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第九章 七月二十九日~解放

 七月二十九日午前九時頃。ようやく台風が過ぎ、穏やかさを取り戻しつつあった尾鷲港に、何人もの刑事たちが集まっていた。その中に、昨夜同様のスーツ姿の榊原や、瑞穂、英美里といった面々も交じっていた。

 いよいよこれから、行方不明になっている金島達の捜索が始まろうとしていたのである。先頭に立つ定野が、刑事たちに大声で呼びかけた。

「それでは、これから捜索活動を開始する。ひとまず、先日の会議で出ていた魚島を第一捜索目標とし、そこで発見されないようなら順次捜索範囲を拡大していく予定だ。尾鷲の漁師の方々にも協力をお願いしているが、二次遭難だけは絶対に避けるように!」

「はっ!」

 返事と同時に、刑事たちは県警所有の警邏艇や協力してくれている漁船などに乗り込んでいく。また、上空には三重県警航空警察隊や海上保安庁のヘリも飛び交っており、台風一過の熊野灘は物々しい雰囲気に包まれつつあった。

 榊原たちは、定野と一緒に漁船の一つに乗り込んだ。それから間もなくして漁船は桟橋を離れ、まだ少し波が残っている熊野灘へと出港していく。その後ろにも何隻もの船が続いており、不審な物が浮かんでないかを確認しながら前進を続けていた。

「いよいよ、ですね」

「あぁ」

 瑞穂の言葉に、榊原は前方を見つめながら答えた。地元の漁師の話では尾鷲から問題の魚島まで大体二十分前後かかるらしい。ただ、五年前の事件が起きて以降、廃墟の無人島と化した魚島に行くような物好きな人間は皆無であり、島に残されている港がまともに機能するかどうかはわからないという事だった。

「そもそも、そこに避難をしているかどうかも確率は半々ですよね」

「そうなるね。まぁ、いなければいないで次の推理を進めるだけだ。とにかく、状況を確認しないと話も推理も進まない」

 心配そうな瑞穂に、榊原は冷静にそう言い切る。英美里は、少し複雑な気持ちで海原を見つめていた。

 やがて、漁船の正面に小さな島がぼんやりと浮かんできた。それを見て、操舵する漁師が厳しい表情で告げる。

「見えました。あれが魚島です」

 船内に緊張が走る。見てくれはどこにでもあるような無人島にしか見えない。

「さて、当たりか外れか……」

 と、ここで船内の無線に先行する航空警察隊から連絡が入った。

『至急、至急! 上空から確認したところ、湾内の港にレジャー用のクルーザーが打ち上げられているのを確認した! 繰り返す! 港にクルーザーらしき小型船舶が打ち上げられているのを確認! 付近に人影は確認できず!』

「せ、先生!」

 上ずった声を上げる瑞穂に対し、榊原は真剣な目で告げる。

「どうやら、当たりのようだ。定野警部!」

「わかっています! 急いでください!」

 定野が漁師をせかし、漁師は無言で頷いて船の速度を上げた。それから数分もしないうちに、榊原たちが乗る漁船は、魚島の港がある湾の中へと進入していた。

「あれだな」

 その正面、港の敷地内に、台風の高潮で陸地に打ち上げられたと思しきクルーザーが横倒しになっているのが確認できた。即座に定野が船体に書かれた登録番号を確認し、そして重苦しい表情で頷く。

「間違いありません。金島が所有しているクルーザーの船体番号と一致します」

 そのまま、漁船はすっかりボロボロになった港の桟橋の近くに接岸する。同時に定野を先頭に、榊原たちは魚島に降り立った。強烈な潮の臭いが周囲に蔓延しているが、これは高潮で港に打ち上げられた海水によるものだろう。そんな中、榊原と定野は慎重に横倒しになったクルーザーに接近し、中を確認する。が、すぐに定野が首を振った。

「駄目です。誰もいません」

「あの台風をこんなちゃちなクルーザーの中でやり過ごそうというのは自殺行為ですからね。となると避難先は……」

 二人の目は島の崖の上にある問題の廃墟の方へと向いた。そうこうしている間にも、後続の漁船から刑事たちが続々と港に降り立ってくる。静かな無人島は、一気に騒がしさを取り戻しつつあった。

「行きましょう」

 定野と榊原を先頭に、英美里や瑞穂、刑事たちは港の奥にある道へと足を踏み入れた。台風の暴風で道は大量の湿った落ち葉で埋め尽くされており、アスファルトの道でありながら行進は困難を極める。だが、それでも彼らは少しずつ足を進め、ついに三十分後に崖の上にそびえる巨大で無機質な廃墟の前にまで到達する事に成功していた。

