表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/13

第二章 七月二十七日~探偵

 三重県志摩半島志摩市。その海沿いの避暑地にある一際大きな別荘の近くの空き地に一台の黒い乗用車が到着し、そこから一人の若い女性が姿を見せたのは、七月二十七日の夕方六時頃……接近する台風によって風が強くなりつつある頃の事だった。その女性……綿野英美里が傘を差して運転席から外に出ると、途端に強い風雨が英美里に襲い掛かった。

「凄い風……、急がないと」

 英美里はそう言うと、そのまま目の前にある建物……金島の別荘へ向けて歩き始めた。

 彼女……綿野英美里は早応大学探検サークルOB会の最後のメンバーであり、現在は東京都内にある波ノ内中学校で社会科の教師をしている。本来なら最初から今回のOB会に参加するはずだったのだが、彼女が顧問を務める陸上部の大会があったせいで参加が遅れる事となり、こうして一日遅れで志摩にある金島の別荘にやって来た次第であった。

 純子らサークル内の女性陣の中において、英美里はどちらかといえばあまり目立たず地味な存在だった。もちろん、内気な美柑と違って他の女子たちとの会話に参加したりはしていたのだが、いまいち華がないというのが自己評価であった。また、卒業後に選んだ職業も、他の女子メンバーの華やかな職種に比べれば、よく言えば堅実、悪く言えば平凡でありきたりなものであり、女性陣で集まった際にも他のメンバーの聞き役に徹している事が多かった。だが、彼女自身はこの派手ではないが充実したな生活にそれなりに満足しており、自身の境遇を嘆くような事は全くなかった。それは、ある意味彼女自身の強さだったのかもしれない。

 さて、そんな英美里は急ぎ足で別荘の玄関の前に到達し、ホッとした様子で呼び鈴を押そうとしたのだが、そこでふと違和感を覚えた。

「あれ?」

 別荘に人気がない。もう夕方近くで、しかも台風の接近でかなり薄暗くなっているにもかかわらず別荘内に明かりがないのである。訝しげに思いながら何度か呼び鈴を鳴らしてみるが、やはり反応らしき反応はなく、別荘から誰かが出てくる事もなかった。

 誰も来ていないという事はないはずである。実際、さっき車を置いてきた空き地には、他のメンバーのものと思しき車が何台か駐車していた。また、昨日の時点で主催者である金島にも遅れる旨を改めて連絡しており、その時に本人から直接別荘で待っているという事を聞いているのだ。にもかかわらず、別荘に誰もいないというのは異常な話だった。

 一瞬みんな揃ってどこかに遊びに出かけているのかとも思ったが、台風で風が強くなっているこの状態で彼らを待つ事は難しい。英美里はもう何度か改めて呼び鈴を押し続けたが、それでも返事がないとやむなくその場で待つ事を断念して、いったん自分の車に戻る事にした。車内に入ってホッとすると、車外で吹き荒れる暴風雨の音がことさら強調されて響いてきて、あまり気分のいいものではなかった。

「どうなってるの……」

 英美里はそう言いながら改めて携帯電話で金島に連絡を取ろうとした。が、いくらかけても一向に通じる気配はない。番号を知っている他の何人かにもかけてみたが、結果は同じだった。そうこうしているうちに風はますます強くなっていき、車に打ち付ける雨音も激しさを増しつつあった。このままここにとどまるのは危険である。

 ここへきて、英美里は何か胸騒ぎというか嫌な予感というか、そのようなものを感じていた。人がいるはずの別荘に人の気配がなく、しかも誰とも連絡が取れないという状況に、何とも言えない不信感を覚えたのである。もしかして、別荘で何かあったのかもしれない……そんな考えが不意に英美里の頭に浮かんできた。だが、この台風に玄関が閉まっている以上、英美里一人では中の様子を確認する事はできない。誰かの助けが必要だった。

 となれば、英美里の取れる手段は一つしかなかった。英美里は一瞬何かを考えた後で車のエンジンをかけ、今来た道を市街地へ向けて車を発進させたのだった。


 英美里の車が台風の吹き荒れる志摩市中心部に到達したのは、それから十五分ほど経過した後だった。普段は観光客であふれかえっている市内も、この台風のため人影はまばらである。そんな中、英美里は志摩市の中心部にある建物……すなわち、三重県警志摩警察署の駐車場に車を滑り込ませていた。

