第一章 七月二十七日~上陸
二〇〇八年七月二十七日日曜日。目の前に広がる大海原を見つめながら、赤橋輝雄は甲板の手すりに手を置いてぼんやりと考え事をしていた。これが雲一つない快晴だったらリゾート気分も味わえるのだろうが、あいにく現実はそこまでよくできているわけでもなく、空はどんよりとした雲で覆われていて今にも雨が降り出しそうである。それに対応して海の色もどんよりとしたものになっており、そんな海原を赤橋の乗るクルーザーは快調に走り続けているところだった。
甲板に出ているのは赤橋一人だけである。多分他のメンバーは船内のキャビンで盛り上がっているのだろうが、赤橋はそこに参加するような気分ではなかった。ほとんど無意識にズボンのポケットに手をやり、タバコを一本取り出すとライターで火をつけ、大きく息を吐いて煙を吹き出した。その煙は風にあおられてそのまま船の後方に流れていき、いつの間にか消えてしまう。赤橋はその光景を何の気もなしに眺めながら、再び所々に小さな島が点在している沖合の方を見やった。
「おーい、赤橋。何こんなところで一人でたそがれてるんだよ」
と、不意にそんな声が後ろからかかった。赤橋が振り返ると、自分と同年代の男が軽く手を上げながらこっちへ向かっていた。
「迫水……」
「もしかして、綿野が来なかったのがそんなに残念だったのか? 随分隅に置けない奴だな」
ニヤニヤしながらそんな事を言ってくる相手……迫水真太に対し、赤橋は小さく肩をすくめながら首を振った。
「まさか。それこそ『今さら』の話だ」
「何だよ、淡白な奴だな」
「自覚してるが、彼女は『来ない』んじゃなくて『遅れてくる』だけだ。どのみち夜には会えるんだから、何の問題もない。ここにいるのは、単にあぁいう浮ついた空気が苦手なだけだ」
「学者先生は真面目だな。同じ堅物でも、稲城のやつは随分楽しそうにしていたが」
「あいつは何だかんだ言って、こういう集まりは好きなやつだったからな。不思議でも何でもない」
そう言いながら、赤橋はもう一度タバコの煙を吐いた。
赤橋は二十九歳。東京にある私立早応大学文学部の准教授であり、主に近現代の文学を主要研究テーマにしていた。目の前にいる迫水は国民中央新聞社会部の記者で、年齢は同じく二十九歳。赤橋とは大学以来の友人である。というより、このクルーザーに乗っている人間は、全員大学時代からの知り合いだった。早応大学探検サークルOB会。これが今回このクルーザーで行われている集まりの名目である。
今この場にいるのは、七年前に早応大学を卒業し、同時に同大学の探検サークルに所属していたメンバーであった。メンバーは男女それぞれ六人ずつの合計十二人。ただし、そのうちの一人……迫水が「綿野」と呼んでいた女性が仕事の関係で明日から遅れての参加となるので、今この場にいるのは全部で十一名となる。
幹事は当時サークルのリーダーで、今は独立してITベンチャー企業の若手社長として大成功を収めていた金島頼経という何とも古めかしい名前の男で、彼が志摩に所有する別荘で今回のOB会は開催されていた。が、別荘で行われていたパーティーの最中に金島が最近購入したというクルーザーに話題が移り、いつの間にか「せっかくだから乗ってみないか」という話になって、急遽熊野灘方面へのクルージングと相成った次第である。そんなわけで、今頃このクルーザーの操舵席では金島が上機嫌で鼻歌を歌いながら舵を握っているはずだ。
「予定だと、もうすぐ尾鷲港につくはずだったよな」
赤橋が何気なしに言うと、迫水は小さく頷いた。
「あぁ。確か金島の言った予定だと、尾鷲港にいったん入港して休憩と燃料の補給をしてから、また志摩の別荘まで戻るはずだ。夕方の五時くらいまでには帰れるだろう」
「二十九歳で別荘やクルーザーを買えるほどの大金持ちとはな。貧乏学者の俺にしてみれば羨ましい話だよ。しかしなぁ……見栄か何かは知らないが、わざわざこんな日にクルージングをしなくてもいいだろうに」
そう言いながら赤橋は上空の雲を見上げた。実の所、昨日あたりから太平洋のはるか南に台風が近づいていて、明日の朝頃に四国の辺りに上陸する可能性があるというニュースが何度も流れているのだ。それだけに赤橋はクルージングの話が出たときにやんわりと反対はしたのだが、「予報だと来るのは明日だし、上陸地点も離れた四国の辺りだから、今日中に帰ってくれば問題ない」と金島が押し切り、他のメンバーもおおむねそれに同意したため決行されるに至っている。
「嫌だったら別荘に残ったらよかったじゃないか」
「あの大きな別荘に俺が一人で残るなんて、そっちの方がゾッとする」
「まぁ、確かにそうか。一応弁護しておいてやると、金島も明日だと本格的に台風が来てクルージングができなくなるから、やるなら今日中にと思ったんだろう。お前も理解はできるだろう?」
「まぁな。昔から目立ちたがりで、自慢したがりのやつだったからな」
そう言いながら、赤橋は少し白波が立ち始めている海を見やっていた。この程度ならまだ問題はないだろうが、なるだけ早く戻った方がいいのは確かである。
と、その時キャビンからまた一人誰かが甲板に上がってきた。それを見て迫水が声を書ける。
「佐伯も休憩か?」
「あぁ。私はあぁいう雰囲気は苦手でね」
そう言って答えたのは、身長が一八〇センチほどある長身の女性だった。見た感じはかなり美人なのだが、それを台無しにするかのように男物のシャツに長ズボンという格好であり、そして口調もどこか男勝りである。何より醸し出している雰囲気がどことなく近づきがたいもので、ナンパ目的の男たちくらいなら一目散に退散しそうではあるが、その理由を知っている赤橋たちにとっては気心の知れた友人と言った感じであった。実際、直後に迫水がからかうような口調でこう問いかける。
「やはり、佐伯自衛官殿にはこういう浮かれた雰囲気は気に入らないか?」
「いや、私だってオンとオフの区別くらいはちゃんとつくようにはしている。だが、どうしても限度という物があるだろう」
そう言いながら彼女は大きくため息をついた。陸上自衛隊二等陸曹……それがこの女性、佐伯武美の職業だった。元々大学時代からこういう性格で主に女子に人気があったのだが、卒業後に何を思ったのか自衛隊に入隊してしまい、女性自衛官として厳しい訓練を潜り抜けてきているのだという。多分このメンバーの中では、男性陣も含めて腕っぷしという意味で勝てる人間はいないだろう。現在は実家の近くでもある奈良の吉野駐屯地に勤務しているそうだ。
「で、赤橋君たちはこんなところで何をしていたんだい?」
「何をと言われても……君と同じで、俺も騒がしいのは嫌いなだけだ」
赤橋は煙草を甲板備え付けの灰皿に押し込んで答えた。風で髪をなびかせながら、武美は苦笑する。
「赤橋君は相変わらずこういうのは苦手か」
「……そうだな。俺は一人であれこれ考える方がいい」
「君は昔からそうだったな。研究者になったと聞いていたが、ある意味納得だよ。むしろ、よく今回の集まりに来たものだと、感心したくらいだ」
「随分失礼だな」
「そのつもりで言っている。変にお世辞を言った方が、君にとっては失礼だろう」
肩をすくめながらそう言う武美に、今度は赤橋が苦笑した。
「まぁ、俺らしくないっていうのは多分その通りなんだろう。普段あまり他人と喋らない偏屈者の学者が、気まぐれで昔の友人と四方山話をしたいと考えただけだ、とでも思ってくれ」
「あぁ、了解した」
そう言いながら、今度は興味深げに武美はこう尋ねた。
「で、その偏屈学者さんの今の研究テーマは何なんだい?」
「あぁ、俺もそれは気になる。どうなんだ?」
迫水が合いの手を入れ、赤橋は少し何か考えるように海の方を眺めた後でその問いに答えた。
「今は、萩原朔太郎をテーマにしている」
「萩原朔太郎って、確か詩人の?」
「よく知ってるな」
「これでも高校時代は文学少女だったんだ」
武美の言葉に思わず赤橋と迫水は顔を見合わせたが、何か言うだけ無駄だと思ったのか赤橋は話を再開した。
「まぁ、とにかく、今は萩原朔太郎の作品ついての研究をしている。色々な作品があるが、俺が今特に研究対象として力を注いでいるのは『死なない蛸』という作品だ」
その言葉に、武美は少し考え込んだ。
「それって、確か蛸が自分の手足を食べてしまうって話じゃなかったかい? 高校の現代文の授業で読んだ気がする。よく覚えてはいないけど」
「概ねその認識で間違いはない。ある水族館のある水槽に一匹の蛸がいた。人々はすっかりその腐った水がたまった水槽の存在を忘れ、蛸は死んだと思っていたが、蛸はちゃんと生きていた。そして、この忘れられた水槽の中で蛸は飢餓に苦しみ、ついには自分の足を食べ、内臓を食べ、果てには自身の体のすべてを食らい尽くして消滅してしまった。だが、その水槽の中には蛸の肉体が消滅した後も、不満に満ちた何かが永遠に生きていた……と、まぁ、そんな話だ」
「肉体が死んでも、本人の残した怨念はしっかりその場に残る、という事か?」
迫水の問いに、赤橋は小さく首を振った。
「多分、その解釈が一般的なんだろうが、抽象的な作品だけあって研究者の間でも解釈はいくらでもある。俺は今回、そうした様々な解釈を総合した上でこの作品に対する新しい解釈ができないかを考察してみるつもりだ」
「ふーん。正直、私にはよくわからないけど、ま、赤橋君が楽しそうなら何よりだ」
武美はそう言って微笑んだ。赤橋は肩をすくめる事で黙って答え、そのままキャビンの方へ向かう。
「一度キャビンの様子でも見てくる。まぁ、すぐに戻ってくるだろうけど」
「そう。じゃ、待ってるよ」
武美の言葉に、赤橋はポケットに手を突っ込んで船底にあるキャビンへ向かった。そこではテーブルにいくつかの軽食を置いて、何人かの友人たちが楽しそうに歓談していた。
「お、赤橋センセはようやくの御出勤か」
そういってニヤニヤ笑いながらこっちに手を上げた一際ラフな格好をした茶髪の男は戸塚克人といい、いくつも国際大会で優秀な成績を収めているプロのテニスプレーヤーである。
その横には、なぜかプライベートにもかかわらず仕立てのいい高級スーツを着込んだ男……文部科学省の官僚である稲城将成がばつの悪そうな顔で赤橋を迎え入れていた。確かさっき別荘で聞いた話だと、文科省研究開発局開発企画課なる長ったらしい名前の部署に配属されているらしい。
さらにその横には、知的という印象が一番よく似合う眼鏡をかけた男が無言でドリンクを飲んでいた。名前は白松哲彦といい、こう見えて早応大学付属病院の将来有望な外科医として期待されている人物でもある。何となく寡黙な人間ではあるが人付き合いはよく、何かイベントをやるときもいつの間にか黙って参加していたという事が大学時代も多かったような気がする。
この金島とは違った意味でのエリート三人組は、大学時代から仲のいい三人組とサークル内でも認識されていて、当時は下宿先だった戸塚のアパートでよく麻雀をやっていたものである。ちなみに、残り一人のメンバーにはその時々に応じて金島や迫水、それに赤橋自身が誘われる事が多く、何度も手練れの三人に大敗を喫したのは今となってはいい思い出であった。
そして、そんな三人組の正面の席には、これまた対照的に女性陣が二人ほど腰かけて何やらおしゃべりをしていた。そのうちの一人が赤橋に気付いて声をかける。
「赤橋君、せっかく来たんだったら一緒にお話ししない?」