「これが……伊勢宮森水族館……」

 全員が一度足を止め、その異様な雰囲気にしばし息を飲むが、やがて定野の合図で皆が皆緊張した様子で建物の入口へと近づいていく。

 扉は閉じていた。が、刑事の一人が手をかけると、鍵はかかっていないのかすんなりと開いていく。全員が懐中電灯を装備し、刑事が扉を一気に全開にすると同時に定野と榊原を先頭に複数人が館内に一気に踏み込んだ。

 目の前には奥へ続く通路のようなものが広がっていたが、瓦礫が水槽の残骸が転がっているだけで人の姿はない。向かって右手の手前と奥に扉が見えるが、どちらも固く閉ざされているようだった。

「誰かいますか! いたら返事をしてください! こちらは三重県警です!」

 定野が大声を上げて人の有無を確認するが、反応はない。何とも不気味な静けさが館内には漂っていた。

「不気味ですね」

「他に風雨を防げそうな場所はこの島にありません。船が港にあった以上、必ずどこかにいるはずです」

 そう言いながら、定野たちが館内をゆっくりと前進しようとした……その時だった。突然、すぐ横にある扉が、何の前触れもなしにドンッと激しい音を立て、その場にいた全員がビクッと肩を震わせながら反射的にそちらを見やった。

「何だ?」

 定野が思わずそんな言葉を漏らす、と、次の瞬間、扉の向こうから、かすかではあるが確かな声が響き渡ったのである。

『ここだ! ここにいる! 助けてくれ!』

 それは間違いなく、生きた男性の声だった。すかさず定野が叫ぶ。

「要救助者発見! この向こうだ!」

 定野はすぐに扉に駆け寄り、

「警察です! 大丈夫ですか?」

『助かった! ここを開けてくれ! こっち側にシャッターが下りていて出られないんだ!』

 よく聞くと、声は二人分聞こえてくる。

「お名前を聞かせて頂いてもよろしいですか!」

『あ、赤橋輝雄と、迫水真太です! ここにはあと、四人います!』

 いずれの名前も別荘にいた人間として名前が挙がっていた人物である。しかし、そうなると人数が六人しかいないというのがいささか気になる話だった。英美里の話では、別荘には十一人の人間が集まっていたはずである。

「人数が少ないですね」

「えぇ。嫌な予感がします」

 榊原のささやきに定野も同意する。と、そこへ後ろから英美里が前に出て扉に向かって呼びかけた。

「赤橋君、迫水君、大丈夫なの!」

『その声……綿野か!』

「そうよ! よかった……」

 そう言って泣き崩れる英美里を、後ろにいた瑞穂が支えようとする。とにかく、今はこの扉を開ける事が必要である。チラリと後ろを振り返ると、すでに溶接道具を持った救助隊員が待機している状態だった。

「離れてください! 今からこの扉を開放します!」

 だが、その前に、扉の向こうからさらにこんな声がした。

『待ってください! まさかとは思いますが、奥の扉の方も開放しようとしていないでしょうね?』

 思わぬ言葉に榊原と定野は一瞬顔を見合わせ、定野がその問いかけに答えた。

「ここの救助が終わり次第、そちらにも取り掛かるつもりですが……」

『駄目です! そっちの扉の先には毒ガスが充満しています! 下手に開けたら死者が出るかもしれない! 絶対に開けないように!』

「毒ガス、ですか?」

 予想もしていなかった単語に、その場の誰もがギョッとする。ただ一人、榊原だけは険しい顔を奥の扉へと向けていた。

「どうやら……本格的にこの廃墟の中で、何かが起こっていたようですね」

 何はともあれ、今は救助が先だ。今度こそ救助隊員たちが前に出て、溶接道具で扉を焼き切りにかかる。その間に、榊原は定野と今の状況について話し合う。

「どうも、事態は最悪の状況を迎えているようです」

「十一人いたはずのメンバーのうち、この奥にいるのは六人だけ。では、残り五人はどこに?」

「行方不明になっているか、別の場所にいるだけならいいんですが……どうもそうではなさそうですね」

「一体、この廃水族館で何が……」

 と、その時、溶接道具で南の扉と格闘していた救助隊員が叫んだ。

「開きます!」

 その言葉と同時にまず南の扉が開放され、続いてその奥にあったシャッターも溶接道具で穴があけられる。そして、その穴から中をのぞき込んだ定野たちは、暗闇に包まれた南通路に一列に並ぶ救命いかだと、未だに濁った水をため込んだままの大水槽に対面する事となった。

