地球の時間5
数日後、瞳さんは先日母校での約束通り私の自宅を訪ねて来た。私の自宅は、長崎港を一望する小高い丘の上に建っている。まるで段々畑のように小高い山に向かって家が並んでいる。平地の電車通りから自宅までは、途中まで車が通る道路もあるが、それより先はすべて階段になっており、バイクすら登れない人間の体力だけが勝負の坂がある。そんな過酷な光景を見て、良くこんなところに家が建っていると他県から来た観光客は驚く。それだけ長崎は平地が少なく山に向かって家を建てるしかなかったのだ。
「良くここまでいらっしゃいました。ここは、坂が多いから大変だったでしょう」玄関先で息が切れそうな表情で自宅を訪ねてくれた瞳さんに私はそう言った。
「ハルさんこそ毎日この坂の上り下り大変でしょうね、しかし広島に比べて長崎は坂が多いですね」彼女は額に出た汗を白いハンカチで拭きながら私に言った。
「そうですよ、だって長崎は山に囲まれ海に向かって街がありますからね。私はもうここから下の街まで階段を歩いて行くことが難しいので、斜行エレベーターで上り下りしてますよ。ごめんなさい瞳さんが来る前にエレベーターを使うように言わなくて」
「斜行エレベーターって何ですか?」
「長崎は斜面地が多く、ここは観光地にも近いので下の街までエレベーターが整備されているの」
「へえー凄いですね。エレベーターがあるんですか?だってお年寄りとかこの坂大変ですものね。あとで帰りに私も利用して見ます」
彼女は私の自宅に上がり、窓から外の景色を眺めている。
自宅の窓から見える景色は、天気も良く遠く長崎港まで一望でき、ちょうど港にはクルーズ船も停泊している。また今は、お昼時で、近くの教会の鐘が響き、囲まれた山にこだましているのが聞こえる。
「このあたりは、昔たくさんの西洋人の人も住んでいて、海辺まで多くの洋館が立ち並んでいました。私のお婆ちゃんの時代など、異人さん、異人さんって言って家に遊びに行ったりして仲良く暮らしていたと聞いてます。」
「まるでヨーロッパの街みたいですね。ほんとこんなに美しく平和なところですね、私こんなところ見たことありません、とてもこんな街で、以前戦争があり、原爆が落ち、多くの人々が亡くなったり怪我をしたりしたなんて私信じられません」
「そうこんな平和な街で、戦争が起こるなんて誰も思わなかったでしょうね」
私は窓越しに長崎の街を眺めている瞳さんにそう言った。
「そうでしょう。それならばどうしてハルさん起こったのでしょうか?」
「それはあの時、戦争というものがどんなに怖いものかみんなわからなかったのよ、戦争はどんなに小さい物でも相手を傷つけ、自分も傷つく、殺し合いです。たとえ勝ったとしてもどちらもいろんな物を失うの」瞳さんは、私のその言葉に対し街を眺めながらうなずいている。
「しかし、あなたみたいに、自分からあの時の事を聞こうとする人は、はじめですよ。だって今の若い人は自分の事で精一杯で戦争があったことも、今や昔話のように思っていて、こちらから戦争の話をしてもあまり興味がないみたい。やっぱり人間は実際に体験してみないとわからないみたいですね。しかしあんな事二度とこれからの人に経験させたくないから、私はどうしたら戦争の怖さを知ってもらえるのかいつも考えているのよ」
それを聞いた彼女は
「実は私も昔はそうでした。戦争があってもそれで平和になったから良かったんじゃないかと・・・・・しかし高校生の時原爆が投下された広島でどんなことが起こったのかを知らされ考えが変りました」
「どんな話を聞いたのですか?」
「ある被爆者から、原爆投下直後の広島での体験を聞かされました」
「その話、もっと詳しく聞かせて下さい」
