの扉の鍵が閉じている以上、現状では二階西エリアへ向かうにはキャットウォークを通るしかない。だが、そのキャットウォークは長年腐った塩水の上にさらされていた事もあってか見るからに錆が目立っており、とても渡ろうという気は起こらなかった。
「こんなところに本当に山中が一人で来たっていうのか?」
白松が唖然とした様子で呟く。だが、そんな事を言っている場合ではなかった。
「それより、山中の奴はどこだ?」
赤橋がそう言いながら水槽の中を凝視する。が、濁った水で彼女がどこにいるのかはっきりとわからない。
「確か、水槽のほぼ中央のガラス近くに浮かんでいたから……あの辺りか」
迫水が該当すると思しき場所を指さすが、何も見えないのは同じだった。
「どうやって引き上げる? あの場所だとするならここからは届かないし、そもそもこの水槽はかなり深そうだぞ」
「どうにかして水を抜けないか? 水槽なら水を抜く装置くらいあるだろう」
白松が周囲を見やる。が、武美が無言で首を振った。
「生憎それらしいものはないね。もしかしたら西エリアにあるのかもしれないけど、この状況だと行く事もできない。それに、万が一水を抜けたとしてもかなりの深さがあるから、底まで降りる方が難しいね」
「じゃあ、どうする事もできないのか?」
白松が険しい顔でそう言った時だった。
「おい!」
白松が叫び、全員が彼の指差す大水槽の方を見やった。すると、先程迫水が示した辺りからかなり手前の地点に、水中から昆布かワカメのような黒い物体がブワッと浮かび上がってきたのだった。それによって生じた波紋が大水槽全体に広がっていく。一瞬、それが何かわからなかった赤橋だったが、直後その正体に気付いて戦慄した。
「山中の……髪……」
それは、今まで水中に沈んでいた純子の遺体が何かの拍子に浮かび上がって来て、彼女の黒い長髪が水面に広がった光景だった。あれから少しこちら側へ流されてきたのか、かなり近い場所にそれは広がっている。誰もがその異常さに圧倒され、一瞬その場で呆然としていた。
だが、最初に反応したのはまたしても武美だった。
「これなら……」
そのまま元来た南のバックヤードに一度引っ込むと、何かを持って再び戻ってきた。その手には古びた柄付きの網が握られている。水族館用だけあって、長さは三メートルほどある。
「どうするつもりだ?」
「かなり近づいているから、網で手繰り寄せられるかもしれない。手伝ってくれ!」
その言葉に、男三人は反射的に頷いた。武美が腹ばいになって体を伸ばすようにして網を水槽に伸ばし、男三人は武美が落ちないように体を支えるという構図だ。
それでもかなりギリギリだったが、何回か繰り返すうちについに網の先端が純子に引っかかった。間髪入れずに武美は網を手繰り寄せ、ついに純子の体が水槽の淵まで到達する。
「引っ張り上げろ!」
今度は男三人が上着などで手を覆った上で純子を通路に引っ張り上げようとする。水を吸った彼女の体は予想以上に重く、三人は苦戦したがしばらくしてようやく純子を通路の上に引き上げて仰向けに寝かせる事に成功した。
息を荒げる三人を尻目に、武美はずぶ濡れの純子を確認する。が、白松が確認するまでもなく、彼女が死んでいるのは明白だった。カッと見開いた虚ろな眼はもう何も見ておらず、武美はたまらないという風に彼女の瞼を閉じようとした。が、白松がそれを遮る。
「待て。気持ちはわかるが、その前に検視をしたい。いいな?」
そう言うと、今度は白松が前に出て、医者として純子の遺体を確認しにかかった。彼女が着ている服は昨日着ていたもののままで、その衣服に損傷らしいものはない。
「で、白松センセ、彼女はいつ死んだんだよ?」