 あのような異様な状況では、英美里にできるのは警察を呼ぶ事くらいしかなかった。が、台風が吹き荒れているあの状態で一一〇番通報をしてその場で待つという選択は考えられず、それなら直接警察に駆け込んで事情を説明した方が早いと考えたのだ。英美里は傘を差しながら車から降りると、苦労してそのまま警察署の中に駆け込んだ。

 志摩署のロビーは、台風に対する対処でどこか慌ただしい雰囲気となっており、駆け込んできた英美里の姿に気付いた人間も少ないようだった。英美里は一瞬躊躇したが、意を決して受付のロビーの方へと足を進めようとした。

 と、その時だった。

「あれ……もしかして、エミリー先生ですか?」

 不意に後ろからそんな風に声をかけられて、英美里は思わず足を止めてそちらを振り返った。『エミリー先生』というのは学校で生徒たちが自分につけたあだ名のようなものであり、すなわちこの名前で自分の事を呼ぶのは自身の教え子以外にいないはずである。しかし、自身の勤務する東京から遠く離れたこの場所の、しかも警察署の中でまさかその名を呼ばれるとは思っておらず、一体誰が自分の名を呼んだのかとやや身構えつつも相手方の方を見た。

「わぁ! やっぱりエミリー先生だ! お久しぶりです!」

 そこにいたのはセーラー服を着た女子高生の姿だった。髪を肩までかかる程度のショートヘアにした、どこか元気そうな表情の女の子。その顔に、英美里は見覚えがあった。二年ほど前の陸上部の卒業生に、そっくりな顔の生徒がいたのである。

「もしかして……深町さん?」

「覚えていてくれたんですね! よかったぁ」

 その少女……波ノ内中学陸上部OGで、今は高校二年生になっているはずの深町瑞穂は、そう言ってほっとしたような表情を浮かべていた。当時の陸上部三年生の中でも特に印象に残っている生徒で、チームのムードメーカー的な存在だったのを英美里は覚えていた。確か、品川区にある立山高校という中堅公立高校へ進学していたはずで、実際に彼女が着ているのはその制服だった。

「でも、先生。どうしてこんなところにいるんですか?」

「それは……こっちのセリフよ。深町さんこそ、何で三重県の警察署にいるの?」

 まさか何か警察のお世話になるような事をしたのかと教育者として少し心配になった英美里だったが、瑞穂は笑いながら首を振って答えた。

「違いますよ! 今日は部活動の一環でここに来ているんです」

「部活動って、陸上部が警察署で何をするの?」

 その言葉に、瑞穂は一瞬キョトンとした顔をした後、何かを納得したようにこう言い添えた。

「あ、そうか。先生には連絡していなかったんだっけ。えーと、その……実は私、高校では別の部活に入ったんです」

「え、そうなの?」

 中学時代、陸上部一筋だった彼女だけに、その選択は少し意外だった。

「ちょっと色々ありまして」

「何の部活に入っているの?」

 英美里のその問いに対する瑞穂の答えは、英美里の予想の上をいくものだった。

「ミス研……つまり、ミステリー研究会です。平たく言えば、推理小説とか実際の犯罪とかについて議論したり研究したりする会ですね。一応、部長をしています」

「ミス研……」

 英美里からすれば中学時代とは真反対の部活だった。だが、それ以上に英美里にはわからない事があった。

「えっと……ミス研なのはまぁいいとして、深町さんは何でこんな三重県の警察署にいるの? 部活動ってどういうことなの?」

 だが、これに対する瑞穂の答えも、英美里の予想の斜め上を言った。

「えーっと、正確には部活動っていうのは建前で、今日は先生の仕事に部活動名目で勝手にくっついてきただけなんですよね。こうでもしないと学校側が活動を認めてくれなくって……。今は先生を待っているところなんです」

「せ、先生? 誰なの、それ?」

 いきなり出てきた謎の人物に英美里が当然の問いを発する。どうも言い方からして学校の先生というわけではないようだ。

「それはですね……あっ、ちょうど出てきたみたいです!」

 その言葉に英美里が振り返ると、確かに警察署の奥から一人の男が出てきたところだった。英美里は、思わずその「先生」と瑞穂が呼んでいる男を観察していた。

 年齢は四十代前後だろうか。痩身の男で、くたびれたスーツにネクタイを締め、右手には黒のアタッシュケース。もう片方の手はポケットに突っ込まれている。どことなく温厚そうかつ疲れたような顔をしており、第一印象は、窓際の閑職に飛ばされたどこかパッとしない哀愁漂う平凡な中年サラリーマンといった風貌である。一瞬、英美里もなぜこんな男が瑞穂から先生と呼ばれているのかわからなかった。