スラリとした黒の長髪を後ろに揺らして微笑んでいるその女性の名前は山中純子と言った。当時のサークルの副部長でもあってサークルの女性陣のリーダー格だった人物であり、今は大手航空会社の日帝航空でキャビンアテンダントをしているはずだった。客観的に見ても今回この集まりに参加した女性陣の中では武美以上の美人であり、大学時代も男性陣にはかなり人気があったと赤橋は記憶している。そのリーダー気質は相変わらずのようで、今もこのメンバーの中で会話を主導している節があった。
だが、そんな純子の隣にいるのは、彼女とは別ベクトルで目立つ人物だった。白い肌に見事な金髪、そして青い瞳。明らかに白人系の容姿をしたその女性はリタ・クラークといい、大学時代はアメリカから早応大学に留学していた留学生だった。当時からアメリカ人らしくかなり社交的な性格をしていて、副部長だった純子とは特に仲が良かったらしい。卒業して帰国した後はアメリカの大手証券会社であるリッチモンド証券に就職して頭角を現していたそうだが、大学時代に経験した日本の暮らしが気に入っていたのか日本で仕事をする事を強く望み、半年ほど前にめでたくリッチモンド証券東京支社に転勤になった次第だという。
キャビンで飲み食いをしているのはその五人だけだった。さっきまでここにはこのメンバーに加えて武美以外に女性がもう二人いたのだが、彼女たちの姿はない。
「残り二人は?」
「金島君の所に行ったわよ。操舵しているところを見たいんだって」
リタが金髪をかき上げながら言った。長年望んで日本に住んでいただけあって日本語はペラペラで、はっきり言ってネイティブの日本人と遜色ない。なので、会話に関しては全く困る事はなかった。
「こんな天気で操舵を見たって面白くないだろうに」
赤橋が肩をすくめながら言うと、それを聞いていた稲城が皮肉めいた口調で反論した。
「さっきまで甲板に出て景色を見ていた人間の言葉とは思えませんね」
「俺は好きだからいいんだ。そういう稲城も、同窓相手に相変わらず敬語とはな」
「僕の性分ですので。大学時代からこうだったはずですが」
「違いない」
赤橋はそう言って苦笑した。
「じゃあ、俺もちょっと見てくるかな。こんな天気なのにお前らがどんちゃん騒ぎをしているのはよーくわかったから」
「あ、何よその言い方」
純子が頬を膨らませながら言うのに対し、赤橋はさらりと反論した。
「見たままを言っただけだが」
「デリカシーって言葉、知ってる?」
「知った上で言っている」
「……前から思ってたけど、赤橋君って少し性格悪いよね」
「褒め言葉と受け取っておこう。じゃあ」
赤橋はそう言うと、そのまま反対側にある階段を上って操舵室の方へと向かった。といっても、階段を上ってすぐなので時間はそれほどかからないし、後ろからは相変わらずのどんちゃん騒ぎも聞こえてくる。
「調子はどうだい、船長さん」
「あぁ、赤橋か」
操舵室に出ると、舵輪を回しながら正面を見ている精悍そうな男がそう言葉を返した。この男がこのクルーザーの持ち主であるITベンチャー企業社長の金島頼経その人である。その隣には、二人の女性が興味深げに窓から外の様子を見ていた。
「今のところはひとまず順調だ。この分なら、台風が突っ込んでくる前に別荘に帰れそうだ」
「ならいいんだがな」
「おいおい、お前はいつも心配性だな。大丈夫だって、こう見えてもこの辺は何度も走ってるんだ。万が一にも遭難なんかしないって」
「万が一って事は、万に一回はあるんじゃないか」
「万も船を出す前に寿命が来てあの世行きになってるよ」
冗談とも何とも言えない会話をしていると、横にいた女性のうち一人が会話に割り込んできた。
「もぉ~、金島君、私にも構ってよ!」
「はは、悪い悪い。しっかし、今更だが、真凛もよく休みを取れたよな」
「ちょうどコンサートが終わったばっかりで運がよかったんだよ! でも、金島君に会うためだったら無理にでも休みを取ったけどね!」
「いやいや、有名アイドル歌手様がそんなこと言うのはまずいんじゃないのか?」
「別にいいの!」
そう言ってその派手な服の女性……花園真凛はニコッと微笑んだ。金島が言ったように、彼女は新進気鋭のアイドル歌手という一面を持っていて、ここ最近何回かコンサートを開催していて好評を得ていた。一応、年齢は赤橋らと同じ二十九歳のはずなのだが、言動や外見は全くそう見えずどこか幼そうな雰囲気を醸し出していて、逆にそれが大衆には受けているらしい。というより、大学時代からすでに今と変わらぬ容姿でアイドル活動のような事をしていて、それでいながらサークルにはきちんと参加していたというのだから、何気に努力家の一面もあるらしいことを赤橋は知っていた。
そしてもう一人……操舵室の片隅で控えめにこちらを見ているのは、今回の参加メンバー最後の一人である夏沢美柑という女性だった。丸眼鏡をかけてどこか気弱そうな表情をした女性で、実際大学時代の赤橋の印象でも、女性陣が部室で華やかに話をしている中で部屋の隅で静かに本を読んでいるイメージが強かった。
そんな彼女だが、卒業後はイラストレーターとしてライトノベルなどの挿絵を担当する傍ら、たまに報道関係からの依頼で法廷画家を引き受けるという意外過ぎる職業を選択している。特に殺人事件など凶悪犯罪の情報がこれでもかと飛び交う中で行われる法廷画家の仕事が気の弱い彼女に務まるのかとも赤橋は思ったが、たまに報道の仕事で法廷に行って彼女と会う事もある迫水曰く、意外にも仕事中は淡々と動じる事なく絵を描き続けているらしい。というより、絵を描くのに夢中で裁判内容は完全にスルーしているようにも見えたという事だった。
そんな彼女は、今もちらちらこちらの様子を見ながら、手は正面の薄暗い海の様子を手に持っているスケッチブックに描き続けている。どうやらこのために操舵室にいるようで、赤橋が彼女の方を見ると、美柑は慌ててスケッチブックで顔を隠して手に持っているペンの動きを速くした。赤橋は小さくため息をつくと、改めて金島と真凛の方を見やった。
「それで、あとどれくらいで尾鷲の港に着くんだ?」
「うーん、そうだな。二十分くらいで着くかな。そろそろ港の沖合の島が見えてくる頃だし」
言われて窓の外を見ると、なるほど、確かに曇り空でどんよりとした中、水平線の向こうに浮かぶいくつかの島々が見え隠れし始めていた。左腕の腕時計で時間を確認すると、ちょうど午後三時を迎えようかというところである。
「ま、何にせよ、安全運転で頼む。論文発表も近いのに、こんなところで遭難なんかしていたら洒落にならないからな」
「わかってるって。大丈夫、この辺には岩礁もほとんどないし、まだ波もそこまで高くない。これで事故る方が……」
金島が苦笑気味にそこまで言った……その時だった。
「あ、前っ!」
突然、今まで絵を描き続けていた美柑が小さく叫んだ。思わず前を見ると、曇り空で澱んで見える海面の波間に黒い何かがちらりと見えた。瞬間、金島の顔色が大きく変わる。
「くそっ、何だ、あれ!」
金島が反射的に舵を切ろうとする。が、次の瞬間、ガンッという嫌な音共に船体に大きな衝撃が響き、一瞬何かに乗り上げたような感覚が赤橋たちを襲った。
「キャッ!」
真凛が短く叫び、金島は必死に舵を取ろうとする。
「おい、今のは何だ!」
「何があった?」
直後、甲板に通じるドアを開けて迫水と武美が飛び込んでくる。また、下のキャビンからも何人かが顔を出してきた。
「どうしたんだよ!」
戸塚が非難めいた口調で言うが、金島からすればそれどころではないらしい。
「何かに乗り上げた!」
「何かって、岩礁か?」
迫水が問うが、金島は首を振る。
「馬鹿な! ここはまだ相当な深さがあるんだぞ! レーダーにも何も映っていないし、岩礁なんてあってたまるか!」
「浸水は?」
赤橋が咄嗟に聞くと、キャビンにいた白松が首を振った。
「今のところこっちに浸水はない。だから沈没の危険はないと思う」
「だが、操舵が少し不安定だ。尾鷲港まで到達できるか少し怪しいぞ」
金島がさっきまでと打って変わって厳しい声で言う。赤橋は思わず苦々しい口調でこう言っていた。
「……どうやら、万に一回に当たってしまったようだな」
「不本意だが、そうらしい」
「そんなことより、これからどうなるの?」
不安そうな真凛に対し、金島は少し落ち着いた様子で行った。
「大丈夫。不安定とはいえまだ操舵はできているから損傷は軽微だと思う。とりあえず、どこかで船の確認を一度したい。幸いこの辺は島が多いから、そのうちどこか一つに接岸できれば、そこで船の応急処置ができる。そうすれば尾鷲までは持つはずだ。尾鷲に着いたら、不本意だが船はそこに預けて陸路で志摩の別荘まで戻ったらいい」
「そうか……」
何とかなりそうという事がわかると、その場にホッとした雰囲気が流れる。
「でも、岩礁じゃないなら一体何に当たったんだ?」
「さぁ……最初に見つけたのは夏沢だったが」
その言葉に、全員の視線が美柑に向く。その視線に、美柑は怯えながらもこう答えた。
「あの……波の間に黒いのっぺりしたものが見えました。水中に沈んでいてよくは見えなませんでしたけど……」
「黒いのっぺりしたもの……まさか海坊主だとかそんな話じゃねぇよな」
戸塚が少し顔を引きつらせながら言う。赤橋がどこかの文献で読んだ話だと、この熊野灘から紀伊水道にかけての海は、昔から海坊主の伝説がよく残る場所らしい。だが、いくらなんでもそれは荒唐無稽が過ぎるというものだろう。
「……もしかしたら、クジラかもしれないな」
不意に、金島がそう言った。
「クジラ?」
「あぁ、数は少なくなったが、この辺にもクジラはいるんだよ。で、たまに船とぶつかったりする。海坊主が馬鹿げているっていうなら、こっちの方が可能性は高い」
「……とりあえず、原因は後で調べればいい。今は、着岸できる島を探す事だ」
赤橋はそう言って、この不毛な議論を強引に打ち切った。その言葉に、皆今何をすべきなのかを思い出したらしい。
「みんなで接岸できそうな島を探してくれ」
「あぁ、わかった」
武美が最初に甲板に出ていき、他の男性陣もそれに続く。武美を除く女性陣は不安そうに操舵室の金島の後ろに残った。
赤橋も甲板の一角から目の前に広がる島々を見やる。だが、どの島も周囲を崖で囲まれていて接岸できそうな島はほとんど存在しない。
「やっぱり、そう都合のいい島なんかないか……」
赤橋がそう呟いた時だった。
「おい、あれを見ろ!」
不意に前の方を見ていた迫水が叫んだ。見ると、船の進行方向に小さな島があるのが確認できた。その島は今までの島同様に周囲を崖に囲まれている島だったが、今までの島と違うのは、その崖の上に建物らしいものが見えたという事である。
建物がある、という事はどこかに船を接岸できる場所があるはずだ。
「近づいて島の周りを回ってくれ!」
「あぁ」
迫水の言葉に、金島は頷いて舵輪を回す。改めて見ると、崖の上に建つ建物はどこか古ぼけていて廃墟のようであった。どんよりとした曇り空の下、その廃墟は何とも不気味な雰囲気を醸し出している。
「何の建物かな。見た感じ、ただの館とか個人の邸宅には見えないが」
赤橋が呟くと、隣にいた白松が首を振った。
「わからないな。まぁ、そんな事はともかく、どこかに接岸できる場所はないか?」
答えはすぐに見つかった。その廃墟の反対側、島の南側に内側へ入り組んだ入江があって、そこに港があったのである。
「ひとまず、あそこに接岸しよう」
「えー、何か不気味で怖いんだけどぉ……」
真凛が少し声を震わせながらそう言うが、何にせよ緊急事態である。周囲に他に接岸できそうな島もないため、選択肢がない事は真凛やほかの女性陣もよくわかっているようだった。
クルーザーは入江の中へと侵入し、波止場の桟橋に船を接近する。見た感じ、長い間放置されていただけあって波止場の一部が劣化して崩れているが、幸いまだ使えそうな場所もちゃんとあって、クルーザーは無事にそこへ接岸した。