「これは……」

 と、その水槽の前に疲れ切った表情の二人の男がいるのが見えた。どうやら先程の声の主たちらしい。その男たちは定野たちを見てしばらく眩しげな表情を見せていたが、やがて感無量と言った風に、ポツリとこう呟いた。

「よかった……たす、かった……」

 その様子を見て、定野は鋭い口調で叫んだ。

「生存者発見! 繰り返す、生存者を発見した!」

 ……それから数分の間に、南通路やそこに置かれた救命いかだの中にいた男性三名に女性三名の生き残り六人は全員救助される事となった。そして、直後に彼らの口から昨日から今日にかけてこの廃墟の水族館で発生した恐るべき連続殺人の事実が明らかにされると、警察関係者たちは別の意味で戦慄し、榊原は唇を噛みしめながらも後ろでそれを静かに聞いていたのだった……。


 警察が伊勢宮森水族館の廃墟に突入してから三十分後、廃墟の水族館内部には警察関係者がひしめいていた。毒ガスが充満しているという北通路は封鎖されたままの状態が続いており、五年前同様に愛知県警から毒ガスのスペシャリストであるテロ対策特殊部隊がやってくるのを待つ形になっている。このため、北通路及び北バックヤードに放置されているというリタ、戸塚、白松の遺体は未だ回収できておらず、現状では二階の大水槽脇に放置されていた純子の遺体のみが回収されている状態だった。

「まさか、こっちが手を出せないでいる間に四人も殺されていたとは……正直、これは想定外です。榊原さんはどうですか?」

「……いえ、私もさすがにここまでの事態になっているとは予想できませんでした」

 彼らが立てこもっていた南通路の現場検証をしながら、定野と榊原はそんな会話を交わしていた。状況が状況なので、榊原も引き続き協力者という形で捜査に加わっている。

「しかも、肝心の金島は行方不明……。一体、ここで何があったんでしょうか?」

 定野の問いに対し、しかし榊原は黙って周囲を見回しただけだった。そのまま開放された東通路への扉を抜け、北西の隅にある扉から二階へ向かう。二階の大水槽の東側エリアでは、すでに何人かの刑事たちが捜査を始めていた。天井のガラス天井からは久しぶりの日光が差し込み、澱んだ大水槽の水面を照らしている。

「廃墟の水族館の放置された大水槽か……」

 生存者たちの話では、この水槽に山中純子の遺体が浮かんだのだという。その山中純子の遺体は簡単な検視の後にすでに搬送されていて、今頃は警察の警邏艇で本土へ向かっているはずである。この後、本格的な司法解剖が行われる手はずとなっていた。

「これはまた、圧巻な光景ですね」

「大水槽の水が抜かれないまま放棄されたとは聞いていましたが、これほどとは」

 大水槽の水は満水のようで、プールの淵近くに四カ所設置されている排水口の位置ギリギリの場所に水面があった。どうやらこの排水溝は、プールから水があふれるのを防ぐために設置されているようだった。

