表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/13

第十一章 七月二十九日~論理決闘

「真凛が……犯人……」

 榊原の告発に、英美里は絶句して真凛を見つめていた。一方、告発された真凛は緊張した表情ながらも、今までの彼女らしくない毅然とした表情で、自身をジッと睨みつける榊原を見返している。それはさながら、時代劇か西部劇における一対一の決闘が始まる直前の、どこか緊迫した静けさとよく似ていた。

「……ふざけないでよ」

 と、不意に真凛の口から、怒気が含まれた声が発せられる。が、明確な敵意のこもった視線を向けられながらも榊原は一切動じることなく、恐ろしく冷静に切り返した。

「そう言うという事は、認めるつもりはない、という事ですね」

「当然じゃない! 私が犯人なんて、よくもそんなひどい事を言えるわね! 探偵だか何だか知らないけど、事件に関係ない人間にそんなこと言われる筋合いはないわよ!」

「私も、伊達や酔狂でこんな事を言うつもりはありません。それでもこうしてあなたを告発したという事は、探偵としてあなたを追い詰めるだけの根拠と論理構築ができたという事です」

「何を言って……」

 そこで榊原は、しっかりと真凛の目を見据えながらはっきりと宣告した。

「先に言っておきますが、私は別に一方的にあなたを糾弾するつもりはありません。あなたが私の推理に対して何か反論があるというのならば、遠慮なくこの場で反論すればいい。私はそれを止めませんし、ちゃんと全て聞くつもりです。そして……その上で私はその反論全てをこの場でねじ伏せ、あなたの犯した犯罪の全容を明らかにする所存です」

「なっ……」

 それは、『名探偵』から『真犯人』に対する真っ向からの挑戦状だった。この榊原という一見凡庸に見える探偵は、苛烈を極めるであろう『真犯人』の抵抗を、推理一本で全て真正面から叩き潰すと言っているのだ。そして榊原のその宣告に対し、真凛は一瞬唇を噛み締めるような仕草を見せた後、キッとした表情で自身の『敵』を睨みつけた。

 英美里はその異様な雰囲気に、思わず息を飲んだ。「名探偵と真犯人による対決」……推理小説のクライマックスでよくあるシチュエーションであるが、実際に目の前でその光景が出現すると、それはあまりにも重く、緊迫し、張り詰めたものであり、英美里が推理小説を読んで想像していたそれとは、大きくかけ離れたものであった。

「『犯人は、罪を逃れるために文字通り命を賭ける。だからこそ探偵も、己の推理に全てを賭ける』」

 突然、英美里の横にいた瑞穂がそんな事を小声で呟き、英美里はハッとした様子で瑞穂の方を見やった。

「先生のいつもの口癖です。殺人事件の犯人は、自身の犯行に文字通り自分の人生を賭けています。犯行がばれて逮捕された瞬間に全てが終わってしまうのだからそれは当然です。だから、どれだけみじめになろうとも、最後の最後の瞬間まで全力で罪を逃れようとします。そして、探偵はそんな命懸けの反論をしてくる犯人を徹底的にねじ伏せなくてはならない。失敗すれば事件は解決せず、先に待つのは最悪の結末だけです。だから探偵側も、己の全てを賭けて犯人に対峙しなければならないんです。そこに失敗は許されません」

 そしてそこで一息入れて、瑞穂は緊張した様子で対峙する二人の人間……榊原と犯人を見ながら告げた。

「だから、先生にとってこれは『推理勝負』なんて生易しいものじゃありません。探偵として組み立てたすべての論理と推理が武器の犯人との一騎打ち……自分の人生を賭けて命がけの言い逃れをしようとする犯人との、文字通りの『論理の決闘』です」

「論理の……決闘……」

 物理的な武器を使わない、論理がすべての決闘……そんな世界がある事を、英美里は今まで知らなかった。この決闘では肉体的な外傷を負う事は絶対にないし、直接この場で命のやり取りをするわけでもない。しかし、負ければそれは負けた方の人生の「死」を意味する。犯人からすれば負ければその時点で文字通り人生が終わってしまうし、探偵からしても負ければその時点で探偵としての信念を貫けなくなる。互いの人生を賭けた、論理と推理がすべての言葉による決闘……それが今まさに、目の前で開始されようとしているのだ。

「始めましょうか花園さん。ここから先はあなたと私、それぞれの人生を賭けた論戦です。逃げる事は許されません。覚悟を決めて頂きましょうか!」

 榊原の鋭く場に響く言葉に対し、真凛は拳を握りしめ、無言でこれに応じる。今まさに、『論理決闘』の火蓋は切って落とされたのである。


 真凛に対する宣戦布告と同時に、榊原は早速自身の論理を展開にしにかかった。

「すでに述べたように、この大水槽のカラクリを使った首吊りトリックが使用されたと考えた場合、犯人は被害者の死後に必ず二階に足を踏み入れなければならない事になります。まず、この時点で夏沢美柑さんがスケッチを始めた午前二時以降、一度もテントから出ていなかった人間は容疑者から除外できます。他のトリックならともかく、さすがにこの規模のトリックとなるとすべて遠隔というわけにはいきませんからね。従って、生き残っている人間の中でこの条件に当てはまる赤橋輝雄さんと迫水真太さんは犯人候補から除外できます」

 そう言われて、後ろに控えていた赤橋や迫水が大きく息を吐いて安堵するのが見えた。

「次に、全てのアリバイの根幹となっている夏沢美柑さん自身も犯人とは考えにくい。なぜなら彼女自身が犯人だとすれば、こんな大掛かりなアリバイ工作を実行する意味が全くないからです。このトリックを行う意義は『死亡推定時刻における自身のアリバイを確立する事』ですが、彼女の行動はこれと真逆を行くものになる。何しろ、問題の時間に彼女は『一人』で絵を描いているわけですからね。時々トイレに行く面々に見られているとはいえ、これではアリバイがかなりあやふやなものになってしまいますし、何より一人で絵を描いていたら、このトリックの肝となる『見かけ上は何の変化もない大水槽を第三者に見せる』という目的が全く達成できていません。アリバイを確保するためのトリックなのに、自らアリバイをあやふやにし、トリックの肝となる事象を成立させない行動をしているのは理解に苦しむと言わざるを得ません。従って、彼女が犯人である可能性はかなり低いと言わざるを得ない。また、すでに議論されているようですが、短時間ではスケッチブックに絵を描く事ができないという点も、彼女が犯人でないという理論の根拠としてもいいでしょう」

 美柑は目に見えて肩の力を抜き、榊原は最後に残った二人に視線を向ける。

「最後に稲城将成さんと佐伯武美さんですが、稲城さんがトイレに行ったのは午前二時半、佐伯さんがトイレに行ったのは午前二時四十五分のそれぞれ一回だけ。先述した通り、犯人は『大水槽北側に再び水を入れるポンプの操作をする』ためと、『水を入れた後に浮かんできた山中純子の遺体を大水槽南側に落とすための処置をし、同時に用済みになったポンプ室のポンプを破壊する』ために、最低でも二回トイレに行くふりをする必要があります。となると、一度しかトイレに行っていないこの二人にこのトリックを行うのは不可能という事になる」

 そこで

「しかし、あなたはこの中で唯一、午前二時以降に二度トイレに行っています。具体的には午前二時半と午前五時ですか。五人の中でこの条件に合致するのはあなただけ。つまり、このトリックが実行に移されたと仮定した場合、その犯人足り得る人物はあなただけという事になるのです」

 榊原はそのまま真凛に対して一気に畳みかけていく。

「一連の犯行の流れを再現してみましょう。あの日、あなたは恐らくは午前一時から二時までの間に二階へ行き、そこで山中純子を昏倒させると、この遠隔殺人トリックを仕込んだ。そして午前二時までに南通路の自身のいかだの中に戻り、夏浜美柑さんが大水槽の前に陣取って絵を描き始めて以降の午前二時半、一度トイレに行く事で『死亡推定時刻に間違いなく自分のいかだの中にいた』というアリバイを確定させた。またそれと同時に、二階へ行って山中純子が大水槽北の中で宙吊りになっている事を確認した上でポンプの操作を『排水』から『給水』に切り替え、すぐに一階へと戻ったのです。そしてその後の午前五時頃、再度トイレに行くふりをして再び二階へ向かい、大水槽北側の水面に浮かんでいたであろう山中純子の遺体の処理と用済みになったポンプの破壊作業を行い、全ての作業を終わらせた。これが山中純子殺害事件で使用されたトリックの全貌だったと考えます。いかがでしょうか、花園真凛さん」

 だが、その問いかけに早速真凛は反論を開始する。

「ちょっと待ってよ! 仮にその話が正しかったとしても、それは午前二時から美柑がずっと南通路の前にいる事が前提になっているトリックよね。でも、美柑が午前二時から絵を描き始めたのはあくまで偶然よ! そこに第三者の介入する余地はないわ! そんな起こるかどうかもわからない偶然を頼りにしてこんなトリックを仕込むなんて、無茶を通り過ぎて無謀すぎるんじゃないの!?」

 確かに実際問題として、それはかなり筋が通った反論だった。だが、榊原は慌てる仕草を見せない。落ち着いた様子でその反論を潰しにかかる。

「確かに、結果的には夏沢美柑さんが午前二時から偶然水槽の前で絵を描き始めた事で、このアリバイトリックは完璧に近いものとなっています。あなたの言うように夏沢さんの行動が完全な偶然によるものであるため、その偶然を前提としたトリックなど立てられないという反論ができるようになってしまっているからです」

「だったら……」

「ですが、仮に『夏沢さんが水槽前で偶然絵を描き始めた』事が犯人にとってはあくまでも『結果論』だったとすればどうでしょうか? 夏沢さんの行動が偶然……つまり犯人がトリックを仕込んだ時点で想定されていなかったものだとして、その状況で犯人は何も考えていなかったのでしょうか? 私にはそうは思えません」

「何が言いたいのよ!」

 のらりくらりとした榊原の言い方に、真凛はイラついたように叫ぶ。しかしそれ自体が、すでに榊原の手中にはまっている証明でもあった。

「実際には行われなかった事なので、犯人が本当は何をしようとしていたかは推測でしか語れません。しかし、仮に夏沢さんの偶然の行動がなかったとしても、犯人がこのトリックを成立させるためにできる事はあります。何の事はない、『自分から誰か証人になってくれる人間に声をかけ、理由をつけて二人一緒に水槽の前に居座ればいい』んです」

 その言葉に、真凛の表情が一気に真っ白になった。

「要するにこのトリックは『山中純子が死亡するであろう時間に自身のアリバイを作り、なおかつその時間帯に大水槽に何ら異変が発生しなかった事を第三者に確認させる』事ができれば成立するんです。だとするなら、やり方はいくつも存在する。一番簡単なのは、トリックを仕込んで大水槽北側の水を抜いた後すぐに南通路に戻り、いかだにいる適当な人間に『怖いから一緒にいない?』とでも言って声をかけ、そのまま午前二時から二時間程度大水槽の前でお喋りでもして居座る事です。もちろん、自分から行動を起こしている関係上、今回のような第三者の偶然の行為を利用したアリバイ形成に比べるとトリックの完成度は少し下がってしまいますが、それでも充分強固なアリバイです。あなたとしてはそれでも問題ないと考えていたのでしょう」

 そこで榊原は、鋭い視線で真凛を射抜く。

「ところが、あなたがそれを実行に移す前に、事態は予想外の方向へ向かい始めた。あなたが声をかけるまでもなく、午前二時頃に夏沢さんが勝手にいかだを出て、そのまま大水槽の前に居座って絵を描き始めてしまったのです。これは完全にあなたにとって予想外の話だったでしょう。ですが、あなたは逆にこの『偶然』を利用してトリックをより完璧なものにする事にした。あなたにとって幸運だったのは、夏沢さんが絵を描き始めたのがあなたがいかだに戻ったよりも『後』だった事です。このため、あなたは山中純子が死亡する時間帯に一度トイレに行くだけで『死亡推定時刻に間違いなくいかだにいた』という完璧なアリバイを手に入れる事に成功したわけです」

「……つまり、元々計画していたよりも好都合な偶然が起こったから、それを利用してより強固なアリバイを入手する方向へ切り替えた、って事ですか」

 瑞穂が榊原の推理をまとめ、榊原はゆっくりと頷きを返す。

「ただ、この夏沢さんの行動は、犯人にメリットを与えると同時に、不都合な事態も発生させてしまいました。当初の計画では山中さんの死亡推定時刻になるであろう午前二時から午前四時くらいの間だけ誰かと一緒に大水槽の前にいればよく、その後は何か理由でも作って相手にいかだに戻ってもらう事で、堂々と誰にも見られる事なくトリックの後始末へ向かえるはずでした。もちろん、このケースだと山中純子の死亡推定時刻以降のアリバイがなくなってしまいますが、トリックがばれない限りその時間帯のアリバイが重視される事はまずないのでそれでも構わなかった。ところが実際は夏沢さんの行動で計画を変更せざるを得なくなり、しかも予定と違って夏沢さんは山中純子の死亡推定時刻を過ぎてもいかだに戻らず絵を描き続けてしまったのです。このため、あなたはトリックの後始末をするために、再びトイレに行くふりをせざるを得なくなってしまった。結果、午前四時以降に不自然にトイレに行ったあなたの行動ばかりか他のメンバーの行動まで証言として残ってしまい、その行動の流れが今回真犯人を特定する大きなヒントに繋がってしまったのです」

 榊原の反論は完璧に近いものだった。だが、そこまで言われても真凛は諦めない。諦められるわけがない。

「だったら……そう、犯人は戸塚君だった可能性だってあるわけよね?」

 唐突にそんな事を言い出した真凛に、その場の誰もが混乱した。迫水が慌てて詰問する。

「花園、お前、いきなり何を言い出すつもりだよ。戸塚はその後で殺されてるじゃないか!」

「最初の事件と後の事件の犯人が別の可能性だってあるじゃない! 戸塚君が殺された事件の犯人は違う人でも、純子が殺された事件の犯人が戸塚君じゃないという証拠はどこにもないわ!」

「だからって何で戸塚なんだよ!」

「要するに、そこの探偵さんの推理が正しいんだったら、午前二時以降に二度トイレに行った人が怪しいって事になるのよね。だったら、戸塚君だってそうじゃない。彼、確かアリバイ検証をした時に、二回トイレに行ったって言っていたわ!」

 言われてみれば確かにそうだった。あの時の検証で、生前の戸塚は「午前四時と午前四時十五分の二回トイレに行った」と証言しているのである。それを思い出して赤橋たちが答えに窮していると、真凛はさらにとんでもない事を言い始めた。

「あ、それか、実は稲城君と武美の共犯だったなんて可能性もあるんじゃないかな?」

 突然そんな事を言われて、稲城は唖然とした表情を浮かべ、武美は厳しい視線を真凛に向けながら静かに問いかけた。

「正直かなり不愉快だけど、花園さんがそう思う理由を教えてくれるかい?」

「一度もトイレに行かなかった人はさすがに無理かもしれないけど、一回ずつトイレに行った人が二人で協力する事はできるよね! さっき探偵さんが言った二つの工程のうち、最初のポンプの切り替えを午前二時半にトイレに行った稲城君が、後の遺体の処理とかを午前二時四十五分にトイレに行った武美がやったって考えたら辻褄が合うじゃない! そうよ、そうに違いないわ!」