「よし、ここで船を調べる。いったん、全員降りてくれないか?」
そう言われて、メンバーは不承不承この寂れた港へと降り立った。長い間人がやって来なかったからなのか、コンクリートの隙間からは雑草が伸び放題になっており、港の管理所と思しき奥の方にあるプレハブ小屋も窓ガラスが割れて吹き曝しになってしまっていた。そのプレハブ小屋の横に、何やら看板のようなものが立っているのが見える。赤橋が興味を持って近づいていると、その看板の上にはこう書かれていた。
『ようこそ 魚島へ』
どうやら、ここは魚島という名前らしい。また、看板にはどうやら島の見取り図が書かれていたらしく、島の大まかな形もここでわかった。これによれば、この島は例えるなら愛知県を左右逆にしたような形をしており、今赤橋たちがいるこの港はちょうど三河湾に相当する位置にあった。その入江の港から北の崖の上の方へ向かって一本道が伸びていて、その先に先程の廃墟と思しき何らかの建物が建っているところまでは読み取れたのだが、長年の経年劣化で字が読めなくなっていて、その建物の正体まではこの地図からではわからなかった。
「魚島、ねぇ」
と、隣に来て看板を見上げていた迫水がそんな事を呟いた。
「知っているのか?」
「いや、どこかで聞き覚えがあると思ってな。何だったかな……」
「瀬戸内海にも魚島という島があったはずですから、そちらを覚えていたのでは?」
稲城が近づいてきてそう言うが、迫水は首をひねったままだった。と、ここで船を見ていた金島が叫んだ。
「何とかなりそうだ! 一時間くらい時間をもらえれば応急処置はできると思う」
その言葉に、全員がホッとする。だが、同時に修理に一時間かかるという事が、一つ不安要素にはなった。
「つまり、一時間はこの島で待ちぼうけって事か。修理中の船に入るわけにもいかないし」
迫水が少し苦々しげに言う。台風の接近で潮風がかなり強く吹き付けている中、一時間何もせずにこの吹きさらしの港で待つのは少し辛いところがあった。
と、その時不意に戸塚が提案した。
「だったらよ、さっき見た廃墟にでも探検しに行かねぇか。こんなところにジッとしていても意味ないみてぇだし」
いきなりそんな事を言い始めた戸塚に、他のメンバーは顔を見合わせる。
「いや……それはまずいんじゃないか? あの廃墟がどんなものかは知らないけど、もしかしたら崩れかけていて危険かもしれないし、それに廃墟に勝手に入るのは厳密には不法侵入になるはずだ」
武美はそう言って難色を示した。が、戸塚はひらひら手を振ってこう言う。
「いやいや、俺も別に中に入ろうって言ってるわけじゃねぇよ。ちょっと近くまで行って外から見てみようって言ってるだけだ。時間も一時間しかないし、それくらいなら別に問題はねぇだろ。それに、元探検サークルのメンバーとしては、こんなおもしろそうな島を探検しないなんて選択肢はあり得ないしな」
と、ここで戸塚の隣にいた白松も興味津々という風に賛同した。
「私は一緒に行ってもいいぞ。昔から廃墟探検は好きだし、戸塚の言うように元探検サークルの人間としてもあの廃墟は興味深い。それに、一応最低限の医療器具は持ってきているから、何かあっても応急処置くらいならできる」
「それじゃあ、僕も付き合いますよ。せっかく普通なら来られない島に来たわけですし、何よりおもしろそうですから。ここ最近は仕事が忙しくて山登りなんかもできていませんから、昔の血が騒ぎますよ」
次いで手を上げたのは稲城だった。やはりこの仲良しトリオはこういうところで気が合うらしい。
一方、女性陣はあまり積極的でない方が多いようだった。武美はまだ渋面を作っているし、真凛はあからさまに嫌そうな表情を浮かべていた。
「えー、何か怖そうだし、あんまり行きたくないかなぁ」
「わ、私もちょっと……興味はありますけど、状況的に今はそんな事をしている場合じゃないと思いますし」
美柑もか細い声で言う。その一方、残る純子とリタは意外にノリノリのようだった。
「おもしろそうじゃない。絶海の孤島にそびえ立つ廃墟とか、滅多に見られないシチュエーションよ。リタもそう思わない?」
「えぇ。私も日本の廃墟は趣があって興味深いと思ってるの。アメリカに帰った後も何度か廃墟探検ツアーに参加していたんだけど、大学以来久々に日本の廃墟を見られるんだったら喜んで付き合うわ」
友人たちの言葉に対し、赤橋は思わず隣の迫水と顔を見合わせていた。
「だそうだが、迫水、お前はどうする?」
赤橋の問いに、迫水は肩をすくめながらこう言った。
「俺は行ってもいい。正直、こんなところでボーっとしているのも性に合わないし、戸塚の言うように元探検サークルの人間として何もしないというのはどうかと思う。それに……」
「それに?」
「……さっきも言ったように、『魚島』という名前に聞き覚えがある。もしかしたら、あの廃墟にその答えがあるかもしれない。興味関心以上に、新聞記者としてあの廃墟は気になるって事だ。で、赤橋センセはどうするつもりだ?」
「……まぁ、拒否する理由は特に思いつかないな。一時間突っ立っているのもあれだし、行くというなら付き合うのも一興だ」
実の所、赤橋も海から見たあの廃墟に何か引き付けられるものを感じていたのだ。できればもう少し近くで見てみたいと思っていたところにこの提案が出たので、正直、渡りに船だったというのが赤橋の考えである。
「って事は、行くのは七人か。金島は修理で残ってもらうとして、残り三人は本当に行かないのか?」
戸塚が念を押すように言うと、美柑が俯きながらもチラリと後ろの金島を見やった。それを見て、金島は苦笑気味に言う。
「行ってきていいよ。ここは俺一人で大丈夫。それに、修理がなければむしろ俺が行きたいくらいなんだ。せっかくだから、俺の代わりにどんな廃墟だったか見てきてくれないか? 夏沢だったら、廃墟の様子を絵に描けるだろう?」
「え、あ、はい」
美柑は慌てて頷く。
「じゃあ、行って来いよ。本当は、すごく興味があるんだろ?」
「……いいんですか?」
美柑がおずおずと聞くと、金島は小さく笑った。こういうところはさすがリーダーらしいなと、赤橋は密かに感心していた。
「えっと……じゃあ、私も……」
「ちょ、美柑ちゃんも行く気なの?」
真凛がびっくりしたように聞く。
「はい。興味がないって言ったら嘘になりますし……真凛さんは行かないんですか?」
「わ、私は……」
真凛は少し逡巡する様子を見せた。いざ全員が行くとなれば、残るというのは寂しくこの場に置き去りにされるという事に他ならない。あまりあの廃墟に行きたくないという思いはあったのだろうが、それよりもこの場に残される方が嫌だったようで、やがてしぶしぶ顔を縦に振った。
「わかったわよぉ。残されるくらいだったら、私も一緒に行く!」
こうなると、最後に残った武美としては残るという選択肢はないらしく、ため息をついてこう言うしかなかった。
「……忠告はしたからね。それを踏まえた上でみんなが行くっていうなら、私はもう何も言わない。みんなに従うよ。勝手な事をしないように監視する役も必要だしね」
「よし、これで全員賛成だな」
かくして、船を修理する金島以外の全員で、先程崖の上にあった廃墟の近くまで探検に行く事に決まった。先程見ていた看板によれば、港の西の方にあの廃墟へと続く道があるようで、実際、そちらを見ると森の中へ入っていく一本道の入口が目に入った。幸い、そこまで植物に覆われておらず、ひとまず道として歩く事はできそうである。
「じゃあ、一時間くらいで戻ってくる。それまでに修理を頼むぜ」
「あぁ、任された。俺の代わりに楽しんできてくれよ」
金島のそんな言葉に送られて、残りの十人は廃墟へ続く道へと足を踏み入れたのだった。
その道はこんな孤島にもかかわらずアスファルトでちゃんと舗装されていて、所々から草が突き出ているのが印象的だった。道の両脇のうっそうと生い茂った木々や雑草が端の方を侵食しているが、アスファルト舗装のおかげか道そのものがなくなるほどではない。それだけに、一行は思った以上にスムーズに進む事ができた。
「もしかしたら、廃墟になったのは思った以上に最近なのかもしれないな」
先頭の方を歩く白松がポツリとそう言う。ちなみに歩く順番は、先頭に戸塚、稲城、白松の三人組で、その後に純子、美柑、真凛、リタの女性四人。次いで赤橋と迫水が続き、最後尾に武美が周囲を警戒しながら歩いているという構図である。
まだ夕方前ではあるが、どんよりとした空も相まって何とも言えない不気味な雰囲気が出ている。日が沈む前に戻った方がいいかもしれないなどと赤橋が考えていると、不意に先頭の三人の足が止まった。
「どうしたの?」
純子の問いに、戸塚がニヤリと笑って道の脇を指さした。
「見ろよ、何か面白そうなものがあるぜ」
赤橋がそちらを見ると、木々に覆われてよくわからなくなってはいたが、さびた鉄柵のようなものがあるのが見えた。よく目を凝らすと生い茂る草木の隙間に何やら鉄製の注意書きのようなものがぶら下がっている。
『この先関係者以外立ち入り禁止』
現に、鉄柵には南京錠のようなものまでついている。どうやら、この鉄柵は門か何からしく、その奥に道があったようなのだが、アスファルトで舗装されたこの道と違って完全に草木で埋もれてしまっていて、外から見る限りだと鉄柵の向こうに道があるようには見えない。
「さっきの地図だとこのアスファルトの道一本だったはずですが」
「あれは観光用で、関係者専用の道は書かれていなかったんじゃないか?」
稲城の問いに戸塚は気軽に答えると、改めて後ろを見やった。
「で、どうする? このままさっきの廃墟に行くのもいいけど、この鉄柵の向こうがどうなっているのかを調べてみるのも面白そうじゃねぇか」
だが、これには一番後ろの武美が答えた。
「いくらなんでも無謀すぎるんじゃないか。見たところ木々で道がふさがっているから突破するのは簡単じゃなさそうだし、一時間で戻って来られる保証もない。金島君を待たせるわけにもいかないだろう」
「わかってるって。ちょっと言ってみただけだって」
どうやら、戸塚も本気ではなかったらしく、肩をすくめるとそのまま今まで通りアスファルトの道を歩き始めた。あとの面々も反応は様々だったが、自分だけ鉄柵の方へ行く勇気は誰にもないらしく、そのまま戸塚の後に続いていった。
それから五分ほどして、不意に一行は開けた場所に出た。どうやら終着点らしく、アスファルトで舗装された広場が目の前に広がっていた。そして、その奥の北の崖っぷちの辺りに、先程海から見えたあの廃墟がひっそりとたたずんでいるのが見えた。
改めて見ると、その建物はシンプルな直方体の形をしていて、不思議な事に窓らしき窓がない。崖とは反対の南側の側面の左側に一ヶ所だけ入口のような扉があるだけで、あとは中の様子はよくわからなかった。ただ、大きさなどから恐らく二階建てだろうという事だけは予想がついた。
「さてと……改めて、こりゃ一体何の建物なんだ?」
戸塚はそう言いながら広場の入口から建物の方へ近づいていく。さっきと違って開けた所に出たせいか、台風の接近で少し強くなった潮風が赤橋たちに吹き付けてきて、磯の香りが周囲に漂っていた。
「何というか……研究所か、あるいは病院のようにも見えますね」
「いや、病院だったら窓がないっていうのは変だし、あんな観光用みたいな看板が港にあるのも納得できないな」
稲城と白松が何やら議論している。そんな事をしているうちに、一行は建物の出入り口の前にまで到着していた。
「あ、見て! 入口の横に何か書いてあるよ!」