 ひとまず、そのままキャットウォークを渡って西側のエリアへ向かおうとする。が、その途中で榊原が不意に足を止めた。

「どうしました?」

「いえ、これ……」

 見ると、キャットウォークの中央付近の北側の手すりに、何か擦ったようなかすかな痕が残っているのが見えた。どうも何かが接触したというか、そんな感じの痕である。

「気になりますか?」

「一応、鑑識に調べてもらった方がいいかもしれません。殺人現場である以上、何が手掛かりになるかわかりませんから」

 そのまま反対側に渡ると、すでに何人かの鑑識職員が鑑識作業のためにあちこちをうろついているところだった。と、機械室にいた鑑識職員が出てきて報告する。

「駄目ですね。自家発電機もポンプ装置もだいぶ壊れていますね」

「廃墟だからある程度は仕方がないが……直せそうか?」

「どうでしょう。やってみなきゃわかりませんが、それでも今日中には厳しいかもしれませんね」

「そうか」

 一方、榊原は話を聞きつつも、黙って大水槽の水面の方を眺め続けていた。

「昨日の朝、ここに山中純子の遺体が浮かんだ、か」

 そう呟きながら周囲を観察する榊原の視線はかなり厳しい。彼自身、この一件が一筋縄ではいきそうにない事を感じているようだった。

「榊原さんはこの事件、どう思われますか? 成海洋子殺害だけでも相当だったのに、加えて連続殺人となると……」

「まぁ、色々考える事はありますよ。今はひとまず、情報が必要ですね」

 そう答えると、榊原はそのまま元来た道を引き返そうとする。

「どちらへ?」

「生存者たちから話を聞いてみようかと。詳しい調査は、それからでも充分です」

 こんな状況にもかかわらず、榊原はあくまで自分のペースを貫き続ける。定野はそんな榊原が頼もしくもあり、それと同時に少し恐ろしくも感じたのだった……。


 その頃、水族館の外に急遽設置された救護テントの中では救助された面々……すなわち、赤橋輝雄、迫水真太、稲城将成、佐伯武美、花園真凛、夏沢美柑の六人が疲れた様子で手当てを受けていた。そんな中、英美里は久方ぶりに再開した友人たち相手にどんな表情を浮かべたらいいのかわからず、わけもなく涙を浮かべていた。

「やぁ……まさか、綿野さん本人が助けに来てくれるとは思わなかったよ。ありがとう」

 最初にそう言って感謝の意を示したのは武美だった。対して、英美里は泣きながら言葉を紡ぎ出していく。

「本当に心配した……。こんな天気だったし、みんな死んじゃってたらどうしようって……」

「悪かった。ただ……素直に喜ぶ事ができないのも事実だな」

 赤橋の言葉に、その場に重苦しい空気が漂う。実際、ここにいる仲間の人数は当初の半分程度しかいない。そして少なくとも四人の仲間が、永久にこの水族館から出る事ができなくなってしまったのである。

「一体、ここで何が起こったの? 何でこんな殺人なんか……」

「それは俺たちが知りたい事だよ。むしろ、ずっと本土にいた綿野は何も知らないのか? 一体今、警察はどこまで状況を掴んでいるんだ?」

「えっと、それは……」

 迫水の問いかけに、英美里は思わず言葉を濁した。というのも、実は英美里は彼らと再会する前に、榊原からある事を強く要請されていたのである。

 それは、金島の別荘で成海洋子の遺体が見つかったという事をひとまず現場検証が終わるまでは彼らに言わないでほしいというものだった。英美里はなぜそんな事をするのかわからなかったが、それに対する榊原の返事は簡単だった。

「『容疑者』にこちらの手札をさらす必要はない。それだけの話です」

「よ、容疑者って……」

 思わず英美里は抗議しようとしたが、それを遮るように榊原は鋭い口調で言った。

「台風で閉ざされた絶海の孤島に複数の人間が閉じ込められ、そして殺人事件が起きた。そうなれば、生き残った人間を疑うというのは至極当たり前の話です。残念ですが、今回もそれは例外ではありません。たとえそれが、綿野先生の友人であったとしてもです」

「それは……」

「お願いできますね?」

 榊原のそんな真剣な言葉に、英美里も頷かざるを得なかった。

 と、英美里がそんな事を思い出していると、当の榊原が何食わぬ表情でテントの中に入ってきた。全員の視線がそちらへ向くと、榊原は表向き礼儀正しく挨拶をした。

「どうも、お疲れのところすみませんが、事件について話を聞かせて頂けませんか?」

「えっと、刑事さんですか?」

 稲城の問いに対し、榊原は首を振った。

「いえ、都内で私立探偵をしている、榊原恵一と言います。今回は志摩警察署で綿野先生から依頼を受けまして、あなた方の捜索に協力していました」

「依頼って……英美里、どういう事なの?」

 真凛の問いに英美里が答えようとするのを、榊原が遮るように答える。

「二日前の夕方、綿野先生は別荘に人気がない事に不審を覚えて志摩署に助けを求めに来ましてね。そこでたまたま県警からの仕事を終えたばかりの私と出会って、私は彼女から一緒に別荘を調べてほしいという依頼を受けました。で、調べたところ別荘内には誰もいなかったので、こうして県警と一緒にあなた方の行方を捜索していたというわけです。もっとも、島内で殺人事件が起こっているという事はさすがに想定外でしたがね」

 榊原の言った事は、別荘内での成海洋子殺害について語っていない事を除けばほぼ事実の通りだった。

「まぁ、そんなわけで、事の成り行きで今も県警からの要請でこうして捜査に協力しているわけですが、今回の事件に関してあなた方からもいくつか話を伺いたいのです。よろしいでしょうか?」