 熱に浮かされたような表情でそんな事を平気で言う真凛に、英美里はどこか背筋が寒くなるようなものを感じた。

 だが、榊原はまだ冷静なままである。そして、対称的に静かな口調で彼女の主張を崩しにかかる。

「残念ですが、それはあり得ません」

「どうして!」

「先程も言ったように、ポンプが水を入れ始めてから大水槽北側が満水になるまで三十分はかかるからです。つまり、一回目と二回目の作業は必ず三十分以上開けなければならない。ですが、戸塚さんの場合でも稲城さんと佐伯さんの場合でも、その間隔はいずれも三十分以下となっています。水槽が満水になる前に二回目の作業は不可能ですので、必然的にこの可能性はないと断言できるのです」

 客観的事実を元にした理路整然とした反証に、真凛は一瞬たじろぐような仕草を示す。が、だからと言ってここで終わるわけにはいかないと言わんばかりに、真凛は歯を食いしばりながら榊原という難敵に改めて挑みにかかる。

「ふざけないでよ! そんな推理、全部でたらめよ!」

 真凛が急にそんな叫び声をあげ、きつい表情で榊原にさらなる反撃を試みる。

「あなたが言った事は全部ただの想像に過ぎない! そもそもさっきのトリックだって理論上は可能ってだけで、実際にそれが使われたとは限らないじゃない! そんなあやふやな話だけで私を犯人と決めつけるなんて、言い掛かり以外の何物でもないわ!」

 だが、この反論を受けても榊原は全く動じず、あくまで冷静に切り返しを図った。

「残念ですが、この大水槽を使ったトリックが実行されたかどうかを証明する事は充分可能です」

「はぁ? 意味わかんない!」

「まず、このトリックが使われていなかったとした場合、ポンプ室の装置が破壊されていた事に説明がつかなくなります。さっき説明した事をここでもう一度繰り返しますが、ここは普通の廃墟ではなく絶海の孤島にある建物です。よって人が来る事自体難しく、一般的な廃墟のように不法侵入者が勝手に侵入して物品を破壊した可能性はほとんど考えなくてもいい事になる。つまり、劣化したガラスが割れたり瓦礫が散乱したりする程度ならともかく、あそこまで派手に装置が破壊されるというのはあり得ないのです。となれば、ポンプ装置を破壊したのは今回の犯人で、その目的は装置を破壊する事でポンプが作動しないようにし、この大水槽のカラクリが容易にばれないようにするためだったと考えるしかない。それ以外にこの事件の犯人が装置を破壊する意味は存在せず、それをしたという事は、犯人が大水槽のトリックを使ったという何よりもの証拠になるはずです」

 だが、真凛はなおさらきつく拳を握りしめながらこう反論する。

「そんなのわかんないじゃない! いくら絶海の孤島でも水族館の廃墟なんて珍しいものがあるんだから、物好きな廃墟マニアか何かが船を使ってでもここにやって来て、ふざけてポンプ装置を破壊した可能性がゼロとは言えないじゃない! 少しでも可能性があるんだったら、それだけで私を犯人呼ばわりできないはず! 違う?」

「そんな都合のいい話が起こったと本気で主張するつもりですか?」

「それが違うという事を証明するのはそっちの仕事よ! できるわけがないけどね」

 確かに、この状況では「事件前に誰かが装置を破壊した」可能性を否定する事は「悪魔の証明」に近い話になる。だが、榊原はこの反論をある程度予想していたようで、さらにこう続けた。

「いいでしょう。では、他の話をしましょう」

「何ですって?」

「実は今朝、私たちがあなた方を救助する直前、赤橋さんと迫水さんが南通路からこの大水槽の中を泳ぐ奇妙なものを目撃したらしいのです。見間違いかもしれないという事でしたが、私はその話に興味を持ちましてね。可能な限りでいいのでこの大水槽を確認してほしいと鑑識に言っておいたんですが、つい先程、水面近くにこんなものが漂っているのが発見されて、無事に引き上げに成功しました。それがこれです」

 そう言ってから榊原が合図をすると、後ろにいた鑑識職員が水の入ったバケツを全員の前に置く。そのバケツの中を見て、誰もが困惑した表情を浮かべた。

「なっ、これは……」

 そこには、一匹の蛸がゆっくりと水の中を漂っていた。かなり弱っているのか動きは鈍く、水面近くにいたというのもその影響があるのではないかと思えた。

「本当に……いたのか」

 実際にこの蛸が水槽の中を泳ぐ姿を見た赤橋と迫水が、改めて信じられないという風にバケツの中を覗き込んでいる。

「最初に言った通り、この蛸はこの大水槽の中を泳いでいました。しかし改めて考えてみるまでもなく、これは明らかにおかしな話です。なぜなら今更言うまでもなく、この大水槽にたまっていた水はもう五年以上も放置されていたはずの代物だからです。当然ですが、そんな餌もない腐った水の水槽に蛸が五年以上も生き残れるはずがありません。それこそ赤橋さんが研究していたという萩原朔太郎の『死なない蛸』と似たような話になってしまいますが、現実問題としてあの詩と同じような事が現実に起こるはずがないのです。ですが、この奇妙な話も、先程の大水槽のトリックが使用されたと考えればすべてが解決します」

「そんなの嘘っぱちよ! 解決なんかできるわけがない!」

 真凛は必死に叫ぶ。が、榊原は止まらない。

「ポイントとなるのは、先程述べた大水槽のトリックが実際に行われていた場合、水槽の水の排水と吸入が人知れず行われていたという事です。館長室に残されていた資料によれば、この水族館の大水槽の水はパイプを使って近隣の海から直接引き入れていたものであり、それがまた水族館の目玉の一つとなっていたそうです。もちろん実際に営業していた時は、そのまま水を引き入れると近くの海に住んでいる生物まで吸い込んでしまうため、パイプの両端にそれを防ぐための金網か何かを備え付けていたでしょうがね。ただ、閉館から五年が経過した現状、その近海の生物の流入を防ぐための金網が破損している可能性は充分に考えられます」

 そこまで言って、武美がハッとしたような表情を浮かべた。

「それはまさか……」

「えぇ。その金網が破損した状態でポンプを使用すれば、その周囲の生物も一緒に吸い込まれる事になる。その結果、トリックで水を入れた際に近くの海中を偶然泳いでいた蛸がパイプに吸い込まれてしまい、そのまま大水槽の北側に入り込む事になってしまった。これなら、五年間放置されていたはずの水槽内に蛸がいた事の理由に説明がつくはずですし、それ以外にこんな事が起こる可能性はあり得ないはずです。つまりこの蛸が生きたままこの大水槽にいたという事実が、ここ数日以内に大水槽の水の入れ替えが行われた事……すなわち、今回のトリックが実際に使用された事を示す何よりもの証拠になるのです!」

 榊原の糾弾に、真凛は唇を噛み締めながら榊原を睨みつける。そしてそのまま、再び必死の反論を展開しにかかった。

「待ってよ! それが正しかったとしても、蛸が吸い込まれたのは大水槽の北側よね。だったら、さっきあなたが言ったみたいに、南通路から赤橋君が蛸を見る事なんて不可能なんじゃないの?」

「それこそ先程も言ったように、犯人はトリックを実際に行った際に、波紋による矛盾を発生させないように仕切りのガラスから十センチ程度上の部分にまで水を入れたと思われます。だとすれば、北側の水槽に入り込んだ蛸が、このわずかに水が繋がっている部分を通って大水槽南側に入り込んだ可能性は充分に考えられます」

「でも……でも! そうよ、別にポンプに吸い込まれたと考えなくても、誰かがこの蛸を大水槽に投げ込んだって考えたらいいじゃない! それだったら何の矛盾もないはずよ!」

 真凛が必死な表情で、正直どう考えても悪あがきとしか思えない苦し紛れの反論をする。聞いていた英美里や瑞穂も「さすがにそれは……」と心の中で突っ込み、さらに当の真凛本人もこの反論が苦しい事は自覚している様子だったが、そんな荒唐無稽な反論に対しても、榊原はあくまで真剣な表情で、律義かつ理論的に答える。

「一体なぜそんな事を? 大水槽に蛸を投げ込む行為にどんなメリットが存在するというのですか? それこそ私が犯人が絶対にしないと言った『無駄な行為』以外の何物でもないではないですか」

「そ、それは……」

「それ以前に、そもそもその蛸はどこで手に入れたというつもりですか? まさかクルーザーに乗船した時点で生きた蛸をどこかに隠し持っていたとでも?」

 それはさすがに意味不明過ぎると思ったのか真凛も一瞬言葉に詰まったが、すぐにこう反論する。

「そうよ、この島の周りは海なんだから、その辺で捕まえれば……」

「だとしてもわざわざ台風で荒れ狂う外の海に蛸を捕りに行ったというのはあまりにもおかしな話ですし、それ以前に、そんな台風で荒れ狂う海で蛸を捕ろうとすれば、例え合羽なりを着込んだとしても全身が濡れる事は避けられません。しかし、そんな人間は閉じ込められた人間の中にいなかったはずです。こんな訳の分からない状況を考えるまでもなく、素直にポンプで大水槽に吸い込まれたと考えるのが妥当でしょう」

「うっ……」

 理路整然とした答えに真凛が呻く。一見ふざけたやり取りにも聞こえるが、榊原本人の表情は真剣であり、また真凛の表情も真剣かつ必死そのものである。何しろ先程瑞穂が言っていたように、この論戦には冗談抜きで花園真凛という人間の人生と命がかかっているのだ。それだけに、どれだけ荒唐無稽な反論であっても、可能性がわずかでもある限り食い下がり続けなければならないというのが今の真凛の立場だった。そして榊原としても、彼女を追い詰めるにあたってそんな反論を一つ一つ潰していく必要があり、どんな反論に対しても気を抜く事なく徹底的に論破する構えを見せている。そう考えると、この真凛の苦しい反論を笑う事など、英美里には全くできなかった。

 そんな事を考えている間にも、二人の論戦はさらに進んでいく。

「まだよ! まだ私は認めたわけじゃない!」

 そう叫ぶと、真凛はさらに反論を重ねた。

「あなたの推理には、まだ大きな穴があるわ!」

「ふむ、穴ですか。お聞きしましょうか」

「誤魔化そうとしたって無駄よ! 百歩譲ってこの大水槽を使ったトリックが使われたのだとしても、もう一つ説明がつかない事がある。私が犯人だったとしたら、あの日の朝六時半、赤橋君と美柑が見ている前でどうやってこの水槽に純子の遺体を落とす事ができたっていうのよ!」

 その指摘に、実際にその光景を目撃した赤橋と美柑が後ろでハッとしたような表情を浮かべた。一方、榊原は最初の宣言通り真凛の反論を最後まで傾聴する姿勢を見せ、これ幸いと真凛は自身の反論をまくしたてる。

「私たちが純子が死んだ事を知ったのは、誰かが遺体を水槽の中に落としたから。って事は、その時犯人は確実にこの二階にいたって事になるはずよね! でも、その時私は間違いなく南通路にある自分のテントの中にいたわ。それはこの場にいる全員が証明してくれるはずよ!」

 この発言に、最初から最後までずっと通路にいた美柑が遠慮がちに発言する。

「確かに……山中さんの遺体が水槽の中に飛び込んできた時、花園さんはすぐに自分のテントから出てきました。それどころか、花園さんだけじゃなくて、亡くなった山中さんと行方不明の金島君以外の全員が、あの時間違いなく南通路にいたはずです」

 それを聞いた真凛は勝ち誇ったように言う。

「つまり、私を含めて誰も純子の遺体を水槽に落とす事はできなかったって事よ! だから、私が犯人だって推理は成り立たないってわけ! 理解できた?」

 だが、それでも榊原は落ち着いた様子だった。というより、事件を推理にするにあたってこの話が問題になる事は明らかであり、そんな事を榊原が見過ごしているはずがなかったのである。

「なるほど。では逆に聞きますが、あなたの考えでは誰が遺体を水槽に落としたと考えますか?」

「知らないけど、私たちじゃない事は確かよ。例えばいなくなった金島君辺りじゃない?」

「つまり、あなたは金島さんが犯人だと?」

「だから私は知らないわよ。でも、冷静に考えたら私たちにアリバイがある以上、それができるのは彼しかいないでしょ」

 言い逃れしようとする真凛に対し、しかし榊原はこう反論した。

「いえ、単に遺体を水槽に落とすだけなら、方法がないわけではありません」

「嘘よ! そんな方法あるわけ……」

 なおも反論しようとする真凛だったが、榊原はその前に自身の推理を語りだす。

「例えばそうですね。遺体の腰のベルトにでもロープを結び付け、ロープの反対側に被害者の体重と同程度の何らかの重りを結びつける。その上で被害者の遺体をキャットウォークの南側手すりに座らせ、重りの方は北側の水槽に入れれば準備は完了です。両者の重さが同一である以上、支点の場所にさえ注意すれば両者は釣り合って静止するはずですから、後はベルトに結んだロープの一角に少し切れ込みを入れてその場を離れればいい。釣り合っているとはいえロープにはずっと重りの重さがかかる事になるので、時間が経つと切れ込みが拡大し、やがてロープが切断されて遺体は南側の水槽、重りとロープは北側の水槽に落下するというカラクリです(図3参照)。まぁ、ある意味古典的なやり方ですよ。自分が南通路のテントにいる時に遺体が落ちさえすればいいので、綿密に時間を設定する必要がないのも利点ですね。今回は仕掛けてから一時間弱程度で作動したようですが」


挿絵(By みてみん)


 いともあっさりと「自動落下トリック」を解明され、真凛は口をパクパクさせながら何も言えなくなってしまったようだった。だが、榊原は容赦なく追及を続ける。

「一応言っておくと、このトリックが使われたかどうかの立証はそう難しくありません。ロープが接触する以上、キャットウォークの手すりにこすった跡のような何らかの痕跡は残るはずですし、そもそもの話として肝心の重りとロープはまだ水槽北側の底に沈んでいるはずですからね」

「……」

「なお、先程確認した限り、キャットウォークの南側手すりにそれらしき痕跡があった事は付け加えておきます。私も単なる空想でこんな事を言っているわけではないという事ですよ」

 追い打ちをかけるような事を言う榊原であったが、真凛は反論をやめなかった。

「……仮にそのトリックが使われていたとしても、それを私がやったっていう証拠はどこにもないはず! 違うかしら?」

「でしょうね。しかし逆に言えば、あなたを含めた南通路にいた人間は、遺体落下時にアリバイがあった事を理由に容疑を逃れる事はできないという事になる。外部の人間が犯人ならそれこそ自分で直接遺体を水槽に投げ込めばよく、わざわざこんなトリックを仕込む理由などありませんからね。そして、南通路にいた人間でこの大水槽を使った殺人トリックが可能なのがあなたしかいない事は、すでに証明した通りです」

 手痛い反撃を受け、真凛は一瞬言葉に詰まる。が、それも本当に一瞬の話だった。この方向での反撃が不可能である事を察したのか、真凛は必死な形相で、反撃の糸口を別の方向へ切り替えにかかる。