「ある被爆者が原爆投下直後、街をさまよっていた時、大きな大木の下にもたれかかり座りこんでいる母子の姿を見つけたそうです。よく見ると母親は小さい子供を抱きかかえ母乳をあげている状態で乳児を守るように二人とも亡くなっていたとの話を聞いてこれが戦争であることを実感しました。今思えば私も現在子供が居る立場になり母親がどんなに悲しく辛かったかわかります。そしてその木がまだ実際に今もあの場所で生きていることを知って驚きました」
「今もその木が広島で枯れずに残っているのですか?」私はその木の事が気になり彼女に尋ねた。
「そうです今もちゃんと生きています」
「その木は原爆の生き証人ですね」
「はい生き証人というか、私は被爆樹と呼んでいます」
「被曝樹・・・それはたくさんあるんですか?」
「たくさんはありません。直接被爆した木のほとんどは、焼けて無くなっています。たとえ当時枯れずに残ったとしても人間の都合で、伐採したりして現在はあまり残っていません。しかし、被爆樹の下では原爆投下直後、いろんな悲惨な事があったと聞いています。だから私は被爆者から証言を聞き取るとともに、被爆樹を後世に残す活動をしているのです」
「あ、それで長崎でも原爆の事を調べているんですね」
「そうそう瞳さんに言っておかなければならない事があります」
「どんなことでしょう」
「あの小学校の咲子の木も実は彼女が実家で植えていた木です」
「そうですか、それは良く原爆で生き残りましたね」
「被曝時はあの木は消失した物と私も思っていましたが、被曝し実家が無くなったんですが、奇跡的に残っていて芽を出し、学校が始まってあの場所に植え替えた木なんです」
「それでは、あの木も被爆樹ですね、確か咲子の木と案内されてましたが、咲子さんってどんな人だったんですか?」
私は、咲ちゃんの幼少期からの思い出を私の記憶が残っている範囲で瞳さんに伝えることにした。
時代は、昭和十五年私と咲ちゃんが小学一年生の時に遡る。私と咲ちゃんは、幼なじみで咲ちゃんは、幼少期からとても賑やかな大家族の中で育ち、とても明るく優しい子供だった。こうして、目を閉じると真っ先に思い浮かぶのが、彼女の実家の和菓子屋さんである。和菓子店を営む御祖父さん、その下にお父さん、またお店にはたくさんの職人さんや店員さんがいた。時々咲ちゃんも店を手伝っており、よく御祖父さんが、「これが、内の看板娘の咲子です」とお客さんに紹介していた。そしてお客さんは、「ここの看板娘は、桃カステラみたいに可愛い」と言っていた。私が咲ちゃんのところへ遊びに行くと、店の奥にはたくさんの種類の和菓子を作っており、甘い香りが漂っていた。私が母と和菓子を買いに行くと、決まって奥へ案内され、咲ちゃんと和菓子をたくさん食べさせてもらった。そんな咲ちゃんの部屋には、大きなピアノがあり時々練習し私も弾かせてもらっていた。
「咲ちゃんちって、ピアノもあって家族も多くて賑やかで羨ましかよ」と私が咲きちゃんに言うと。「和菓子屋でみんなを幸せにしているお店の人達と居るのは楽しいよ」と言っていた。
「ハルちゃん私は音楽でみんなを楽しませたかと、それにはいっぱい勉強して学校行かんばいかんと思っとる」と音楽の勉強をしたいと小さい頃から咲ちゃんは夢をもっていた。私も音楽はきらいではなかったので、時々咲ちゃんの家へ行ってピアノを少しだけど弾かせてもらっていた。その内私も父にピアノを買ってほしいと頼んだが、高価すぎてあっさり断られた。その代わり父はハーモニカだったら買ってくれるとの事で、買ってもらい、咲ちゃんの家でピアノと一緒に吹いていた。しばらくすると、咲ちゃんも
「ハーモニカの音色は美しい、ハーモニカって小さいからどこでも吹けるから便利やね」と言ってハーモニカが好きになり良く二人で近くの川の土手で演奏していた。こんなふうに彼女の事を紹介すると、瞳さんは熱心に聞いてくれた。私の話の中で現在では、すっかり吹いている人も少なくなったハーモニカに興味があるようで、私にハーモニカが今でも演奏できるかと聞いた。