真凛の言葉にそっちを見ると、確かに入口横の壁に何か文字が書かれているようだった。潮風で大分消えているようだったが、注意してみると、そこにはこう書かれているのがわかった。
『伊勢宮森水族館』
その文字に、誰もが顔を見合わせた。
「これ、水族館なのか?」
「水族館の廃墟って……随分珍しいな」
確かに、これが水族館だとすれば窓がない事には納得がいく。だが、こんな誰も来なさそうな島でよりにもよって水族館が廃墟になっているというシチュエーションに、誰もが何ともアンバランスというか、不思議な感覚を覚えているのも事実だった。
「知らなかった……西海橋水族館以外にも、国内に水族館の廃墟があったなんて……」
美柑が独り言のように漏らした言葉に、赤橋は反応した。
「西海橋水族館というのは?」
「あ、えっと……長崎県にある有名な水族館の廃墟の名前です。廃墟マニアの間では結構有名みたいで、廃墟探索本とかにもよく紹介されているんです。だから、それ以外にも水族館の廃墟があったって事にちょっとびっくりしていて……」
「よく知ってるな」
「……大学時代に、そういう廃墟探索本とか、よく読んでいましたから」
美柑は恥ずかしそうに言った。一方、戸塚は胡散臭そうな表情でこう呟く。
「伊勢宮森水族館、ねぇ。そんな水族館があったなんて俺は聞いた事ねぇけど、誰か知ってる奴はいるか?」
その問いに対し、赤橋も含めてほとんどが首を振っていた。だが、ただ一人迫水だけは何事か考え込んでいた。
「何だろう……どこかで聞いたような気もするんだが……」
「さっき看板を見たときも似たような事を言っていましたね」
稲城の言葉に迫水は素直に頷く。
「そうなんだ。もうこの辺まで出てきてるんだが……」
その時だった。
ガタンッ、といきなり大きな音がその場に響き、誰もがビクッと肩を震わせた。
「な、何!」
真凛が怯えながら言い、全員が周囲を見回すと、おりからの強風で入口のドアがひとりでに内側へ開いた音だった。それはまるで自分たちを誘っているようにも見えて、何とも不気味な光景だった。
「ど、どうする? 入ってみるか?」
戸塚が少し後に引きながら言う。すかさず武美が苦言を呈した。
「戸塚君、外から見るだけじゃなかったのかい?」
「いや、でもよ。やっぱ気になるじゃねぇか。こんな絶海の孤島に水族館があること自体変だし……」
と、その時急に迫水が顔を上げた。
「あっ、そうか! あれか!」
急に声を上げた迫水の方へ全員の視線が向く。代表で赤橋が迫水に問いかけた。
「何か思い出したのか?」
「あ、あぁ。ただ……あんまり愉快な話じゃない」
少し青い顔で言う迫水に、誰もが嫌な予感を覚える。だが、ここで聞かないわけにはいかない。
「いいから。何なんだ?」
「……伊勢宮森水族館っていうのは、尾鷲在住の偏屈な海洋生物学者・宮森海次郎が建てた個人経営の水族館だったはずだ。個人経営とはいっても、彼が世界中から集めた珍しい魚介類が多く展示されていて当時それなりに人気はあったらしいが、五年前に閉館になっている。原因は、館長の宮森博士が急死してしまったから。当時ちょっとニュースになっていて、駆けだし記者だった俺も名前だけは聞いていたんだ」
だが、その回答に赤橋は違和感を覚えた。
「待ってくれ。ニュースになったっていうのはどういう事だ? 普通、個人経営の水族館が閉鎖した程度でニュースにはならないだろう」
赤橋の当然の問いに、迫水は少し重苦しい顔をする。
「その宮森博士の死に様が問題だった。結論から先に言えば……自然死じゃない」
「自然死じゃない、って事は……」
嫌な予感がしたのか恐る恐る言う白松に、迫水は頷きながら答える。
「警察の公式見解は『事故死』という事になっている。ただ、伝え聞いた話だと、過去に例がないようなひどい死に様だったそうだ」
「ひどい死に様って……」
美柑が息を飲んで尋ねると、迫水はどこか遠くを見ながら話を続けた。
「この水族館は、さっきも言ったように偏屈だが高名な海洋生物学者だった宮森博士が自ら手掛けただけあって、小規模な水族館にしては展示されている魚介類の内容に関してはその辺の水族館に引けを取らないものだった。中には他の水族館ではお目にかかれないような貴重種もいて、この辺の水族館の中で対抗できるのはジュゴンの飼育記録を持っている鳥羽水族館くらいだけじゃないかって言われていたくらいだ。まぁ、それがこの水族館の目玉でもあり、だからこそこんな絶海の孤島にありながら来館する人間が多かったわけでもあるんだが……そんな中にあるとんでもない生物がいた」
そう言っていったん言葉を切ると、迫水はこう問いかける。
「『キロネックス』って知ってるか?」
「キロネックス?」
聞き覚えのない単語に赤橋は首をひねった。話の流れ的に何らかの生物の名前なのだろうという事はわかるが、それが何の生物なのかさっぱりわからない。他のメンバーも当惑気味の表情を浮かべている。
「俺も聞いた話でしかないんだが……日本語での正式名称は『オーストラリアウンバチクラゲ』。その名の通りオーストラリア近海に住むクラゲで、『ウンバチ』というのは『海の蜂』と書くらしい。で、現地での通称は……『殺人クラゲ』だそうだ」
「さ、殺人クラゲって……」
「こいつはクラゲ類の中で地球上最強の毒を持っていて、刺された場合の危険度は他のクラゲ類のそれとは文字通りレベルが違う。何でも、刺された瞬間この世のものとは思えない激痛が走り、次いで刺傷箇所の壊死、視力低下、呼吸困難、心停止といった症状が一気に襲い掛かる。刺されてから死に至るまでの時間は、よくて十五分、状況いかんではわずか一分という短さで、要するに刺されたら終わりって事だ。しかも他のクラゲと違って自分から積極的に泳ぎ回るというたちの悪い習性もあって、現地ではサメ以上に恐れられ、そして実際にサメ以上にたくさんの人を殺しているらしい」
そこまで聞いて、赤橋はピンと来た。
「おい、まさか……」
「そのまさかだ。この伊勢宮森水族館では、この地球上最強の殺人クラゲの飼育も行っていた。確か、当時の日本で唯一このクラゲの飼育に成功していたって聞いてる。だが、結果的にはこの殺人クラゲがこの水族館自体にとどめを刺す事になった」
迫水は慎重に事の顛末を告げた。
「事故が起こったのは五年前の二〇〇三年九月十二日の事だった。警察の発表だと、この水族館は当時宮森博士以外に飼育員は三人しかおらず、彼らは基本的に毎日本土から船で通勤していたらしい。事件当日の早朝、飼育員の一人がいつも通り通勤してきたがなぜか館内に博士の姿はなく、探してみたところ……キロネックスが飼育されていた水槽の中で、この殺人クラゲの触手に全身を巻きつかれて事切れていた宮森博士を発見したそうだ」
その死に様に、誰もが思わず息を飲む。
「その飼育員は後にある雑誌に発見当時の光景を話しているが、それによれば、暗い館内の中でライトアップされた水槽の中に、激痛からか体をのけぞらせて血走らせた目をカッと見開いた博士が身動き一つせず漂っていて、そんな博士の体に水槽内にいた三匹のキロネックスがまるで包み込むように絡みついていたそうだ。その光景はなぜかわからないが幻想的であり……そして、同時に恐怖を覚えるものだったらしい」
その光景を想像して、赤橋は背筋が凍るような感覚を覚えた。
「結局、警察の最終見解は、水槽上部のバックヤードで作業中に足を滑らせて水槽に転落、飼育されていたキロネックスに刺されて逃げる事もできずに即死した、というものだった。もっとも、その警察も大変だったみたいだけどな。遺体には人を一撃で殺してしまう殺人クラゲが絡みついているから不用意に遺体を水槽から出す事さえできず、わざわざ隣の愛知県警から細菌汚染なんかを専門にしているテロ対策部隊がやってきて、防護服で完全武装した捜査員たちが数時間かけて遺体を引きずり出したって事だ。まぁ、そんな事もあって、当時はかなり話題になった事件でな。さっきも言ったように、俺は直接かかわらず話を聞いただけだったが……まさか、ここがあの事件の舞台になった島だったとは」
迫水が語り終えると、その場を重々しい沈黙が支配した。そのまましばらく時が流れ、赤橋たちの周りを潮風が吹き抜けていく。
「……そんな悲惨な事故があったなんて、今まで知らなかった。もっとも、確かその頃の私はちょうど学会でシドニーにいたはずだから、同じ時期の日本のニュースにほとんど触れられていないのもやむを得ないかもしれないが」
白松は難しい顔でそんな事を言う。
「いや、僕もそんな事故があったなんて知りませんでした。迫水君には悪いですが、結局地方の一ニュースという形で終わってしまったのだと思います」
稲城が白松をフォローするかのように発言した。と、そこで不意に、今まであまり発言していなかったリタが金髪をかき上げながら戸塚に問いかけた。
「……それで、どうするの? 入ってみるの?」
「いや、どうするって言われても……」
さすがにこの水族館のいわくを聞いて、戸塚にも迷いが生じているようだ。そして、それは他のメンバーも同じらしい。何とも気まずそうに互いの顔を見合わせていた。
ただ、その中にも数少ない例外はいた。
「どっちにしても、もう時間切れみたいだ。約束した一時間まであと十五分しかない。帰る時間を考えると、興味があってもなくても中に入っている余裕はなさそうだね」
武美が腕時計を見ながら確認する。それに対し、リタは肩をすくめながら答えた。
「残念ね。私個人としては入ってみたかったんだけど、金島君を待たせるわけにもいかないし、仕方がないわね。もっとも、そっちの二人も興味津々みたいだけど」
リタがそう言って示した先には、赤橋と迫水が立っていた。迫水が苦笑気味に答える。
「俺は怪談話とか廃墟とかそういうのじゃなくて、記者として五年前に話題になったあの事件の現場に関心があるだけだ。できれば、宮森博士が亡くなっていたというキロネックスの水槽を見て、あわよくば写真でも撮っておきたかったんだが……」
「呆れたね」
武美が本当に呆れた風に言うが、迫水はどこ吹く風と言わんばかりに涼しげに答えた。
「記者の性だよ。それより、俺としては赤橋センセが興味を持っているという方が意外なんだが」
そう言われて、赤橋は肩をすくめながらあくまでドライに答えた。
「いや、俺は単にこの水族館の廃墟という状況そのものに琴線に触れるものがあっただけだ。何しろ……俺が今研究している萩原朔太郎の『死なない蛸』も、舞台は廃墟の水族館だったからな」
そう言われて、先程甲板でその話を聞いていた武美と迫水は納得したような表情を浮かべた。
「あぁ、そう言えばそうだったな。確かに、言われてみればシチュエーションは似ている」
「あの詩では、死んだ蛸の怨念が何もいなくなった水槽に残り続けているという結末で終わっていた。だから思ったんだ。あの詩の蛸と同じく、廃墟になって誰も来なくなったこの水族館の水槽にも、そこで無念の死を遂げたという宮森博士なる人物の怨念が残っているのかとね。もし残っているのなら……ぜひともその水槽は見てみたいものだ。まぁ、あくまで俺の文学研究的な好奇心だが」
そう言われて、他のメンバーは、何とも曖昧な表情を浮かべるしかないようだった。
結局、時間が足りないという理由から、一行は当初の予定通り廃墟の外を観察しただけで元来た道を引き返す事になっていた。風もだんだん強くなってきており、道の脇に生い茂っている木々や草が風にあおられてざわざわと不気味な音を醸し出すようになってきている。これは本格的に急いだ方がよさそうだった。
「確か、台風は明日の朝頃に四国に上陸するはずじゃなかったっけ?」
純子が強くなる風に髪を押さえながら不愉快そうに言う。