「まぁ……構いませんけど」

 赤橋が代表して言い、他の面々も頷く。

「ありがとうございます。では、まずここで何が起こったのか、お手数ですが最初から詳しく教えて頂けませんか?」

 その発言に、赤橋たちは思わず顔を見合わせる。

「事件の話はさっき警察に話しましたが」

「もちろん、大まかな流れについては私も一通り聞いていますが、記憶がまだ鮮明であるうちに、さらに詳しい部分までしっかり聞かせて頂きたいのです。不十分と感じるところについてはその都度こちらからも質問します。お友達を亡くされてお辛いのは重々承知の上ですが、事件解決のため、お願いできませんか?」

 そう言われてしまっては、赤橋たちからしてみても断るわけにもいかなかった。

「まぁ、それが事件解決に役立つなら俺は構いませんが……みんなはどうだ?」

 赤橋に聞かれて、他の面々も「必要な事なら……」と、不承不承ではあるが了承してくれた。それを聞くと、榊原は深く頭を下げた。

「ありがとうございます。では、早速ですが別荘に集まってクルージングに出るところからお願いできますか?」

 ……そこからしばらく、榊原を前にして、赤橋たち生存者たちはここ二日間の間にこの島で起こった事件の詳細を語る事となった。榊原による聞き取りはかなり徹底しており、赤橋たちの行動や起こった事象に関するかなり細かい部分を聞いたのみならず、その時折で誰がどのような発言をどのような意図で行ったのかまで説明を求められた。

 例えば、一日目に館内に避難した時の話では、こんな問答が繰り広げられた。

「なるほど、話を聞く限りあなた方は救命用いかだを使って南通路に籠城していたようですが、そもそもあの救命いかだはどこから持ってきたのですか?」

 赤橋たちは一瞬顔を見合わせると、代表して武美が答える。

「倉庫にあったものを使ったんです。救命いかだがそこに保管されていると知って、無理やりこじ開けました。事件が起こって通路が閉鎖される前の話です」

「なぜそこに救命いかだがあるとわかったんですか? 普通そんなものは水族館にはないでしょうに」

「入口の受付に放置されていたパンフレットを見て判断しました」

 稲城がポケットからクシャクシャになったパンフレットを差し出し、『企画展示』の欄を示しながら事情を説明する。榊原はしばらくそのパンフレットを見ていたが、やがて小さく頷いた。

「なるほど、事情はわかりました。これ、預かっても?」

「えぇ、構いませんが」

 稲城の言葉に、榊原はどこから取り出したのかビニール袋を用意してパンフレットを中に入れた。迫水が呆れたような声を出す。

「何でそんなものを持っているんですか?」

「まぁ、仕事柄こういう事が多いものでしてね。普段から持ち歩いているんですよ」

 榊原はそう言ってさらっと流し、そのまま次の話題に移っていったのだった。

 これはあくまで長い聴取の一部分に過ぎないが、そんな感じで話を進めていく間に、傍らに控えていた英美里自身も、事件の状況についてはかなり詳しく知る事ができた。ただ、それと同時に事件が人知れず進行していた時の絶望もひしひしと伝わって来て、英美里は途中から胸が苦しくなってきていた。

 だが、話し始めてから一時間が経過した頃になって、それもようやく終わりを告げようとしていた。どうやら満足できるだけの情報を入手したと思しき榊原は、軽く息を吐いて赤橋たちに感謝の意を告げた。

「ありがとうございます。これで一応、事件についての大まかな事はわかったと思います。また何か新事実がわかればお話を聞くかもしれませんが、とりあえずはこれで結構です」

 榊原がそう言うと、その場に張り詰めていた緊張感が薄れ、何となくホッとした空気が流れた。が、それを予想していたのか、榊原は何気なくといった風に更なる会話を試みる。

「それにしても、話を聞いている限り危なかったですね。いえ、島での事ももちろんそうですが、最初のクジラとの衝突も、一歩間違えればそのまま台風の海で遭難する可能性さえあったわけですから。そうなったら事件以前の話として、全滅する危険さえありました」

 と、この発言には赤橋が反応した。

「クジラって……やっぱり、あれはクジラにぶつかったんですか?」

「現状ではその可能性が非常に高いと考えています。事実、昨日の時点で船とぶつかった痕跡が残るマッコウクジラの死体が尾鷲市の海岸に流れ着いているのが発見されています。詳しくはクルーズ船との照合が必要ですが、他にこの近海でクジラとぶつかった船舶は確認されていないのでまず間違いないでしょう」