「簡単に言うな、迫水。この状況じゃ解剖なんてできないし、ずっと水中にいたから体温から推測する事もできない。ただ……」
そう言って懐中電灯で彼女の見開いた眼を照らす。
「……角膜の白濁化が始まっている。角膜混濁の初期症状だな。これが起こるのは一般的に死後三時間から四時間程度だ。それに顎関節の硬直……死後硬直でこの段階が発生するのは死後二時間以降五時間以内。まぁ、硬直がかなり進んでいるから二時間って事はないだろうから多めに見積もって死後三時間以前と考えるべきだな。その辺を諸々考えると……現在時刻が午前七時だから、死亡推定時刻は三時間~五時間前……つまり今朝の午前二時から午前四時までのどこかと考えるのが妥当だろう」
その言葉は、非常に重い現実を告げるものだった。
「つまり……午前六時半頃に山中が水槽に飛び込んできたときには、彼女はすでに死んでいた、という事か」
「そうなる」
赤橋は淡々と事実だけ告げた。それはつまり、彼女の死体を大水槽に叩き込んだ誰かがいたという事実を示すものだった。
「ついでにもう一つ悪いニュースを言っておこうか」
そう言うと、白松は純子の胸を何度か押しながら告げた。
「どうやら死因は溺死じゃないな。溺死特有の泡沫が見られない。一般的に溺死の場合、口や鼻の周辺に泡沫が確認されるはずで、万が一水で流されていたとしても胸を押せば泡沫が出てくる。だが、さっきからそれらのものは確認できない」
「じゃあ、一体……」
白松は黙って純子の後頭部を示した。そこには、目に見えてわかる傷跡があった。
「後頭部に挫傷、だな」
「ぼ、撲殺って事か?」
「いや、これは致命傷じゃない。致命傷になったのは……」
白松はそう言って今度は純子の首を指さす。そこには、どす黒い紐状の痕……絞殺痕が確認できた。その瞬間、誰もが息を飲む。
「死因は頸部圧迫による窒息。この様子だと紐状の何かで首を絞められたようだが……凶器や状況は不明だ」
「彼女は……殺されたっていうのか」
「……断定はできないが、その可能性は高い」
純子は殺害された……。つまり、純子を殺害した人間がこの廃墟となった水族館にいる。その事実は、赤橋たちを黙らせるのに、充分すぎる威力を持っていたのだった……。
その後、四人は遺体に赤橋らの上着をかぶせて合掌し、一通り周囲を調べた後で一度一階へ戻る事にした。まず、エリアの東側にあった調餌室と冷凍室の扉を調べたが、ここも鍵はかかっていなかったらしくすんなりと開いた。調餌室は読んで字のごとく飼育していた魚たちの餌を準備する場所の事で、中には中央に大きなテーブルが置かれ、周囲に冷蔵庫や棚などが置かれた部屋であったが、特にめぼしいものは確認できなかった。
一方隣の冷凍室は餌用の魚などを保管する場所のようだったが、長い間電源が切れていた上にどうやら保管していた魚がそのまま放置されてしまっていたらしく、少し扉を開けただけで気絶しかねないような強烈な異臭が漏れ出し、とても中に入る事などできない状態だった。武美いわく細菌が増殖して正しい意味でのバイオハザード状態になっている可能性さえあり、立ち入るのは命の危険さえあるという事だった。
最後に四人は階段室の扉を調べたが、幸いここも鍵が開いたので遠慮なく中に入り、そこにあった一階への階段を降りて行った。降りた先には二つドアがあり、一方は外に通じる非常ドアのようだったが、ドアノブ自体が外れてしまっていて開けるなどもっての外の状態である。やむなくもう一つのドアの方へ向かい、内側から鍵を開けてドアを開くと、そこは先程まで開かない事に四苦八苦していた一階の北東の隅にあった階段室と書かれていた扉で、すぐ横に今もなお閉じられている北通路への扉が見えた。同時に、扉が開いた事に気付いた東通路の待機組……戸塚、稲城、リタ、真凛、美柑の五人が駆け寄ってくる。