「えぇ。でも、台風の進路が予報から外れるなんてよくある事だと思うけど」
リタも同じように髪を押さえながらそうコメントした。
「それはそうかもしれないけど……でも、こんな島で直撃されたら困るわ」
「大丈夫ですよ。いくら進路が外れたからと言って速度まで変わるものではありませんから、今のうちに島を出られれば充分に尾鷲港までたどり着けます。そういう意味では、廃墟の中に入らなかったのは正解です」
前を歩いていた稲城がそう言って二人を安心させようとする。だが、その後ろを歩く美柑はまだ不安そうな顔をしていた。
「でも、修理がまだ終わっていなかったら……」
「大丈夫だって。金島が機械に強いのはみんな知ってるじゃないか。大学の時も、どこかに探検に行った時に車が故障して、それをあっさり直していたし」
戸塚があえて気楽そうに言う。
「ですけど……」
「あぁ、もう! 悲観的な事ばっかり言っても意味ないんだし、もっとポジティブに考えないと! 美柑の悪い癖だよ」
不意に真凛が美柑を遮るように言った。そう言われては美柑としてもこれ以上何か言う事はできず、そのままスケッチブックを抱えて俯いてしまった。
と、その時先頭を歩いていた白松が叫んだ。
「港が見えたぞ!」
そのまま一行は一時間前に出発した港に到着した。吹き付ける潮風は先程よりかなり激しくなっており、遮るもののない湾内の港に吹く風はかなり冷たい。そして、そんな港の桟橋に、自分たちの乗ってきたクルーザーが波に大きく揺さぶられながら先程と変わらず停泊していた。船外に金島の姿はない。
「急ごう!」
迫水の言葉に、誰もが走ってクルーザーの傍に駆け寄った。だが、そこで赤橋は何か違和感を覚えた。
「おい、金島はどこだ?」
その言葉に、全員が動きを止める。
「どこって……外にいないんだったら、船内じゃ……」
「にしては、船が波に揺られ過ぎていないか?」
改めて見ると、クルーザーは係留こそされているが、波に任せてかなり激しく揺れている状態だ。
「ここまで揺れていたら、普通は修理よりも先に操舵室で船体を制御するか、あるいはロープをもう一本用意して係留を補強するかくらいはするんじゃないか? それに、俺たちがこうやって戻ってきているのに、全く顔を出さないっているのは……」
そう言われてみると、自分たちが戻ってきているのに一切反応がないというのは確かに不自然である。見たところ、操舵室にも人影らしいものはない。全員の表情に不審が浮かぶ。赤橋は反射的にこの中でこの手の事に一番頼りになりそうな人間……武美の方を見ていた。
「佐伯」
「わかってる。ちょっと確認した方がいいね。何人か一緒に来てくれるかい?」
武美の言葉に、言い出しっぺの赤橋と、仕事柄この手の異常事態に慣れている迫水が船内に入る事になった。医者である白松ももしもの事を考えて志願はしたが、最終的に武美の判断でこの三人が船内を確認する事になった。
「行こう」
そう言うと武美が先行して船内に入り、赤橋と迫水もその後に続いた。甲板から船内に入ると、さっきとは打って変わった不気味な静けさが支配している。船底のキャビンは先程の宴会で散らばった飲食物が散らばっているが、暗闇の中、人影らしいものはない。
「金島!」
赤橋は思わず叫んでいた。このクルーザーは遠距離航海用ではなくアウトドア用の小型なもので、そこまで広いものではない。船室も操舵室とキャビン、それにキャビン後方の機械関連がある部屋しかなく、確認するのは簡単だった。
「どうなってる……金島はどこに行ったんだ!」
迫水の言葉に、赤橋も武美も答える事は出来なかった。念のため非常用の懐中電灯まで持ち出して徹底的に調べたが、船内には誰もおらず、もちろん甲板にも姿はない。たった一時間の間に、金島はその姿を消してしまったのである。
「そんな、マリー・セレスト号じゃあるまいし、人が消えるなんてあり得ない!」
「けど、現実として金島君の姿はないんだ。その事実を変える事はできないよ」
武美は厳しい表情ではあるものの、冷静に事実を告げた。だが、赤橋は『金島がいない』という事によって生じるさらなる問題を告げなければならなかった。
「おい、このメンバーの中で、金島以外にクルーザーを操舵できる人間はいるか?」
その言葉に、迫水と武美は顔を見合わせた。
「どうだろう……。少なくとも私はできないな」
「俺もだ」
「当然、俺もできない。他のメンバーは知らないが……さっきの様子を見る限りだと絶望的だな。そうなると……」
その先を言えず、赤橋は黙り込んでしまった。船はあるが、それを操舵できる人間が誰一人いない。この事実が示す結論は一つだった。
「この島から脱出できない。そういう事かい?」
答えを言った武美に、赤橋は重々しく頷いた。迫水が慌てて反論する。
「いや、でも船そのものはあるんだし……」
「そもそもエンジンをかけるキーは金島が持っていたはずだ。金島がいなくなったって事は、キーもないって事になる。という事は、そもそもエンジンがかからない」
赤橋の容赦ない言葉に、迫水は黙り込む。次いで、武美はこう言い添えた。
「それに、エンジンがかかっても絶望的かな。金島君がいなくなっている以上、彼がするはずだった修理が終わっているかどうかも私たちにはわからないって事だからね。おまけにこの風と波だ。仮に船が動いても、船の操舵を経験した事のない人間が、船体が故障しているかもしれない状態で、十人もの人間を乗せて台風接近で荒れ始めている海へ出航する……はっきり言って、自殺行為以外の何物でもないと思うけどね」
「じゃあ、俺らは台風が過ぎるまでここで待つしかないのか?」
迫水の言葉に、しかし武美はさらに追い打ちをかけるような事実を告げた。
「実は、それも難しいかもしれない。エンジンがかからないって事は、この船の冷暖房や電気も事実上死んでいるって事だよ。しかも、この船はアウトドア用だけあって手狭だ。とても十人もの人間が寝泊まりできるような作りにはなっていない」
「それに、今の段階でこれだけ揺れているんだ。これから台風が接近して来たら揺れはこの比じゃないだろうし、おまけにここは五年前に破棄された港だ。今でこそ何とか係留できているが潮風に吹き晒しでかなり腐食や崩落が進んでいるだろうし、台風が突っ込んで来たらどうなるか全く予想できない。最悪船そのものが波で破損したり、あるいは係留しているロープが切断されて漂流したりし始めるかもしれない。台風が接近している中で、こんな状況の小舟に十人という大人数で立てこもるのは……」
「それもそれで自殺行為、って事か」
続いての赤橋の言葉に、迫水も今目の前にある現実を受け入れる他ないようだった。
「じゃあ、どうするんだ。出航もできないし、かといって船内に立てこもる事もできない。後はもう、陸に助けを求めるしかないが」
確かに、残された手段は何らかのやり方で陸に助けを求め、台風が来る前に救助してもらう事だけである。だが、武美は首を振った。
「そう思って確認してみたんだけど、携帯電話は圏外だった。まぁ、こんな無人島なら仕方がないかもしれないけどね」
「でも、こういう船には船内無線があるはずだな。それは使えないか?」
赤橋が尋ねると、しかし武美は重苦しい表情で告げた。
「もちろん、私もそれは確認した。だけど……」
武美はそのまま二人をキャビンから操舵室へ誘った。訝しげに階段を上ってみると、そこには最後の希望を打ち砕く光景が広がっていた。
「こ、これは……」
操舵室の床、そこに砕け散った船内無線の通話装置が転がっていたのである。
「多分、この波で床に叩きつけられたんだろう。何にせよ、これでは無線は使えない」
「……助けも呼べない、って事か」
迫水は力なくそう言った。
「とりあえず、これ以上は他のメンバーとも話し合って決めよう」
武美の言葉に赤橋と迫水も頷いた。そして、そのままいったん外に出て桟橋に下り、待ちかねていた他の面々の前に立つ。
「ど、どうだったの?」
真凛の言葉に、三人は一瞬視線を交わすと、代表して武美が自分たちの置かれている現状を残りのメンバーに説明した。それを聞いて、さすがに全員の顔が蒼くなる。
「そんな……ど、どうしたらいいの……」
そう言ってその場にへたり込みそうになったのは真凛だった。戸塚が慌ててそれを支える。そんな中、赤橋は、厳しい表情で自分の意見を述べた。
「こうなった以上、俺たちが助かる方法はそう多くない。一つは、いなくなった金島の行方を捜す事だが、台風が近づいている現状、無茶な捜索はかえって危険だ。今はとにかく、これから接近してくる台風から身を守ること考える事が一番だろう。台風さえ通り過ぎれば、そこから色々な対策を練る事は出来る」
「賛成ではありますが、問題はその台風をどうやってやり過ごすかですね。さっきの話だと、このクルーザーに立てこもるのは逆に危険なようですが、そうなるとどこで台風をしのぐのかが問題になります」
稲城が思案気にそういう。風もますます強くなってきており、考える時間はそう多くない。赤橋は、少しためらいながらも先程思いついた案を口に出した。
「正直、あまり気が進まないが……台風の風を避ける方法がないわけでもない」
「と言いますと?」
「おあつらえ向きに、ちょうどいい場所がある。見た目が頑丈そうで、少なくとも風雨が吹き込む心配がなさそうな場所が」
「……まさか、さっきの廃墟ですか?」
稲城が目をむいて言った言葉に、赤橋は真剣に頷く。
「そうだ」
「な、何であの廃墟なのよ!」
真凛が悲鳴を上げるように言うが、赤橋としてはもう他に選択肢はなかった。
「そもそも、この島にあれ以外に建物はないし、さっき見た限りだとあの建物には窓がなかった。元水族館だから当たり前ではあるが、今回は逆にそれが光明になる」
「そうか……窓がないという事は、少なくとも一般的な廃墟と違って風が吹き込む心配はないという事か」
白松が納得したように呟く。
「さっきも言ったように、とにかく台風の間だけどうにかなればいいんだ。その間だけ、あの廃墟の中でやり過ごすのが一番だと思う。もちろん、崩れていなければ、という条件はつくが……それは実際に行って確認するしかない」
もはや、入る、入らない、を議論している場合ではなかった。あの廃墟に入らなければ、文字通り命が危ないのである。
「……とにかく、時間がない。私はやってみる価値はあると思うよ」
武美が赤橋に賛成し、迫水も頷く。他のメンバーもそれぞれ色々な表情を浮かべたが、それ以外の選択肢がないのは、もはや明らかな事であった……。
それから十五分後、船内から持ち出せるだけの飲食物といくつかの必需品を持ち出し、一行は再び先程の廃墟へ向けて歩き出していた。ちなみに飲食物以外に持ち出したものとしては、先程使用していた懐中電灯の他、雨が降ってきた場合の事を考えて傘や雨合羽、それにもしかしたら受信できるかもしれないという事で小型ラジオなどである。また、船が漂流する事を避けるために念のためもう一本ロープを桟橋にくくりつけてはおいたが、正直台風にどこまで耐えられるかは疑問符のつくところであった。
「とにかく、雨が降ってくるまでに何とかしないと。雨が降って体が濡れたら、もっと面倒な事になる」
白松が舌打ちしながらそんな事を言った。幸い、現段階ではまだ雨は降っていないが、空の様子を見るにいつ降り始めてもおかしくない状況だった。
「それにしても、金島の奴、本当にどこに行きやがったんだ」
その隣の戸塚がいら立ったように言葉を吐き捨てる。そして、それは誰もが大なり小なり思っている事でもあった。
「少なくともこの島のどこかにいるのは間違いないでしょうね。船が港にあった以上、金島君自身も島を脱出する術はなかったはずですから」