「そうでしたか……」

 赤橋は何とも複雑そうな顔をしている。そのクジラとの衝突がこの事件のきっかけになったのだから、何がどうなるかわからないものである。

「では、私はこの辺で。最後に、何かまだ話しておく事があるという方はいませんか? この際、どんな事でも構いませんが」

 あくまで最後の確認と言った風だったが、意外な事に、これに手を挙げたのは赤橋だった。

「あの、一ついいですか?」

「何でしょう?」

「その……ここではちょっと」

 どうも全員の前では言いにくい事のようである。榊原は察したのか、赤橋だけを連れて一度テントを出る。

「これでいいですか?」

「すみません。少し、他の人の前では話しにくい事でして」

 そう前置きしてから一呼吸置き、赤橋が語り始めたのは、彼らが救助される直前に遭遇した不気味な出来事……何もいないはずの水槽の中を泳ぐ蛸に似た影の事だった。

「……なるほど。萩原朔太郎の『死なない蛸』の再現、ですか」

「これを見たのは俺と迫水だけです。もしかしたら、見間違いかもしれませんが……」

「話はわかりました。後で鑑識に頼んで水槽の確認をしてみます」

「お願いします。こんな時に何を言っているんだと言われても仕方ないかもしれませんが、やっぱりどうしても気になって……」

 そう言ってから、赤橋は不意に目の前にそびえ立つ、巨大な水族館の廃墟を改めて見上げた。

「不思議な気分ですね。初めてこの建物を見た時は、まさかこんな事になるとは思いもしていませんでした。それが……たった数日で四人も仲間を失って……本当に、信じられない気分です」

「……」

「……一体誰が……何のためにこんな事を……」

 思わずと言った風に赤橋の口から洩れたその問いかけに答えるだけの言葉を、この時の榊原はまだ持ち合わせていなかったようだった。ゆえに榊原は、ただ黙って赤橋の言葉に応じただけだったが、その視線の奥から形容しがたい鋭い何かが発せられている事に、目の前の赤橋は全く気付いていないようであった……。


 榊原がテントを離れると、捜査の様子を興味深げに眺めていた瑞穂が榊原の元へ駆け寄って来た。

「どうでしたか?」

「必要な情報は聞けたと思う。あとはその情報から、どう論理を組み立てていくかだ」

「いつも通りって事ですか」

「そういう事になるね。状況がどうなっても、私がする事に変わりはないよ」

 と、そこへ後ろから定野が近づいて来る。

「どうも。島内を一通り調べましたが、行方不明の金島頼経らしき人間はどこにも見つかりません。こうなると海に落ちた可能性も真剣に考えなくてはならなくなりますね」

「でも、そうだったとして見つかるんですか? ただでさえ海は大荒れだったのに……」

 瑞穂が不安そうに言い、図星だったのか定野も渋い顔をする。

「正直、返す言葉もありませんね。あぁ、それから道警から例の件についての回答が届いたそうです。先程、尾鷲署の捜査本部から衛星電話で連絡がありました」

 何しろここは携帯も通じない場所なので、警察も衛星電話を用意して本土との連絡を保ち続けていた。その衛星電話を通じて、本土の捜査本部から連絡が来たという話であるが、瑞穂は定野の言葉に少し考え込んでから控えめに尋ねる。

「道警って、北海道警の事ですよね?」

「あぁ、海倉警部補の話を聞いた後、例の奥尻島地震の時のデータを送ってもらえるように三重県警を通じて頼んでいた。仮に五年前の宮森海次郎の死が殺人だったとした場合、動機となりえそうなのはここしかない。まだ推測段階に過ぎないが、恐らくこの時に何かがあったのだと思う。その何かにある程度見当をつけておかないと、犯人を追い詰める事はできない」

