まばゆいエンドロール
彼女と初めて出会ったのは、先月まで遡らなければならない。
春うらら。世界が新生活に浮きだつような季節。
夕暮れ迫る近所のレンタルビデオショップでバイトをしていた時に武井智和は声を掛けられた。
旧作の洋画を整理していた時に、彼女は隣に来て「ちょっといいですか」と遠慮がちに聞いてきたのだ。
「いらっしゃいませ。どういたしました?」
申し訳程度に営業スマイルを浮かべる俺の前にやって来た、黒色のブレザーと短すぎないスカート丈の女の子は、胸元の赤いリボンを揺らしてこちらをじっと見つめていた。
学校帰りなのだろうか。それにしてはこの近くで見覚えの無い制服だった。
「……上の方にある作品、取りたいんですけど、脚立とかありませんか」
なるほど。うちの店舗は確かに背丈が異様に高い棚を使っているから、取ることが出来ない作品も多くあるだろう。
「少々お待ちください」
と言って自分が先程まで使っていた小ぶりの脚立を思い出した。
上にある作品は大体片し終わったし、自分はまたバックヤードから持ってこようと思い、目の前に立て掛けてあった自分のものを差し出すと、彼女は「ありがとうございます……」と小さく礼を言い、そそくさとその場を後にした。
見送ってからまた気を取り直して残っている作業を進めていると、ローファーのカツカツとした音が間近に聞こえたので、落としていた視線を上げる。
彼女が数分前と同じように立っていた。
さっきと違うところは、借りようとしているDVDの薄いパッケージと小ぶりな脚立を持ってきたくらいだ。
「脚立ありがとうございました」
「いえいえ」
感謝されるほどの筋合いではないです。仕事ですから、とは言えなかった。
返しに来たのか。脚立なんてよく借りられては店の隅に置きっぱなしということもよくあるのに、わざわざ丁寧な客だ。
両手で持った脚立を手渡されたので受け取ると、彼女は何かもの言いたげにじっと見つめてきた。
「何か?」
「いえ……」
彼女はそわそわとした面持ちでDVDを両手で持ちながら、また一度お辞儀をして帰ってしまった。
その程度の印象だったし、三日もしたら脚立の彼女のことは顔もぼんやりとしてしまうほど忘れてしまった。
そんなことがあってから、彼女は毎週一作借りては一作返し、その度俺に感想を紙に書いて手渡すことが続いた。
本当は直接感想を言いたいらしいが、仕事中で遠慮をしているらしい。
助かるし、いちいち感想なんて言わずとも良いのに、なんてことも思う。律儀な子だ。
自分は別にそこまで映画に詳しくは無い、とは言ったのだが、それでも武井さんのおすすめが知りたいと彼女は引かなかった。
脚立の彼女は『雪乃』だと名乗った。
雪乃の感想文は簡潔ではあったが、どの紙に書いてあったものも面白かった、と楽しげに丸い文字で書いている限り、満足してもらえているらしい。
一度だけ反応が見たくてパニックホラーものをおすすめしたが、その時ばかりは涙ぐみながら押し付けるようにして紙を渡して何も借りずに帰って行った。
紙に一言だけ「武井さんの趣味を疑います」といつもよりも歪んだ文字で書かれており、さすがにばつの悪い顔をした。
それからほのぼのとした映画を勧めることにして、機嫌が戻り始めた彼女が来店を繰り返して一ヵ月ほど経ったある日、雪乃がいつものように渡してきた紙に書かれていたのは感想では無かった。
「『メールアドレスです』」
その隣にメールアドレスが書いてあり、俺は目を疑った。
――何をしようとしているんだこの子は。
紳士の俺がこんな言葉に惑わされて堪るか。
動揺なんてなんのその、というような顔で紙をくしゃりと丸めてエプロンのポケットにしまってから、その日のバイトはまるで使い物にならないほどの失敗続きをしてしまい、挙句の果てにバイト先にエプロンを置いてきてしまったので、ポケットに入れっぱなしにしていたアドレスの書かれていた番号を確認出来ずに、翌日になった。
迷うようにベッドからのろのろと起きて、真昼の緩いバラエティー番組を流しながら、焼くこともせずに八枚切りの食パンをもそもそと口に運ぶ。
食べ終わり、指に付いたパンくずを舐めつつ、昨日の雪乃の紙を思い出した。
「個人情報だしな……」