「じゃあ……じゃあ、教えてよ! 何で私がこんな場所で、出来の悪い推理小説の殺人鬼みたいに純子たちを殺さないといけないのよ! 私にはそんな事をする動機がないわ!」

 だが、榊原はそれでもなお彼女を追い詰めにかかる。

「事の発端は、五年前にこの水族館で起こった『キロネックス事件』にあった。違いますか?」

「……何よ、それ」

 真凛は口元を引きつらせながらも、かろうじてそう答える。

「五年前、この水族館の館長だった海洋学者・宮森海次郎博士が、殺人クラゲとして有名なキロネックスの水槽に落下して死亡しているのが発見されました。この事件についてはご存知ですか?」

「……知ってるわ。ここに来た時、迫水君が話してくれたから」

 真凛の言葉に、榊原は迫水の方へ確認するかのような視線を送り、それを受けて迫水は頷いて肯定の意を示した。

「間違いない。さっきもテントで話したが、以前、仕事で取材して調べた事があったから、事件についても詳しく知っていた」

「結構です。さて、この一件について当時の県警は、被害者が誤って水槽に落下した事による事故だと判断していました。現場にそれらしい痕跡がなく、さらに事件当時被害者以外に島に人がいなかったとなれば、そう判断するのも仕方がない事でしょう」

 そんな榊原の言葉を、当の定野たちは複雑そうな顔で聞いている。

「しかし、もしこのキロネックス事件が事故などではなく、何らかの第三者の手による殺人だったとすればどうでしょうか? そして、被害者たちがこのキロネックス事件について調べていたとすれば、キロネックス事件の犯人には彼らを殺害する動機が発生するはずです」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 叫んだのは稲城だった。

「その言い方だと、花園君がキロネックス事件の犯人だと言っているように聞こえるのですが……」

「聞こえるも何も、実際にそう言っているつもりなんですがね」

 稲城の指摘を、榊原はあっさり肯定した。

「何よ! 今度は五年前の事件まで私のせいにするつもり? いい加減にしてくれないかしら!」

 真凛は嘲るように反論するが、その声が少し震えている事に英美里は気付いた。強がってはいるが、真凛自身もかなり限界が近づいているようである。それに気付いているのかいないのか、榊原は表情を変えずに話を進めていく。

「あなたは五年前にここで起こった事件に一切かかわっていないと?」

「当然でしょ!」

「では、以前にこの水族館を訪れた事もない?」

「当たり前よ! そもそも、何で私がその宮森とかいう博士を殺さなくちゃいけないのよ! 動機なんかあるわけがないのに、適当な事を言わないでほしいわね!」

 確かにそれはそうだった。しかしそんな真凛の指摘を、榊原は余裕を持って受け止める。

「確かに、残念ながらキロネックス事件の動機の詳細については現時点では詳しい事はわかっていません。ただ、恐らくですがその動機は十六年前の奥尻島にあると考えます」

 その島の名前が出た瞬間、真凛の表情が明らかに変わるのを英美里は目撃した。

「何を言ってるのよ? 何でいきなりそんな島が出てくるのよ?」」

「十六年前の一九九三年七月十二日、北海道の奥尻島はいわゆる『奥尻島地震』で発生した津波の直撃を受け、そこで多くの犠牲者を出しています。宮森海次郎もこの津波に巻き込まれた一人で、妻子をこの時に失っているそうです」

「……それが何なのよ」

「彼は被災した時に島内の『駒海屋』という旅館におり、地震で旅館が崩壊した所へ、わずか五分程度で津波が突っ込んできたという流れになります。公式記録によれば、震災当時にこの旅館にいた人間で生き残ったのは宮森海次郎ただ一人。しかし、少々気になりましてね。北海道警に頼んで、当日にこの旅館にいた人間をリストアップしてもらったのです。そしてその結果、リストの中に少し怪しい人物がいる事がわかりました。同日に同じ宿に宿泊していた、高本順治と黒江香保子というカップルです」

 その名前が出た瞬間、真凛はかすかにではあったが眉をピクリと動かした。

「先程私は震災時の『駒海屋』にいた人間で生き残ったのは宮森海次郎ただ一人であると言いましたが、厳密に言えば高本順治も、最終的に死亡はしたものの、震災から二週間生存しています。そしてその二週間の間に、彼の恋人で震災時に死亡した黒江香保子の親族を名乗る人物が、彼への面会に訪れた事もわかっているのです」

「……」

「そうなると、気になるのがこの黒江香保子の親族とやらの正体です。先程、その調査結果がやっと北海道警から届きましてね。黒江香保子にはいとこが数名いたそうなのですが、その中の一人に『花園真凛』という人物がいる事が判明したらしいのです」

「えっ!」

 美柑が思わず声を上げ、他の面々も驚いた表情を真凛に向ける。その視線に耐え切れなかったのか、真凛は顔を背けるような仕草をした。

「どうやら図星のようですね。あなたは奥尻島地震の際に『駒海屋』で死亡した黒江香保子の従妹だった。恐らく、震災の後で高本順治に面会をした『黒江香保子の親族』というのもあなたの事だったのでしょう。そしてあなたは、その面会の席で高本順治から黒江香保子の死に関する『何か』を聞いた」

「……」

「高本順治は、震災時に黒江香保子と一緒に旅館に泊まっていました。つまり、彼女の最後の状況について知る唯一の生き証人です。正直、この時高本があなたに何を語ったのかについてはさすがにわかりかねます。本人はすでに死亡してしまっている上に、それを聞いた人間はこの世であなただけしか存在しないからです。しかし、その後のあなたの行動を考えるに、どうもその証言内容は『普通ではない』ものだった……もっと言えば、同じ日に同じ宿に泊まっていた宮森海次郎に対する何らかの恨みを抱かせるものだったと考えざるを得ません」

 真凛は何も答えない。ただ口を真一文字に閉じて、必死に何かを耐えるようにしている。その態度こそが、榊原の推理が正しい事を暗に示しているように英美里には思えた。

「つまり花園さん。この時の高本の証言内容にもよりますが、あなたには宮森海次郎を恨むだけの事情が存在していたという事になります。その恨みはすなわち、宮森海次郎を殺害する動機へと容易に変換できるものであるはずです」

「……」

「そして、五年前の宮森海次郎の死が実は殺人であり、その犯人が花園真凛だったという事実が今回の事件の全ての始まりだったと仮定すると、その後の流れに全て説明がつくのです。警察が事故と認定したこの一件ですが、その結論に納得していなかった人間が一人存在しました。それが、当時この水族館の飼育員の一人だった成海洋子という女性です。彼女は宮森海次郎の兄の娘……つまり姪に当たり、同時に宮森海次郎の義理の娘という関係でした」

 その名前が出た瞬間、他の面々は初めて出てきた名前に少なからず困惑した様子を見せていたが、真凛だけは先程の高本順治らの名前が出た時以上に眉を大きく動かしたように見えた。

「この水族館の廃館後、成海洋子はルポライターに転身し、仕事の傍らにキロネックス事件についても独自に調べ続けていました。そしてその中で、宮森海次郎を殺害したのがあなた方早応大学探検サークルのOBメンバーの中にいるのではないかという疑いを持ったようなのです」

「何でそうなるのよ! ひどい言い掛かりだわ!」

 真凛が必死にそう叫ぶが、榊原はひるまない。

「実は今回の一件を受けて調べた所、彼女がある物を東京の自宅に隠し持っていた事がわかりました。『STS』と書かれたバッジ、といえば皆さんお判りでしょうかね」

「えっ?」

 思わずそんな声を上げたのは美柑だった。他の面々も心当たりがあるような顔をしており、代表して赤橋が答えた。

「もしかしてそれは、俺たちが大学を卒業した時にもらったバッジですか?」

「えぇ。綿野さんに聞きましたが、サークルメンバーは卒業する際、記念品として卒業年度が書かれたこのバッジを一人二個ずつもらうそうですね」

「それは……確かにその通りですが……」

「隠されていたバッジに書かれていた数字は『2001』でした。これはあなた方の卒業年度ですね?」

「そんな……」

 赤橋が絶句する。そんな赤橋を尻目に、榊原は話を先に進めていく。

「そしてこの発見されたバッジですが、警視庁が検査をした結果、いくつかの手がかりが確認されました。一つは、このバッジに指紋が残されていなかった事。もう一つは、バッジの溝から塩、砂粒、何らかの植物繊維といった微細物が検出された事です」

「……と言われても、それだけでは何とも言えないんですが……」

 赤橋が困ったようにコメントするが、榊原は冷静だった。

「いえ、この情報から、このバッジの状況についてある程度の推測が可能と考えます」

「どういう事ですか?」

「ポイントはこのバッジに指紋が一切付着していなかったという事です。凹凸のあるバッジの指紋がすべて消えるとなると、その条件はかなり限定されます。例えばそう……そのバッジが『水中にあった』という場合です。指紋というのは要するに油脂成分ですから、水につければ当然消失します」

「あ……」

「その上で『塩』『砂粒』『植物繊維』という付着物について考えを広げると、このバッジがあったと思しき場所が推測できるのです」

 そして、榊原はその答えを告げる。

「恐らくは『海水の中』。『砂粒』はそのまま海中の砂で、『植物繊維』は水中の海藻の破片と考えれば説明がつきます」

「探偵さんは、このバッジが海の中にあったというつもりなんですか? でも、なぜ? いや、それ以前にその成海洋子という飼育員は、どこでそのバッジを手に入れたというのですか?」

「……普通に考えて、どこかその辺の海で偶然拾った、とか?」

 美柑が小声でそんな推理を言うが、榊原の見解は違った。

「いえ、彼女の立場に立ってみれば、その辺の海よりももっと身近な場所でこの条件に合致する場所があったはずです。そして、『その場所』で彼女がこのバッジを入手したと考えると、このバッジの持つ意味が大きく変わる事になってしまうのです」

「その『場所』というのは……」

 呻くように尋ねる赤橋に対し、榊原は容赦なくその真相を告げる。

「言うまでもなく、五年前に彼女が働いていたこの水族館……その水槽の中です」

 まさかの回答に、誰もがもう何も言えない様子だった。特に真凛は拳を握りしめながら、何かに耐えるように榊原の言葉を聞き続けている。

「当時の同僚の飼育員に話を聞いたところ、キロネックス事件で宮森海次郎が亡くなった後、水族館閉館に向けての作業が行われたそうです。具体的には水槽内の生物を他の水族館や研究施設に引き取ってもらい、さらに水槽の水を抜いて清掃する作業ですが、肝心の大水槽の水を抜く前に台風による島の港湾施設の損壊や土地の権利問題などがあって撤収作業途中で建物を放棄せざるを得なくなり、その結果こんな澱んだ水がたまったままの水族館の廃墟などというものが出現する事になったわけです。まぁ、それはさておき、その元同僚によれば成海洋子は普段から北側の小水槽をメインに担当している事が多く、この閉館へ向けた作業の際もそれは変わらなかったそうです。北側の小水槽……それはすなわち宮森海次郎が亡くなったキロネックスの水槽が含まれるエリアです」

「じゃあ、まさか、キロネックスの水槽の中からそのバッジが?」

 迫水が息を飲みながら言うが、それは後ろに控えていた定野が否定した。

「いえ、いくら事故判定されたとはいえ、被害者が亡くなった場所は当時の鑑識が必ず鑑識作業をしたはずです。バッジが落ちていたとして、それが見逃されるとは思えません」

「えぇ、それについては同感です。しかし、逆に言えば事故判定された中で鑑識作業が行われたのは『宮森海次郎が亡くなったキロネックスの水槽』だけです。となれば他の水槽……例えばキロネックスの水槽の両隣の水槽のいずれかからこのバッジが見つかったとしても矛盾は生じません」

 もはやどこにどう論理が展開していくかわからない中、榊原は淡々と自身の推理を積み重ねていく。

「彼女がこのバッジを見つけたのは閉館へ向けた作業で北側の小水槽を清掃している時だったのでしょう。話を聞いた元同僚の話では、事件前の時点で彼女は二日に一度のペースで各水槽の清掃作業を行っていたそうです。という事は、事件後に水槽の中から見覚えのないバッジが見つかったとすれば、そのバッジが水槽の中に落ちたのは事件当夜から事件発生以前二日間の極めて短い期間に限定される事となる。となれば、状況的に考えて、このバッジが事件当夜に水槽内に落ちたと彼女が考えてもおかしくないでしょう。そして、事件当夜にこのバッジが水槽に落ちたとなれば、事件当夜の事件現場にバッジを水槽に落とした謎の第三者がいた事の動かぬ証明になる。恐らくですが、彼女が宮森海次郎の死に殺人の疑いを抱いたのは、この瞬間だったのではないかと思います。そしてその後、すでに述べたように彼女はルポライターに転身し、キロネックス事件について調べ始めた。その根幹には、事件直後に現場で見つけたこのバッジの存在があった。だからこそ彼女はこのバッジを大切に保管し、バッジの持ち主を探し続けていたのでしょう。そしてそれからしばらくすると、彼女はこのバッジが早応大学探検サークルOBだけが所持するものだという事実に行きつく事になり、バッジに書かれていた『2001』年度の卒業生の一人に接触する事にしたのです」

 榊原は一呼吸入れると、一際声を張り上げてその名を告げる。

「その人物というのが、今回のあなたたちを別荘に招待した張本人である金島頼経さんその人でした」

「えっ?」

 思わぬ話を聞かされて、美柑が思わずそんな声を上げる。赤橋たち残り四人はその話を信じていいのか判断しかねているらしく、代表して稲城が慎重な面持ちで榊原に尋ねた。

「その話は本当ですか?」

「少なくとも、金島頼経と成海洋子の間に繋がりがあったのは確定です。三年前、成海洋子は三塚商事の粉飾決算事件を特ダネですっぱ抜いていますが、この特ダネは三塚商事内の内部告発者が成海洋子に情報をリークする事で成立しています。そして、その内部告発者こそが現在のIT会社を立ち上げる前の金島頼経だった事が発覚しているのです」

「そうだったんですか……」

「しかし、接触したはいいものの、成海洋子はすぐに金島頼経に対する疑いを解く事になりました。なぜなら金島さんには、キロネックス事件が起こった当時、仕事の出張でイギリスのロンドンにいたという完璧なアリバイが存在したからです。そしてそれ以降、金島さんは逆に成海洋子の調査に協力するようになりました。それどころか、この二人は恋愛関係にあった可能性すら浮上しているのです」

「嘘だろ、あいつに恋人だって?」

 迫水がなかなか失礼なコメントをする。だが、榊原はあくまで冷静に事実を突き付けていく。

「成海洋子の部屋から『KからNへ』と書かれた指輪が見つかっていますし、二人が一緒に写った写真も多数発見されました。また生前の成海洋子が知り合いに近々結婚するかもしれないという旨の話をしていた事も確認されています。二人の恋人関係はほぼ確定であると判断して差し支えないでしょう」

「そうだったのか……」

 迫水が呻き声を上げる。

「さらに繋がりはこの二人だけではありませんでした。調べた所、金島頼経が設立した会社がテニス選手である戸塚克人のスポンサー企業の一つであり、その戸塚克人は大会などで渡米した際に、頻繁にリタ・クラークと接触していた事が判明しています。そして、これが一番の問題なのですが、リタ・クラークはあなた方に対して自身の身分を偽っていた事がわかっているのです」