「あの頃の人は学校でみんな習っていたので私も下手だけど吹けますよ家にも持っているから」
「ハルさんぜひ吹いて見て下さい。私、ハーモニカの演奏って余り聞いたことがないんです」私は、自宅にあるハーモニカを持ち出し彼女に見せた。
「このハーモニカ古いようですけど、近頃の物ですか?」
「古いですよ、だって亡くなる前まで咲子ちゃんが吹いていた物ですから・・・・・」
「咲子さんの物って、咲子さんの家って原爆で全壊したのでしょう。なぜ壊れなかったのですか?」瞳さんはハーモニカを手に取り尋ねた。
「それは、彼女が一番大切にしていた物だったからです。あの時咲ちゃんは防空壕の中にいて助かりました。その時もハーモニカを持ち歩き自分の懐に入れていたんです。」
「これって咲子さんのほんとうに大切な物だったんですね、音は今もでるんですか?」「吹いてみましょう」私は彼女が大好きだった童謡の故郷をハーモニカで吹き瞳さんに聞かせた。
「本当に癒される音ですね。ハルさんも上手です。ハルさん涙が出てる。大丈夫ですか?」
「私はこの曲を弾くと、咲ちゃんの事を思い出し涙が出てくるの」それを聞いた彼女も涙を浮かべ私にハンカチを差出してくれた。そして瞳さんは、私が見せた当時の集合写真を見て写真の中の子供達や大人達の事について聞きたいと言った。私は、もうだいぶ昔の事であると同時に当時幼少だった為、私の記憶がわかる範囲で語ることにした。
「この方が咲子さんですか?やっぱりハーモニカを持ってますね」
「そうこれは彼女の宝物だったんです」
「この咲子さんの隣に写っている男の子はどんな方だったんですか?」
「あ、この子は、私と同級生の次郎君で、いつも元気でね足が早く学校の運動会では毎年一番で将来体育の先生になりたいと言っていました。」
「彼はとても優しい子供でしたよ、戦争になり国から自宅で飼っていた犬も敵の爆撃があった時逃げ回って人に危害を加えたら大変だからと処分を強要され、ずっと公園で愛犬を隠して飼っていたんだけど、結局国の人に見つかり連れていかれ犬は処分されたの、その時しばらく学校でも元気がなく泣いていました」
「ほんと、かわいそうですね。次郎さんは原爆で亡くなったんですか?」
「彼は、助かりました」
「よかったですね助かって」
「しかし家族はすべて亡くなりました」
「なんですって、そんな・・・・・」
「彼の両親兄弟はすべて亡くなりました。彼の自宅は特に原爆落下の中心地に近かったからですね」
「それで、戦争が終わって学校には戻って来ましたか?」
「はい戻って来ました。その後、学校に来ても元気がなく、彼が良く通い、好きだった教会のシスターや神父さんも一瞬の内に原爆で亡くなったのもショックだった見たいで、よく破壊された教会の跡に行き泣いていました。きっとそこには家族の思い出もあったからでしょう」
「この女の人は知ってますか?」写真の中でセーラー服を来た女性だ。
「この女性は確か山本のお姉さん、彼女は女学生で将来看護師になって人の命を助けたいと言っていたと聞いてます。そして、戦争が始まり女学校でも授業はなくなり、国への勤労奉仕との名目であの日電車の車掌をしていたそうです。それで原爆に遭い亡くなったとの事です」
「その頃の同じ女学生さんはみんな勉強することができなかったでしょうね」
「そうです彼女が通っていた女学校の生徒も、工場などで働かされていたみたいで、ほとんどの女学生が原爆で亡くなったと聞いてます。この横に写っている十人も勤労奉仕で山本さんと一緒の学校ですからたぶん被爆し亡くなったのではないでしょうか」
「そうですか、戦争って恐ろしいですね」
