第十章 七月二十九日~廃墟水族館の秘密
午後三時、事件現場となった伊勢宮森水族館の廃墟の南通路。そこに事件関係者が全員集合していた。生き残った赤橋、迫水、稲城、武美、真凛、美柑の六人に、榊原の依頼人である英美里。そして事件を捜査していた定野ら三重県警の刑事たちに、榊原の自称助手である女子高生の瑞穂といった面々である。
そして、そんな彼らの前で一日前に純子が浮かんだ巨大な大水槽をバックに立っているのは、一見するとくたびれたサラリーマンにしか見えない私立探偵・榊原恵一その人だった。だが、その目は鋭く事件関係者たちを見据えており、彼が見た目通りの凡庸な男でない事は多かれ少なかれ誰もが感じ取っている事だった。
やがて、榊原は一同が全員そろっているのを再度確認すると、おもむろにその口を開いて事件のクライマックスの口火を切った。
「さて、皆さん、急遽ここに集まって頂いてありがとうございます。実は、早急にお知らせしたい事がありまして、こうして関係者全員に集まってもらった次第です」
「知らせたい事って、何ですか? 俺たちとしては、もう一刻も早く本土に帰りたいのですが……」
赤橋が少し疲れたように言う。実際、せっかく脱出できたこの場に戻る事に難色を示す者は多かったのだが、定野たちが頭を下げて何とか来てもらったところである。だが、榊原はそんな彼らに対し口調を変えないまま続けた。
「申し訳ありませんが、この話はここでしかする事ができないのです。何しろ……今回の事件の真相を、この場で明らかにしようとしているのですからね」
「……は?」
一瞬、榊原が何を言ったのかわからず、誰もが……特に生き残った六人は呆気にとられた表情を浮かべた。
「真相って……」
「文字通りです。今回、この廃墟の水族館で起こった連続殺人事件。その真相を、この場ですべて明らかにしようと、そう言っているのです」
「は、犯人がわかったって事ですか?」
赤橋の問いに対し、榊原は静かに頷いた。
「そうなりますね」
「そんな……だって、まだ俺たちが助かってから半日も経っていないじゃないか! 当事者の俺らも何が何だかわからないままなのに、部外者のあんたにわかるなんて……」
迫水が混乱したように言うが、榊原は冷静な表情のまま続ける。
「とにかく、私の話を聞いて頂きたいと思います。反論があるなら、それからいくらでも聞きましょう。よろしいですか?」
「いや、まぁ、真相がわかるというなら、もちろん聞きますが……」
赤橋が代表してそう答え、他の五人も同様に頷いた。榊原は小さく一礼する。
「ありがとうございます。では、時間もない事ですし、早速始めさせてもらいましょう」
そう言うと、榊原は自分の推理を語り始めた。
「まず、今回の事件について軽くおさらいしておきましょう。二日前、あなた方早応大学探検サークルOBグループは金島頼経さんのクルーザーでクルージング中に船の故障でこの島に漂着し、その後船を操舵していた金島さんが失踪したためにこの廃墟に籠城する事になりました。ところが、その最中に廃墟内でメンバーが次々と殺害されるという事件が発生し、最終的に山中純子さん、戸塚克人さん、リタ・クラークさん、白松哲彦さんの四人が死亡しています。また、最初に失踪した金島さんの行方もわからないままです」
榊原はそこで一度全員の様子をうかがった上で、話を続行した。
「さて、この事件の真相を考えるにあたって、私はまずこの事件における解決すべき疑問点を抽出するところから始めました。その疑問点を解決できれば、犯人に至る道筋もおのずと見えてくるという考えです。論点を整理するというのは、物事の論理的解決を行う上での一番のポイントであり、鉄則でもあります。その上で、私が思いつくこの事件の疑問点は以下の通りとなります」
榊原は指を立てながら一つ一つ説明していく。
「まず、最初の疑問は『犯人はなぜこのタイミング、この場所で殺人事件を起こさなくてはならなかったのか』という点です。絶海の孤島でのクローズドサークルは推理小説などではよくある展開ですが、実際に起こすとなると犯人からすればかなりのリスクを負う事になる犯行です。なぜなら、事件を実際に起こしている時点では警察の介入を防げるというメリットはあるものの、いざ警察がやって来て捜査が始まった段階で容疑者がある程度限定されてしまうというデメリットを抱えているからです。何しろ絶海の孤島である以上外部からの侵入者が犯人である可能性は低く、必然的に犯人は生存者の中にいるという事になってしまいますし、殺せば殺すだけその容疑者の幅は狭まってしまいます。推理小説的にいえば『そして誰もいなくなった』や『十角館の殺人』といった作品にみられる例外的なケースでもない限り、絶海の孤島での大量殺人というのは犯人にとってリスクが高すぎるシチュエーションなのです。にもかかわらず、犯人は今回台風で閉ざされた廃墟の中での大量殺人を決行しました。その理由が何なのかという点が最初の疑問です」
榊原はそのまま次の疑問点に移る。
「二つ目の疑問は、『犯人がなぜ被害者たちを殺さなくてはならなかったのか』という動機の部分です。無差別快楽殺人でもない限り、殺人事件には必ず動機が存在します。なぜ、四人の被害者は殺害されなければならなかったのか。その動機も大きな謎になってくるでしょう。そして三つ目は、仮に動機やこの場で殺人事件を起こさねばならない理由があったとして『なぜこのように異常な犯行形態が行われたのか』という点です。一人目の被害者である山中純子は遺体がこの大水槽に投げ捨てられる形で発見され、その次の犯行は毒ガスを使った大量殺人です。殺害するだけなら他にもやりようがあったはずなのに、犯人はなぜこのようなある意味異常な犯行形態をとる事になったのか。そこには必ず何か理由があるはずです」