 再び赤橋たちの顔に戸惑いが浮かぶ。

「身分を偽っていた、ですか?」

「えぇ。綿野さんの話では彼女は自分の仕事を証券会社の社員と言っていたようですが、実際の彼女の仕事はサンフランシスコ市警殺人課の刑事だったのです」

 その言葉に、赤橋たちは先程以上の衝撃を受けたようだった。

「リタがサンフランシスコ市警の刑事、だって?」

「FBIに直接確認しましたので間違いありません。ただし、彼女は市警の仕事を休職して、半年前から日本に滞在していました。そこには必ず何らかの目的があったはずです。そして、そうなってくるとアメリカで彼女と頻繁に会っていた戸塚克人の言動にも不審な点が発生します。何しろ彼は確実にリタさんが刑事である事を知っていながら、それをあなた方に話そうとしていなかったわけですからね。恐らくですが、彼は日米を頻繁に行き来していた事から、日本にいる金島とアメリカにいるリタさんを結ぶメッセンジャーのような役割を担っていたのではないかと思われます」

 もはや、誰も何も言えない様子だった。仲間だと思っていた彼らに自分たちが知らない裏の面があった事が、かなりショックだったのである。

「この二人に共通する点……それは両者ともキロネックス事件当時に金島さん同様に海外にいたという確固たるアリバイがあり、すなわちキロネックス事件の犯人である可能性がかなり低いという事です。ならば、金島さんが彼らを仲間に引き込んでいた可能性が出てくる。特にリタさんは本職の刑事ですから、殺人事件を解決する協力者にするにはもってこいだったでしょうし、そんなリタさんと自然な形で繋がりを持てる戸塚さんも、仲間に引き入れて損はなかったはずです」

 そこで一度榊原は一呼吸を置き、話を続けていく。

「以上をまとめると、現時点において、成海洋子を中心に金島頼経、戸塚克人、リタ・クラークの三名がキロネックス事件の事を殺人の疑いを持って調べていた可能性が高く、バッジの件からキロネックス事件の犯人がかつての仲間であるあなた方の中の誰かであると判断していた事になります。そして当然、この動きはキロネックス事件の『犯人』からしてみれば自身の身の破滅を招く危険極まりないものだったはずです。だとすれば、その『犯人』には彼らを殺害する明確な動機が存在するという事にならないでしょうか?」

 真凛は答えない。どこか血走った目で榊原の事を睨んでいる。

「そして今年になって、金島さんはこの件に対して思い切った仕掛けを打ちました。すなわち、容疑者であるかつての仲間たち全員を志摩にある自身の別荘へ招待するというものです」

「え、じゃあ、今回の集まりは……」

「えぇ。単なる懇親目的ではなく、少なくとも金島たちからすれば明確な裏の目的があったと考えます。かつての仲間たちの中に過去の事件の犯人がいないかどうかを見極めるという、残酷極まりない目的が」

「そんな……」

 美柑が悲しそうな顔で手で口を覆う。

「金島たちとしてもなかなか手掛かりが集まらない中で打った起死回生の手段だったのでしょう。そして実際に二十七日になって皆が別荘に集まると、金島さんは偶然を装ってあなたたちをクルージングに誘った。恐らく、当初の計画では何らかの理由をつけて船をこの島に向かわせ、そこで金島さんと戸塚さんとリタさんが容疑者たちの反応を見る一方、留守中の別荘にどこかに潜伏していた成海洋子が侵入して容疑者たちの荷物などを調べる手はずになっていたのだと思われます」

 榊原を睨み続ける真凛の視線にひるむ様子も見せず、榊原は自身の推理を紡ぎ出していく。

「ただし、この時はさすがに島への上陸までは想定していなかったはずです。台風が接近している事はニュースになっていましたし、その状況で島に閉じ込められるリスクはさすがに金島さんも避けたかったはずですからね。この段階では島に近づいて建物の外観を見せる程度で済まし、台風が運よく早く過ぎてくれれば、後日、綿野さんが合流した後で改めて島への上陸を提案するというのが当初の計画だったと思います」

 と、ここで榊原は声のトーンを少し下げた。

「ですが、ここで金島さんを予想外のアクシデントが襲った。金島さんのクルーザーがあろう事か海上でクジラと接触してしまい、別荘に戻る事も目的地である尾鷲港まで航行する事も不可能になってしまったのです。この件については本当に金島さんたちにとって想定外のハプニングだったと考えます。結果、クルーザーは最寄りの島で唯一上陸が可能なこの魚島に上陸せざるを得なくなってしまった。しかし、そこで金島さんはこのアクシデントを逆に利用して、誰が目的の人物なのかをここで全て暴いてしまおうと考えた。そのために船の修理と称して一人で船に残ったのを幸いにわざと身を隠し、あなたたちがこの廃墟で立て籠もらざるを得ない状況へと持っていったのです。目的は当初と同じく、混乱状況の中でリタさんと戸塚さんに水族館内におけるあなたたちの行動を密かに観察させて、『犯人』がボロを出すのを待つというものだったのでしょう」

 榊原はこの事件の本質へと斬り込んでいく。

「一方、あなたも招待を受けた時点で、この状況が金島さんによって仕組まれた可能性は考えていたはずです。あなたは少なくとも今回の招待までに、金島さんと成海順子が手を組んでキロネックス事件を調べている事は知っていたと思われます。具体的にどうやって知ったのかまではさすがに現段階では分かりませんが、いずれにせよ、あなたからしてみればこれ以上自分の危険な火種となる存在を野放しにしておくわけにはいかなかった。だからこそ、あなたは金島さんが打った起死回生の一手を逆に利用し、三重を舞台に彼らを一網打尽にして殺害する事にした。これが今回の事件の大まかな構図だったのです」

 そこで榊原は一呼吸置くと、直後、決然とした表情で『切り札』の一枚を叩きつけにかかった。

「そして、七月二十七日当日。あなたは実際に、標的の一人である成海洋子殺害を実行に移した。他でもない、志摩市にある金島頼経の別荘の中で!」

「なっ!」

 突然そんな事を言われて絶句する赤橋たちに対し、定野がすかさず情報を公開する。

「報告が遅れましたが、七月二十七日の夜、綿野先生から『別荘に誰もいる気配がないので確認してほしい』という要請を受けて別荘を訪れた我々は、別荘二階で死亡している成海洋子の遺体を発見しました。死亡時の状況から我々は彼女の死を殺人と断定しており、昨日の時点で捜査本部を設置しています。今回、あなた方の捜索が迅速に行われたのは、そもそもこの件が殺人事件の捜査に関連すると認識されていたからなのです」

「そんな……そんな……」

 迫水がうわ言のようにそんな言葉を繰り返す。他の面々の反応も似たり寄ったりで、まさかあの別荘で殺人が起こっていたなどとは思いもよらないといった風であった。

「成海洋子の遺体は、別荘の二階の一室で全身血まみれになって発見されました。部屋中に血が飛び散っていて、それはもう……ひどい死に様でしたよ」

 榊原が重々しい口調で現場の状況を語り、赤橋たちはその光景を想像してそれぞれが悲痛な顔をする。だが、そこへすかさず真凛からの反論が飛んだ。

「待ってよ! この上、まだ私に殺人の罪を着せるつもりなの!?」

「しかし、現実問題として金島さんの別荘内から成海洋子の他殺体が発見されたのは疑いようもない事実です。現状、この水族館で起こった事件の犯人としてあなたを告発している以上、それと繋がりがある別荘で起こった事件の犯人も同一であると考えるのは極めて自然だと思いますがね」

「いい加減にして! 大体、少なくとも私たちが別荘を出た時にそんな死体は別荘のどこにもなかった! って事は、その殺人は私たちがクルージングに出かけた後で起こったって事になるはず! だったら、私たちにはアリバイがあるわ!」

「ほう、なかなかおもしろい反論ですね」

 榊原は感心した風に呟くが、その態度が気に障ったのか、真凛はさらにヒートアップしながら反論を続けていく。

「そもそもあなたの話が正しいなら、その成海洋子って女は私たちの誰かが五年前の事件の犯人だって疑っていたって事になる。そんな人間が彼女に近づいたって警戒されるだけだし、まして何かを口にするなんてあり得ないじゃない! 要するに、根本的にあなたの論理は矛盾しているのよ!」

「……」

「それに、あなたの話じゃ、私が動機を持っていたのは今の話に出てきた四人だけで、純子を殺す動機はないって事になるわよね。標的が違うって事は、逆に私が犯人でない証拠になるんじゃないかしら!」

 確かにその通りである。だが、それに対する榊原の答えは簡単だった。

「では、山中純子に対する動機は、ここに着いてから突発的に発生したと考えればいい」

「どういう事よ!」

「どうもこうも、そのままの意味ですよ」

 そう言うと、榊原はチラリと未だ排水が続く後ろの大水槽を見やった。あれからかなりの時間が経ち、いよいよ大水槽北側は、水槽の底が見えようかという頃合いだった。

「そろそろですね。あなたが山中順子を殺害した決定的な動機……それはこれです」

 そう言った瞬間、大水槽北側の全ての水が排出され、その全容が白日の下にさらされた。そしてその直後、怖々と水槽の中を覗き込んだ美柑や英美里の口から鋭い悲鳴が上がった。

「き、キャァァァァァッ!」

「なっ……」

「こ、これは……」

「何という事だ……」

 赤橋と稲城と迫水も言葉を失い、武美は無言ながらどこか無念そうな表情を浮かべている。そんな皆の視線が集まる大水槽の底……


 そこには、すっかり形を崩してブヨブヨに膨らんだ男性と思しき水死体が、無造作に転がっていたのだった……


 大水槽北側の底は、いくつもの薄汚れた瓦礫が散乱し、かなり無残な状況だった。そんな瓦礫の一角に、その水死体は全身をロープで巻かれた状態で遺棄されていた。巻かれているロープには重しと思しきブロックが括り付けられており、恐らく遺体が浮かび上がらないようにという処置なのだろう。その状況を見れば、これが自然死でない事は一目瞭然であった。

「また、死体……」

 ショックのあまり、美柑はそれだけ言うのが精一杯のようだった。一方、武美は厳しい表情を浮かべながらも、気力を振り絞って榊原に問いかけた。

「探偵さん。これは、誰の死体なんですか?」

「あなたもおおよその予想はついているのでは?」

 そう返されて、武美はますます苦い顔を浮かべる。それはつまり榊原の言う通り、武美にも心当たりがあるという事の証明でもあった。そしてその答えは、顔を青くしながらも悲鳴を上げなかった瑞穂が、声を震わせながら告げた。

「金島頼経さん、ですか」

「恐らくね。詳しくはちゃんと調べる必要があるが、他に該当者がいない以上、まず間違いないだろう」

 そう言う榊原に、稲城が声を引きつらせながら尋ねた。

「どうしてここにいると?」

「単純な消去法です。あの台風の中、二日間もこの建物の外で過ごす事はまず不可能です。しかし、同時にあなた方がこの建物のほとんどを調べたにもかかわらず、それらしい人物は発見できていない。ならば、この建物の中にもかかわらず誰も調べていない場所にいると考えたまでです」

「そんな……」

「もちろん、この大水槽が当初の認識通り『一つの大水槽』だったらあなた方も気付いたでしょうが、何度も言うようにこの水槽は『二つの水槽の集合体』です。ならば、山中純子殺しと同じく、南通路と面していない大水槽北側に遺体を遺棄すれば気付かれないと考えました。遺体が南側へ流れる事もありませんし、流れる可能性がある北通路側は封鎖されているわけですから、これ以上の遺体の隠し場所はありません」

 そこで榊原は真凛に向き直った。

「改めて同じ事を聞きます。あなたが山中純子を殺害した動機はこれですね?」

「……」

「あの日、あなたは山中純子を殺害する前に、同じくこの二階で金島頼経を殺害していた。そしてこれは想像ですが、その瞬間を山中純子に目撃されてしまったのではないですか? あなたからしてみれば、キロネックス事件に関係がなくとも、そんな目撃者を生かしておくわけにはいかない。だから、あなたはその場で山中純子を殴り、気絶させた」

「……」

「しかし、金島頼経だけならともかく山中純子とも失踪という形にするのは問題がありました。こういう状況下で被害者全員を失踪状態にしてしまうと、仮に事態が殺人と判断されてしまった時に『誰にでも犯行可能』となって、残るメンバーが結束してしまったり、最悪、何かの間違いで自分が犯人扱いされてしまったりする危険性があるからです。それならば、あえて一人の遺体をさらす代わりにアリバイ工作を仕掛け、自身が犯人である可能性を排除した方がいいという判断だったのでしょう。その結果、この大水槽のカラクリを使った先程のアリバイ工作が実行に移される事となった」

 真凛は答えない。唇を噛み締めたまま、何かに耐えるように榊原を直視している。だが、榊原の追及は緩む事はなかった。

「以上が、一日目の山中純子殺害トリックの解説です。そして二日目の夜、トリックが成功した事を確信した君は、さらに恐るべき凶行を実行に移す事にした。すなわち、リタ・クラーク、戸塚克人、そして白松哲彦の三名を一度に殺害するという恐るべき計画を」

「っ!」

 誰もが息を飲み、反射的に真凛を見やる。真凛は体を硬直させたままであったが、榊原は気にする事なく自身の推理を推し進めて行った。

「当然ですが、彼女の目的が『キロネックス事件の真相に近づいた人間の排除』である以上、金島たちの協力者である可能性の高いリタさんと戸塚さんを生きて帰すわけにはいきません。その事実が判明した時点で、彼らも殺害対象となった事は自明です」

 だが、真凛は振り絞るような声でこう反論した。

「ちょっと待ってよ。さっきの話だと、金島君の協力者ってリタと戸塚君だけなのよね。何で白松君まで殺さないといけないわけ? あなたの話だと、犯罪者は無駄な事はしないんじゃなかったの?」

 だが、それに対する榊原の答えは単純だった。

「それは簡単ですよ。確かに事実として『白松哲彦は協力者ではなかった』わけですが、実はこの時点で、犯人はある理由から『白松哲彦が協力者である』と勝手に思い込んでしまっていたのです。だから事実がどうであれ、本人がそう思い込んでしまっている以上、犯人は白松さんの排除に動かなくてはならなかったという事になります」

「意味がわからないわ!」

 真凛の叫ぶような反駁に、榊原は淡々と説明を加えていく。

「これは恐らくですが、この島に上陸した時点で、犯人は金島たちに他にも協力者がいるとは思っていなかったのだと考えます。思っていたら都合四人を殺害しなければならないわけですから、もっと綿密かつ本格的な殺害計画を練っていたはずだからです。犯人がリタさんと戸塚さんが金島さんの仲間であると認識したのは、恐らく一日目の夜……金島さんがここで殺害される直前の事だったと思われます」