「どうだった?」
せかすように聞く戸塚に対し、赤橋は黙って首を振った。
「その事で話がある。一度腰を落ち着けて話したい」
赤橋の言葉に、全員が頷いた。遺体はすでに引き上げたという事で一度南通路に戻る事になり、真凛や美柑は嫌がっていたものの瓦礫の散乱する東通路で話をするわけにもいかず、結局全員で大水槽前に敷かれたビニールシートの所に戻る事となった。再び懐中電灯の上にペットボトルを乗せてランタンにし、その周りに全員が腰掛ける。
「それで、話とは何ですか?」
稲城の問いに対し、赤橋は遺体を調べてわかった事を説明した。すなわち、純子の死亡推定時刻が午前二時から四時までの間であり、六時半に彼女が大水槽に落ちてきたときにはすでに死亡していた事。そして、彼女に殺害の痕跡が見られた事である。案の定その言葉にその場の誰もが重苦しい空気になった。
「殺されたって……一体誰に?」
真凛が呆然とした様子で尋ねる。
「わからない。ただ……言いにくい事だが、ここは台風で隔絶された絶海の閉ざされた廃墟の中だ。そうなると、犯人になりうる人間の候補は限られてくる」
「ま、待てよ! それって……」
上ずった声を出す戸塚だったが、彼が答えを言う前に、隣に座っていたリタが挑戦的な声を出した。
「私たちの中に犯人がいるかもしれない……赤橋君はそう言いたいのかしら?」
「……不本意だが、安全の確保のためにもその可能性は考えなければならない」
赤橋の答えに、その場の全員が緊張した表情を浮かべた。ただ一人、リタだけはどこか興味深そうな表情をしている。
「面白いわね。クローズドサークルで起こった殺人事件の検証なんて、まるでクリスティの名作みたいだわ」
「リタさん、不謹慎ですよ」
リタの物言いに、稲城が眉をひそめて注意する。
「ソーリー。でも、実際そうしないといけないのは確かよね」
「それはそうだが……そう言えば、あんた、大学時代もその手のミステリー小説をよく読んでいたんだったな」
不意に迫水がそう呟く。確かに、思い起こせば大学時代のリタは廃墟探検と同時に推理小説もよく読んでいた。リタは肩をすくめてその事実を肯定する。
「確かにそうだけど、だからって私は犯人じゃないわよ。そんな事を言い始めたら、ミステリーの愛好家は全員犯罪者になってしまうわ」
「……あぁ。さすがにそこまで安直な事は言わないよ。それはこれから検証する」
一瞬、迫水とリタが睨み合う。手を打ってそれを止めたのは武美だった。
「そこまでにしよう。ひとまず、やるべき事をやっておこうか」
「や、やるべき事って何ですか?」
美柑がおずおずと尋ねると、武美は何でもない風に答える。
「もちろん、アリバイの確認だよ。死亡推定時刻ははっきりしているわけだからね」
「午前二時から四時の間……か。とはいえ、その時間だと全員寝ていると思うが」
白松が不服そうに言う。実際、ほとんどの人間は白松の言葉に頷いていた。
「何しろ予想外のアクシデントで疲れ果てていましたからね。ちょっとやそっとの事では起きなかったでしょう。まぁ、トイレくらいは行きましたけど」
稲城がそう言って首を振りかけたが、不意に何かを思い出したように顔を上げた。
「そう言えば……」
「どうした?」
「いえ、僕は午前二時半頃に一度トイレに行ったのですが、その時にこのブルーシートに夏沢さんが座っていたのを見たものですから」
その言葉に、全員の視線が美柑の方を向き、美柑が小さく悲鳴を上げた。
「夏沢、お前、ここにずっといたのか?」
「え、あ、その……そう、です」
迫水の問いに、美柑は怯えた表情を浮かべながらも頷く。