 そんな事を考えているうちに、男は瑞穂に気付いたらしく、そのまま二人のいるところまで近づいてきた。

「瑞穂ちゃん、すまないね。色々と手間取った」

「先生、遅いですよ。外はもう台風で大変な事になっています。今日中に帰るのは無理だと思いますけど」

 瑞穂はそう言って男に気安く話しかけている。男は一瞬玄関から外の様子を見やると、小さくため息をついてこう続けた。

「仕方がないね。定野警部に頼んで、今日は警察署に泊めてもらうしかないかもしれないな。まぁ、それはいいとして……この女性は?」

 その視線が英美里に向けられる。英美里が思わず緊張する中、瑞穂が代わりに答えてくれた。

「えっと、私の中学校時代の陸上部の顧問だった綿野英美里先生です。私たちは『エミリー先生』って呼んでいました。何でこんなところにいるのかは聞いていませんけど」

「中学校の先生、ですか」

 その言葉に、英美里はようやく呪縛が解けたように男に質問した。

「あの、失礼ですけどあなたは? 深町さんと随分親しいようですが」

 警戒するようなその問いに対し、榊原は苦笑気味に答えた。

「親しいというか……正直、彼女が勝手に私に付きまとっているだけなんですがね」

「付きまとっているんじゃなくて、先生から色々と学んでいるんです! 私は先生の助手ですから!」

「じょ、助手?」

 瑞穂の口から飛び出した思わぬ言葉に、英美里は困惑する。それを見て相手はますます苦笑しながらこう続けた。

「自称、だがね。……失礼、確かに綿野先生の立場からすれば私は怪しい人間でしょうね。改めまして、私はこういう者です」

 男はそう言うと、スーツのポケットから一枚の名刺を取り出して英美里に差し出した。受け取った名刺を読むと、そこにはシンプルなデザインでこう書かれていた。


『榊原探偵事務所所長 榊原恵一』


 思わず英美里は顔を上げる。

「探偵、ですか?」

「えぇ、まぁ。とはいっても、品川の裏町にある、個人経営の小さな事務所ですがね。ご心配なさらずとも、ライセンスはちゃんと取っていますので自称とかそう言うのではなく本物の探偵です」

 真面目にそんな事を言う男……榊原に対し、英美里は何と言っていいのかわからない。そもそも、日本に探偵のライセンスがあること自体初耳である。

「まぁ、探偵業界でプライバシー侵害だの何だの色々問題が起こったので、ライセンス制が導入されたらしいです。私にとってはどっちでもいい話ですが」

 榊原はそう言って首を振る。だが、それでも英美里は目の前の男が探偵だとは今ひとつ信じられない思いでいた。何というか、英美里の想像する探偵といえば、シャーロック・ホームズみたいにどこか天才的でかっこいい風貌の持ち主か、頭が切れすぎて言動や思考が突拍子もないものになっている奇才タイプの人間のような人種であって、目の前にいるような平凡なサラリーマン風の人間ではない。少なくとも、見た目だけで考えれば彼が推理小説の主役を張れるような人間に見えないのも事実だった。

 だが、そんな事を考えていた英美里に対し、榊原は静かにこう問いかけていた。

「ところで、綿野先生は何の御用でこちらに? 東京の中学校の先生が三重県の警察署に姿を見せるというのも、少し不思議な話ですが」

 榊原の問いかけに、英美里は一瞬どうしようかと思ったが、物は試しと自分が今置かれている状況について話してみる事にした。

「実は……」

 大学時代の友人との同窓会で別荘にやって来たはいいものの、その別荘に誰もいる気配がなく、異常を感じて警察にやって来たという事を、英美里はできるだけ詳しく相手に話していた。

「なるほど……確かにそれは妙ですね」

 榊原は英美里の話をジッと聞いていたが、一通り話が終わるとそう呟いて何事か考え始めた。それを見て、英美里はおずおず尋ねる。

「あの、どう思われますか? やっぱり、何かあったんじゃ……」

「今の話でそこまではまだ何とも。ただ、その別荘とやらを調べてみる必要はあると思います」

「助けて、くださるんですか?」

 しかし、その問いに対して榊原は首を振った。

「それはやぶさかではありませんが、私も探偵ですのでね。調べるとなると、正式に依頼をしてもらう必要があります。その代り、一度依頼を受けたら真相が明らかになるまでどんな事があっても徹底的に調べ尽しますが」