「どうしてよ!」

「何度も言うように、金島さんが二十七日にこの島に上陸する事になったのは、クジラにぶつかった事による想定外の事態です。とっさの判断でこの状況に持ち込み、リタさんと戸塚さんの方もアドリブでそれに合わせはしたものの、裏を返せばそれは協力者である二人に一切相談せずに行った金島さんの独断です。携帯電話も圏外であるこの状況下では、必ずどこかで一度会って、今後の方針を再確認する必要があったはず。しかしあなた方の話を聞く限り、上陸してから一日目の夜を迎えるまでそんな隙は一切なかったように思えます」

「……確かに、夜になって各々がいかだに引っ込むまで、誰かが一人で行動する隙はなかったな」

 迫水がそう呟く。榊原は頷いて言葉を続けた。

「だからこそ、二人は夜になって行動が自由になった時点で、金島さんと接触を図った。恐らく、この水族館の二階で」

「……つまり、探偵さんの考えだと、船から消えた後の金島君は水族館の二階に隠れていたという事ですか?」

 武美の問いかけに榊原は頷いた。

「他に隠れる場所はありませんからね。何度も言うように台風が来ている中で外にとどまるのは不可能ですし、一階は階段室以外の場所をあなたたちが全て確認していました。隠れられるのは二階だけです」

「という事は、船から消えた後、金島君は私たちよりも先にこの水族館の中に入り込んだと?」

「そうなります。恐らく、その時点では階段室の鍵は開いたままだったのだと思います。脇道でも使ってあなたたちよりも先にここに到着した金島さんはそのまま階段室へ向かい、階段室の扉に内側から鍵をかけて誰も入れなくした上で、二階に潜伏したのでしょう」

「そうだったんですか……」

「なお、これは蛇足ですが、金島さんはこの時に館長室からこの水族館のマスターキーを入手していたのだと思われます。館長室を調べた所、空のキーボックスが一つ残されていましたが、冷静に考えてみれば閉館の際に中の鍵だけ処分してキーボックスを処分せずに放置したままにしておくというのはいささか不自然な話です。普通はそんな面倒な事をせず、管理のためにもキーボックスごと持っていくものでしょう。となれば、このキーボックスは何らかの鍵が入った状態のまま放置されていた可能性が高く、その鍵は館長室にあったという事から、マスターキーかそれに類する役割のものだったと考えるのが自然です。そして、後に金島さんが殺害された時にこの鍵が犯人の手に渡り、北通路や北バックヤード扉の開閉をする際に使用されたと考えれば、『犯人がどうやって館内の扉の開閉をしていたのか?』という問題にも明確な説明がつきます」

 と、ここで榊原は一際厳しい声を出した。

「話を戻しますが、一日目の夜になると、金島さんは階段室の鍵を開けて協力者の二人を二階に招き入れ、ようやく協力者同士で話し合いの機会を持つ事に成功しました。しかし、その光景を密かに見ていた人間がいた。それがこの事件の犯人……つまり花園真凛だったのです。恐らく、リタさんたちが夜に怪しい動きをしている事に気付き、後をつけたと言ったところでしょうか。そしてこの時、あなたはリタさんと戸塚さんが金島さんの協力者である事を知り、この二人も殺す決心をしたと考えられます。彼女からしてみれば、自分の過去の汚点を探ろうとする人間は、全て危険人物ですからね。排除できるときに排除してしまった方がいいと考えても不思議ではありません」

 さて、と榊原はここで話を展開させる。

「唐突ですが、ここでこの時の犯人の気持ちを考えてみましょう。キロネックス事件について調べ、自分を今回の罠にはめようとしていたのが金島と成海洋子だけだと思っていた犯人の前に、突然新たな協力者の存在が出現した。すると当然、犯人としてはこう思うはずです。すなわち、『彼ら以外にもさらなる協力者がいるのではないか』と」

 その理論展開に、その場の誰もがハッとした表情を浮かべる。が、榊原は止まらない。

「そして、改めて金島たちの共通点を考えてみると、彼らには皆、キロネックス事件の際のアリバイがあるという事に思い至った。金島さんについては事前に調べていたでしょうし、リタさんはアメリカ人、戸塚さんは大会で頻繁に海外に出ていますから、その共通点には容易にたどり着けるはず。それが彼らの共通点だと犯人が考えたとしても無理はないでしょう。そして、その上で残るメンバーの中で確実にキロネックス事件の際のアリバイがある人間がいないかどうかを考えた犯人の頭に、一人の人間が浮かび上がったのです」

「ま、まさかそれが……」

 震える声の稲城に、榊原は頷いた。

「そう、それが白松哲彦さんだったのです。迫水さん、先程の話だと、あなたは最初にこの水族館の前に到達したときに、他のメンバーにキロネックス事件についての情報を話したそうですね」

「あ、あぁ。確かに」

「そしてその時、白松さんはある発言をしてしまった。その発言こそが、犯人が白松哲彦に殺意を抱く直接的な原因になってしまったのです」

「……あ、アァァァァァァッ!」

 何か思い当たったのか、迫水は目を見開いてそんな声を上げた。そう、あの時、キロネックス事件の詳細について話した迫水に、白松は何気なくこんな事を言っていたのだ。


『確かその頃の私はちょうど学会でシドニーにいたはずだ』


「白松哲彦は、知らない間に自身がキロネックス事件の際のアリバイを持っていると言ってしまっていたのです。そしてその発言により、『キロネックス事件のアリバイがある人間=金島の協力者』と考えていた犯人は白松さんも『金島の協力者』であると思い込んでしまい、彼が二日目夜の大量殺人の標的に含まれるきっかけになってしまったのです」

「何てこった……」

 迫水は呆然とそう呟くしかない。

「犯人は水族館が解放されるよりも前に一刻も早くこの三人を殺す必要に迫られました。台風が通り過ぎればいつ救助が来てもおかしくない以上、犯行の機会はそう多くありません。可能ならば、一度の犯行で三人をほぼ同時に殺害してしまいたい。しかし、小柄な女性である花園真凛が真正面からこの三人を一気に殺害するのはかなり難しい。だからこそあなたは三人を殺害するに当たって、いくつかの工夫を強いられる事になったのです」

 そして榊原は、いよいよ二日目の犯行の手口について語り始めた。

「今から話す推理は、あなた方から聞いた二日目の事件の概要に基づくものです。何しろ、肝心の現場は今も毒ガスのせいで調べる事ができていませんのでね。なので、あくまで限られた情報から組み立てた推理である事を理解して頂ければ幸いです。さて、そんなあなた方の話によれば、見張りをしていたリタさんと戸塚さんがいなくなったため館内を捜索していた所、北バックヤードのかつてキロネックスが入っていた水槽の底で首を折った戸塚克人の遺体が見つかり、その遺体を水槽内に入って検視した白松哲彦が水槽のガラス越しに北通路に倒れるリタ・クラークと思しき遺体を目撃。白松哲彦がガラスを割って北通路への侵入を試みた所、通路内に蔓延していた毒ガスが水槽内に進入してしまい、それを吸った白松哲彦まで死亡してしまったという事ですね」

「えぇ、その通りです」

 稲城が榊原の説明に同意の意を示す。

「結構。さて、この状況で犯行がどのように行われたかを、可能な限り論理的に推測して見ましょう。まず、第一の事件が終わった後、残されたリタさんと戸塚さんは内心でかなり焦っていたはずです。一連の流れはどう考えても想定外の事態である上に、犯人のトリックで全員にアリバイが成立してしまっていたため、金島さんが山中純子を殺害した可能性さえあったわけですからね。実際の所は金島さん自身もすでに殺されて水槽の底に沈んでいたわけですが、当然そんな事を知らない二人は、一刻も早く二階に隠れているはずの金島さんに接触して状況を確認しようとしたはずです。そして、あなたはその二人の行動を利用して、この二人を一度に殺害する事にした」

「……」

「二日目の夜、二人で見張りになる事に成功したリタさんと戸塚さんは、金島さんと接触するために二階へ向かった。東側のエリアに隠れられる場所はほぼありませんので、隠れているとするなら西側のエリア。だから当然、彼らはキャットウォークを渡って西側のエリアへ向かったはずです。ですが、逆に言えばこの時、二階の東側エリアには誰もいない事になる。あなたはこれを利用し、犯行の仕込みを行ったのです」

「仕込みって、何よ」

 真凛が苦しそうな表情ながら、語気を強めて吐き捨てるように言う。

「単純な話です。北バックヤードの東側の扉の鍵を開け、北側にある六つの水槽のうちできるだけ西側にある水槽のガラスを割っておいたんです。まぁ、音の問題があるので、このガラスを割る作業自体は一日目の夜の時点ですでに済ませておいたのかもしれませんが」

 その瞬間、一瞬ではあったが真凛が目を見開いたのが英美里にはわかった。が、榊原は気にする事なく話を続けていく。

「そして、二人が気付くように北バックヤード東側のドアを大きく開けっ放しにした状態にした上で、あなたはどこか近くに身を隠し、二人が戻って来るのを待った。さて、この状況でリタさんと戸塚さんが戻ってきたら、どのような反応をすると思いますか?」

「それは……当然、北バックヤードの中を確認するんじゃないですか?」

 赤橋が答える。何しろ北バックヤード東側の扉は階段室のすぐ隣にあるのだ。これだけあからさまに扉を開けられていたら気付かない方がおかしいし、まして金島が見つかっていないとなれば、中にいるのではないかと考えて必ずチェックするだろう。

「えぇ、私も同感です。そして実際に中を捜索し、水槽のうち一つの窓が割れているのを見つけたら、彼らはどうすると思いますか?」

「どうと言われましても、普通ならその割れた窓から北側通路に出て、いなくなった金島君がそこにいるのか、そしてどうにか外に脱出する方法がないかを確認すると思います。あわよくば、犯人に閉鎖された北通路と東通路を閉ざす扉を開ける事ができるかもしれませんし」

 稲城が律義に答える。

「その通りです。例えばそこに脚立なりがあれば、確実にそれを使って水槽の底に降り、割れた窓から北通路に出ようとするでしょうね」

「えっ、北バックヤードにも脚立があったのか?」

 榊原のその発言に、迫水が驚いたように尋ね返す。榊原はそれにも丁寧に答えた。

「南バックヤードに脚立があった以上、対になる北バックヤードにあってもおかしくないと推測しただけです。まぁ、現場を確認できない以上、今の段階ではあくまで推測に過ぎませんが……ただ、あまり褒められた推理のやり方ではないものの、あなた方が未確認の脚立がなければこの犯行が成立しないので、逆算的な推理であると仮定しているわけですがね」

 そう言って、榊原は真凛を見やる。しかし、真凛は何も答える気はないようだった。

「続けます。北通路に出るため、二人はその水槽の底に降りる事にした。ただ、あの水槽の狭さですから、降りられるのは一人だけだったでしょう。なので、実際に降りたのは刑事でもあるリタさんだけで、戸塚さんは水槽の上の北バックヤードで見張り役として待機する事になったと考えるのが妥当です。この役割分担はその後の事件の展開に大きくかかわってくるので、まず間違いないと思います」

 榊原はここについてははっきり言いきった。

「そして、リタさんが実際に水槽の底に降り、割れた水槽の窓から北通路へと出た。それが、犯人の仕組んだ罠であるとも知らずに」

「罠……」

「時間を少し戻します。リタさんたちが北バックヤードに入った時点で、犯人は一度一階に駆け下り、閉鎖していた北通路と東通路の間の扉を少し開放しました。そして、リタさんが水槽から北通路に進入してくる前に、扉の隙間からあらかじめバケツなりに入れて用意しておいた二種類の洗剤を北通路の中にぶちまけ、すぐに再び扉を閉めたのです。これにより、北通路の東側を起点に毒ガスが発生する事になりました。ただし、毒ガスが発生しているのが通路の東側なのに対し、リタさんが北通路に入るのに使ったガラスの割れた水槽は通路の西側にあるので、この時点では通路に出てすぐに毒ガスで倒れるという事はありません」

 いよいよ、二日目の事件に対する榊原の推理も佳境に入ろうとしていた。

「そして、毒ガスの仕掛けを完成させた犯人は再び二階へ戻り、リタさんが水槽の底に降りて北通路に出た瞬間を見計らっていよいよ凶行に手を染めた。一人で北バックヤードに残り、恐らくは水槽の上から中をのぞき込んでいた戸塚さんに背後から密かに近づくと、スタンガンか何かで戸塚を気絶させたのです」

「スタンガン……」

 美柑が呻くように呟く。もう、何が出てきてもおかしくない状況になりつつあった。

「スタンガンはあくまで一例ですが、犯人は元より金島さんを殺害するつもりで今回の招待に参加しています。相手の行動力を奪う武器を最初から持ち込んでいたとしてもおかしくありません。小柄な彼女でも、相手が一人かつ隙を突いたとすれば、相手の行動力を奪うくらいならできたはずです。一方その頃、北通路に進入していたリタさんはようやく通路内に毒ガスが蔓延しつつある事に気付き、罠を悟って元の水槽に戻ろうとしました。ですが、犯人は彼女が水槽に戻る前に同じ二種類の洗剤を水槽の中に放り込み、さらに水槽の上部を木の板でふさいで、水槽からの脱出ができないようにした。こうなると、北通路はリタさん専用のガス室です。リタさんは水槽から離れざるを得なくなりましたが、離れたからといってどうする事もできず、結局それからそれほど時間を置く事なく、通路内で毒ガスにより命を落とす事になってしまったのです。そしてその間に、犯人は気絶した戸塚さんをキロネックスの水槽の中へ頭から突き落とし、首の骨を折ってこちらも殺害したのでしょう」

 そこで一息つき、榊原は改めて真凛の方を見やりながら言葉を紡ぎ出していく。

「それから数時間後、リタさんと戸塚さんの二人がいなくなった事がわかり、二人の捜索が始まります。この時、リタさんの遺体は北バックヤードの水槽内からでしか見えない場所にあるため、先に発見されるのは必ずキロネックスの水槽の底に倒れている戸塚さんの遺体の方です。そして戸塚さんの遺体が発見されると、ほぼ確実に医師の白松さんによる検視が行われる事になる事は充分に予測できる話でした」

 それはつまり、戸塚の遺体さえ発見されれば、誰が何も言わなくとも白松が自分から水槽の底に入ってしまうという事を意味した。そしてそれこそが、犯人である花園真凛の狙いだったのである。

「検視のために水槽の底に降りた白松さんは、そこにある水槽の窓からほぼ確実に北通路内で倒れているリタさんの遺体を発見する事になります。もちろん、その場のメンバーたちは犯人を覗いて北通路に毒ガスが充満している事など知りません。そしてその状況下で『早くリタさんの容体を確認しにいかないと!』とでも言えば、水槽の底にいる白松さんがその流れのまま自ら水槽のガラスを割って北通路に進入しようとする事は容易に予想できます。その瞬間、通路内のガスが水槽内に逆流し、犯人は自らの手を汚す事なく白松さんを殺害する事ができるというわけです」

「つまり……あの時の俺たちは犯人……花園にいいように動かされていたって事なのか」

 迫水が悔しそうに拳を握りしめた。と、ここでさらに武美が何かを思い出したかのように真凛を見やった。

「そう言えば……あの二人を探しに二階に行った時、最初に北バックヤードの扉が開いているのに気付いたのも、その後で白松君がリタを見つけた時に『まだ生きているかもしれないから助けに行かないと』みたいな事を言っていたのは、他ならぬ花園さんだったはずだよね。今の探偵さんの話が本当なら、この発言も全部誘導だったって事になる」