「……やっぱり、あの人たちの中に犯人がいるって事ですか?」

 瑞穂がチラリとテントの方を見ながら聞く。

「その可能性は高いだろう。台風で隔絶された島の、これまた封鎖された建物の中で殺人が起こったんだ。状況的にそれ以外考えにくい」

「でも、疑われる事がわかっていたのに、どうしてこんな状況で殺人を?」

「それも解決しなければならない疑問の一つではあるがね。まずは情報の確認だ」

 そう言いながら、榊原は定野に道警からの報告を求める。

「震災当時、宮森海次郎がいた旅館には、彼と彼の妻子、旅館の経営者夫婦、それに他の二人連れの客一組が宿泊していたそうです」

「旅館で生き残ったのは宮森海次郎だけでしたね?」

「えぇ。他は死亡、もしくは行方不明扱いになっています」

 そう言って、定野はその時旅館にいたメンバーのリストを差し出した。


【一九九三年奥尻島地震 旅館『駒海屋』被災者リスト(年齢は当時)】

・駒海竹蔵(68) ……駒海屋主人

・駒海なか(65) ……駒海屋女将

・宮森海次郎(45)……阪南海洋大学助教授

・宮森枝美(42) ……主婦、行方不明

・宮森匠(14)  ……中学二年、行方不明

・宮森千乃(14) ……中学二年、行方不明

・黒江香保子(25)……水産加工会社社員。

・高本順治(35) ……水産加工会社社員。


「報告によれば、最初の駒海夫妻が旅館の経営者。最後の黒江香保子と高本順治が同宿していた客で、二人とも函館市内にある『小勝田水産』という水産会社の社員でした。社内の人間の話だとこの二人は恋人同士で、この時は旅行で奥尻島を訪れていたようです」

「確か、宮森海次郎の妻子三人は今も行方がわかっていないとか?」

「えぇ。この三人については最終的に七年後の二〇〇〇年に残された宮森海次郎が民法の失踪宣告を適用しており、法的には死亡したという扱いになっているそうです」

 失踪宣告とは、災害などである人物が行方不明になった際に、失踪から一定期間が経過した事を条件に家族の申請でその人物を法的に死亡したとみなし、遺産の相続や婚姻の解消など死亡関連の手続きを可能とする制度の事である。通常は七年がその期間とされており、宮森もそれに従ったようであった。

「確か二〇〇〇年というのは、宮森がこの水族館を開館した年でもあったはずですが」

「はい。失踪宣告によって妻の枝美の遺産や生命保険が宮森に入っており、その一部がこの水族館の建設に使われた可能性があります」

「そこは少し気になる部分ではありますね。他の四人の被災者に関しては?」

「こちらは全員発見されていて、その四人の死因もはっきりしています」

 そう言って、定野は引き続き発見された四人の死因についてメモした紙を示す。


・駒海竹蔵

 全身打撲によるショック死。肺から少量ではあるが海水が検出されているため、津波に流された際に漂流物などに体をぶつけたと考えられる。遺体は旅館から百メートル離れた場所で発見。

・駒海なか

 溺死。津波に流され大量の海水を飲んだ事によるものと思われる。遺体は奥尻島西方の海上に浮かんでいるところを震災翌日に海上保安庁が発見。

・黒江香保子

 頭部挫傷による脳内出血。肺の中から水が検出されなかったため、旅館倒壊時に建物の下敷きになった事で死亡した可能性が高い。遺体は旅館から五十メートルほど離れた場所で発見。

・高本順治

 全身打撲による内出血及びそれに伴う多機能不全。震災後、旅館から二百メートルほど離れた場所にあった家屋の残骸の上に瀕死状態で倒れているのが発見され道内の病院に搬送。一時は意識を取り戻したが二週間ほどで容体が急変し、上記死因により死亡。


「現在、道警がこれらの人物の詳細についても追跡調査を行っているところですが、高本順治について少し気がかりな情報があります」

「何ですか?」

「この高本順治ですが、震災当時こそ水産加工会社の社員だったんですが、その前は明正大学理学部海洋学科の助教授だった事がわかりました。そして、当時の海洋学会の席で宮森海次郎とはライバル関係にあり、最終的に宮森に勝つために功を焦って不正な論文を発表してしまった事が問題視されて大学を辞め、実家のある北海道で再就職をしていたらしいのです」

「つまり……宮森海次郎と高本順治は以前からの知り合いだった?」

「えぇ。それが震災当日に同じ旅館に宿泊していたわけです。偶然と言われればそれまでですが、気になる情報ではあります。おまけに、この情報だと高本が大学を辞める事になったのは自業自得の部分が大きいですが、その不正を行った根幹は宮森とのライバル関係にあるため、彼が一方的に宮森海次郎を恨んでいた可能性はあるかと」

「ちなみに宮森の方は高本に対してどんな感情を?」

「当時の同僚の話だと、別に気にしていなかったみたいです。元々フィールドワーク中心の一匹狼タイプの学者なので、そういうしがらみを気にするような男ではなかったと」

「確かに、少し気になる話ですね」

「それからもう一つ気になる情報として、この高本は震災後、道内の病院で死亡までの二週間入院をしていたわけなのですが、その間に恋人である黒江香保子の親族を名乗る人物が何度か病院を訪れて高本と面会していた事がわかりました」