「いつからだ?」
「えっと……多分、午前二時を少し過ぎたくらいから……」
それはまさに死亡推定時刻そのものである。これはすなわち、今から行われるアリバイ検証に彼女の証言が重要な要素になるという事でもあった。
「そんな時間に寝もせずに何をしていたんだ?」
迫水が不審げにもっともな疑問を尋ねる。が、これは赤橋に心当たりがあった。
「もしかして……その時間からずっと絵を描いていたのか?」
その言葉に、美柑はおずおずと頷いた。
「は……はい」
「絵だって?」
迫水の問いかけに、赤橋は今朝の光景を思い浮かべた。思えば、彼女はスケッチブックに鉛筆での下書きとはいえ複数枚の絵を描いており、あれだけの量を描くにはいくら美柑でも一時間程度では不可能なはずだ。
「その……目が覚めてしまって……ここの絵も描きたかったから、いかだから出て朝までずっと絵を描いていたんです」
そう言って美柑は証拠のスケッチブックを差し出した。そこに赤橋が補足説明を加える。
「少なくとも、俺が六時くらいに起きていかだを出たとき、夏沢がここでスケッチを描いていたのは確かだ。それは俺が保証する」
その言葉に、他にも何人かが追従した。どうやら、夜中にトイレに行った人間は概ね彼女の姿を見ていたようだ。
「そうか……じゃあ、それを信じるとして、夏沢は二時過ぎから遺体発見の午前六時半までずっとこの場所にいたわけだな?」
迫水の確認に、美柑は黙って頷く。
「だとするなら、その間この場所でどの時間にどんな人の出入りがあったか知っているはずだ。わかる範囲でいいから、まずはそれについて思い出してくれないか?」
「そ、そう言われても……」
いきなりの事にどぎまぎしている美柑に、武美が助け舟を出す。
「そうだね。じゃあ、まずは山中さんの事について聞こうか。夏沢さん、君がここにいる間に、山中さんの姿は見かけたかい?」
その問いに、美柑は必死に考えながら言葉を紡いだ。
「……見ていなかったと思います」
「確かかい?」
「はい。少なくとも午前二時に私がいかだを出てから山中さんの姿は一度も見ていません。時間は起きたときに携帯で確認したから間違いないと思います」
その言葉に、全員がざわめいた。この証言はつまり、美柑が絵を描き始めるよりも前に自分のいかだを出ていた事を示すものだったからである。
「つまり、あいつは少なくとも午前二時より前にはこの南通路にいなかったってわけだよな。ここは開けた通路だし、入口は一ヶ所しかないから夏沢の目を盗んで出ていくなんて不可能なんだしよ」
戸塚がまくしたてるように言う。だが、不意にリタがそれに異議を唱えた。
「待って。そうとは限らないかもしれないわよ」
「な、何だよ」
「ねぇ、夏沢さん。あなたはさっき午前二時から午前六時半までずっと絵を描いていたって言っていたけど、本当に一度もここを離れなかったの? 例えば、トイレに行ったりとか」
その問いに、美柑はハッとした表情を浮かべた。
「そ、そう言えば……」
「行ったのね?」
「はい。確か……午前三時くらいに一回と、午前四時半くらいに一回、確かにトイレに行っています。それぞれ十分くらいでしたけど」
「つまり、その合計二十分間に関しては、ここに誰もいない空白の時間があったって事ね」
「……山中がその瞬間を見計らっていかだから出たとでも言いたいのか?」
白松が疑わしそうに尋ねる。
「さすがに死亡推定時刻以降の午前四時半って事はないと思うけど、午前三時の方は充分あり得ると思うわ」
「可能性の問題だな」
「えぇ。でも、無視するわけにもいかないのは事実よ」
と、ここで赤橋が会話を引き戻した。