榊原はそこで一息つくと、固唾をのんで見守る聴衆の前で話を次の段階に進めた。
「さて、この三つの疑問点の中で、私が最初に解決を試みたのは第三の疑問……特にその中でも第一の事件、すなわち山中純子殺害事件における犯行の異常性に対する問題です。先程も述べたように、第一次の事件において犯人は山中純子の遺体をこの大水槽に投げ捨てて全員の目の前に披露するという異常ともいうべき演出を行いました。単に犯人の異常性を示す行動だと言われればそれまでですが、私はそうは思えません。基本的に殺人犯は自身の犯行が暴かれる事を避けるために全力を尽くしますから、それゆえに犯行においては無駄な行動をしないというのが私のこれまでの経験から得た結論です。そして、この考えが正しいのなら、もし何か無駄としか思えない事象を犯人が引き起こしていたとした場合、そこには犯人にとって何かしらの必然があるはずです。つまり、一見ただの異常行動にしか見えないこの山中純子殺害時における派手な演出にも、犯人がそうせざるを得なかった合理的な『必然』があるはずだというのが私の考えになります。では、その必然とは何なのか? 犯人が山中純子の遺体を水槽に叩き込まなければならなかった現実的な理由とは何なのか? その理由を解決できたとき、そこに犯人の輪郭がはっきりと浮かび上がってくるはずです」
「だ、だけど、あんな事をわざわざする合理的な理由なんて……」
美柑が困惑気味に言う。
「冷静に考えてみましょう。犯人が『必然』を持って遺体を水槽に投げ込むという演出を行っていた場合、そこには犯行における何かしらのメリットがあったはずです。メリットがなければ、犯人がわざわざ無駄な演出をする意味合いはありません。では、遺体を水槽に投げ込んだ事によって、犯人にはどのようなメリットが生じるでしょうか?」
「メリットって言われても……」
赤橋たちは顔を見合わせて首をひねる。
「遺体が水槽に投げ込まれた事で、犯行時刻をその時間だと錯覚させる事ができる、という事ですか?」
稲城が自身なさげに言うが、武美がそれを否定した。
「いや、それはないね。何しろその時にはまだ白松君がいたんだ。いくら死亡時刻を誤魔化したところで、医師の白松君が検視をしたら正確な死亡推定時刻なんかあっという間に特定されてしまう。実際、白松君がすぐに検視して死亡推定時刻ははっきりしたし……」
「あぁ、それで俺ら全員のアリバイを確定させる事ができたわけだが……」
と、そこまで言ったところで、迫水が目を見開いた。
「もしかして……アリバイか?」
「え?」
何を言ったのかわからず真凛が首をひねる中、榊原は小さく頷いた。
「正解です。犯人がわざわざリスクを冒してまで遺体を水槽に投げ込んだ理由……それは犯人のアリバイを確定させるためだったと私は考えます。つまり、山中純子の遺体を水槽に放り投げ込んだ行為に、犯人のアリバイ工作を成立させる何かがあったという事になります」
「ま、待てよ! アリバイ工作も何も、山中が死んだ時間、犯行が可能な人間は誰もいなかったんだぞ!」
「そ、そうです。死亡推定時刻に山中さんを殺せるだけの時間があった人は誰もいなかったはずです」
美柑が遠慮がちに言うが、榊原は止まらない。
「逆に言えば、あなた方がこの極限状態の中で仲間の誰かが犯人であると断定できなかったのは、この第一の事件におけるアリバイがあったがためです。つまり、第一の事件におけるアリバイこそが、犯人が自身の罪を逃れるための最大の防波堤という事になります。という事は、このアリバイ自体に犯人が仕込んだ大きな罠があり、水槽に遺体を投げ込んだ行為はこのアリバイ工作を成立させるための小道具だったと考えれば、全てに納得がいくのです」
「いや、しかし……仮にそうだったとして、崩せるのか? 俺が言うのも何だが、生半可なアリバイだったらさすがに俺らも警戒している。白松の検視だと山中の死亡推定時刻は昨日の午前二時から午前四時。死因は絞殺で、殺害には十五分以上は確実に必要だが、この時間帯にそれだけの長時間アリバイがなかった奴は俺たちの中にいなかった。しかも、このアリバイは夏沢が気まぐれで水槽の前で絵を描き始めたという偶然から成立している代物だ。この状況で、どうやってアリバイ工作を仕込むっていうんだ?」
迫水の問いに、榊原は静かに自身の推理を語り始めた。
「夏沢さんの件については今は置いておきますが、白松さんの存在はこの謎を解く大きなキーポイントになります。というのも、犯人がもしあなた方の中にいたのだとした場合、白松さんに検視の知識があり、遺体発見時に死亡推定時刻が特定されてしまう事を犯人も知っていたはずです。という事は、犯人は白松さんの検視によって死亡推定時刻がある程度特定される事を前提にアリバイ工作を仕込んでいる事になります。これがまずトリックを暴く上での前提条件です。つまり、犯人は死亡推定時刻が特定される事を踏まえた上で、その時間にアリバイが成立するようにする事で自身の犯行の発覚を防ごうとしたわけです。だとすれば、犯人にできる事は限られてくるはずです」
「限られるって……」
「死亡推定時刻が特定される事を前提にアリバイを仕込む場合、その犯行の形態はそう多くありません。共犯の可能性はひとまず考慮しないものとしますが、この場合考えられるものとしては、遺体そのものに何か細工をして死亡推定時刻自体を誤魔化してしまうという犯行形態か、死亡推定時刻以前に何か仕込みをした上で、死亡推定時刻にアリバイを作っている間に殺人が自動で行われる、いわゆる自動殺人装置を使った犯行形態です」
