00-2:いつかの英雄譚
かつて、この世界には「魔族」と呼ばれる邪悪な一族がいました。
彼らは皆、ヒトの何倍も強い魔力を持っていたり、ずっと早く走れたり、とても重いものを持てたりなど、ヒト以上の力を持っていました。そして、ヒトを憎んでいたのです。
森や渓谷、離れ島に暮らす彼らがいつ頃からそこにいたのか、知る人はいません。けれど、彼らはそのような薄暗く陰気なところを好み、闇の神々と親しく付き合っていましたので、光の神を信じる光の民である人間が憎らしく感じたのでしょう。人々は間近にある闇と魔族を恐れながら、それでも光の神の庇護を信じて日々を懸命に暮らしていました。
何故なら、賢者が予言していたからです。いつか、闇を払う英雄が、光の皇女によってヴァルハラから召喚されることを。
ある時のことです。光の神の守護を持つカルゴア帝国に、預言に記された光の皇女さまが生まれました。
皇女さまの名前はユリアーネ。光のように輝く黄金の髪と、七色に色を変える不思議な蒼の瞳を持った、それはそれは美しい姫君でした。
すくすくと成長しやがて年頃になったユリアーネ姫のもとには、あらゆる国から求婚者が押し寄せました。その列は、始めは帝都から終わりは東の荒野まで、尽きることなく続いていたそうです。その美貌はある詩人が皇女さまをひと目見た途端、自分の力ではその美しさを讃えきることができないと、自分のペンを折ってしまったほどであったといいます。
けれど、皇女さまは預言された光の皇女。魔王を討ち滅ぼすことのできる勇者をヴァルハラから召喚する運命を持っています。自分達の王を守ろうと魔族がいつ皇女さまを襲いに来るか、皆気が気ではありませんでした。
皇女さまの父親であり、カルゴア帝国の皇帝でもあったゲオルグ帝は、愛する娘を守るため密かに魔王に使いをやることにしました。皇女さまが勇者を召喚しない代わりに、自分の娘に一切手出しをしないでほしい、と。
それは、皇帝としては愚かな行いでした。けれど、ゲオルグ帝はそれほどにユリアーネ姫を愛していたのです。
「本当ならば選りすぐりの勇猛な騎士を送るところだろうが、戦いに行くのではないのだから、男をやるのはまずかろう。魔族にも情はあるという。女ならば、殺されることはないかもしれん。それも、美しくない者がいい。魔族は美しいものを好み、また妬むというから」
魔王に手紙を届けるよう言われたのは、ひとりの下働きの少女でした。
そのアンヌという少女は、そばかすの浮いた顔に緑の瞳ばかりが大きな、痩せっぽっちでにんじん色の髪を持つ、とうてい美しいとは言えない娘でした。
芽吹きの季節に帝都を離れたアンヌは、木枯らしの吹く頃になってようやく戻ってきました。
けれど、その手にはなにもありません。魔王の返事も、なにも。
駄目だったのかと落胆したゲオルグ帝がそれでも諦めきれずにまた手紙を書こうとしていたまさにその時、どこからともなく鴉がやってきて、一通の手紙を落としていきました。
果たして、それは魔王からのものでした。
そこには、ゲオルグ帝の申し出に応じる旨が書かれていました。
その代わり、ゲオルグ帝の城から最も美しい娘を貰い受ける、と。
城で一番美しい娘といえば、皇女さまであるユリアーネ姫に他なりません。
なんということでしょう。魔王は、ユリアーネ姫を殺さない代わりに、自分のものにすると言いだしたのです。
ゲオルグ帝は深く悩みました。確かに皇女さまをいずれは手放さなければならないことはわかっていましたが、よりにもよって魔王に嫁がせるなどと、とうてい認められるはずがありません。けれど、断れば魔王はユリアーネ姫を殺してしまうかもしれないのです。
悩んで悩んで、ゲオルグ帝はひとつの答えを返しました。
それは、決められた日、決められた刻限までに魔王が娘を奪うことができれば、娘を魔王に渡そうというものでした。
魔王がそれに納得してみせたので、ゲオルグ帝は急いで騎士団から精鋭を選びぬき皇女さまを守らせました。同時に、城にいるすべての美しい娘を集め、他の騎士達に同じように守るよう命じました。希望する者には、その期間だけ家に下がることを認めもしました。
一日、二日、七日と経ち、ついに約束の刻限となった時。
不安に支配されながら訪れた姫の部屋で、ゲオルグ帝は無事な娘の姿を見て思わず涙をこぼしました。
他の部屋で守られていた娘達も皆無事です。魔王は仕損じたのだ。そう誰もが安堵の息を吐いた時、誰かがふと気がつきました。
「おや、あの娘はどこだろう?」
魔王にゲオルグ帝の手紙を届けた下働きの姿が、いつの間にかなくなっていたのです。
「彼女は魔王に攫われたのだ!」
ひとりの騎士がそう訴えるのを、誰も本気にしませんでした。
下働きの娘が、けして美しいと言えるような少女ではなかったからです。
ただひとり、そう言い続けた騎士も城を去り、誰もが魔王の脅威が去ったことを疑わなくなった頃、ユリアーネ姫が突然姿を消しました。
大混乱に陥った帝国が皇女さまの捜索を始めて三月と少し経った後。
皇女さまはひとりの青年とともに戻り、悲痛な表情で語りました。
「わたくしは魔王に攫われ、囚われておりました。魔王は、約束を破ったのです」
そうして、隣に立つ青年を示し、こうも言われました。
「囚われたわたくしは、毎日必死に神に祈りました。魔王を信じた浅慮を悔い、ただただ世界が闇から解放されるようにと。もしわたくしにその力があるのならば、どうかこの世界を救う勇者を遣わせてくださるようにと。――その祈りに応え、神が遣わされたのが、ここにいるアレクサンドルなのです。父上、いえ、陛下。どうか、ご決断を」
「だがしかし、魔王はどうやって我が城に忍びこんだというのだ? そして、どうやって誰にも見られずそなたを連れ去った?」
「協力者がいたのです。哀しいことに、それは父上もご存知の者でした」
「それは誰だ?」
「あの赤毛の娘です。彼女は、魔王に仕える魔女だったのです」
なんということでしょう。ゲオルグ帝はひどく驚きましたが、同時に深く納得しました。
あの娘が魔王の手先だったのなら、特に美しいわけでも賢そうでもなかったただの娘が、どうして魔王のもとから無事に帰ったのか、その理由もわかります。そして確かに、城で働いていたあの娘なら、誰にも見られずユリアーネ姫のところまで魔王を案内することもできたでしょう。
姫が逃げだしたことに、魔王はもう気づいているでしょう。ヴァルハラから勇者を召喚したことも。最早、交わした約束はなんの意味もなくなったのです。
ゲオルグ帝は国中にお触れを出しました。
にんじん色の髪と大きな緑の瞳を持つ魔女を捕らえよという、それはなによりも重くなによりも強い、皇帝直々の命令でした。
――『くにつくりのものがたり ねらわれたお姫さま』