「よし、ひとまず山中の動きについては把握した。次に俺たちの動きだが……自己申告をして夏沢に確認を取る事にしよう。この中で、午前二時から遺体発見までの間に自分のいかだを出た人間はどれくらいいる? ちなみに、俺はさっきも言った通り午前六時にいかだを出て夏沢と合流しているが、それ以前は一度もいかだを出ていない」
その言葉に続いたのは迫水だった。
「俺は遺体が見つかるまで一度もいかだから出ていないし、トイレも行かなかった。だからこそ、夏沢が絵を描いていた事を知らなかったわけだが」
「私も出ていないぞ。何分、疲れていたからな」
「私も、よ。ずっといかだで寝ていたわ」
白松とリタもそのように証言する。全員の視線を受け、美柑は頷いた。
「は、はい。確かに、遺体が見つかるまで三人の姿は見ていません」
次に稲城が手を上げた。
「さっきも言ったように、僕は二時半頃に一度トイレに行っています。その時に夏沢さんがここに座っているのを見ました。ですが、いかだを出たのはその一回きりで、トイレも五分程度で済ませました」
と、ここで稲城はさらに何かを思い出した風に言う。
「そう言えば、トイレから出て戻るときに花園さんとすれ違いましたね。彼女もトイレに行くようでしたが」
「そうなのか?」
赤橋が尋ねると、真凛は少し憔悴した顔ではあったが頷いた。
「そ、そうよ。二時半を少し過ぎたくらいにトイレに行ったわよ。確かに、トイレの入口で稲城君とすれ違ったわ」
「何か会話は?」
「別になかったわ。会釈くらいはしたけどね。トイレも十分くらいで終わったし」
美柑に確認を取ると、彼女は黙って頷いた。
「で、花園、いかだを出たのはその一回だけか?」
「……もう一回だけ、午前五時くらいだったと思うけど。お腹が痛くなって」
「腹痛?」
「き、緊張するとお腹の調子が悪くなるのよ! こんな状況で、何も感じない方がおかしいじゃない!」
最後は少し開き直ったような口調だった。戸塚が呆れたように言う。
「お前……それ、アイドル歌手としては致命傷じゃないか?」
「歌うのは別に緊張しないから問題ないの!」
「それで、時間はどれくらいだ?」
赤橋は容赦なく尋ねる。真凛は少し迷った末、少し嫌そうに言った。
「……十五分少しくらいだったと思う。なかなか気分がよくならなくて……」
「間違いないと思います」
美柑が頷く。
「じゃあ、残り二人は?」
赤橋は残る戸塚と武美に尋ねる。武美は肩をすくめながら言った。
「私は午前二時四十五分くらいに一度トイレに行ったよ。時間は十分くらい。出たのはそれ一回だけだね」
「お、俺は午前四時過ぎと午前四時十五分くらいに五分間ずつ二回だ」
戸塚は緊張しながら答えたが、赤橋が少し訝しむ。
「随分、短い間に二回も行ったんだな」
「悪いかよ! 花園じゃないが、何か気分が悪くて眠れなくてよ。一回行っただけじゃ治んなくて、すぐにもう一回行ったんだ」
赤橋が確認のために美柑の方を見やると、これにも美柑は小さく頷く。
「わかった。ひとまず、これで死亡推定時刻における全員の行動ははっきりしたわけだ」
だが、それは同時に事態が奇妙なものになったという事を示すものでもあった。赤橋は改めて白松に尋ねる。
「ひとつ聞きたいんだが、山中が殺されたとして、殺害にどれくらいの時間がかかる?」
「……絞殺という事になれば即死はまず無理だ。最低でも五分以上かかる。その他の遺体工作やらなんやらを含めれば十五分以上は必須だな」
「だが……今の話を聞いていると、死亡推定時刻内で十五分以上もこの場から離れた人間はいないように思うが」