「遺体に細工……もしかして、遺体を水につけたりして死亡推定時刻を誤魔化したという事ですか? それならそれを誤魔化すために水に放り込んだという説明にもなりますが」
稲城の問いに、しかし武美が駄目出しをした。
「どうだろう。私は白松君の検視に立ち会っていたけど、彼が死亡推定時刻の算出に使ったのは体温とかじゃなくて角膜の混濁や顎の硬直だった。さすがに白松君もその辺は考えていたと思うよ」
「それに、遺体が死亡推定時刻がずれるほど長時間水につかっていたら皮膚がふやけたりそれなりの痕跡が残るはず。そんなものがあったら白松はそれを言っているはずだ」
迫水も苦い顔でそう付け加えた。と、真凛がおずおずと別の意見を述べる。
「じゃあ、冷凍室を使ったとか……」
「電気が全くつかないこの水族館の冷凍室が動くとも思えないし、それに長年放置された魚介類の腐臭と雑菌でバイオハザード状態になっているあの部屋に入るだけでも命がけだ。そんな危険を犯人が冒すとも思えない」
「となると、自動殺人装置ですか? しかし、それこそそんなものがここにあるとも思えませんが……」
稲城が首をひねる。一通り意見が出たところで、再び榊原が話の主導権を握った。
「ここで問題になるのが、白松さんが言っていたという検視における不可解な遺体の状況です。皆さんの話では、白松さんがいくつか指摘していたとの事ですが」
「あ、あぁ。確かに」
迫水は当惑気味に肯定する。
「内容を要約すると、遺体に首吊り……すなわち定型的縊死に見られる斜め左右対称の索状痕が確認されているにもかかわらず、絞殺やドアノブなどを使った首吊りに見られる非定型的縊死の特徴である眼球の溢血などが確認されているという事です。そうですね?」
「白松君は、犯人が山中さんを宙吊りにした上で体を下から抱きかかえるなりして体を支え、そこから少しずつ力を抜いてじわじわと山中の首を吊っていったという可能性と、首にロープをかけた上で背負うようにして絞殺するという可能性を指摘していました。法医学的に納得できるのはこれくらいしか考えられないと……」
「ただ、それ以前に宙吊りにする場所がこの建物の中にない事を問題にしていたな。宙吊りにするにしても、どこでそれをやったのかわからないそうだ」
稲城の言葉に赤橋が独り言のように補足し、それを聞いた榊原も頷く。
「確かに、それも問題になってくるでしょう。ざっと調べましたが、この廃墟内に被害者を宙づりにできそうな場所は一見なさそうに見えます。しかし、これを逆に言えば、その首吊り場所や殺害形態の謎そのものが、犯人のアリバイ工作に大きな意味を持っていると考える事もできるはずです。さっきも言ったように、犯人は基本的に無駄な事は行いません。そして、今回の犯行において被害者の首吊り場所を隠すという行為は一見すると無駄以外の何物でもないはずです。そんな事をしても、この廃墟内で被害者が宙吊り状態で絞殺されたという事は、白松さんが検視を行う事を前提にしている以上即座にばれてしまう事だからです。にもかかわらず犯人が被害者の首吊り場所を隠し、あまつさえその首吊り状況に不自然な点を生じさせているという事は、犯人にはそれをしなければならないだけの理由があったという事になります。そしてその理由こそが、犯人のアリバイ工作を崩す大きな一歩になると私は考えているのです」
榊原の言葉に、全員が緊張した表情を浮かべていた。
「大きな一歩って……どういう意味ですか?」
「有体に言えば、被害者を宙吊りにした場所と遺体に残された数々の痕跡……これこそが、山中純子を殺害した自動殺人装置の痕跡ではないかと、私は考えているわけですがね」
瞬間、全員が息を飲む。
「それはつまり、この廃墟の水族館内に、人を自動的に首吊り状態にできる殺人装置が眠っていた、という事ですか?」
「そういう事になりますね」
「いやいや、からくり屋敷じゃあるまいし、そんな都合のいい装置があるわけが……」
迫水が引きつった笑い声を上げながら言う。
「もちろん、最初から殺人のために造った装置ではなく、元々別目的でこの水族館内に造られ、そして廃墟になった後に放置されていたものを犯人が殺人用に利用したというだけの話です。もっとも、それを殺人に転用しようと考えた事については、まさに悪魔の知恵と言わざるを得ませんが……」
と、ここで稲城が口を挟んだ。
「もう前置きはこのくらいにしましょう。榊原さん、あなたが考える山中を殺した『自動殺人装置』とはいったい何なのですか?」
その問いに対し、榊原は静かに答えた。
「私がそれに気付いたのは、これがきっかけでした」
そして取り出したもの……それは、先程稲城から受け取ったこの水族館のボロボロのパンフレットだった。ビニールに入れられたそれを見て、全員が当惑気味の表情を浮かべる。
「……えっと、そのパンフレットがどうかしたんですか?」
美柑が代表して聞く。他の面々も同じような表情を浮かべている。だが、榊原は真剣な表情で告げた。
「私が気になったのは、このパンフレットに描かれているイラストです」
「イラスト?」
思わぬことを言われてますます全員困惑するが、榊原は表情を崩す事なく続けた。
「はい。このイラストを見ると、今私の後ろにある大水槽の中を、色とりどりの魚をはじめ、エイやサメ、ウミガメが一緒に泳いでいる様子が確認できます」
「それが何なんですか? こう言ったら何ですけど、よくある水族館の光景に見えます」
武美がはっきりとコメントするが、その言葉に対しなぜか榊原は厳しい表情で反論した。