稲城が律儀に答える。
「それはそうだろうけど、じゃあ、何でいきなりいなくなるなんて事になったんだ?」
「さぁ……それは僕にもわかりませんが……」
「その話は後にしよう。今は一刻も早くあの廃墟に行く事だ」
白松の言葉に、二人は黙り込んだ。
それからしばらくして、一行は再び先程の広場に到着した。今度はそのまま正面の崖の上に建つ立方体の廃墟の前まで進み、建物の南西部分にある入口の前に立つ。今回は不法侵入だのなんだのと文句を言う人間はおらず、全員が緊張した様子で薄暗い内部を見つめている。
「明かりを準備しておこう。窓がないから中は相当暗いはず。全員注意して進むようにね」
武美の言葉に、全員が無言で頷く。懐中電灯を持っている人間はスイッチを入れ、ライターを持っている人間は火をつける準備をする。携帯電話を取り出して明かり代わりにする人間もいた。
「じゃ……行くか」
戸塚の言葉で、全員、建物の内部へ足を踏み入れた。中に入ると、まるで外の風音が嘘のような静けさと闇が彼らを包み込んだ。ライターを持っていた面々も風がなくなったのを確認して火をつけ、改めて入口付近を確認する。
「まるでどっかの古代遺跡の探検に来たみたいだな」
迫水が小さく呟く。実際、人が滅多に来ないだけあって破壊行為がなかった事からか想像以上に中はしっかりしているようだったが、建物自体の経年劣化もあって床の至る所に瓦礫のようなものが落ちているのが見えた。
「おい、これ」
と、不意に白松が壁のある一角を懐中電灯で照らした。入口のすぐ横には受付と思しきカウンターがあり、そのカウンターの横に見取図と思しきパネルが張り付けられていたのだ。全員が一度そのパネルの前に立ち、この廃墟水族館の構造を確認する。
「……どうやら、構造自体は随分シンプルみたいね」
リタがそう言って呟く。見取図を見る限り、この水族館は一階のみの展示で、この南西の入口から横長の長方形の形をしている館内を壁に沿って一周するコースになっているようだ。より詳しく言うと建物の中央に大水槽が存在し、その大水槽の周りを通路が囲んでいる構図である。つまり、長方形の南西の隅にあるこの入口から始まって、西通路、北通路、東通路、南通路の順に時計回りに進んでいき、最後は再びこの入口に戻ってくるという事だ。
建物中央にある巨大な大水槽は南北の通路から見る事ができ、すなわち水槽越しに反対側の通路を見る事ができるようだった。また南北通路の大水槽とは反対側の外側の壁にも水槽が設置されているらしい。一方、東西通路からは大水槽は見る事ができず、見取図を見る限り、通路の中央に個別の水槽がいくつか設置されている様子だった。
「つまり、今俺たちの目の前にあるこの通路が西通路になるわけか」
そう言って、迫水が懐中電灯を受付から北の先の方へ向ける。そこには開けた空間が伸びており、その通路の真ん中にいくつか並ぶようにしてガラスが割れて枠組みだけが残った水槽の残骸らしきものが置かれている他、右の壁の手前と奥にそれぞれ入口らしい扉があるのが確認できる。
「この見取り図が正しいなら、手前の扉が南通路、奥の扉が北通路へ続く扉のようですね」
稲城が自身の携帯電話で見取図を撮影しながらそうコメントする。他にも何人かが同様に見取図を撮影しているようだった。
「あの扉の中に入らない限り、中央の大水槽は見えない仕組みなのね」
純子が呟く。と、ここで戸塚が疑問を呈する。
「おい、外観からすると二階もあるんじゃねぇか?」
「多分、二階は飼育員用のバックヤードだ。だから、客用のこの見取り図には載っていないんだろう」
疑問に答えたのは赤橋だった。大水槽がある以上、その上にバックヤードがあるのは容易に想像がつく。
「って事は、二階に行くには自分たちで入口を探す必要があるって事か」
「まぁ、今の時点で二階に行く必要があるかどうかもわからんが。当面の目標は、あくまで台風から身を守る事だからな。一階でそれができれば、わざわざ二階に行く必要はない」
はやる戸塚に対し、白松は慎重に言った。
「とにかく、入口でじっとしていても仕方がない。奥へ行こう」
赤橋の言葉に、全員が緊張した様子で頷いた。まず、手始めに一番手前にあった南通路へと続く扉に手をかける。正規の順路とは逆という事になるが、全員の心理としてできるだけ入口から離れた場所に行きたくないが故の行動だった。だが、赤橋がノブを回そうとしても、扉はピクリとも動かなかった。
「ん?」
何度か繰り返すが、結果は同じである。どうやら、この扉には鍵がかかっているようだった。
「どうやら、おとなしく順路に従えって事らしいな」
戸塚が引きつった笑いを浮かべながらそんなジョークを飛ばす。だが、当然誰も笑わず、戸塚自身、すぐにバツの悪そうな顔をした。
「仕方がない、奥の北通路の方へ行こう」
赤橋の言葉に全員同意し、そのまま慎重に西通路を北へと歩き始めた。懐中電灯やライターで周囲を照らしながら、慎重に歩を進めていく。その途中、さっきもチラリと見えた水槽の残骸の近くまでやって来た。ガラスが割れて錆びた鉄の枠組みだけになった細長い四つの水槽の残骸が通路の真ん中に並んで置かれていて、何とも言えない雰囲気を醸し出している。もちろん、今は中に生物の痕跡らしいものはないが、水槽の近くの床に魚の紹介をしているプレートらしき残骸が落ちているのが確認できた。『フエフキヤッコ』『モンガラカワハギ』『ツノダシ』『ミノカサゴ』……サンゴ礁に生息しているような魚の名前が並んでいる。どうやら、この水槽は元々この手の魚を飼育していたようだった。
「それが今や見る影もない残骸か。夏草や兵どもが夢の跡……とはよくいったものだ」
迫水が珍しく文学的な事を言うが、当の文学研究家の赤橋は黙って首を振るだけだった。
やがて、一行は西通路のどん詰まり……つまり長方形の建物の北西端のところまで到着した。さっきも確認したように向かって右手の壁に北通路へと通じる扉があるが、それともう一つ、さっきは見えなかったのかどん詰まりの正面の壁の隅の方にも申し訳程度に小さい扉があった。だが、この扉が何なのかは、扉の隣にはめ込まれていたプレートですぐにわかった。
『倉庫 関係者以外立入禁止』
そこにはそう書かれていた。念のために赤橋がドアノブをひねってみるが、当然のように鍵がかかっている。
「ここも駄目だ」
「となると……こっちの扉が開かなかったら、私たちの探検は早くも終了って事になるわけだね」
武美が北通路へ続く扉を見ながら言う。赤橋が祈るような気持ちでドアノブに手をかけると、今度はカチリと反応があった。
「……開いてるぞ」
その言葉に、みんなの顔がホッとすると同時に、別の意味での緊張がその場に漂った。赤橋はそんな緊張を背に負いながら、努めて気丈に言う。
「行こう」
そう言って、赤橋はゆっくりと扉を開けた。耳障りな音が響くかと覚悟はしていたが、意外に音は小さく、錆びた扉特有の金属音が多少する程度である。やがて扉の向こうが見えてくる。
そして、その瞬間、その場にいる全員が思わず息を飲んだ。
「これは……」
通路の先には、両側に水槽があった。通路左手……つまり北側の壁には一般の水族館でよく見るような壁にガラスがはめ込まれていくつもの窓が連なっている形式の水槽……正式には汽車窓式水槽というらしい……がずらりと並んでいる。ただし、破棄されてかなり経つためか、ガラスこそまだ何とかはめ込まれていたものの中に水は入っておらず、薄汚れたガラスの向こうには瓦礫が散乱しているのが見えるばかりである。
だが、一行の目を引いたのはそちらではなく、通路右手……つまり南側にある天井まで広がっている巨大なガラスの壁……この建物の中央部にある大水槽の方だった。こちらも五年ほどの時間が経過しているのにガラスは割れておらず、現役当時の大水槽の威容を今でも残している。また、水槽の下には生物紹介用のプレートが設置され、『ホシエイ』『マイワシ』『ナポレオンフィッシュ』『アオウミガメ』などという生物の名前が確認できた。しかし、それ以上に赤橋たちに衝撃を与えた事があった。
「水が……抜かれていない」
五年前に閉鎖した水族館。その大水槽は、今なお当時のままに大量の海水をため込んだままこの場に君臨していた。もちろん、五年間一度も抜かれる事なくたまりっぱなしだった海水はすっかり澱み、もはや一メートル先も見えないほどに濁りきっている。だが、それだけに水の奥から何が出てくるかわからない不気味さをこの場に演出しており、生半可な廃墟以上の恐怖を与える事に成功している。
しかも、さらに不可思議な事に、窓一つなく明かりもついていないにもかかわらず、この大水槽は上部に何か光源があるらしく、すっかり澱みきった水面から弱々しい光が差し込んでいるのである。その光が水中の澱みと薄汚れたガラスに吸収され、残ったわずかな光が水槽越しに複雑な模様を描いて北通路を、そしてその場にいる赤橋たちを照らしているのだ。もはやそれは、不気味を通り越して幻想的ともいえる光景だった。
「……何なの、これ……」
真凛が呻くように呟く。それで呪縛が解けたのか、続いて武美がこんな感想を述べた。
「これは……驚いたね。水槽の中はすっかり瓦礫だらけになっていると思っていたんだけど、まさか水が抜かれていなかったなんてね」
「さすがに中の生物まで生きてるなんて事はないだろうが……」
迫水がそう言うと、真凛が顔をしかめて叫ぶ。
「ちょっと! 怖いこと言わないでよ! これで何か出てきたらどうするのよ!」
と、ここで不意に赤橋が誰ともなしに呟いた。
「『或る水族館の水槽で、久しい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の影で、蒼ざめた瑠璃天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた』」
全員がギョッとしたように赤橋の方を見る。が、赤橋は見られている事に気付かないように言葉を続けた。
「『誰も人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日差しの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた』」
「な、何ですか、それ……」
美柑が恐る恐るという風に尋ねる。が、多くの人間はそれが何なのかを既に予測していた。赤橋の専門分野であり、同時にさっきから散々赤橋が言っていた事だからだ。そして、代表して迫水が答えを告げた。
「萩原朔太郎、『死なない蛸』、その冒頭文だな」
「あぁ……さっきは冗談半分だったが……本当にこんな光景を見られるなんてな。何というか、感無量だ」
赤橋はそう言いながら、水槽の中をジッと見つめている。それに対して、戸塚が空元気を出して言う。
「おい、まさか、この水槽の中に死んだ魚の怨念が残っているとでも言いたいのかよ?」
だが、赤橋は首を振る。
「知らんな。俺はオカルトに興味はない。興味があるのは文学的な事だけだ。それに……」
そう言って、赤橋は不意に背後の北側の水槽群の一角を見やった。
「怨念が残るんだったら、むしろそっちじゃないのか?」
「え?」
全員の目が、澱んだ弱い光に照らされた北側の水槽の一つに集中する。そして、その瞬間、全員がギョッとしたような顔を浮かべた。
その水槽には何も入っていなかった。ガラスこそ割れてはいないが、他の水槽同様にそこには瓦礫がたまり、また所々に水たまりもあるようだ。だが、問題はその水槽の横に張り付けられた生物紹介用のプレートだった。そこにはこう書かれていた。