 新たな情報に、榊原は目を細めて詳細を尋ねる。

「その面会しに来た黒江香保子の親族が誰なのかは?」

「すみません、そこまでは道警もまだ調べ切れていないそうです。ただ、黒江香保子には兄弟姉妹はおらず、彼女の両親という線も考えにくいそうです。となると、可能性として考えられるのはいとこ辺りになってきますが……彼女のいとこは複数人いるらしいので、そちらは現在追跡調査中らしいです」

「そうですか……他に何か知っておくべき情報はありますか?」

 そんな榊原の問いかけに、定野は少し難しい顔で答える。

「あともう一つ。志摩市の別荘を引き続き調べていた捜査員からの報告ですが……ちょっと厄介な事になったそうです」

「と言うと?」

「それが、別荘に通じる道路の周辺を調べていた所、その一角の崖に爆発物が仕掛けられているのが見つかったんだそうです」

 さらりととんでもない事を言われ、傍らに控えていた瑞穂がギョッとした表情を浮かべた。

「ば、爆弾ですか?」

「えぇ。どう見ても崖崩れを起こして道をふさぐための仕掛けとしか思えませんが、今、県警本部の爆発物処理班が出動して解除を行っているそうです。断片的な情報しか入ってきていませんが、時限式ではなくリモコン式の仕掛けのようですね」

「何でそんなものがそんな所に……」

 ここに至って急に出てきた予想外過ぎる情報に直面し、瑞穂としてはそうコメントするしかないようだったが、榊原の方は目を細めて何かを考えているようだった。

「ここへきて爆弾ね……なかなか興味深い話です」

 そんな事を言う榊原に対し、定野はさらにこう続ける。

「現状でお教えできる情報は以上です。どうですか? ここまでの情報で事件について何かわかる事はありますか? この際、少しでも何か事件を解決するための手掛かりになればそれでいいのですが」

 定野の期待を込めた問いかけに対し、榊原は少し思案気な様子を見せたが、やがてポツリとこう答えた。

「少し、考える時間をもらえますか?」

「考える時間、ですか?」

「えぇ。もしかしたらそれで……この事件、何とかなるかもしれません」

 それはとても短く、にもかかわらず力の入った一言だった。その言葉に定野は息を飲み、瑞穂は信頼のこもった視線を榊原に向けたのだった……。


 ……それから数時間、榊原は捜査員の邪魔にならないように現場をうろつきながら、何かを調べ、そして同時に何かを考え続けているようだった。一見すると何もしていない風にも見えるが、榊原の頭の中が高速で回転している事は、これまでいくつもの事件で榊原が事件を解決する姿を見続けてきた瑞穂にはよくわかっており、定野も榊原の行動に対して特に何も言わず、そっちはそっちで捜査を進めているようだった。

 時々鑑識に声をかけて何かを確認したり指示したりもするが、時間が経てば経つほど、榊原が立ち止まって考える時間が増えていくのがわかる。それは榊原が今まで集めた情報を頭の中で組み合わせ、論理を構築する推理の最終段階に移っている事を瑞穂は理解していた。もっとも、それでも並の事件程度で榊原がここまで長考する事は滅多にないため、この思案の長さはこの事件がそれだけ難しい事の証明であると、瑞穂は勝手に解釈していたりした。

 だが、物事には必ず終わりというものがある。午後二時半頃、先程から水族館の入口辺りで何かを考え続けていた榊原は不意に顔を上げ、近くでそんな榊原の様子を見ていた瑞穂に語り掛けた。

「……瑞穂ちゃん、定野警部に頼んで、関係者を南通路に集めてくれるよう言ってくれないか?」

 その言葉が意味する事を、出会ってからもう一年半になる瑞穂はすぐに正確に悟ったようだった。

「それじゃあ、先生……」

「あぁ、ひとまず、手持ちの情報から『犯人』を追い詰められるだけの論理は構築できたと考える」

 榊原の静かながら確信を持った宣言に、瑞穂は思わず息を飲む。

「本当ですか?」

「私は、半端な状態で誰かを告発するほど、度胸のある人間じゃないよ」

 そう苦笑気味に笑いながら、全く笑っていない真剣な目で、榊原は呟く。

「さて、推理は出揃った。あとは、どうやって犯人を追い詰めるか、だな。まぁ、やれるだけの事はやってみるとしよう」

 そして、推理と論理に特化した真の探偵・榊原恵一はゆっくりと、しかし確実に動き出す。

「探偵として、この程度の論理勝負で負けるわけにもいかないものでね」

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