「よくある光景、ですか。残念ながら、私はこんな光景は絶対にあり得ないと思います」
「え? どうして? 水槽を魚が泳いでいるのは当たり前じゃない」
真凛が首をかしげるが、それに対して榊原が言った言葉は単純かつ明快であり……そして、誰もが思わず呆気にとられてしまうほど斜め上を行くものだった。
「いえ、あり得ないでしょう。少なくとも、サメとウミガメやエイが一緒の水槽の中にいるという状態は、水族館側からすれば容認できない光景のはずです。何しろ、そのサメが他の魚やウミガメを食べる可能性があるわけですからね」
そう言われて、一瞬誰もがポカンとした表情を浮かべた。何というか、この榊原という探偵が大真面目に間抜けな事を言っているように感じられたからだ。
「えー……いや、それはこれがイラストだからでしょう。実際がどうであれ、イラストにイメージ重視で一緒に入れられない生物同士を描くなんて事は普通に……」
「ところが、これはイラストだけの話ではないんです」
しかし、どこか白けた空気が漂いかけていたにもかかわらず、榊原は動じることなく真剣な顔で推理を続けた。
「このイラストを確認した後、私はこの大水槽の近くの壁にはめ込まれたプレートを確認しました。この水槽はこの廃墟の真ん中にあり、北通路と南通路からそれぞれ中を見る事ができるようになっています。つまり、当たり前の話ですが北通路と南通路から見える大水槽は、見る場所が違うだけで本質的に同じ水槽であるはずなんです」
「いや、そりゃそうだけどよ……」
迫水が当惑気味に言う。何をいまさらそんな当たり前のことを言っているんだと言わんばかりのコメントだったが、榊原は即座にこう告げた。
「しかし、それにしてはプレートに書かれている生物に矛盾があるんですよ」
「矛盾?」
「はい。北通路に掲示されていたプレートに書かれていた生物は『マイワシ』『ホシエイ』『ナポレオンフィッシュ』『アオウミガメ』など。一方、南通路に掲示されていたプレートには『ハリセンボン』『アカクラゲ』『オニダルマオコゼ』『シロワニ』などの名前がありました。しかし、何度も言うようにプレートの張られていた場所こそ違えど、これらの生物は同じ大水槽に展示されていた生物のはずなんです。だとするなら、生物学的に異常な展示と言わざるを得ません」
「異常って……」
「この中でシロワニは人こそ滅多に襲いませんが雑食性のサメとして有名で、その辺の魚程度なら容赦なく襲う生物です。毒や針のあるハリセンボンやオニダルマオコゼやクラゲ類ならまだしも、イワシだのエイだのウミガメだのに至っては絶好の餌です。それを一緒の水槽に入れたりすれば、水槽内の生物が全滅してしまいかねないのは明白でしょう。また、同じようにアオウミガメもクラゲなどを食べる習性があり、従ってアカクラゲはアオウミガメにとって格好の餌となります。ウミガメとクラゲを一緒に入れるなどという事は通常考えられない話で、これらを踏まえても著名な海洋生物学者であった宮森海次郎が作った水族館にしては、水槽に一緒に入れる生物がおかしすぎると言わざるを得ません」
確かに、言われてみれば大水槽内部の生態系は異常どころの話ではなかった。本来食物連鎖の関係にある生物同士を一緒の水槽内に入れており、まるで共食いし合ってくれと言わんばかりの状態なのである。さながらそれは強いものだけが生き残れる『蠱毒』と言われても仕方がない状態だった。
「ですが、それが今回の殺人事件と何か関係あるのですか? 確かにおかしな話だとは思いますが、これのどこが自動殺人装置の話につながるのか私にはわかりません」
武美の発言に対し、しかし榊原は落ち着いた様子で答えた。
「問題はこの異常な状況にもかかわらず、なぜ水族館の経営中に共食い等が発生しなかったかという事です。私はそこに、海洋生物学者・宮森海次郎が何か仕掛けをしていたと考えているんです」
「仕掛け、ですか?」
「えぇ。実はこの大水槽のプレートにはもう一つおかしな点があるんです」
榊原は鋭く言葉を続けた。
「なるほど、確かにこれらの生物を一つの水槽に入れていると仮定した場合、大水槽は異常な生態系になってしまいます。しかし、北通路のプレートに書かれていた生物群と南通路のプレートに書かれていた生物群で分けて考えると、この組み合わせは全く問題ない事がわかるんです。実際、南通路のプレートに書かれている生物は、シロワニを筆頭にそのシロワニが襲いそうもない生物ばかり。一方の北通路はそれ以外の生物で、なおかつ共食いが問題になりそうなものはいないという絶妙な組み合わせです。まるで、同じ大水槽にもかかわらず、別々の水槽に入れているかのような分け方です」
「……ん?」
その言葉に、赤橋が反応した。だが、それに応じる事なく榊原は話を進めていく。
「ここで事件の話に戻りますが、問題の山中純子殺害事件の際、死亡推定時刻に問題の大水槽に何ら異変がなかった事は夏沢さんが証言しています。それで皆さんは、大水槽は遺体を発見させるための演出に使われただけで、殺人そのものには無関係だと考えてしまったわけですが……ここで言う大水槽は、あくまで『南通路から見た大水槽』に過ぎません。しかし、もしこの大水槽そのものに、皆さんが気付いていなかった宮森海次郎謹製の大仕掛けが存在したとすれば……そこに誰にも気付かれなかった自動殺人装置が出現するとは思いませんか?」
「お、おい! まさか……」
何かに気付いたのか迫水の表情が変わっている。だが、それに対し榊原はこう続けた。
「続きは二階のバックヤードで行いましょう。そっちの方が手っ取り早いので」