『キロネックス(オーストラリアウンバチクラゲ)』
直後、全員の頭に、先程迫水が話したこの水族館の主……宮森博士の死に様が嫌でも浮かんできた。そう、数分で命を奪うという殺人クラゲに全身を絡みつかれ、まさにこの水槽で命を落としたというその死に様が……。
「いやっ!」
真凛が思わず頭を抱えてその場にうずくまる。他の女性陣もかなり青ざめた表情を浮かべ、男性陣も何も言う事ができないようだった。
「……『けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの忘れられた水族館の槽の中で。永遠に―――恐らくは幾世紀の間を通じて―――ある物凄い缺乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた』」
赤橋は、自然に「死なない蛸」の結びの一文を口走っていた。そして、それに続けてこう問いかけていた。
「さて、蛸でも不満を持てば幾世紀も不満を残し続けるんだ。果たして五年間誰も来なかったこの水槽に、非業の死を遂げた宮森博士の怨念とやらは残っているのか……。文学者としては、台風よりも金島の行方よりも、それが一番気になるところだ」
その問いに対し、皆それぞれの思いでその一見「何もない」水槽を見続けていたのだった……。
それからしばらくして、気を取り直した一行は捜索を再開した。西から東へと続く北通路を進んだ先にある扉を開けると……この扉も鍵はかかっていなかった……今度は南方面に通路が続く東通路に到達した。ここも西通路同様に通路中央にいくつか水槽が置かれているタイプで、西通路の水槽と同じくガラスが割れて枠組みだけになっていた。
また、北通路から東通路へ続く扉の北側……つまり建物の北東の隅の部分にも部屋のようなものがあり、その扉には「階段室 関係者以外立入禁止」と書かれていた。どうやら、ここから二階へ行けるらしいが、案の定ここは鍵がかかっている。さらに、東通路を進んだ突き当り……つまり建物の南東の隅には二つの扉が並んでいて、そこには「男子トイレ」「女子トイレ」と書かれていた。ここは普通に扉が開き、中は予想に反してそこまで臭くはなかった。またこの島の地下水から直接水を引いているせいなのか、驚いた事に水を流せるようだった。
「ひとまず、トイレの心配はしなくてもすみそうだな」
戸塚が引きつったように言い、全員が深いため息をつく。一方、その横には南通路へ通じる最後の扉があり、こちらも鍵はかかっていなかった。
南通路は一言で言えば北通路を反転したような構図だった。すなわち、通路に北側に大水槽のガラスの壁、南側の壁にいくつも並んだ汽車窓式水槽という構図である。見取図を見た時に予想した通り、どうやらこの大水槽は北側と南側のそれぞれから中を見る事ができる構造になっていたようであった。もっとも、今や澱んで腐りきった海水のせいで透明度はなきに等しく、水槽を通じて反対側の通路を見るなどという事はできない状態である。ちなみに、手前のプレートには『ハリセンボン』『オニダルマオコゼ』『アカクラゲ』などの生物の他に交じって『シロワニ』などというギョッとするような名前まで書かれていた。
「こ、この水族館、ワニまで飼ってたの?」
少し怯えたような風に言う真凛に対し、赤橋が解説する。
「いや、確かシロワニはサメの名前だったはずだ。大型のサメだが非常に温厚な性格で人を襲う事は滅多になく、それゆえに水族館でもよく飼育されるサメだったはず」
「へ、へぇ、詳しいのね」
「以前、どこか別の水族館で見た記憶があるだけだ」
そして、南通路の一番端に、先程は開かなかった受付すぐ横の扉が見えた。だが、反対側に回って来てわかったのだが、この扉の内側には防火用なのか何かは知らないが重いシャッターが下りていて扉を完全に隠しており、とても開ける事などできない状態だった。
「さっきから疑問なんですが……この大水槽の上から差し込んでいる光源は何なんでしょうか?」
一通り見て回って南通路の閉ざされた扉の前で一休みしていた面々だったが、不意に稲城がそんな問いを発した。
「外から見た限り窓はないようでしたし、かといって電気がついているわけでもない。これは一体……」
だが、これに対して白松がある程度答えを出しているようだった。
「確かに窓はなかった。側面には、だが」
「側面、ですか?」
「あぁ。要するに、天井はわからないって事だよ」
その言葉に、稲城はピンと来たようだった。
「もしかして、天井に窓があるんですか?」
「それしか可能性はないだろう。多分バックヤードのこの水槽の上の天井がガラス窓になってるんだ。この光はそこから差し込んでいる光って事だ。実際、さっきに比べて光が弱くなってる。もう夕方だし、台風で光も限られているから当然だ」
赤橋が腕時計を見ると、時間はすでに午後五時半になっていた。本来ならもうとっくに尾鷲に着いている時間である。
「待ってよ。天井が窓だったら、その窓が割れていたら私たちまずくない? 窓がないからここに逃げ込んだのに」
純子が少し不安そうに尋ねるが、これに答えたのは武美だった。
「少なくとも、窓が割れている事はないと思うよ。ここからかすかに見える水面は揺れていないからね。もし割れていたら、吹き込んでくる風で水面が大きく揺れているはずだ」
「それ以前に、この辺は日頃からよく台風が通るから、柔いガラスだったら五年の間に割れてしまっているはずだ。それが割れていないという事は、ちょっとやそっとの台風程度で割れるガラスじゃないって事だ。だから、ひとまず心配はいらないと思う」
迫水がそう捕捉すると、純子はホッとしたような表情を浮かべた。
「とにかく、一通り館内は調べた。あとは、どこで一晩過ごすかだが……」
赤橋がそう言うと、全員が重々しい顔で考え込み、やがて迫水が慎重に意見を言った。
「比較的瓦礫の散乱が少なくてスペースがあるのは北通路かこの南通路だったから、選ぶんだったらこの二ヶ所のどっちかだ。だが……」
「佐伯、お前だったらどっちを選ぶ」
赤橋が自衛隊員としてこういうサバイバル的な事に慣れている武美に尋ねると、武美は間髪入れずに答えた。
「北通路だね。南通路に比べて出口に近いから、何かあった時にすぐに外に脱出できる。ここは反時計回りに一周しないといけないし」
だが、これに反対したのは真凛だった。
「いやよ! さっきの通路って、宮森とかいう博士が死んだ場所なんでしょ! そんな場所で寝泊まりなんかしたくない!」
それは正直、誰もが感じていた事だった。常識としては武美の言う通りなのかもしれないが、五年前に人が悲惨な死に方をした場所で寝たくないというのは誰もが思った事らしい。
「なら、もうこの南通路しかないな。それで構わないか?」
赤橋の確認に、一瞬視線を交わした後で全員が不承不承頷く。選択の余地はなかった。
「とはいえ、このまま雑魚寝するわけにもいかないな。どうしたものか……」
と、ここで武美が手を上げて提案した。
「その件だけど、さっき見た倉庫の扉を何とか開ける事はできないかな? 倉庫だったら、何か役立つものがあるかもしれないし」
「けど、鍵がかかってたぞ」
戸塚が反論する。
「わかってる。だけど鍵がない以上、扉を壊すしかないと思う」
「壊すってどうやって。それに何とか壊したとして、中に何もなかったらいたずらに建物を壊しただけになる。廃墟でそんな事をして、建物の崩壊が進んだらどうするんだよ」
思った以上にまともな戸塚の意見に対し、異論を唱えたのは稲城だった。
「いや、僕は扉を壊してでもあの倉庫の中を確認する必要はあると思います」
「何でだよ」
その問いに対し、稲城は黙ってポケットから一枚の古びた紙を取り出した。かなり薄汚れてはいるが、まだ何とか読む事はできる。
「これは?」
「さっき受付のカウンターの所に何枚か置いてあったのを拝借したものです。どうやら、閉鎖直前に受付に設置されていたもののようですが、ここを見てください」
そう言いながら、稲城はその冒頭部分を指さした。そこには先程のプレートに名前が書かれていた様々な魚やエイやサメやウミガメが大水槽の中で一緒に泳ぎ、その奥から水槽の中を見ている人々がこちらを見ている様子が描かれているイラストが掲載されていた。どうやら「水槽越しに反対側の通路が見える」というこの大水槽の在りし日の姿のようだが、そのイラストのすぐ横に『企画展お知らせ』という文字が書かれていた。
「どうもこれ、ここでやっていた企画展についてのお知らせパンフレットだったようです」
「企画展?」
「これを見る限り、年に三回程度のペースで企画展示をしていたようです。場所は西通路と東通路。普段はさっき枠組みだけあった水槽しか置かれていないようですが、企画展示期間にはそれ以外に企画に沿った展示物があそこに置かれていたようです。で、問題はこのお知らせなんですが……次にやる企画の内容を見てください」
そこにはこう書かれていた。
『特別企画展 船の装備博覧会』
全員が顔を見合わせる。続けてパンフにはこう書かれている。
『普段あまり見られない船舶内の様々な装備を特別展示 航行に必要なものから救命用具まで、様々なものを展示する予定です。実施は……』
ここから後は汚れてよく読めなくなっていた。
「つまり、宮森博士が亡くならなければ、次はこの企画展が行われるはずだったんです」
「いや、だから何だよ? これが倉庫を調べる事とどうつながるんだ?」
戸塚の問いに答えたのは迫水だった。
「そうか……企画展を企画していた以上、展示物は企画展以前にすでに運び込まれているはずだな」
「はい。恐らくあの倉庫に保管され、同時に宮森博士の急死による閉館でそのまま放置されている可能性があります。そして、問題は展示物の中に『救命用具』の文字がある事です」
それで純子がピンと来たように言った。
「そっか。もし救命用具があるんだったら、それが何か役に立つかもしれないって事ね」
「そういう事です。とにかく、あの倉庫は調べてみる価値があると考えます」
稲城の言葉に大半が同意する。が、そこでおずおずと反論したのは美柑だった。
「でも……さっきも戸塚さんが言っていましたけど、どうやってあの扉を開けるんですか?」
それが問題だった。白松が呻くように言う。
「最悪、体当たりして突破するか……こじ開けるにしても、せめてバールか何かが必要だ。だが、そんなものがこの場にあるわけがないし……」
と、ここで赤橋の頭にピンとひらめくものがあった。
「要するに、バールみたいな金属の棒があればいいんだな。だったら、西通路にあった水槽の枠組みを使えないか? あれだって金属の棒には違いないだろう」
「……やってみるしかないね」
武美はそう言うと、指示を出した。
「女性陣はここに残っていて。私と男性陣で倉庫の探索をしてくる。それでいいね?」
「あぁ、こうなったらできる事は全部やった方がいい」
赤橋が真っ先に賛同し、他の面々もやむを得ないと思ったのか頷く。かくして、武美と男性陣五人の計六人が、今来た道を戻って西通路の倉庫前へと向かった。幸い何も起こる事なく、五分もかからず倉庫の前に到着する。
「さて……着いたはいいが、その水槽の枠組みは使えるか?」
迫水の言葉に、武美が通路の真ん中に置かれている枠だけの水槽を観察する。しばらく無言で調べていたようだったが、やがて手近にあった瓦礫で枠組みのうちの一本の両端を何度か叩いて外れやすくする。その上で、念のために持ってきたタオルを手に巻いてからその枠組みに手をかけ、力を入れて思いっきり引っ張った。直後、ガキンッと嫌な音がして金属の枠の棒が水槽から外れる。
「端が錆びていたからこれで何とかなった。あとは……」