そうなのだ。確かにトイレに行った人間はいるようだが、概ね五分から十五分以内で、人を殺せるような時間的余裕がある人間は誰もいない。むしろ、姿を見せている分、死亡推定時刻にちゃんといかだにいたという証明になってしまっている。顔を見せなかった四人にしても遺体発見時は顔を見せているわけで、となればいかだの中にいたのは間違いない。そしてそれらをすべて証言している美柑も、何人もの人間がちゃんとここにいた事を証言しているのだ。誰がいつトイレに出てくるかわからないのに美柑がそれを予測してアリバイを作りながら犯行をする事などまず不可能で、しかも目の前のスケッチはそれなりの時間がないと描けないのは確実。つまり美柑が犯人である可能性も低いのである。
「つまり、このメンバーには山中を殺す事は実質的に不可能って事か」
誰もがホッとしたように息を吐く。が、それならそれで問題は深刻だった。この中のメンバーでないなら、誰が純子を殺したというのだろうか。
「……白松、一応聞いておいていいか?」
「何だ?」
「今回の一件、山中の自殺って線はないか?」
その言葉に、誰もが発言した赤橋の方を見やった。
「死因は絞殺なんだろう? だったら、自分で首を吊ったって可能性もあるんじゃないか?」
その問いに、白松は思わぬ答えを発した。
「……確かに、私もそれは一瞬考えた。首の索状痕が少しおかしかったしな」
「おかしい、というと?」
「索状痕が斜め上向きになっていたんだ。これは縊死……つまり首吊りでよくみられる痕跡だ。通常の絞殺の場合、索状痕は真横につく」
「だったら……」
「だが、私はそれでもこれは首吊りによる自殺じゃないと思う」
白松ははっきりそう言った。
「なぜだ?」
「さっきも言ったように遺体には致命傷にはなっていないが殴られた痕跡があった。この打撲には生活反応があったから、殴られたのは死亡する前だ。となれば、何者かが彼女を殴って気絶させ、その後彼女の首を絞めたと考えるのが現実的だ」
確かにその点は問題だった。後頭部に傷がある以上、誰かが彼女の死の直前に殴って気絶させたのは確実なのである。そして彼女が気絶していた以上、自殺という可能性は根本から否定されてしまうのである。
「じゃあ、その不自然な索状痕は何なんだ? まさか、犯人が山中を気絶させた後でわざわざどこかで首吊りをさせたっていうのか?」
だが、迫水のこの発言に白松が反論した。
「殴って自殺に見せかける事がほぼ不可能なのにわざわざそんな事をする理由が思いつかないし、第一、根本的な問題がある」
「根本的な問題って……」
「どこで首を吊るんだ?」
意表を突く問いに迫水は戸惑った。
「どこって……」
「元水族館だけあって、少なくとも一階にロープをひっかけられるような場所はなかった。あえて言うならトイレがそうだが、人がいつやって来るかわからないトイレで殺人なんていくらなんでも無謀すぎる」
「いや、でも二階なら……」
「ちらっと見たが、天井部分に首を吊れるようなパイプなりはほぼなかったし、あったとしても相当な高所だ。男でも人一人担いで首吊りさせるには無理がある」
「でも、確か首吊りって絶対に宙吊りになる必要はなかったはずじゃないかしら。アメリカだと、ドアノブとか階段の手すりとかで首を吊って、体の一部が床に接した状態で自殺するケースが多いらしいけど」
リタがそんな事を言う。確かに、二階にならそれが可能な場所がいくつかあった。しかし、白松はなぜか少し難しい顔をして答えた。
「法医学的には、いわゆる足が宙に浮いた首吊りを定型的縊死、リタが言ったような体の一部が床についた首吊りを非定型的縊死と呼んで区別する。しかし、非定型的縊死では定型的縊死と違って姿勢がアンバランスになるため、索状痕が左右非対称になるケースが多い。山中の場合、索状痕は左右対称になっていた。これは定型的縊死に見られる特徴だ。この点から考えると、山中の死は足が地面につかない定型的縊死という事になるはずなんだが……」