誰も反対する人間はいなかった。
五分後、榊原たちは二階バックヤードの東エリアにいた。目の前には薄汚れた水の入った大水槽が広がっており、ここに安置されていた純子の遺体はすでに外に搬出されているため存在しない。そんな中、榊原は大水槽をバックにキャットウォークの前に立って、推理を再開させた。
「ご覧の通り、この大水槽は上から見れば明らかに同じ水槽に見えます。このキャットウォークから見て右手側に北通路、左側に南通路のガラスがあるわけで、山中純子の遺体はこのうち左手の南側に浮かんだという事になります。そうですね?」
「あ、あぁ」
代表して赤橋が小さく頷く。
「おまけに水は濁っていた上に、犯行当時は暗かった。この状態では下の南通路からガラス越しに水槽の全体像を把握する事は不可能に近い。……どうですか!」
榊原が呼び掛けると、反対側の西エリアのポンプ室の前にいた鑑識職員がそれに応じた。
「大丈夫です! ひとまず、ポンプと自家発電装置の応急処置は済ませました。長時間は無理ですが、短時間なら稼働できます!」
「では、お願いします」
榊原の言葉に、鑑識職員がポンプ室の中に入って行く。
「現場を見て気になったのが、ポンプ室内のポンプや自家発電装置が破損した状態で発見された事です。一見すると廃墟によくありがちな光景にも見えますが、よくよく考えてみればこれはかなり不自然な光景と言わざるを得ません。この水族館は別に災害などで閉館したわけではない。ガラスが割れたり老朽化で破片が落ちたりするくらいならまだしも、機械が放置しておいただけで自然にあそこまで破壊されるというのは、いくら廃墟だからといっても普通ならあり得ない話のはずなのです」
赤橋たちは顔を見合わせる。確かに、廃墟だから備品などが壊れていても当たり前と安易に考えていたが、言われてみればおかしな話である。
「で、でも、他の廃墟なんかだと備え付けの備品なんかが破壊されている光景を見ますけど……」
一応、美柑が遠慮がちに反論したが、榊原は小さく首を振ってそれを否定した。
「それは自然に破壊されたのではなく、廃墟マニアなど不法に侵入している人間が意図的に破壊したり、あるいはそうした人間が不特定多数出入りしている中で徐々に破壊されたりしているからです。ですが、ここは絶海の孤島の廃墟。廃墟マニアどころか人がそもそも訪れられるような場所ではなく、一般的な本土にある廃墟のケースには当てはまりません。あそこまで機械が破壊されている以上、そこには明らかに人為的な要素が加わっていると考えるべきです」
「……一応言っておきますが、五年前のキロネックス事件の際にこれらの機械が破壊されたなどという事実はありません。そんな事があったら水槽の魚は全滅しているはずですし、警察の記録にも必ず残っているはずです。少なくとも、その状況で警察がキロネックス事件を事故死認定する事はあり得ません」
定野が補足をし、榊原が後を続ける。
「つまり、あれらの機械が破壊されたのは水族館が閉館してここが廃墟になって以降。そして、もしこの機械の破損がこの事件に関係しているとするならば、状況的に考えてそれを実行したのは犯人だったと考えざるを得ません。そして、そう考えた場合に次に浮かんでくる疑問は一つ。『なぜ、犯人がそんな事をしたのか?』です。先程も言いましたが、犯人は己の犯行に文字通り人生を賭けていますから、よほどの事がない限り余計な事はしないと考えます。もし、それでも余計な事をしているように見えるのなら、その余計な事の中には実は犯行に必要不可欠な必然が潜んでいると考えるべきです」
そう言って榊原は大水槽の方を振り返る。
「犯人にとって、あれらの機械を破壊する事は必然条件だった。では、なぜ機械を破壊したのか? 機械を破壊するのは機械を使えなくするため。機械を使えなくするのは、その機械を使われてしまうと何か犯人にとってまずい事が発覚してしまうからです。つまり、今からあの機械を動かせば、犯人が隠したかった何かが目の前に現れるはずなのです」
と、そこで鑑識職員が機械室から顔を出した。
「準備できました! いつでもいけます!」
「では、自家発電装置を稼働してポンプ装置を起動した上で、『北』と書かれた方を動かしてください。それで全てに片が付きます」
「了解です!」
そう言うと鑑識職員が引っ込み、直後にドアの開いたポンプ室から自家発電装置の起動音が聞こえてきた。
「一体、何を?」
「あのポンプは明らかに海水を水槽に吸入したり排出したりするためのもの。館長室にあった資料によれば、ここの水槽の海水は海につながっているパイプで直接周囲から吸入・排出していたそうです。今回はこの忌まわしい汚れきった大水槽の水を排出し、大水槽の底を見てみたいと思います」
「底って……そこに何か手掛かりでもあるというつもりですか?」
稲城が問う。と、そんな事を言っているうちにどこからともなく鈍い音がして大水槽の水面が揺れ、その水位が少しずつ下がり始めた。
……が、それを見た瞬間、その場にいた榊原を除く全員が、あり得ないものを見たような表情を浮かべていた。
「な……そ、そんな……」
「こ、これは、何がどうなっているんですか!」
彼らがそう叫ぶのも無理もない話だった。
なぜなら巨大な大水槽の水面のうち、キャットウォークの北半分の水面だけが下がり続け、遺体が見つかったキャットウォーク南側の水面は全く何事もなかったかのように静かな水面をたたえ続けていたからである。それは、さながらキャットウォークを境に、まるでモーゼが北側の水だけを排除し、海の道を作っているような光景であった。
「私は……私は夢でも見ているのか?」
