2章22「美しくなるとまわりの空気が変わります亅
エリはテリーの動きを見つめた。そして、マイクのスイッチをオンにした。
「アリア様、今座っているところから立ち上がって、歩くことはできますか」
「大丈夫よ。どこに行けばいいの」
「周りの皆様に笑顔で、
『バルコニーに出て、少し風に当たってまいりますわ』
といって、ゆっくりエレガントに立ち上がってください。動きのひとつひとつで皆さまを魅了するように」
「わかったわ」
アリアは優雅に立ち上がり、言われた通りに笑顔で挨拶をすると、見送る大人たちからため息が漏れた。
「実に美しくなられた……亅
「雰囲気が変わって、まるでさなぎから蝶がかえったようですわ……亅
ささやきに取り囲まれて、アリアはバルコニーに向かってゆっくりと歩みを進めた。
「アリア様、さらに、ゆっくりと歩いてください。そして、花瓶の前で、何気ない風をして、お持ちの扇子をはらりと床に落としてください。
でも、決して慌てる風をみせてはいけません。
『あら、ひとりでに落ちてしまったわ』
というお顔で……。そして、大事なことを言います、決してご自分で拾ってはいけません」
「あら、なんなの。自分で落としておいて、しかも拾ってはだめだなんて」
「大事なことなので二度言います、決して自分では拾わないでください。大丈夫です、それでうまくいきますから、このエリを信じてください」
「わかった、言う通りにするわ」
「ゆっくり……、できるだけゆっくり、自然な笑顔で……。パーティーを楽しんでいる表情をしてください。
『とても素敵な気分だわ……』
と心の中で思って、ほほえみを浮かべてください」
「とても素敵な気分だわ……」
とアリアはつぶやいた。
「ほんとうに素敵な夜よ。皆さまが美しくなったと、心からほめてくださって、誰もがいつもより優しくしてくださったわ……。
私、美しくなっていいのね。皆さまが喜んで優しくしてくれて、とても幸せよ。エリ、ありがとう。本当にありがとう……」
感動で声が震えないように気をつけながら、つとめて冷静な声をエリは出そうとした。
「わたしの手柄ではありません。すべてアリア様ご自身が持っていたものが、表に現れただけのことです。
でも、アリア様、幸せになるのはこれからですよ……」
言いながら、エリの目は、相変わらずあちこちに視線を向けている、少し寂しそうなテリーの姿をとらえ続けていた。
「さあ、そろそろです、そこでなにげなく右手を垂らして、扇子を持つ手をそっと開いてください」
花瓶には早咲きのピンクのバラが、レースのようなシダを添えて生けられている。
そのそばで、アリアは美しい首を高くそらしたまま、象牙と絹布でできた瀟洒な小さい扇子をはらりと落とした。
東洋風の織柄が広がるカーペットのうえで、軽い音がして、壁際のテリーは、はっとそちらに目を向けた。
扇子の落とし主を見極めようと顔をあげたテリーは、美しい令嬢の姿を見てショックを受けたように固まった。
視線は吸い付けられたようにアリアに注がれている。アリアが
「あら、扇子を落としてしまったわ亅
というような顔をしたとき、テリーは夢から覚めたようにあわててアリアの足もとへとダッシュした。
そこにいた給仕は、盆を片手に扇子を拾おうとしていたが、テリーは無理やり割り込むように、扇子に手を延ばした。
給仕の男は後ろにひっくり返って、シャンパングラスが派手に砕けちった。だが、テリーは全く気がついていなかった。
アリアは
「あら」
という顔をしてテリーを見た。
テリーは半ば口を開けて、扇子を手にしたまま茫然とアリアを見つめていたが、はっと気づくと、その場に片膝をついて、無言で扇子を捧げもののように差し出した。