「随分歯切れが悪いですね」
稲城の言葉に、白松はますます表情を複雑にして言う。
「索状痕の痕跡から見ると山中の死因が定型的縊死なのは確実だ。ところが、それにしては彼女の遺体には顔面の鬱血や眼球の溢血が認められていて、法医学的にはどうにも矛盾してしまっている。」
「何だよ、その鬱血とか溢血とかいうのは」
戸塚が首を傾げながら問う。白松はその問いに対して簡単に答えた。
「一般的に他人に首を絞められたり非定型縊死のように足が地面についた形で首を吊ったりした場合、頸静脈が不完全に圧迫される事によって頭部に鬱血が生じ、遺体の顔面がはれ上がる。また、眼球の毛細血管も破裂するから眼球結膜に溢血点が生じる。だが、定型的縊死のように足が地面につかない首吊りの場合は、頸静脈の閉塞が一瞬かつ完全に生じてほぼ即死するからこれら頭部での出血は起こらず、結果的に顔面鬱血や眼球溢血は確認される事はない。そして、問題は今回の山中の遺体には、この顔面鬱血や眼球溢血が認められているという事だ」
「……ん?」
そこまで聞いて、赤橋はようやくそれが大きく矛盾している事に気が付いた。白松が答えを告げる。
「さっきも言ったように、索状痕の形状が斜めになっている事から彼女が首を吊って死んだのはほぼ間違いなく、さらに索状痕の左右対称性は間違いなく定型的縊死に見られるものだ。しかし、鬱血や溢血の存在は非定型縊死による首吊りの可能性を示唆している。こんなに法医学的に矛盾する遺体は正直私も初めてだ」
「どんな状況ならそういう事が起こるのかしら?」
リタの質問に、白松は考えつつも答える。
「言ったように、鬱血や溢血は頸静脈が不完全に閉塞される事によって発生する。不完全な閉塞というのは、要するに一般的な首吊りのように重力で一瞬に首が締まるのではなく、絞殺や非定型的縊死のように徐々に首が締まって数分かけてじわじわと死んでいくような場合に発生するものだ。だから、さっきの検視結果を純粋に考えるのならば、山中は足がつかないような首吊りをしたにもかかわらず、その後空中に浮くなりなんなりして少しずつ重力で首が絞まって死亡してしまったというわけのわからない話になってしまう」
「……本人が壁か何かで体を支えていたのでもない限り、物理的にあり得ない話だな」
赤橋はそう感想を漏らした。
「で、白松はどう思っているんだ?」
迫水が尋ねると、白松は少し考えた後でこう言った。
「私の予想だと、考えられる可能性は二つだ。一つは、犯人が山中を宙吊りにした上で体を下から抱きかかえるなりして体を支え、その後で少しずつ力を抜いてじわじわと山中の首を吊っていったという場合だ。相当残虐な方法だが、山中を苦しめるには絶好の方法だろう。もっとも、この場合でもどこで首を吊ったのかという謎は残ってしまうわけだが」
白松はさらにもう一つの可能性を示す。
「もう一つの可能性は、山中を宙吊りにしたのではなく、首にロープをかけた上で山中を背負うようにして絞殺するという方法だ。このやり方なら索状痕も縊死と同じよう斜めかつ左右対称になるが、宙吊りの場合と違って不完全な頸静脈の圧迫が起こって死ぬまでに時間がかかるから鬱血や溢血が発生する矛盾の説明にもなる」
「背負ってって……そんな事をするメリットは何だ?」
「まず、さっきも言ったように索状痕が縊死と同じような形になるから首吊り自殺に偽装できる。そして、もう一つのメリットとして非力な人間でも確実に相手を絞殺する事ができる。通常なら相手を絞め殺すほどの力がない人間でも、このやり方なら確実に相手を絞め殺せる。つまり、女性でも犯行が可能になるという事だ」