目の前に広がる物理法則に反したあり得ない光景を見ながら武美が呻き声を上げた。他の面々も同じような反応で、それも当然といえば当然であり、同じ水槽の水面の高さが場所によって異なるなどという現象が現実に発生するはずがないからである。しかし、目の前にはそのあり得ない光景が間違いなく出現していた。
「せ、先生! これは一体……」
瑞穂が榊原問いかけると、榊原はこう言った。
「別に私がモーゼのような奇跡を起こしたとかそんな話じゃない。種明かしは簡単だ。試しに、水がなくなった所からキャットウォークの下を見てみなさい」
「下、ですか?」
瑞穂が恐る恐る水が減り続けている北側からキャットウォークの下を覗き込む。そして、瑞穂は息を飲んだ。
「これって……」
キャットウォークの下……本来なら何もないはずのその場所に、先程まで水により全く見えなかった薄汚れた巨大なガラスが大水槽を南北に区切るように鎮座していたのだ。それを見た瞬間、瑞穂はこの水槽に仕掛けられたとんでもないカラクリに気が付いた。
「これってもしかして……大水槽の真ん中に、ガラスがもう一枚、水槽を分割するみたいにセッティングされているんですか!」
「そういう事だ。つまり、この水槽は一つの巨大な水槽じゃない。一見すると南北にまたがる大水槽に見えるが、実は真ん中で第三のガラスによって南北に分断された二つの水槽の集合体だったというわけだ(図1参照)」
榊原は右側だけ水がなくなっていく水槽の前で解説を加える。
「恐らく、実際に営業していた時には、この真ん中のガラスは水の屈折の関係で見えなくなるように仕組まれていたのでしょう。そうする事で客は北側からでも南側からでも大水槽全体を見渡す事ができ、すなわち『本来なら食物連鎖の関係で同じ水槽に入れる事ができない生物が同じ水槽で泳いでいるように見える』という光景を生み出す事ができたわけです。考案者は恐らく宮森博士ですが、彼にとってもかなり自信のあるアイディアだったのでしょうね。だからこそあのパンフレットのイラストにも、それを強調するように本来同居できない生物の組み合わせを描いていたわけです」
榊原はさらに続ける。
「この仕掛けは水が濁っていなければ特定できない事もありませんが、この通り水が濁っていた上に、ガラスの真上をキャットウォークが横切っていたので一見するとわからなくなってしまいました。ただ、気付けるヒントがなかったというわけではありません」
「ヒント、ですか?」
「例えば機械室のポンプの近くにあった『北』『南』という表示です。普通に考えたら北と南それぞれのポンプを操作できるという意味でしょうが、壁際の一般水槽に水を入れるポンプの操作盤は南北それぞれのバックヤードにあったので、このポンプは大水槽の水を操作するポンプのはずなのです。にもかかわらず、同じ水槽に二本もポンプが存在するのはなぜなのか? そう考えた時に、実は大水槽が南北で分割されている可能性に気付きました」
赤橋たちは機械室にそんな表示があった事を思い出していた。だが、仕組みがあまりよくわからなかった事もあって、正直「ポンプ室の表示とはこんなもの」とスルーしてしまったのである。今にして思えば、もう少し興味を持っておくべきだったと思える話だった。
「さて、こうしてこの大水槽に仕組まれたカラクリは暴かれました。このカラクリ自体は、この水族館が営業していた頃に宮森博士が客を驚かせるためという純粋な目的のために仕組まれたものだったはずです。しかし今回……このカラクリが悪用され、殺人が実行されたと私は考えています」
それを聞いて、生存者たちの顔に緊張が走った。そう、この驚くべきカラクリの解明はあくまで榊原の推理の前哨戦に過ぎない。ここからいよいよ、本格的に榊原による真相解明が始まっていくのだ。
「最初に言ったように、山中純子殺害事件において、容疑者であるあなた方には全員アリバイがあります。そのアリバイがあるからこそ、あなた方は誰が犯人なのか特定できず、袋小路に迷い込んでしまいました。しかし、犯人がもしこの水槽のカラクリを知っていたのだとすれば……水槽を使った『自動殺人装置』を形成する事が充分に可能となるのです」
「自動……殺人装置……」
あの時は一度否定した要素が、ここへきて再び復活してきた形である。そして、榊原はその『自動殺人装置』について語り始めた。
「ポイントは、今目の前に広がっているように、この大水槽の一方の水を抜いたとしても、もう一方の水槽の水には何ら影響を及ぼさない事です。あなた方は事件当日、南側の通路に陣取って南側からこの大水槽を見ていました。当然、目の前に広がる水槽の水位が下がったりしたらすぐに異常だとわかったはずで、そんな事がなかったのは事件当夜ずっと水槽の前にいた夏沢さんの証言から確実です。しかし、今実証したようにこの水槽は実は南北に分割されていました。あなた方は当たり前ながら大水槽は一つの巨大な水槽であると考えていたため、目の前に広がる水槽内に異常がなかった事から大水槽全体に異常がなかったと結論付けた。こんな仕掛けがあるなど普通に考えて気付けるわけがないのでこれは仕方のない話です。しかし、異常がなかったのはあくまで南側通路から見える大水槽の南側だけで、実はあの夜、大水槽の北側の水が密かに抜かれていたとすれば……そこに自動殺人装置を仕込む余地が発生するのではないでしょうか?」
榊原は減り続ける水面をバックに話を続ける。