そして、彼女は考えながら写真の中の一人を指さした。
「このおじさんは、どんな方だったんですか?」
「あ、この方は私の家の近所のおじさんでチャンポン屋を営んでいました。この店には、よく私も家族で食べに行きました。私が行くと注文しない皿うどんまでサービスで食べさせてくれました。多分今でも私は、あんなに美味しいチャンポンや皿うどん食べたことがありません。この方も原爆に被爆し一時は助かったんだけど、その後原爆症で一年後に亡くなったそうです。これから戦争が終わり平和になったから私のチャンポンでみんなを幸せにしたいといつも言っていたそうです。」
「みんな自分の思いがとげられずさぞ無念だったでしょう。この写真に写っている人で一番年配のおばあさんがいらっしゃいますよね」
「この方ですか?この方は夏子さんって言って近所の駄菓子屋のおばさん、この時は七十歳程の頃で、学校の近くで文房具や駄菓子を売っていました。よく私は友達と学校が終わった後、ランドセルを家に置き、駄菓子を買いに行ってました。子供にとってこの店は夢の場所でした。」
「この方も原爆に遭われたのですか?」
「私もこの方が、その後どうなったかわかりません。このおばさんの家は街でも屈指の大家族で、子供や孫も含めて十五人家族だったと思います。私と同じ学年の子供もいたから兄弟も知っています。今思えば、私が原爆投下直後、街をさまよい歩いてた時、腰を抜かし一人の老婆が地面をはって声を上げていた人を見たのです。その人が、もしかしたら、もしかしたら駄菓子屋のおばさんではなかったかと、子供心に思ったんですが、その時は声を掛けることができませんでした。後で知ったのですが、あの店の同級生もすべてが原爆で亡くなったと聞きましたので、その時私が会ったおばさんは、今何が起こったのか現実を受け止められずさまよっていたのではないのかと・・・・・」
「この写真一つも見ても、こんなにたくさんの人の人生や命を一瞬にして破壊するのが戦争なんですね」瞳さんは、そんなやるせない心でこの写真を見つめていた。
私はこの写真を見るたびに、この写真の窓からみんなに向かって、長崎は原爆が落ちるから早くこの街から出て行きなさいと言えないだろうかと・・・もし時間が止まりできたとしたらこんなに沢山の人が亡くなることも無かっただろうにと、そんなできもしない事を何度も何度も思い、どうにかしてこの人達の命を原爆から救うことができなかったのかといままで思い悩み続けました。しかし人間は、時間という流れには決して逆らうこともできないし、人間は未来を知ることができないのです。
「戦争になる前の小学校って楽しかったですか?」
彼女は、私に平和だった頃の長崎の街の人々の生活について、もっと知りたいと言った。戦争前の平和だった人々の暮らしが一瞬にして奪われたあの人達の事を私は語り継がなければいけないと思い、聞かれることは隠すことなく彼女に伝えようと思った。
「ハルさん何度も咲子さんの事を思い出させるようで悪いのですが、咲子さんとハルさんは幼なじみだったそうで、もう少し子供の頃の事を聞かせて下さい」
「私の父と咲ちゃんのお父さんが知り合いで、私もよく家族で咲ちゃんの家へ遊びに行っていました、咲ちゃんの家は代々続く街でも有名な和菓子屋さんで、遠くから電車に乗って買いに来るお客さんもたくさんいました。」
「和菓子屋さんですか、当時はどんな物が売られていたんですか?」
「御饅頭や季節の和菓子も売ってました。カステラも有名でした。あ、そうだ桃カステラも美味しかったですよ」
「桃カステラっていったいどんな物ですか?」
「あなた桃カステラ知らないの?」
「えー知らないですよ、だって広島にはないですから・・・」瞳さんは驚いた表情でそう言った。