「依頼、ですか」

 もしや、とんでもない大金を吹っかけられるのかと英美里は思ったが、その顔色を見て榊原は苦笑気味に首を振る。

「依頼料についてはそこまで心配しないでください。別途交通費等の必要経費は頂く事になりますが、それを除いた依頼料としては、そうですね……」

 榊原が告げた金額は、そこまで高額なものではない……というか、一般的な探偵業の依頼料としては明らかに安いものであった。英美里としては拍子抜けである。

「えっと、その程度でいいんですか? 調査が進むごとに依頼料が増えるなんて事は……」

「ありません。依頼料は最初に提示した金額のみで結構ですし、後払いでも構いません。必要経費も一定以上を超えたらそれ以上は請求する気はありませんし、あとは実際に別荘を調べてみて何も異常がなかったのなら、必要経費分を支払って頂くだけで充分だと思っています」

「でも……」

 あまりにも話がうますぎる。そう思ったのがまた顔に出たのか、榊原はこう言い添えた。

「あぁ、誤解がないように言っておきますが、別に私は善意で依頼を受けているわけではありません。先程の料金も本当はもらわなくてもいいんですが、無料だと色々警戒されますし、何より私にも生活があるので最低限の額をもらっているだけに過ぎません。私が依頼を受ける理由はただ一つ。金銭ではなく、あくまでも探偵として事件の真相を明らかにする事に尽きます」

「真相を明らかにする、ですか」

「えぇ」

 直後、榊原はジッと英美里の方を見やって告げた。

「それこそが、探偵にとっての最大の存在意義であると、私は考えているものでしてね」

 そう言ってのけた榊原の目を見た瞬間、英美里はなぜか背筋が凍るような感覚を覚えた。さっき感じた、一見温厚そうでどこか疲れたような目は一切変化をしていない。だが、その目の奥が全く笑っていなかった。というより、何もかもを見通してしまいそうな鋭く芯の通った何かがそこから発せられているように感じられたのである。それは、明らかに第一印象の「疲れた平凡なサラリーマン」とは違う、底知れぬ何かを持つ者の目だった。まるで、何か英美里の想像もつかないようなとんでもないものを「平凡なサラリーマン」という外見で包み込んでいるような……そんな感覚がなぜかしたのである。

「さて……どうしますか? その別荘の調査、私に依頼してみますか? もちろん、私に頼まずにここの警察に頼んでも一向にかまいません。というより、依頼したとしても私は警察に協力を求めるつもりですしね。単に、私がその事件に介入するかどうか……それだけの違いです」

 英美里が感じた戦慄を知ってか知らずか、榊原はあくまで口調は平凡に尋ねてくる。とはいえ、英美里としてはこの榊原という探偵の実力を知らないわけで、おいそれと返事できないのも事実だった。思わず瑞穂の方を見る。

 と、瑞穂はニッコリ笑ってこう言った。

「実力とか人柄とかの事なら、心配しなくても大丈夫です。こう見えて先生、一応元刑事ですから」

「も、元刑事?」

 思わぬ前職に榊原は少しバツが悪そうに答える。

「えぇ、まぁ。十年ほど前まで、警視庁刑事部捜査一課第十三係で警部補をしていました。もっとも、諸事情で辞職する事になって、今はこうしてしがない私立探偵をしているわけですが」

「警視庁捜査一課って……」

 それは刑事ドラマなんかでよく出てくる、警視庁の殺人担当の部署だったはずだ。目の前の男がそんな仕事をしていた事に英美里は驚きを感じるとともに、さっきの鋭い視線の意味が少しわかったような気がした。そんな英美里に、瑞穂が補足する。

「でも、辞めた後でも先生の実力は警察関係者の中では有名で、今でも非公式のアドバイザーを依頼される事が多いんです。実は、今日ここにいるのも三重県警からある事件についてアドバイスをもらえないかって依頼があったからなんですよ」

「その依頼は大丈夫なんですか?」

 思わずの問いかけに、榊原は淡々と答えた。

「大丈夫です。そっちはさっき決着がつきましたから」

 何でもないように言う榊原に対し、英美里は再び何か底の知れないものを感じ取っていた。同時に、この男が口先だけではない……確実に何かを持っている探偵であるという事も実感していた。そして、英美里としてはそれがわかれば充分だった。