どう漏れ出すのか分からないこの世の中の無常さに思い悩んだ俺は、歯がゆい気持ちを抱えながら歯を磨いて、適当にストライプのシャツとデニムのズボンを履いてから、外に出ることにした。
日照りのある時間に外に出るのは苦手だ。世界が眩しすぎて、国に生かしてもらっているような存在が出歩けるような度胸なんて出てこない。
わざわざ出勤日でも無い日にバイト先に行くことも気が引けたが、それでも尚彼女の必死に書いたであろう筆圧の強い筆跡を思い出して、足を踏み出した。
バイト先に出向き、無事紙を回収してから家の前まで歩いてきた時だった。
「……武井さん」
俺は生唾を飲み込んでから凍りつく。
聞き覚えのある少女の声に振り向くと、ブレザーを着た雪乃が、頬に汗をかきながら、俺の背後に佇んでいた。
「雪乃ちゃん!? どうしてここに!? ってか学校は?」
「テスト期間で、終わるのが早いんです。……それよりも武井さん」
心なしか緊張している彼女の言葉は、俺の想像の軽く斜め上だった。
「武井さんの部屋に行っても良いですか?」
純粋無垢な瞳の奥の邪推な念でもあることならば一銭でも拾わぬように、俺はもげるほど首を振った。
「君はもう少し自分の身の安全を考えた方が良いんじゃないか!?」
「は?」
心底不思議そうな表情を向けられるとこちらも困ってしまう。
「赤の他人を……しかも年の離れた異性をそんな簡単に入れるわけないだろ」
「でも……」
十分ほどの押し問答を繰り返し、仕方なしに今回は近場のカフェで雪乃の言い分を聞くことにした。
彼女と対面して一番に思ったのは、自分が警察に補導されないかどうかだった。
春の訪れを知らせた花々が次々に役目を終え、緑の葉が我先にと生い茂り、夏場もすぐ近くだと自然が急かし始めたと思わせる頃。
中年も差し掛かろうとするラフなシャツとズボンを履いた男性の目の前に、ボブカットの女子高校生がちんまりと座っている図はあまりにも危うい。
しかし俗に言うストーカーまがいのことをしていた疑惑もあるので、逮捕されるべきは雪乃なのではないかと悪い妄想が脳裏に浮かんだが、どうにか消し去った。
第三者から見て俺達は一体どのように見られているのだろう。
金銀財宝で共に過ごす時間を釣り合う関係だとか、何かしらの援助交際だとか、安心安全を文句に扱うマッチングアプリで親しくなったのではなかろうかと思われていたらどうしよう。
落ち着かない。俺は軽く貧乏揺すりをした。
平日の真っ昼間に何やっているんだろうと、俺は俯いたままの少女の前で足を組みなおした。
大きなガラス窓の近くに案内された俺は、目の前の少女から目を離して、ちらと外を確認する。
その日はよく晴れていたからか、視線の先にあったバルコニー席には、いつもより人気が多かった。
特に目立つのは自分の子供自慢に花を咲かすママ友会くらいだろうか。
「……あの」
現実から逃避したい気持ちをあっさりと打ち砕く彼女に渋々向き合う。
「何か、頼みませんか」
机の上に立て掛けてあったメニュー表をそっと差し出す彼女の手の先はわずかに震えていた。
運ばれてきたアイスティーが汗をかいてしまう前に、俺は目の前でメロンソーダを懸命にストローで啜る彼女にどうにか本題を突きつけなければならない。
「どうして、俺に近付こうとするんだ。雪乃ちゃん」
俺の一言に盛大に咳き込んだ彼女に紙ナプキンを手渡しながら、俺はため息を吐いて組んでいた足を下ろした。
「こんなこと言っていいのか分からないけれど、一応俺達歳の差が親子ほど離れているんだよ。赤の他人同士でこんなところに意味も無く座るのさえ……」
『……世間体もあるし』
とは、言えない。
会社にもろくに就かずに社会不適合者となっている現在の自分のこと棚に上げて言えるはずもない。
目の前に座る彼女は気付いたらストローから口を離して、上目遣いでこちらを困ったように見つめていた図にどこか見覚えがあった。
俺は、俺に付き合わせる人全員、困らせてばかりだな。
来週にあるテストの愚痴を言う学生の軍団の声が店内に木霊する中で、俺達の空間だけ取り残されたように静かに時が進んでいく。
また始まった沈黙に耐え切れず、俺は先に置かれた冷水をあおるように飲んだ時、雪乃は唇をまるで鉛にでも繋いでいるかのようにゆっくりと開いた。
「あなたに近付いた理由は……武井さんが、自分の父親だって確認したかったからです」