「何という事だ……」

 稲城は呆然としてそう言葉を漏らすしかなく、美柑に至ってはもう泣きそうになりながら真凛から顔を背けていた。

 様々な思いが交錯する中、榊原は真凛を追い詰めにかかる。

「以上が、二日目に起こった三人の殺害事件の全貌として推測できるものです。犯人がこのような複雑な犯行を行った理由としては、正面から挑むとまず難しいリタさんと戸塚さんの殺害を確実に遂行し、さらにその後の白松殺害への布石を打つためです。小柄な女性である彼女では一度に三人を殺害するのが難しかったため、まず積極的に動いて来るであろうリタさんと戸塚さんを分断しつつ絡め手で殺害する事に集中し、それによって生じた事象を次に行う白松殺害に利用できるようにして、結果的に三人の殺害を成功させようとしたわけです。咄嗟に考えたにしてはなかなか上手い知恵の使い方だと思います。もっとも、『悪魔の』という接頭語がつきますが」

 榊原の評価に対し、真凛は何の反応もしなかった。

「なお、最初に言ったようにこの二日目の事件については現場を調べられていないのであなた方の証言を基にした推測による部分が大きくなっているのも事実です。ただ、実際にこのトリックが使われたかどうかは、あの通路のガスを排除して現場を実際に調べれば簡単にわかると考えます。トリックの都合上、警察が現場を調べる事ができない代わりに、犯人自身も事件後に現場に立ち入る事ができなかったはずですからね。よって現場には、確実にこのトリックが使われた痕跡が残っているはずです」

 そこで一度息を吐き、榊原は改めて真凛を正面から見据えた。

「さて、これで今回あなたがこの水族館でしでかした大量殺人のカラクリは全て説明したわけですが、何か言いたい事はありますか? 最初に言ったように、あなたが全てを認めるまでこちらはいくらでも付き合うつもりですがね」

「……黙って聞いていれば、ある事ない事好き勝手言ってくれるわね」

 と、そこで真凛がどす黒い何かがにじみ出るような声色で言った。榊原は無言でその言葉を正面から受け止める姿勢を見せ、それを見て真凛は恥も外聞も捨てて怨念のこもった言葉を榊原に叩きつけた。

「推理とか推測とか、御託はもうたくさんよ! そんなに私を犯人にしたいんだったら、私が犯人だっていう決定的な証拠を見せてよ! それがない限り、私は絶対に認めない! 認めてたまるものですか!」

 もはやヒステリック気味に怒鳴り散らす真凛に対し、榊原は対称的に静かな表情から、闘志を込めた視線を真凛に向けた。

「……いいでしょう。ではそろそろ、決着をつけるとしましょうか」

 そう宣告して、いよいよ榊原は真凛に対してとどめを刺しにかかる。

「今まで私が説明した一連の犯行が実際に行われたとして、そこから生じる証拠はいくつかあります。例えば第一の犯行ですが、犯行形態上、大水槽の水で濡れる事が避けられないので、それを避けるために作業の際に合羽のようなものを着ていた可能性が非常に高い。万が一にでも服が濡れていたり汚れていたりしているのが見つかったら、それだけで怪しまれてしまいますからね」

「合羽と言うと、クルーザーから持ち込んだものがあったな」

 迫水がそんな事を呟くが、榊原は首を振る。

「いえ、さすがにそれを使ったら一度も使っていない合羽が濡れる事になり、確実に怪しまれてしまいます。使ったとすれば、飼育員室に残されていた業務用の合羽の方でしょう。あれなら一枚なくなったくらいで誰も気にする人間はいません」

「あぁ、確かにそんなものがあったか」

 迫水の言葉に、赤橋は飼育員室に放置されたままだった合羽の存在を思い出す。

「じゃあ、その合羽が証拠に?」

「確かに、この合羽には犯人の痕跡……例えば毛髪や汗などが付着しているでしょうが、さすがに合羽自体は二件目の犯行が終わった時点で処分されているでしょう。遺体と同じく、大水槽の中にでも放り込んでおけば、そうした痕跡も消えてしまいますから」

 そう言って榊原は露わになった大水槽北側の底を見やり、英美里の視線もつられてそちらへ向く。すると、確かに瓦礫の間に青っぽい何かがあるのが見えた。恐らくあれがその合羽なのだろう。

「だったらそんなもの、何の証拠にもならないじゃない。聞くだけ無駄だった……」

 真凛が勝ち誇ったように何か言おうとするが、それを遮るようにして榊原は口調を変えずに続けた。

「しかし、合羽そのものが証拠にならなくても、『飼育員室の合羽を使った』事で致命的な証拠がどうしても発生してしまうのです。例えば……犯人の足跡!」

「っ!」

 その瞬間、真凛が鋭く息を飲むのが見てわかった。

「飼育員室の合羽を手に入れるためには、当然ですが飼育員室に足を踏み入れなければなりません。そうなれば当然、飼育員室の床に犯人の足跡が付着する事を避けられないはずです。指紋などの注意はできても、暗闇の中で全ての足跡を隠滅するのは不可能に近い。しかもこの状況では別の靴に履き替える事もできないので、その足跡は確実に今犯人が履いている靴のものであるはずです」

「あ……あ……」

「話を聞いた限り、今この場にいる人間の中で飼育員室のある二階西エリアに足を踏み入れたのは赤橋さん、迫水さん、佐伯さんの三人だけ。従って、このエリアから検出される足跡は本来この三人だけのはずです。にもかかわらず、もし二階西エリアからあなたが今履いている靴の足跡が検出されたとすれば、その時点で、あなたが人知れずこのエリアに足を踏み入れた事が科学的に証明される事になります。そして、あなたがそんな事をする理由は、今回の犯行を実行するためとしか考えられないのです!」

「……」

「そうでないというなら説明してください! あなたがいつ、どういう理由で、他の人間に隠れて飼育員室に足を踏み入れたのかを!」

 真凛は歯を噛み締めて榊原の追及に耐えきろうとする。が、榊原の『攻撃』はこれで終わりではなかった。

「まぁ、これだけでも決定的な証拠としては充分なんですが、もう一つ、あなたはここまでの言葉の応酬の中で、致命的なボロを出しています」

「な、何よ!」

「私は先程、成海洋子の遺体が金島さんの別荘の中から発見され、彼女が殺害された可能性が高いというような事を言いました。そして、その犯人があなたであるとも言った」

「えぇ、不愉快な事に言ったわね。それが何なの?」

「それに対し、あなたはよほど頭にきたのかまくしたてるように反論を積み重ねました。そしてその中で、あなたは『成海洋子に近づいても警戒されるだけだし、まして何かを口にするなどあり得ない』というような事を言ったはずです」

「……えぇ、言ったけど。それが何なの? 私は正当な反論をしただけで……」

「『何かを口にするなどあり得ない』。つまりこの言い方だと、あなたは成海洋子の死因が『毒殺』だと思っているわけですね。では改めてお聞きしますが、なぜあなたは成海洋子の死因を『毒殺』だと思ったのでしょうか?」

「……は?」

 改めてそう指摘され、一瞬ポカンとした表情浮かべた真凛であったが、直後、何かに気付くと同時にその表情が驚愕で大きく歪む事となった。

「えぇ、そうです。確かに、成海洋子の死因は毒物によるものでした。従って、この事件について少なくとも別荘到着後のアリバイが何の意味もなさない事はあなたの言う通りです」

 しかし、と榊原は一転して鋭い口調で真凛に決定的な矛盾を突き付けた。

「どうしてあなたは、私が何も言っていないのも関わらず、成海洋子の死因が『毒殺』である事を知っていたのですか!」

「え……あ……アアァァァァァァッ!」

 何かに気付いたのか、真凛が悲鳴のような絶叫を上げる。

「私は今に至るまで、『成海洋子が金島さんの別荘で殺害された』ことは言っていますが、その死因が『毒殺』である事はあえて一切言及していません。また、警察関係者や事情を知っている綿野さんにも話さないように事前にお願いしています。遺体が発見されたのはあなた方がクルーザーで出港したよりも後の話。そこからずっと外界から隔絶されていたあなたがこの情報を知る機会は絶対に存在しないはずです。それでもなおこの情報を知っていたとすれば……それはもう、あなた自身が成海洋子さんを殺害した犯人であるという可能性しかあり得ないのです!」

「そんな……そんな……嘘よ、嘘!」

 真凛はもうフラフラである。が、ここまで来て榊原は一切容赦をしない。

「さぁ、答えてください! なぜあなたは彼女の死因が毒殺だと知っていたのですか!」

「それは、その……そうよ! あんたの説明を聞いていたら、何となく毒殺なのかなって思っただけで……ただの先入観っていうか……」

「いいえ、あり得ません。あの時、私がした殺害現場の説明は、『成海洋子の遺体が別荘の二階の一室で全身血まみれになって発見され、部屋には血が飛び散っていていた』という説明だったはずです。実際、彼女は室内で激しい量の吐血をしており、この説明自体において私は嘘を一切言っていないわけなのですがね。ただ、普通この説明を聞いた場合にまず思い浮かべるのは『刃物で刺された』というような直接的に大量の出血を伴う殺害方法のはずで、『毒殺』という手法を思いつくというのは異常と言わざるを得ません。にもかかわらず、あなたは私の説明から一番想像しづらいはずの『毒殺』という殺害手法を反射的に思い浮かべた。これは、実際に彼女を毒殺した人間でしかあり得ない思考です!」

 ここへ至って、真凛は榊原がこの推理勝負の中で自分が気付かないうちに罠を仕込んでいた事……そしてその『論理の罠』に物の見事に引っかかってしまった事を悟ったようだった。だが、それでも真凛は抵抗をやめない。

「待って……待ってよ! 証言の矛盾だか何だか知らないけど、私の言ったことに変わりはないじゃない! 疑われていた私が彼女に近づいて毒を飲ませる事なんかできない! つまり、私に彼女を殺すのは無理なのよ!」

 しかし、榊原は待ってましたと言わんばかりに即座に切り返す。

「それは当然でしょう。彼女は別荘で直接毒を摂取したわけではない。彼女が実際に毒を摂取したのは一週間前、東京の自宅での事です」

「は?」

 今度は周りの赤橋たちが予想外の事を言われて思わずそんな声を上げる。そんな中、榊原は一礼して最後の最後まで隠し続けていた情報を明かした。

「改めて、今の今まで情報を隠していた事をお詫びします。別荘で亡くなっていた成海洋子さんですが、その死因はドクツルタケという毒キノコの毒を摂取した事による毒死。その後の捜査で、彼女はその毒を一週間前の七月二十日に都内の自宅内で盛られた可能性が高い事が判明しました」

「い、一週間前?」

 迫水が戸惑ったような声をあげ、改めて榊原がドクツルタケの毒の効果について丁寧に説明する。

「つまり彼女の場合、実際に死亡したのは招待当日の二十七日でしたが、毒を盛られたのはそれよりも一週間前だったという極めて特殊な状況にあったわけです。となれば、成海洋子殺害で我々が重視しなければならないのは、招待当日ではなく彼女が毒を盛られた一週間前のアリバイです。さて、改めてお聞きしますが、一週間前の七月二十日、あなたはどこで何をしていたのですか?」

「そ、それは……」

 真凛は答えられない。ここぞとばかりに榊原は畳みかける。

「何かボロを出すかもしれないと期待してこの情報は今の今までずっと伏せていたわけなのですがね。予想以上に大きなボロを出してくれてホッとしていますよ。わざとあなたが冷静さを失うような言い方をするなどそれなりの工夫はしていましたが、それでも引っかかるかどうかは一種の賭けでした。まぁ、引っかからなければ、それはそれで別の罠を仕込むつもりでしたので、問題はありませんでしたが」

「う……う……」

 完全に榊原の罠にはまった形となった真凛は呻き声を上げる事しかできない。一方、榊原はすました表情で本当の意味で最後のとどめを刺しにかかる。

「さて、ここまで情報を開示できた所で、最後に私がこの推理の最初で呈した疑問について答えておきましょうか。すなわち『犯人が自分に疑いがかかるのを承知で、なぜ絶海の孤島などという容疑者が限定されてしまうシチュエーションで犯行を行ったのか?』というこの事件最大の疑問です。これについて考えるには、クジラと衝突してこの島に上陸するというアクシデントがなかった場合、あなたが何をするつもりだったのかについてより具体的に考える必要があります」

「……」

「一つずつ状況を整理しましょう。この時点であなたの標的は成海洋子と金島頼経の二人だけ。そして無事に別荘に帰港したあなたたちが目にするのは、別荘で死亡している成海洋子の死体だったはずです。場所は台風が吹き荒れる人里離れた海沿いの別荘。再びクルーザーで脱出する事はできず、もしこの状況でこの別荘に至るまでの道が何らかの理由で封鎖されれば、この別荘は陸の孤島と化し、別の意味での閉鎖空間になったはずです」

「ちょっと待て、それって……」

 迫水が何かに気付いたらしく、呻き声を上げる。

「えぇ。花園さん、あなたの当初の計画……それは成海洋子を毒により遠隔で殺害した上で志摩市の別荘を陸の孤島にし、警察が来られない間に金島頼経を何らかの手段で自殺に見せかけて殺害するというものだったのではないでしょうか?」

 その言葉を聞いて、いよいよ真凛の体はガタガタ震え出す。犯人と名指しされてから気丈にもずっと反論し続けてきた真凛であったが、いよいよ限界に近付いているようだった。

「一週間前、あなたは成海洋子にドクツルタケの毒を盛り、一週間後の別荘招待当日に毒の第二波で死亡するよう仕組んだ。金島さんと成海洋子がキロネックス事件の真相を暴くために何を仕込んでくるか具体的な事まではわからなかったにせよ、状況的に成海洋子が別荘周辺のどこかに潜む事は充分予想できたはずです。となれば、すでに毒を盛られていた彼女は別荘かその周辺のどこかで死亡する事となる。その状況下で別荘を外界から隔絶し、金島君を自殺に見せかけて殺害すれば、『金島頼経が恋人である成海洋子を殺害し、自責の念に駆られて自ら命を絶った』というかなり自然な形で事件を幕引きにする事ができるのです」

「そんな……信じられない……」

 絶句する赤橋に、榊原は非常な事実を突きつける。

「実際、警察が別荘周辺を調べた所、別荘に通じる道の一角にある崖にリモコンで爆発する形式の爆発物が仕掛けられているのが発見されました。本来ならこの爆発物は、綿野先生が別荘に到着した後で爆破され、別荘を陸の孤島にするのに使われていたはずだったのでしょう。そうでなければ別荘関係者以外やって来ないこんな場所に爆発物を仕掛ける人間はいません」

「いや、でも、成海洋子って人が毒を飲まされたのは一週間も前なんだろ? それがばれたら金島が成海を殺害したっていう推理は成り立たなくなるんじゃないのか? メンバーの中には医者の白松もいるんだし、ばれる可能性は高かったんじゃ……」