「……わかりました。これも何かの縁ですので、探偵さんに別荘の調査をお願いしたいと思います」

 そう言って英美里は深々と頭を下げた。この際、助けは少しでもあった方がいいという判断だった。

「いいでしょう。では、依頼を受けるにあたって状況を確認しておきます」

 そう言うと、榊原は一つずつ状況を確認していく。

「別荘にいるはずの綿野先生の友人は全部で十一名。別荘の持ち主である金島頼経さんを筆頭に、赤橋輝雄さん、戸塚克人さん、稲城将成さん、白松哲彦さん、迫水真太さん、山中純子さん、佐伯武美さん、夏沢美柑さん、花園真凛さん、リタ・クラークさんですね?」

「は、はい」

 一度しか言わなかった名前をスラスラと言われて、少し戸惑いながらも英美里は頷いた。

「しかし、肝心の別荘はこんな台風が来ているにもかかわらず、誰もいる様子がない。なので、綿野先生はここに来た。その認識で間違いありませんね?」

「そうです」

「……となると、一度その別荘の中を確認しない事には話が始まらないわけですね」

 そう言って榊原が思案をしていた時だった。

「あぁ、ここにいましたか」

 署の奥からさらに別の男性が出てきた。年齢は榊原と同じく四十歳前後だろうか。ひょろりと背が高いスーツ姿の男だが、こちらは榊原と違って見るからに目つきが鋭い。気さくに話しかけつつも、目はジッとこちらを観察しているように見えた。素人目にも、明らかに警察関係者だという事が一目でわかる。

 男はそのまま榊原の所へ駆け寄ると、その背の高い体を折り曲げて一礼した。

「おかげで助かりました。後はこっちで何とかなりそうです」

「そうですか。役に立てたのならよかった」

 礼を言う男に対し榊原の方は淡々と答えると、改めて英美里に彼を紹介した。

「あぁ、失礼しました。こちら、先程までかかわっていた事件の依頼人で、三重県警刑事部捜査一課係長の定野正純警部です。私が刑事だった頃にある事件で三重県警と合同捜査をした事がありましてね。その時に一緒にコンビを組んで事件を追いかけた仲でして、それ以来、こうして付き合いがあるんですよ」

「いつもお世話になっていましてね。榊原さんほどの人材が警察を辞めたというのは今でも残念です」

 刑事……定野の言葉に榊原は苦笑気味に首を振る。

「まぁ、それこそ色々ありましたからね」

「わかっています。ところで……そちらの方は?」

 定野に尋ねられて、英美里は思わず背筋を伸ばして挨拶した。

「あ、その、綿野英美里です。実は、今この探偵さんに依頼をしたところでして……」

「依頼、ですか?」

「その件で、今まさに定野警部に相談しようと思っていたところだったんです」

 そう言うと、榊原は今まさに英美里から聞いた話を素早く定野に伝えた。それを聞いて定野も渋い表情を浮かべる。

「大人数がいるはずの別荘から反応がない、ですか」

「この台風で何かあったのかもしれないので、何にしても、一度その別荘を確認する必要があります。ただ、そうなると他人の家に踏み込むわけですから、警察関係者の立ち合いが必要だと考えます。そこで物は相談なんですが……」

「私に立ち合いをしてもらえないか、という事ですね」

 定野が先回りして言う。

「有体に言えばそうなります。台風で大変な中ですが、お願いできますか?」

 定野は少し考えたが、すぐにニッコリ笑って頷いた。

「構いませんよ。今回の事件ではかなりお世話になりましたし、そのくらいはお安い御用です」

「助かります。それともう一つ、何分この台風で我々も東京へ帰れそうにありませんのでね。どこか宿泊施設を紹介してもらえると嬉しいんですが」

「実は、それを言いに来たんです。周りの宿ももう新しい客を受け入れるだけの余裕がないそうなので、お呼びした手前もありますし、この建物の仮眠室に泊まるというのはどうでしょうか? 状況的にやむを得ませんし、上も榊原さんなら別に構わないと言ってくれました」

「……では、その件に関しては県警のご厚意に甘えさせてもらいましょうか」

 どうやら、そっちの交渉も終わったようである。

「さて、宿泊場所の問題が片付いたところで……早速次の依頼に取り掛かる事にしよう」

 そう言うと、榊原は英美里に方に振り返り、そして何気ない口調でこう呼びかけた。

「行きましょうか。その別荘とやらに」

 ……後から考えると、この瞬間こそが、この後起こる日本犯罪史にその名を残したある大事件の運命を大きく変えた瞬間だったのだが、当然この時の英美里がそれに気づく事などなかったのであった……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