そのまま武美はその金属棒を倉庫のドアの隙間に差し込み、てこの原理でこじ開けようとする。男性陣もそれを手伝い、作業開始から五分後、ギギッという音と共に固く閉ざされた扉が弾かれたように開いた。勢いで武美たちは前のめりになりそうになり、作業に参加していた全員の呼吸が上がっている。
「何とか……開いたか……」
戸塚が壁に手をついて息を荒げながらコメントする。その間にも、武美は持っていた棒を床に捨てて、早速倉庫の中を懐中電灯で確認しにかかった。
倉庫の中は埃だらけで、暗闇の中、いくつかの棚がずらりと並んでいた。バケツやモップなど水族館らしいものや、脚立、それに工具箱と思しき箱など、役に立ちそうなものもいくつか散見できる。そして、そんな倉庫の一角に、目当てのものはあった。
「あった。あれだ」
そこには「企画展用展示物」というプレートのついた大きな物体がビニールシートに覆われて置かれていた。そして、全員で近づいて埃まみれのビニールシートを外すと、そこには水族館にはあまりなじみのなさそうな船舶用品がほとんどそのままの姿をさらしていたのである。
「どれどれ……浮き輪に船員の制服、舵輪に双眼鏡……無線機だのなんだのはなさそうだな。それから……これは何だ?」
迫水が疑問符をつけたのは、かなり大きな金属のカプセルだった。それが三つほど床に並んで置かれているのである。一見すると何が何だかわからない代物だったが、その正体を見破ったのは武美だった。
「これは……圧縮式の救命いかだだね」
「救命いかだっていうと、あのテントみたいな奴で水に浮かぶ?」
「うん。カプセルから出すと自動的に空気が入って一メートル四方くらいの救命いかだになる。基本は一人乗りだね。しかもこのメーカーは……」
武美はそう言うとカプセルに書かれたメーカーの名前を確認した。
「驚いたね。宮森博士っていうのは随分こだわる人間だったみたいだ」
「どういう意味だ?」
「このカプセルはこのメーカーが事件の起こった五年前に開発した新型だよ。いかだの更なる圧縮に成功して、一つのカプセルに五個のいかだを収納できるっていうのが売りだったはずだ。一つ一つのサイズはその分小さくなるけどより多くのいかだを一度に搭載できるシステムで、当時かなり話題になったはず。そんな最新の品を手に入れるなんて、宮森博士って人はただ者じゃなかったみたいだ」
「随分詳しいな」
白松の問いに、武美は首を振りながら答える。
「幸か不幸か、自衛隊の仕事の大半は戦争じゃなくて災害救助だからね。こういう救助用品については一通り知っているんだよ」
「そうか……。とにかく、大切なのは、今この場に一人用の救命いかだがカプセル三つ分……つまり十五個存在するという事だ」
赤橋の言葉に、戸塚が訝しげな表情を浮かべる。
「まさか、こいつで台風の中海へ漕ぎ出そうなんて言う気じゃないだろうな?」
「そんな無謀は言わないし、それだったらクルーザーに乗っていた方がましだ。そうじゃなくて、これがそのままテントとして使えるんじゃないかって事だよ」
「なるほど、これがあればさっきの通路に事実上の個室を造れるってわけか」
迫水が納得したように言う。
「これを持って行こう。念のためにビニールシートも一緒にだ」
かくして、赤橋たちはカプセル二つと工具やビニールシートを持ち出し、男四人で二つのカプセルを必死に運びながら元いた南通路へと戻っていったのだった。
南通路に戻ると、赤橋たちはカプセルから救命いかだを次々と取り出して膨らませていった。五年も経過しているので膨らむかどうか不安だったが、幸いどこも故障はしていなかったようで、たちまち南通路に十個の救命いかだのテントが並ぶ事となった。
「狭いだろうが贅沢を言っている場合じゃない。この状況で一人一つ個室があるだけでもありがたい事だ」
テントという名の救命いかだは通路南側の汽車窓式水槽の前に並んで置かれ、それぞれの出入口の正面に大水槽が見えるようになっている。それぞれが入る順番は相談の結果、閉鎖されている受付へ通じる西の扉の方から順番に、白松、稲城、戸塚、迫水、赤橋、リタ、純子、真凛、美柑、武美の順番となった。万が一の時に女性陣を先に逃がせるようにという配慮で、武美が一番出口に近いのはこの中で一番危機対応に慣れていて、何かあった時に対処がしやすいようにという判断からだった。
準備が終わると、ひとまず全員大水槽の前に敷いたビニールシートに集合した。すでに大水槽から差し込む光はなくなって水槽の中は闇に包まれており、懐中電灯やライターで光源を確保している状態である。とりあえず明かりを確保するため、武美は太めの懐中電灯を上向きに置いた上で、その上に水の入ったペットボトルを置いた。すると懐中電灯の光が乱反射してランタンのような役割を果たす。災害現場など限られた物資しかない場所で役立つ知識だと武美は説明した。また、念のためにこの通路を出てすぐの場所にあるトイレにも男女それぞれに懐中電灯を吊るしておき、夜中でも利用できるようにしておいた。
「ひとまず、これで台風が通り過ぎるまでの拠点は確保できたな」
周囲を壁に遮られて外の様子は全くわからないが、それでも先程までに比べてかなり強烈な風と、かすかな雨音がここまで響いてくるのが聞こえる。どうやら本格的に台風の勢力下にはいりつつあるらしい。
「それより、ラジオは何か言っていないか?」
「そうだな。一度聞いてみるか」
迫水の言葉に、赤橋はクルーザーから持ってきた小型ラジオのスイッチを入れてチューニングを始めた。電波が弱いためなかなかまともな音声は入ってこなかったが、しばらくしてようやくニュースと思しき放送がかすかに流れてきた。
『……引き続き、台風関連の情報を……大型で強い台風……号は……気象庁の当初の予報より早く東へ進路を取り……時現在、和歌山県潮岬南方にあるとみられています。今晩から明日にかけて潮岬付近に上陸した後、伊勢湾に抜けると予想されており……一九五九年の伊勢湾台風とほぼ同じような進路をたどるものと推定され……付近の航行船舶に対する厳重な警戒と……沿岸地域の皆さんは高潮に対して注意を……』
ここで音声は雑音になり、以降はどれだけチューニングしても何も聞こえなくなってしまった。
「どうやら、当初の予想に反して直撃コースになるみたいだな」
赤橋がラジオのスイッチを切りながら呟いた。純子が不安そうな声を出す。
「高潮って言ってたけど……」
「ここは崖の上だから大丈夫だろう。もっとも、湾内の港まではどうなるかわからないが」
何にせよ、こうなった以上この廃墟で台風を乗り切るしかない。全員の顔に浮かぶ緊張感はまだ消えていない状態だった。
「さてと……落ち着いたところでちょっと話さねぇか」
と、不意に戸塚がそんな事を言い始めた。
「話すって、何をだ?」
「決まってるだろ。金島の奴がどこに行ったのか、だ」
その言葉に、その場の空気が重くなる。確かに、その件はうやむやにするわけにいかないのも事実だった。
「さっきも稲城が言っていたように、金島が島から出た可能性は限りなく低い。この島のどこかにいる事は間違いないと思うんだが……」
白松が思案気に言う。
「一番考えられるのは……船の修理中に誤って海に落ちてしまったという可能性だろうな。あの時点でもかなり波は荒かったから、そういう事故が起こっても無理はない」
赤橋の意見に、同意する人間も多かった。
「確かに……考えられる可能性としてはそれが一番よね。ただ、この場合金島君の命はほぼ絶望的って事になるけど」
リタの言葉に、隣でそれを聞いていた美柑と真凛が青ざめる。
「そんな……」
「まぁ、俺もその可能性が高いとは思うけどよ。もう一つの可能性も考えておいた方がいいんじゃねぇか?」
そんな事を言い始めた戸塚に再び全員の視線が向く。
「もう一つ、というのは?」
「金島の奴が、自分から意図的に姿を消した可能性だよ」
その言葉が発せられた瞬間、その場がしんと静まり返った。迫水が問い返す。
「意図的に姿を消したって……一体、何のためにだ?」
「さぁな。そんなの俺が知るわけねぇだろ。ただよ……そもそもこの島に上陸する事になったのは偶然なのか?」
思わぬ問いに、迫水は少しひるむ。
「どういう意味だ?」
「最初っから奴が仕組んでいたって可能性はないのか? あまりにも都合が良すぎるような気もするんだが……」
「で、でも、船が何かに乗り上げて破損したのは間違いないです」
美柑がそう言って抗議する。
「確かに何かにぶつかったのは本当なのかもしれない。でも、それで船が壊れたかどうかは操舵していたあいつにしかわからないんだ。本当は何ともなかったのに、故障したと言ってこの島に……」
「おい、もうよせ」
ヒートアップしかけていた戸塚を、赤橋が止める。
「これ以上、根拠のない想像をしたところで何の益にもならない。ただでさえ大変な状況なのに、怖がらせてどうするんだ」
「……わりぃ」
少し頭が冷えたのか、戸塚は極まりが悪そうに頭を下げた。
「とにかく、この台風が過ぎたらどうとでも対策はできるんだ。今は余計な事は考えず、おとなしく待つのが一番だと思うが」
「……そうね。赤橋君の言う通りだと思うわ」
リタがそう言って賛同した。
「ひとまず、それぞれの救命いかだに戻って休もう。幸い船から持ち出した食料がかなりあるから飢える事はない。今は少しでも休んで体力をつけておく事だ。違うか?」
「そう……だな」
その言葉がきっかけになって、一人、また一人と自分の救命いかだに戻っていく人間が出てきた。三十分くらいもすると、ビニールシートに残っているのは赤橋、迫水、武美の三人だけになっていた。
「さてと、私たちも寝ようか。一応、このランタン懐中電灯はこのままつけておこう」
武美がそう言って立ち上がる。時刻はすでに午後七時半頃になっていた。寝るには早い時間だが、予想外の事態の連続で、赤橋も疲れを感じていた頃だった。
「あぁ。必要な時以外はジッとしておくのがいいだろう。もしかしたら、救助が来るかも知れないし……」
「救助、ね。本当に来ればいいんだけどね」
武美の言葉に、赤橋と迫水は黙り込んだ。他のメンバーの手前、あえて不安にさせるような事は言わなかったが、その問題は確かにあった。いざ台風が過ぎたとしても、エンジンのかからないクルーザーで海を渡るというのは、いかだで漂流するのと同じでかなり危険な行為だ。となれば、必然的に救助を待つ必要が出てくるのだが、そもそも自分たちがこんな離れ小島で遭難している事さえ誰も知らないのである。
だが、それに対して迫水はこう反論した。
「いや……少なくとも俺らが失踪しているという事は今日中にでも発覚すると思う」
「なぜだ?」
「今回の集まりにはもう一人参加者がいたのを忘れたのか? ほら、仕事で遅れて別荘に来ることになっていた……」
その言葉に反応したのは武美だった。
「そうか……綿野さんがいたんだね」
この場にいない、今回の集まりの十二番目の参加者の名前に、迫水は深く頷いた。
「あぁ。彼女が別荘に来て、その別荘に誰もいない事がわかったら、しかるべき場所に連絡してくれるはずだ。もっとも、俺らがここにいる事まではわからないと思うが……失踪自体が知られないよりは随分ましだ」
「つまり、希望が全くないわけじゃないって事だね」
武美がそう言って頷く。一方、赤橋は何事かを考えていた。
「確か、綿野の奴が来るのは今日の夜のはずだったな」
「そうだ」
「……って事は、ちょうど今頃別荘に着いている頃か。果たして、どうなるか……」
赤橋はそう言って、遠く離れた志摩半島の別荘に近づいている「最後の一人」に対し、思わず祈るような気持ちになってしまったのだった……。