「そうだったわね、長崎だけのお菓子なのね、桃カステラは女の子の初節句の時に、親しい人や親戚からもらったりするの、本当に美味しいお菓子ですよ、今度私が食べに連れてって上げますよ。そういえば私も戦争が始まる前ですが、咲ちゃんの妹さんの初節句で私の家族揃ってよばれ、物凄く立派な雛飾りがしてあり、そこで咲ちゃんの御祖父さんとお父さんが作った桃カステラを食べさせてもらい、咲ちゃんが、私の店のお菓子は日本一って私に言った事を思い出しました。その時は確か、あの写真に写っていたチャンポン屋のおじさんが配達して来て家の座敷に上がり雛人形を見て行ったのを覚えています。また咲ちゃんの弟さんの端午の節句の時も私達家族は呼ばれ、やはり御祖父さんが作った鯉菓子を食べさせてもらいました。その時、咲ちゃんの御祖父さんとお父さんは店の跡継ぎが出来たと大変喜んでいたのを覚えています。その御祖父さんも息子の咲ちゃんのお父さんが戦死した時、近所の人の前では国の為よくやったと言っていましたが、私のお父さんの前では、息子が亡くなって寂しくて悔しくてしかたない和菓子屋もやめてしまいたいと言ってましたが、私の跡継ぎの孫が大きくなるまでもう少しがんばって働かなけりゃと悲しみをこらえ、頑張っていたそうです。」
「咲子さんは大変花が好きだったと聞いてますが、どんな花が好きだったんですか?」「咲ちゃんの家には大きな庭があり、良く私が遊びに行くと、そこに植えてある木を紹介してくれました。季節になると様々な花が咲き大変綺麗でした。彼女が一番のお気に入りは、見た目はそんなに派手な植物ではないですが、お父さんが咲ちゃんが七五三の時に買ってきて植えた木を、いつも私に見せ自慢していました。その木は、何でも五十年に一度だけ花を咲かせる木だと言っていました。お父さんも、咲ちゃんにどんな花が咲くか楽しみで世話をしているようでした。それがあの学校にある咲子の木なんです」
「そうですか、あの木は、そんなに長くからあった木なんですね、 原爆が投下された時、咲子さんとハルさんはどこにいたのですか?」
「その日私と咲ちゃんは夏休みで、いっしょに自宅近くの駅から路面電車に乗り少し離れた公園に紙芝居を見に出かけいました。途中電車の電停で、クラス担任の先生と会いました。先生は、自分のお母さんをお見舞いに病院へ行くと言っていました。そして、先生は、小学生二人だけで公園に行くと聞きくれぐれも、気を付けて行ってらしゃいと言ってくれました。」
「その先生ってどんな人だったんですか?」
「川上先生という名前で、とても若い二十歳ぐらいの女性の先生でした」
「二十歳ってとても若いですね」瞳さんは年齢を聞いてあまりにも若い年齢の先生に驚いた。
「あの時代は、戦争中だったので、先生が足りなくってね、大学も早く卒業して先生になった人が多かったみたい、小学生から見ても先生っていうよりお姉さんって感じでした。その先生は、とても教育熱心で、私達の事をいつも気遣ってくれてました。夏休み期間中も、生徒の家を何度も元気にしているかと声をかけ家庭訪問し、お父さんや家族が戦地に行って寂しがっている子供を慰めていました。特に戦地で生徒の父親が亡くなった時には、学校で父親を亡くした生徒といっしょに泣いていたのを見かけました」
「先生はどうなったんですか?」
「先生は、あの日私達と別方向の病院へ行くって言ってましたから、原爆が投下された場所に向かって行ったので、一瞬のうちに亡くなられたようです。最後まで私達の事を心配してくれただけに、今思えばそちらの方向はもうすぐ原爆が落ちるから行かないほうが良いですって私が言えばよかったと・・・」
私はその時わかるはずもない未来の事を、伝えられなかった事への自責を感じたと瞳さんへ伝えた。そして私は彼女に咲ちゃんと公園へ着いたからの事をまた途切れなく話し続けた。