 迫水が鋭い反論をするが、榊原は首を振った。

「いくら医者がいたとしても、警察が介入できないあの状況下で成海洋子の遺体が発見された場合、わかるのは『何らかの毒物で成海洋子が七月二十七日の某時刻に死亡した』という事だけです。その毒物がドクツルタケのものであるとか、毒を飲まされたのが一週間前だったという事は、司法解剖をして科学的な検査をしてみない事には絶対にわかりません。実際、被害者がドクツルタケの毒で死亡した事が判明したのは、遺体発見後に専門機関で司法解剖を受けてからの事で、遺体発見直後の検視では所持していた飲食物に毒が混入されていた可能性の方が疑われていたくらいでした」

 榊原は一際声を張り上げる。

「常識的に考えて、非常事態かつ現場に医者がいても、別荘内で誰かの遺体を勝手に解剖する事などできるはずがありません。つまり警察がやって来ない限り、わかるのは『事件当日に被害者が毒死した』という事だけで、具体的な毒の成分やいつ被害者が毒を飲まされたのかについては判然としないのです。そうなると別荘内のメンバーは『当日に成海洋子を毒殺できるのは誰か?』という間違った前提で犯人当てをする事になります」

「その状況なら、恋人であるというわかりやすいつながりがある金島に罪を着せる事も不可能ではない……という事か。くそっ、上手く考えられているな」

 迫水は吐き捨てるようにそう言った。代わって今度は稲城が疑問をぶつける。

「ですが、別荘だっていつまでも陸の孤島であるはずがありません。いずれ警察が来る事は避けられませんし、そこで成海洋子の遺体を検視されたら同じなのでは?」

「ならば、犯行の時点で成海洋子の遺体がまともに検視できないように何らかの細工をすればいい。例えば、自殺に見せかけて殺害した金島さんの仕業に見せかけて成海洋子の遺体を燃やしてしまうとか。犯人からすれば死亡推定時刻は別にわかってもよく、原因となる毒物の検出さえ阻害できればいいのですからね」

 そこまで言って、榊原は真凛に向き直る。

「金島さんがあなたたちをクルージングに誘った時も、あなたはそこまで慌てていなかったのでしょう。むしろこれで金島たちの計画……つまり留守中の別荘内で成海洋子が自分たちの荷物を調べ、その間に金島は船を魚島に接近させてこちらの反応を見るという計画の概要が予測できたはずです。とはいえ、予定では別荘と尾鷲港を往復するだけと言っていましたし、いくら彼らでも台風が接近している中で危険を冒して島に上陸するとは思えませんから、多少計画に修正が必要だったとはいえ、大筋に問題はなかった。だからこそあなたはあえて金島さんたちの計略に乗り、クルージングに同行するという判断を下したのでしょう。ですが、その全てがクジラとの接触事故で台無しになってしまったのです」

「クルーザーは尾鷲港に辿り着く事もできなくなり、やむなく魚島に上陸する事になった。しかも、金島は逆にこの状況を利用し、俺たちを水族館の館内に誘導して反応を見る作戦に切り替えた」

 赤橋が実際に起こった事を告げる。

「このアクシデントは、彼女の計画を大きく揺るがすものでした。というのも、別荘に帰れなくなってしまったが故に、警察による成海洋子の遺体の発見を止める事ができなくなってしまったからです。何しろ別荘にはこの後綿野さんが遅れてやってくるはずで、別荘に誰もいない事がわかれば確実に警察に助けを求めるはず。仕掛けた爆弾を爆発させて別荘を封鎖しようにも、距離が遠すぎてリモコンの電波も届かない状況です。そうなれば、警察の確認作業で、別荘かその近くで毒により死んでいる成海洋子が発見されるのは自明の事でした。警察に発見されてしまえば遺体は司法解剖され、死因がドクツルタケの毒によるものである事や実際に毒を飲んだ日付も明らかになってしまう。そんな状態で本土に戻っても、関係者である自分たちはすぐに警察に拘束され、金島さんに罪を着せるどころか、彼を殺害するという最終目標すら果たせなくなる可能性が高い。それどころか成海洋子殺害がキロネックス事件の犯人による口封じだと事情を知る金島さんに察知されて、金島さんが今まで調べてきた事をこの機に警察に暴露してしまう危険性さえある。そうなったらもうおしまいです。彼らを口封じして罪を逃れるはずが、逆に警察という専門機関を引き込む形になってしまうわけですからね。それだけは犯人としては何としても避けなければならなかった。そのためには、台風が過ぎて自分たちが警察に発見される前に、どんな手段を使ってでも金島さんを亡き者にするしかなかったのです」

「だから……だから多少のリスクがあったとしても、警察が来る前に、この絶海の孤島で金島殺害に走らざるを得なかったというわけか」

 赤橋が呻くように言う。それこそが、『なぜ犯人は絶海の孤島という容疑者が限定されてしまうシチュエーションにもかかわらず犯行を行ったのか?』という疑問に対する決定的な答えであった。

「しかし、実際に殺人を実行してみると、犯行を目撃されるわ、新たな標的が浮かび上がるわと、犯人にとって不利な状況がこれでもかと出現する事になりました。それでもなお挫折する事なく犯行を続けた胆力だけは称賛に値します。もちろん悪い意味で、ですが」

「……」

「ですが、それももう終わりです。こうしてすべてが暴かれた以上、『キロネックス事件の真相を隠すために、真実に近づいた人間を口封じする』というあなたの計画は根本的な部分からすでに破綻してしまっているはずです。今回の水族館の事件は元より、キロネックス事件や東京で成海洋子に毒を持った一件も、すでに警察が動いています。これだけの大量殺人です。今後も捜査が続けば、裁判でも通用する物的証拠はまだまだたくさん出てくるはず。もう逃げ場はないんですよ」

「……」

「さて、私から言いたい事はこれで全てです。まだ何かあなたの方から言いたい事があるなら、いくらでもお聞きしましょう。ただし、どれだけ言い逃れしようとも、私はそれを徹底的に潰していくつもりですがね」

「……」

「さぁ、どうですか! まだ続けますか!」

 榊原が鋭く叫ぶ。誰もが黙り込み、不気味な沈黙がその場を一瞬支配した。

 が、その直後だった。

「……何で……」

 真凛の口から、そんな言葉が呻くように漏れ出てきた。

「私は……私は上手くやった……完璧にやった……ばれないはずだったのに……騙しきれるはずだったのに……もう少しだった……もう少しで何もかも上手くいくはずだったのに……」

 次の瞬間。真凛は近くの壁に拳を打ち付けながら血を吐くような絶叫を上げた。

「何で……何で……何で最後の最後になって、あんたみたいな『怪物』が出てくんのよ! 冗談じゃないわよ! ふざけないでよ! こんなの……こんなのって……畜生、畜生、畜生、アアアアァァァァァァァァァァァッ!」

 真凛はその場に崩れ落ちながら、右手で頭を掻きむしり、左手で床を何度も叩き続ける。左手が血に染まり、そんな彼女を後ろに控えていた刑事たちが取り押さえにかかった。そのアイドル歌手という肩書からかけ離れた姿を榊原は険しい表情のまま黙って見つめている。そしてその姿を見れば、もはやこの互いの全てを賭けた論戦の決着がついた事は明らかだった。

 言うまでもなく、真犯人・花園真凛の敗北という形で……


 ……それから十分後、花園真凛は刑事たちに囲まれながら、どこか虚ろな表情でその場に立ち尽くしていた。英美里たちはそんな彼女を呆然とした顔で見つめており、そして真凛の正面には、この期に及んでもなお榊原という越えられない壁が立ちはだかっていた。

「まず、はっきりさせておこう。今から五年前、この水族館で宮森海次郎氏の命を奪った『キロネックス事件』……その犯人は君だった。間違いないかね?」

 敬語を崩した榊原の問いかけに、真凛は涙を流しながら小さく頷く。もはや反論するだけの気概もなくなってしまっているようだった。それだけ自身が仕組んだトリックを暴かれた事がショックだったのかもしれないし、あるいは榊原との激しい論戦がかなりのダメージになったのかもしれない。いずれにせよ、すでに決着はついていた。

「……殺すつもりはなかったのよ。私はただ……あの時の奥尻島での事について話を聞きたかっただけで……」

「黒江香保子の事かね?」

「そうよ。全部……高本さんから全部聞いたの……」

 やはり、彼女の情報源は高本順治だった。そうなると、重要なのは死亡する前に高本順治が彼女に話した「黒江香保子の死に様」である。

「十五年前のあの日、奥尻島の旅館で一体何があったんだね? 最初にその事から説明してもらおうか」

 榊原の問いかけに、真凛はもはや抵抗する意志もなく、素直にぽつぽつと語り始めた。

「あなたの言う通り、あの地震で香保ねえが死んだ後、私、香保ねえの恋人だった高本さんに話を聞きに病院に行ったの。香保ねえが死んだ時どんな風だったのか知りたかったから」

「香保ねえ……その呼び方だと、随分仲が良かったようだが」

「そう。従姉妹同士だったけど、どっちも一人っ子だったから、普段から本当の姉妹みたいに仲良くしてた。だから……地震で香保ねえが死んだって聞いた時は、本当に気が狂うかと思った。せめて、その死に様を知りたいと思っても当然でしょ」

「それで、君は高本順治から『その時』の話を聞いた。わからないのはそこだ。一体何を聞いた? 何を聞けば……ここまで道を踏み外す事になる?」

 真凛は少し黙り込んだが、やがて榊原の無言の圧力に耐えきれなくなったのか、かすれた声で『真実』を告げた。

「同じ宿泊客だった宮森って人が……香保ねえの頭を石で殴ったって……」

「何だって?」

 思わず定野が声を上げる。榊原自身は黙ってその言葉を受け止め、無言のまま先を促した。

「あの地震があった時、旅館の建物が崩れて、香保ねえと高本さんは瓦礫の下敷きになって動けなくなったらしいの。元々海洋学者だった高本さんはすぐに津波がやってくる事がわかっていたけど、瓦礫に挟まれた体を動かす事ができなくて焦っていた。そしたら、そこに宮森が逃げてきて、香保ねえは瓦礫の間から必死に手を伸ばして宮森の足を掴んで助けを求めたんだって」

「……」

「津波が来るのは宮森もわかっていたから、宮森の方も焦ってた。でも、香保ねえもこれを逃したら死んでしまうから必死にしがみついた。一緒に瓦礫に挟まれて動けない高本さんがどうする事もできずに二人を見ていたら……」

 一息おいて、真凛は残酷すぎる真実を告げる。

「宮森はその辺に落ちていた石を拾って、香保ねえの頭を思いっきり殴りつけたって。香保ねえはその一撃で頭から血を流して動かなくなって、宮森は手が緩んだのを見るとそのままどこかに逃げて行ったんだって。高本さんが呼びかけてももう香保ねえは返事をしなくて、そしたらそのすぐ後に津波が突っ込んできて何もわからなくなった……それが高本さんの話してくれた『真実』だった」

「君はその話を信じたのかね?」

 榊原の問いかけに、真凛はしっかり頷いた。

「高本さんの話は香保ねえの死体の状況に説明がつくものだったから。それが本当だったら、私はその宮森っていう男の事を許せなかった。助けを求めてる香保ねえの頭を殴りつけて自分だけ助かるなんて……許せるわけないじゃないの!」

 最後は血を吐くような叫びだった。

「でも、当時まだ中学生だった私にできる事なんて限られていたし、百歩譲って宮森がやった事を警察に訴えても、罪に問われない可能性の方が高かった。色々調べて知ったんだけど、こういう場合って『緊急避難』っていうのが適用されるのよね?」

「……可能性は高いね」

 榊原としてはそう答える他ないようであった。

「しかも宮森も大学を辞めちゃって、どこにいるのかわからなくなった。その間に私もアイドル活動を始めたりしていたけど、やっと奴の居所がわかったのは、大学を卒業して少し経った頃……五年前になっての事だった」

「それで君は、宮森に接触しようとしたというわけか」

「えぇ。彼が香保ねえの事を悔いているか、それを確かめたかったの」

 そしていよいよ、話は五年前の事件当日へと進んでいく。

「事件当夜、君はこの島に侵入し、宮森海次郎と接触した。一応聞いておくが、君はどうやってこの島に入ったのかね?」

「……逆に聞きたいわよ。探偵さんはその事についてどう考えているの?」

 真凛からの逆質問を受けて、榊原は表情を変える事なくすぐに答えた。

「普通に客として連絡船で来たんだろう。普通なら行きと帰りで客の人数が一致するかの確認が行われるものだが、この水族館では人数不足だった事もあってその作業がおろそかになっていたらしいからな。客として堂々と入島し、そのまま島のどこかに隠れていればいい。違うかね?」

「……ほんと、どこまでも見透かして……」

 真凛としてはもうそう言う他ないようだった。

「それで、その後どうなったのかね?」

「……あいつは、北バックヤードで作業をしていたわ。私が姿を見せたら手を止めて、誰だって聞いてきた。まぁ、当然の反応よね。あいつは私に会った事なんかないんだから」

「……」

「だから、私はすぐにこう言ったわ。『黒江香保子を覚えてる?』って。でも、あいつはそれでも困ったみたいな顔をするだけだった。私、そんな態度に怒りが収まらなくなって……」

 真凛は拳を握りしめる。冷静に考えてみれば、高本の証言が正しかったとしても宮森に彼女の名前を知る機会などなかったのだからそんな反応になるのも仕方がない話なのだが、頭に血が上っていた彼女にはそこまで考える余裕はなかったのだろう。

「だから、私ははっきり言ってやった! 十年前、あんたが奥尻島で殺した女の名前だって! でも、あいつは何も思い出さなかった! 『そんな事は知らない!』って言って、それどころか『誰だか知らないが、こんな所まで来て、あの地震の事を思い出させるな!』って怒鳴りつけてきたの。あんな事を……香保ねえを殺しておいて、いけしゃあしゃあとそんな事を言ったのよ! 許せるわけがないじゃない!」

「……それで、君は宮森海次郎を……」

「違うっ!」

 真凛は血走った目で鋭く叫んだ。

「私は殺すつもりなんかなかった! でも、あいつの態度が腹に据えかねて、思わずあいつに掴みかかったの。『香保ねえに謝りなさいよ!』って叫びながら……あたしも必死だった! そしたらあいつも私を振りほどこうとして、そのままあの狭いバックヤードでもみ合いになった! そしたら……そしたらあいつ……そのままはずみで水槽の中に落ちちゃって……すぐに物凄い悲鳴が上がって……助ける暇もなかった……」

 真凛はそう言って言葉を濁す。キロネックスに刺された場合、そこから死亡するまではわずか数分しかなく、状況いかんによっては即死もあり得る。真凛の言うような状況が正しかったとすれば、助ける事はほとんど不可能だっただろう。

「私……どうしたらいいんだろうって思った……。殺すつもりなんかなかったのよ! あれは本当に事故だった! でも、そんなの証明できるわけがない! だって、この島にいるのは宮森以外には私だけだし、それ以前に私は『本当はいないはずの人間』なんだから! これで疑われない方がおかしいじゃない! 隠すしか……隠すしかなかったのよ……」

 そして、彼女は指紋や自身の痕跡を消すなど可能な限りの隠蔽工作を行ったのだろう。彼女がこの水族館の構造や大水槽のカラクリについて知ったのはこの時の事だったに違いない。後は島から誰にも気付かれずに脱出するだけである。