最後の言葉に、女性陣の表情が変わった。
「まぁ、そう言うわけでどっちの可能性にしても第三者の介入が必須なのは確実で、だからこそ私は自殺の可能性は低いと考えているわけだ。納得できたか?」
その言葉に、誰もが不承不承頷く。それに、自殺だろうが他殺だろうが、彼女の遺体を水槽の中へ叩き込んだり、北通路へ続く扉を閉鎖して自分たちをここに閉じ込めたりした人間がいるのも間違いないのである。つまり、白松の言うように事件に被害者以外の誰かの意図が関わっているのは確実なのだ。
「そうなると、可能性として考えられるのは、僕たち以外の第三者がこの島にいる可能性しかありませんね」
稲城の言葉に再びその場に緊張が走る。
「け、けどよ。こんな無人島に一体誰がいるっていうんだよ。港には俺らが乗ってきたやつ以外に船はなかったし」
「確かにそこが問題なんだが」
と、その時真凛がポツリと呟いた。
「もしかして……金島君……とか」
「え?」
全員が真凛の方を見やる。一方、真凛はどこか青ざめた表情で言葉を続けた。
「だって、この島に確実にいて、それでいて今この場にいない人なんて、いなくなった金島君しか考えられないから……」
「金島がやったっていうのか?」
「それは……わからないけど……」
確かに、船から姿を消した金島の行方については今もわかっていない。
「……仮に金島だったとして、何で金島が山中を殺すんだ?」
「俺たちが知らないだけで、あの二人の間に何かトラブルがあったのかもしれないが……だとしてもわざわざこんな場所でこんな派手な演出までして殺す意味がわからない。もちろん、実際に金島の姿が見えない以上可能性として考えておく必要がないとまではいわないが……違和感があるのも確かだ」
赤橋の問いに迫水はそう答え、さらに言葉を続けた。
「何にせよ、状況はある程度わかった。ひとまず、この中に犯人がいる可能性がなくなっただけでも収穫だ。そうなれば、この際犯人が誰かを考えるのは後にしてもいいと思う。問題は、この後どう行動するかだ」
「確かに、それは問題だよな。もし仮に第三者が他にいてそいつが山中を殺したっていうんなら、次に俺たちを狙ってくるかもしれないし」
戸塚の言葉に、全員が別の意味で緊張に包まれる。
「しかし、北通路への扉を閉鎖されてしまっている以上、館内から脱出するのは不可能だ。あの大きな扉は倉庫みたいにこじ開けるのはまず無理そうだしな。まぁ、あの扉が開いていたとしても、台風が吹き荒れている今の状況では外に出るのは自殺行為だが……」
耳をすませば、相変わらず壁の外から強風の音がかすかに聞こえてくる。それを聞きながら、赤橋はこう提案していた。
「ひとまず下手に動かず全員で一緒になっておくのが一番だろう。誰が犯人かわからないからと言って一人で強引に脱出するなんて事は考えない方が吉だ。世間一般では、そう言うのは死亡フラグというらしい」
実際、そんな事を言い出す人間はこの場には皆無なようだった。何だかんだ言って、多人数で一緒にいるのが安全である事はわかっているらしい。
「とりあえず、昼間の間は全員でこの場所で固まっておく事にしよう。夜の事は……まぁ、夜になったら考えたらいい」
「そうね。それが一番だと思うわ」
リタも赤橋の意見に賛成した。それが合図だったのか、他の面々も同意の頷きを返す。
「決まりだな。あとは、どれだけ早く助けが来るかにかかっているわけだが……」
こればかりは、本土で英美里が誰もいない別荘を見てどのような行動をしているかにかかっている。赤橋は思わず天井を見上げ、はるか遠くにいるはずの英美里に思わず祈りをささげそうになったのだった……。