「遺体の状況から、被害者は首を吊られる前に殴られて意識を失っていたと思われます。さらに、この水槽の近くには水槽の魚を調べる際に使うであろう青いプラスチック製の大きな桶がありました。犯人はこれと水槽の仕掛けを利用して、気絶した被害者の首を自動的に吊るす仕組みを作り上げたと考えられます。具体的には、この桶を北側の水面に浮かべた上でその桶の中に被害者を入れ、さらに被害者の首にその辺のロープか何かを輪にしてかけた上で、もう一方をキャットウォークの手すりにでも結び付けたのです。そして、ポンプで大水槽北側の水のみを排水する操作をした上でその場を離れた。すると、残された桶の中に入れられた被害者はどうなりますか?」
「そ、それは……」
その光景を思い浮かべて、赤橋は言葉がそれ以上続かなくなったようだった。
「水が抜けるごとに水槽北側の水面は下がり、水面に浮かんでいる桶とロープの一端が結ばれたキャットウォークの距離は少しずつ離れていく。やがて一定の値を超えた時点でロープはピンと張り詰め、そのロープのもう一端の輪がかけられている被害者の首を徐々に吊り上げていく。そして、さらに水面が下がって被害者の足が桶を離れて宙に浮いた時点で、被害者は北側の水槽の中で首吊り状態となって死に至ってしまう。……こうすれば、犯人が現場にいずとも、被害者を誰にも気付かせないまま自動的に首を吊らせる事は充分に可能です(図2参照)」
ネタがわかれば非常にシンプルであり、それでいながらこの宮森水族館の水槽の仕掛けを完璧に利用し尽した大胆なトリックであった。
「このようなトリックが使用されたとすれば、被害者の遺体に残された不自然な痕跡にもすべて説明がつきます。あなたたちの話によると、亡くなった白松医師は山中さんの遺体を検視した際に、遺体に残されていた矛盾点について指摘していたそうですね」
「え、えぇ。定型的縊死と非定型的縊死の特徴が混在しているとか何とか」
赤橋が同意するように頷き、榊原はその謎に対する答えを暴きにかかる。
「被害者の首に残されていた索状痕は『定型的縊死』……つまり足が宙に浮くタイプの首吊り特有の左右対称の痕をしていました。にもかかわらず、その遺体には『非定型的縊死』……体の一部が地面につくタイプの首吊りに見られる顔面の鬱血や眼球の溢血も確認されています。これは一見すると矛盾以外の何物でもない状況ですが、先程のトリックが使用されたとすれば、矛盾は矛盾ではなくなる。このトリックでは水面が下がり、ロープが張り詰めた時点で被害者は桶の中で首を吊られ始めますが、この段階では体が桶の底についた状態での首吊りになるため『非定型的縊死』の形となり、この首吊り特有の顔面の鬱血や眼球の溢血が発生します。しかし、さらに水位が下がると被害者の体は桶から離れて水槽内で完全に宙吊りになる形となる。この時点で被害者は確実に死亡し、同時に実際に宙吊りになっているので問題の索状痕は『定型的縊死』に見られる左右対称の物に落ち着く事になるのです。逆に言えばこの遺体の状況こそが、このトリックが使用された何よりもの証拠になると考えます」
榊原の推理を聞いて、その場の誰もがその時の情景を思い浮かべる。暗闇の中、徐々に水位が下がる水槽の中で何もできないまま徐々に首を吊られていく山中純子。それはある意味、ちょっとしたホラーよりも怖い光景だった。
「もちろん、途中で被害者が目覚めたとしたらそれなりの痕跡は残っていたはずですが、今回は不幸にも被害者は途中で目覚める事なく首吊りが完成する事になってしまったのでしょう。もっとも、これだけの事をした犯人の事ですから、仮に被害者が途中で目覚めても絶対に仕掛けから逃れられないような仕込みはしていたはずですがね。具体的には、何らかの手段で手足を封じるくらいの事はしていたと思いますが」
と、ここで武美が手を挙げた。
「失礼。いくつか質問をしても?」
「もちろんです。何でしょうか?」
「まず、ポンプを動かして水を排出するとなれば、直接見えなくても音は聞こえるはず。それに私たちが気付かなかったというのは解せない気がするのですが」
もっともな疑問だったが、榊原は即座に応える。
「いえ、普通の施設ならともかくここは元水族館です。防音についてはしっかりしていると考えるのが筋でしょう。例えば実際の水族館では客がいる時でもポンプは動いているはずですが、その稼働音が客のいる場所まで聞こえてくるかという話です」
「……確かに、それはなさそうですね。少なくとも、私は水族館でそんな経験をした事はない」
武美はあっさりとその指摘を受け入れる。
「水槽内の水その物の音にしても同じ事です。水が増減する北側の水槽とあなた方がいた南側の通路は、水が満杯になった南側の水槽で完全に分断されています。この状況で音が届くとは思えませんし、多少音が聞こえても、それこそ外の台風の音と判断される可能性の方が高い。南側の通路にいる人間に目の前の水槽の北半分だけ水が増減しているなど想像できるわけがない以上、音でばれる可能性はないと考えていいでしょう」
「なるほど、一理ありますね。では、それについては良しとしましょう」
武美はそう言うと、続けてさらなる質問を行った。
「では次に、大水槽がこうして南北二つに分かれていたのはわかりましたが、ならばその水面で生じる波や波紋も本来ならそれぞれの水槽で独立したものになるはずです。ですが、私たちが山中さんの遺体を引き上げた時、それによって生じたさざ波や波紋は水面全体に広がっていました。もちろん薄暗かったので細部はわかりかねますが、少なくともさざ波が南側だけしか広がらなかったという事はなかったはず。もしそんな事が起これば明らかに怪しいですし、いくら山中さんが殺されて慌てていたとしても気付かないという事はないでしょうからこれは確実です。これについてはどう考えますか?」