「島からの脱出も、連絡船を利用したんじゃないか?」

「……本当に全部わかっているのね」

「それしか方法がなかったからな。朝になって飼育員の鯖江さんが連絡船で到着すると、鯖江さんが水族館の方へ向かうのを見計らってこっそり連絡船の船内に侵入。船内のどこかに隠れ、通報のために鯖江さんが連絡船に戻って来て出港するのを待った。後は連絡船が本土に戻るのを待ち、隙を見て船から脱出すればいい」

「……本当なら、多少怪しまれたとしても鼠の仕業に見せかけて館長室の電話の電話線を切るつもりだった。でも、そんな事をしなくても肝心の電話が壊れていて、リスクのある工作をする必要がなくなった」

 真凛はそんな事を補足する。いずれにせよ、これで五年前のキロネックス事件の真相が明らかになった形だった。

「結局、キロネックス事件は多少不審な点はあったものの最終的には事故と判断され、話はそこで終わったはずだった。そしてその後、君はアイドル歌手としての活動を続け、当時とは比べ物にならないほどの人気を博するようになった。だがそれ故に、君にとってこのキロネックス事件は大きな汚点になっていたはずだ。例え君の言うように本当に事故だったとしても、この事実がばれたらアイドル歌手としては生きていく事はまず不可能になるだろうからな」

「……ばれるはずがないと思っていた。さっきも言ったみたいに、あの時この島には私とあいつしかいなくて、私が島にいた事を知っている人間なんていないはずだったから。でも……」

「飼育員の一人だった成海洋子がルポライターに転身し、キロネックス事件の事を調べ始めた。そしてその過程で、現場の水族館に残されていたバッジが早応大学探検サークルの二〇〇一年度卒業OBものである事を突き止め、当時のメンバーの一人だった金島頼経に近づいた」

 榊原の指摘に、真凛は頷く。

「まさか、あんな所でバッジを落としていたなんて……」

「心当たりはあるのかね?」

 真凛は拳を握りしめながら吐き捨てるように答えた。

「多分、あいつを水槽に突き落とした時に弾け飛んで隣の水槽に落ちたんだと思う。何度も言うけど、あいつを問い詰めた時には殺すつもりなんかなかったから襟の部分につけっ放しだったし、その後は気が動転してなくなっている事に気付かなかったの。気付いたのは……島を無事に脱出してやっと一息つけた時で、その時にはもうどうしようもなかった。どこで落としたかもわからないし、見つからない事を祈るしかなかったの。でも……そんな都合のいい話は通らなかった」

 そこまで言うと、真凛は憎々しげな顔でこう吐き捨てた。

「あの女……元飼育員だか何だか知らないけど、本当にしつこかった! あの事件の事を調べ続けて、ついに金島君の所に辿り着いたのよ」

「だが、金島頼経にはキロネックス事件が発生した時にはアリバイがあって、すぐに容疑者から外れる事になった。そして、彼女はその後も他のメンバーについての情報を得るために金島に接触を繰り返していたが……そんな事を繰り返しているうちに、二人はいつしか恋愛関係となり、彼女は自身の目的について金島に打ち明けたのだろう」

 そして、全てを知った金島は成海洋子に全面的に協力する事を決め、さらなる協力者として同じくキロネックス事件の際にアリバイがあった戸塚克人とリタ・クラークに協力を求めたのだろう。特にサンフランシスコ市警の刑事であるリタは、国は違っても協力を求める相手としては最適だった可能性が非常に高い。

「成海洋子と金島頼経はキロネックス事件当時のアリバイがない当時の部員たちの事について調べ始めた。君があの二人が組んで事件の事を調べている事に気付いたのはいつの事だね?」

「……街で偶然、金島君の姿を見かけた事があったの。声をかけようとしたら、そこに別の女がいるのが見えた。随分仲良さそうだったけど……その女の顔に見覚えがあったわ。宮森の所に行く前にあの水族館について調べていた時、水族館のパンフレットに写真が載っていた飼育員の女の顔だった。それでその後、個人的に二人の事を調べたら……どうもこの二人が組んであの事件の事を調べているってわかったの。正直、どうしたらいいのかわからなくなったけど、このままにしておくわけにもいかないのも間違いなかったわ」

 力なく自供を続ける真凛に、榊原はさらに質問を重ねていく。

「そして今回、成海洋子と金島頼経は容疑者をこの地に集めて誰がキロネックス事件の犯人なのかを見極めようとした。だからこそ君は、これ以上過去が暴かれる前にしつこく事件を調べ続けている彼らを『消す』事にした」

「……金島君から志摩の別荘に招待された時点で、嫌な予感はしていた。もちろん招待予定者の中に表向き部外者である成海洋子の名前はなかったけど、絶対にどこかで関わってくると思ったの。でも、相手の出方がわからない以上、どう動くかわからない彼女を招待日当日に殺す計画を立てるのはリスクが高すぎたわ。だから、彼女に何かを仕掛けるなら招待日より前に動くしかなかった」

「それで事件の一週間前の七月二十日、君は偽の手紙で川崎市に成海洋子を呼び出し、その間に彼女の自宅マンションに侵入して何らかの飲食物に毒を仕込み、彼女が一週間後の招待日当日に死ぬように布石を打っておいた」

「……そこまでわかっているのね」

 真凛は自嘲気味にそう呟いた。

「ドクツルタケはどこで入手した?」

「……私のマンションの近くにある雑木林よ。私に入手できる毒物なんて、それくらいしか思いつかなかったから……」

 すでに述べている話だが、ドクツルタケはこれだけの毒性がありながら比較的容易に入手できてしまうキノコである。彼女がこの特殊な毒を使った理由は、単にその入手難易度の低さによるものだったようである。

「マンションの部屋への侵入方法は事前に複製しておいた彼女の部屋の鍵。その鍵は侵入のさらに一週間前、新宿の百貨店を訪れていた成海洋子の財布をすり取って取った鍵の型から作ったものだった」

「そこまで……そこまでもう調べてあるの?」

 真凛は絶望に包まれた表情でうなだれる。自分の予想以上に警察の動きが速い事にショックを受けているようだ。

「成海洋子殺害の一件はすでに東京の警視庁が動いている。百貨店の防犯カメラを確認すれば、君が成海洋子の財布をすった事は容易に証明できるはずだ。今回の一件の取り調べが済み次第、今度は警視庁からの取り調べもある。その点は覚悟しておく事だ」

「……」

「話を戻そう。君は複製した鍵を使って成海洋子の部屋に侵入した。その後、何に毒を仕込んだ?」

 榊原の鋭い視線を受けて、真凛は視線を逸らしながら力なく答える。

「……冷蔵庫を確認したら、作り置きのカレーがタッパーに入っていたの。だから、そこに毒を入れたの。帰ってきた後に食べると思って」

「それだけかね?」

「……部屋の中も一通り調べたわ。侵入した事に気付かれたくなかったから何かを持ち出す事はできなかったけど、彼女があの事件を調べている事と、金島君がそれに協力している事ははっきりしたわ」

 真凛はもうすっかり諦めた風に話し続ける。しかし、榊原の追及は止まらない。

「そしてその一週間後、金島の別荘にやって来た君は、いよいよ本命の金島殺害に動く事にした」

「えぇ。一週間前の仕掛けが成功した時点で成海洋子の死はもう確定していたから、後は金島君を殺すだけだった。あなたがさっき言ったみたいに成海洋子は別荘のどこかに潜んでいると思ったから、英美里が別荘に着た後であらかじめ仕掛けておいた爆薬を爆破させてみんなを別荘に閉じ込めて、彼女が別荘のどこかで死んだ後で金島君を自殺に見せかけて殺すつもりだったの。そうしたら、全ての罪を金島君にかぶせて逃げられると思った」

「しかし、そうなる前に金島さんは招待したメンバーをクルージングに誘った」

 その言葉に、真凛は軽く息を吐いて供述を続ける。

「その話が出た時、来るものが来たって思ったわ。尾鷲港に行くって言っていたから、魚島の近くを通るくらいの事はしかねないと思ったし、私たちが別荘を留守にしている間にどこかに隠れている成海洋子が荷物をあさるかもしれないと思ったわ。でも、この時はまだ問題ないと思っていた。いくら金島君たちでも台風が近づいているのに島に上陸したりはしないと思ったし、英美里が別荘に来るまでに戻って来られるなら計画に支障はなかったから。ただ、荷物をあさられる可能性があったから、殺害のために用意したスタンガンなんかの小道具は持っていく事にしたけど」

「だが、実際はクジラとの衝突で、計画は大きく狂った」

 榊原の指摘に、真凛は表情を歪ませる。

「さすがにあれは予想外だった。あんなの予想できるわけがない!」

「結局、君たちは島に上陸する事になり、よりによってこの水族館に立て籠もる事になってしまった」

「金島君が姿を消した時点で、向こうがこのアクシデントを利用して何か仕掛けてきているのは間違いないと思った! でも、こんな大掛かりな仕掛けを金島君一人だけでするのは無理がある。この時、初めて金島君に成海洋子以外の仲間がいるかもしれないって考えたわ。それで注意していたら、夜になってリタと戸塚君が変な動きをし始めて、後をつけたら……」

「二人が金島さんと接触する姿を見てしまった」

「開かなかったはずの階段室の扉が開いて、中から金島君が顔を出したわ。金島君に招かれて二人が階段室に入っていった後、後をつけたら階段室の鍵は開いたままで、チャンスだと思って私も中に入ったの。そしたら、階段室の二階で、三人が何かを話し合っていた。私はそのまま一階の階段の影に隠れて話を聞いていたけど、この三人が繋がっているのはもう疑いようがなかったわ」

 榊原は黙って先を促す。

「しばらくして話が終わって、リタと戸塚君は戻っていった。そして、金島君がドアの鍵を閉めようとした時に……私、見つかっちゃったの。それで、慌てて階段を上がって二階へ逃げたら金島君も追いかけてきて……。彼の事は最初からどこかのタイミングで殺すつもりだったけど、もうこうなったら、ここでやるしかないと思った。だから私……二階の東エリアに出た所で追いかけてきた金島君にスタンガンを使って、そして……気絶した金島君の首をロープで絞めたの」

「……何てこった」

 迫水が隣でそう吐き捨てていた。だが、真凛の話は終わらない。

「でも……その時、後ろで小さな音がして……振り返ったら純子が青い顔をして立っていたの。私がつけられたのか、階段室から出てきたリタたちを見て不審に思って鍵が開いたままになったドアから入って来たのか……多分その辺りだと思うけど、そんな事はどうでもよかった。そのまま逃げようとしたから、反射的にその辺に転がっていた鉄パイプを握りしめて……気づいたら、純子が目の前に倒れていたわ。まだ息はあったけど、こうなった以上、彼女も生かしておくわけにはいかなかった!」

「そして、君はあのトリックを使って山中さんを……」

「えぇ、金島君の遺体を調べたら水族館のマスターキーが出てきたし、いけると思った。金島君の死体を大水槽に沈めて、一階の北通路の扉を音をたてないように慎重に閉めて鍵をかけて、山中さんを殺す仕掛けをしてポンプで大水槽北側の水を抜いて……それから後の事を考えて北バックヤードの水槽のガラスを割ったりもした。やれる事は全部やって、後はもう祈るしかなかった」

 そして、真凛はうなだれながら力なく言う。

「その後の事は……全部あなたが言った通りよ。もう今さら、私から付け加える事は何もないわ」

「そうかね」

 榊原は静かに応じる。直後、真凛は急に激昂した。

「何で……何であそこまで私のやった事を完璧に推理できるのよ! あり得ないじゃない! 何なのよ、あんた! あんたのやった事は、人間業じゃないわ!」

「……私はただ、自分の論理に従って推測をしたに過ぎない。良くも悪くも、私はそれしかできないものでね」

「何よ、それ……」

 もはや虚ろな表情を見せる真凛に、榊原は静かに問いかける。

「最後に一つ。これだけのトリックを考えた君の事だ。警察がやって来た後に水族館を徹底的に調べられたら、トリックの証拠がいくらでも出てくる事はわかっていたはずだ。例えばこの大水槽のトリックも、水を抜かれて真ん中のガラスの仕切りの存在がばれたら、それだけで誰にでもトリックが暴かれる可能性があった。二日目の犯行も、いずれ充満している毒ガスを抜かれたらそれで終わりだ」

「……」

「君は、これらの証拠をどうするつもりだったんだね? 最後にそれだけは聞きたい」

「……本当は、全部燃やすつもりだった」

 そんな事をさらりと言われ、赤橋たちがギョッとしたような顔を浮かべる。

「台風が過ぎても、私たちがどこにいるかわからない以上、警察がこの島に来るまで一日くらい時間があると思った。だからその間に残ったメンバーをどうにかして水族館から脱出させて、みんながいなくなった後でこの建物の廃墟に火をつけるつもりだった。個人的にも、私の人生を狂わせたこの忌々しい建物にはいい加減に消えてもらいたいと思っていたし」

「そんな事ができると思っていたのかね?」

「二階に灯油やガソリンがいっぱい残っていたし、それを大水槽に流し込んで火を点けたらいけると思ってた。それで証拠は全部燃える。焼け跡から金島君も含めた五人分の焼死体は見つかるだろうけど、そこから『ずっと行方がわからなくなっていた金島君が四人を殺して、廃墟に火をつけて自殺した』みたいな方向へ持っていけたらいいと思っていたの」

 これだけ予想外の事態に見舞われながらそこまで考えていた真凛に、赤橋たちはもはや戦慄しか覚えなかった。ただ、直後に真凛は自嘲気味に笑った。

「まぁでも、失敗しちゃったけどね。まさか、警察がこんなに早くこの島に来るなんて思いもしなかった。っていうか、早過ぎなのよ。何をどうやったらこんなピンポイントで捜索に来れるのよ。ほんと、意味わかんない」

 そんな真凛に、定野が真剣な表情で声をかける。

「君は運が悪かったな。綿野さんが志摩署に駆け込んで榊原さんにこの事件の調査を依頼した時点で、事件はもう君の想定とは違う方向へ動き出してしまっていたんだ」

「……ははっ。私、馬鹿みたい。成海洋子の死体を見つけられた時点でもう詰んでいたのに、そんな事も知らずに目的も何もかも失って、必死になって五人も殺して……ほんと、殺人なんて、割に合わないにも程があるわ」

 そう言うと、真凛は乾いた笑い声をあげながら、その場でうなだれてしまった。そんな真凛の元に定野が近づき、厳粛な声で彼女に宣告した。

「花園真凛。志摩市の別荘で起こったルポライター殺し、及び今回、旧伊勢宮森水族館廃墟内で起こった連続殺人の容疑で君を拘束する。現時点では令状がないので任意同行だが、拒否するなら緊急逮捕も辞さないつもりだ。御同行願おうか」

「……好きにしてよ。私もう、隠す事に疲れたわ」

 それがこの長かった論理決闘の敗北宣言である事を、この場の誰もが嫌でも理解する事となった。そして定野に連れていかれる真凛の姿を、榊原は普段と変わらぬ表情のまま、ジッと見つめ続けていたのだった……。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