武美の鋭い問いかけに、榊原は目で水槽の方を示しながらこう答える。
「この水槽の中央にあるガラスの『仕切り』ですが、厳密に言うとキャットウォークとガラスは繋がっているのではなく、キャットウォークとガラスの上部の間に三十センチ程度の隙間がある形となっています。そして先程北側の水を抜くまでの間、この水槽の水面がガラスの上部十センチ程度の所にあったとすれば波の問題は解決します(再度図1参照)」
「つまり、この二つの水槽は上部十センチ程度の水面近くの部分だけ共有する状況だったと?」
「もちろん、実際に水族館が営業していた時はこんな事になっていなかったでしょう。たった十センチとはいえ水面がガラスの仕切りより上になってしまうと、中の生物がいつ水槽を移動してしまうかわかりませんから。恐らくですが当時の水槽の水面は、南北双方がガラスの仕切りの一番上から十センチ程度下の部分になるよう調整されていたはずです。というより、このトリックが実行されるまでは実際にそうなっていたと思いますよ。それは水槽の淵に残る汚れの痕跡を調べれば証明できると思います。何分数年分の汚れですから一度水につかった程度で取れるものではなく、汚れと水面の境界の痕跡はこの事件が起こる前の水面の高さのものになっているはず。それが今の水面の高さと一致していなければ、事件時に水面の高さの変動があった事の証明となるでしょう」
実際に水が減った大水槽北側で確認してみると、確かに先程までの水面の痕は水槽の一番上の部分にある小さな排水溝の辺り(つまり水を入れられる最大上限の位置)にあったが、長年の汚れで形成された水面の痕は、大水槽中央のガラスの仕切りより十センチほど低い場所になっていた。ここ最近水面の変動があったという明確な証拠が目の前で示された形である。
それを確認すると、武美は榊原に対してさらにこう突っ込んだ。
「要するに、水面がガラスの仕切りの上の高さになるようにしたのは犯人の仕業だと?」
「その通りです。犯行後に北側の水槽に水を入れる作業をした際にその小細工をしたのでしょう。理由としては、トリックの肝となる中央のガラスの仕切りの存在を皆さんの目から隠し、さらに今まさに佐伯さんが指摘したようなさざ波や波紋の矛盾を発生させないようにするためといったところでしょう。遺体発見後、水槽に浮かぶ山中さんの遺体が引き上げられる事は充分予想できる話ですから、それに対する備えは必要だったはずです。もちろん、工作の過程で水槽の水面は若干上昇するわけですが、夜間に南側御通路からそれを見たところで、その程度ではまず気付かれないでしょう」
「……なるほど。矛盾はないようですね」
武美は納得したかのように頷いた。
「以上が、山中純子殺害に使用されたトリックです。そして、このトリックを使用する場合、犯人を特定するためのいくつかの条件が設定できます」
榊原の言葉に誰もが息を飲んだ。
「説明した通り、このトリックが使用されたとした場合、実際の犯行時刻は夏沢さんがスケッチをし始める午前二時よりも前。この時間帯におけるアリバイは全員にありませんので、ここから犯人を特定する事は不可能です。ですが先程説明したように、犯人にはすべてが終わった後に再びポンプで大水槽の北側に水を入れる作業と、水が満ちた後で山中純子さんの死体を大水槽の南側に移す処置をし、さらに用済みになったポンプ装置を破壊する作業が残っています。それぞれの作業は短時間で終わるとはいえ、これを実施するには夏沢さんの目の前を通ってトイレに行くふりをするしかありません」
榊原は条件を確認していく。
「今の実験における水の減る速度や館長室に残されていた資料から考えると、この水槽から水を完全に抜くのにかかる時間は三十分前後と思われます。山中純子さんの死亡推定時刻が午前二時から午前四時の間で、なおかつ午前二時過ぎ以降は夏沢さんが水槽前に陣取っていた事から考えると、実際にこの作業を行ったのは午前一時半過ぎから午前二時頃で、被害者が自動殺人装置で首を吊る事になったのは午前二時から二時半頃だったと考えるのが筋でしょう。一方、逆に水槽に水を入れる作業も抜く時同様に三十分前後かかると仮定しましょう。そうなると、犯人は山中純子さんが死亡した二時半以降にもう一度ポンプの操作をする必要があり、さらにその操作から三十分以上後に遺体の処理やポンプの破壊のために再び二階に行く必要があるわけです。もっとも、二回目は五分程度でやるには少し厳しいので、少し長めに時間を取るか、あるいは二回に分割した可能性もありますが」
そう言ってから、榊原ははっきり告げる。
「つまり、犯人は夏沢さんがスケッチを始めた午前二時以降、二回もしくは三回トイレに行き、なおかつ一回目と二回目の間が三十分以上空いている人物です。そして、それに該当する人物はこの中にたった一人しか存在しないんですよ」
そして、榊原はゆっくりと『その人物』の前に近づき、顔をこわばらせている『その人物』に語り掛けた。
「さて……ここまでの推理で何か言う事はありますか? 今回、この廃墟の水族館で不気味な連続殺人を実行した真犯人の……」
直後、榊原は声を鋭くして『その人物』の名を告げた。
「花園真凛さん!」
その声に真犯人……アイドル歌手の花園真凛は小さく肩を震わせ、青ざめた表情ながらも榊原を睨みつける。だが、榊原は構う事なくこう続けた。
「あなたが、この事件の真犯人です。反論があるなら聞きましょうか」
それは、澱んだ水面に何人もの命を飲みこんだ廃墟の水族館を舞台に、『真の探偵』と『真犯人』による、犯罪史にその名を残す論理の決闘が始まった瞬間だった……。