机の上に置いたままのアイスティーの氷が溶けてからりと音を立てた。
啞然とした表情で雪乃を見る俺の表情を見て、俺は飲み切ろうとした冷水を半分も残して机に置きなおした。
「なんだって?」
「私、雪乃智子と言います。……旧姓は、武井智子」
「…………智子?」
信じられないようなものを見た時、人は言葉を一切失うのだということを知った。
十七年越しだった。
俺は自分の元娘と鉢合わせたらしい。
彼女の言い分はこうだ。
智子……まだ自分に旧姓なんて存在していないと信じてやまなかった雪乃智子は、偶然、本当に偶然一枚の写真を食器棚の引き出しの奥底から見つけたらしい。
母親の若い頃の姿と赤子だった弓子。そして知らぬ男性が三人で仲睦まじく寄り添う写真。
後ろを見ると、撮った日付と十七年前の年。
そして『武井家』と書かれていたのだという。
弓子は不審に思い、そのまま引き出しの奥をほじくり返すと、そこには母親の旧姓『武井』を付けた証明書やらポイントカードやらがわんさか見つかったらしい。
捨て忘れていたのか、はたまた故意に引き出しに閉まっていたのかは分からない。
しかし、住所を記す場所には全てこの家とは全く違う。隣の隣にある町だったことを知った彼女は、定期圏内だったことも相まって、誰にも相談せずに学校帰りにこっそり寄ったらしい。
最初は、本当に『武井』という人が存在しているかどうかを知りたかっただけで、それ以上の干渉はする予定は無かったのだ、と彼女は語った。
「住所を見て、写真と見比べて『武井さん』、という人がいるかどうかだけ知られたら良かったんです。でも、後を付けて行って思い切って、声をかけて……そうしたら」
楽しくて。
本当の『父親』と話すことが、とても。
彼女は確かにそう言った。
「貴方の娘だって隠して、近付いてごめんなさい」
「……部屋に行きたいって言ったのも」
「何か、私が暮らした跡が見つかるんじゃないかって、思いました」
残念ながら、来たとしても、智子の跡なんて一つも残ってはいない。
残さないように俺が消したから。
やるせない気持ちになり、俺は宙を見上げた。
「『弓子』……いや、君の『お母さん』も、家族の誰も知らないんだね。俺達がこうやって会っているのは」
ボブカットを揺らして頷く智子を見てから、アイスティーのストローを噛むようにして勢いよく啜った。
親権は勝手に弓子に取られた。「智和には娘を育てることなんて出来ないから」と捨て台詞を吐いて。
赤子だった智子を連れて出て行ったその日は今でも覚えている。
そうか。娘は俺のことを十七年も知らなかった。
知らせなかったのか、弓子は。
娘にとっても……きっとかつての妻であった彼女にも、俺のことは『無かったこと』にして人生の登場人物にさえ、名を刻むことが許されないんだろうな。
「『お父さん』」
「やめてくれ」
油の浮いた顔を汗ばんだ両手で覆って、自分の鼓動が静まることを待った。
「俺は……お前の父親じゃない。父親に、なれなかった……中年の出来損ないだ」
家族関係が壊れたのは妻の浮気だった。
「貴方より愛情を感じる人を見つけたから」
と言って出て行った。
自分では気付かなかったが、思ったより傷心したらしく、誠心誠意働いていた会社へ行くことが出来なくなって止む無く辞表を出し、人が一人生活できるくらいのバイトを転々としていた。
見るべき人が消えた今、観るべきものを編み出すしか無かった。
観るはずだった人生を他人の人生に置き換えることなんておこがましいことは出来なかったが、それでも無心で浸れる映画は好きだった。
そう思っていたからレンタルビデオショップのバイトは長く続いたのかもしれない。
帰りに作品を借りて一日を過ごして、また次の作品を借りにバイトに行ってそんな風にして毎日を過ごして。
自分の現在を誤魔化しながら生きて来た。
それなのに。
娘はやって来た。
何の前触れも無く、春風のように。唐突に、突風のように。
俺の目の前に。フィクションを少しばかり残して。
彼女のメロンソーダは氷で人工的な緑色がいつのまにか弱々しく薄まっていた。
無言が続く。
聞こえてくる店内のざわめきと流れてくるヴァイオリンの切なげな演奏の中で俺達は何をするでもなく、ただこの場を維持することだけを考えていた。
すっかり水滴に支配されたアイスティーの表面を人差し指でなぞってから、俺は意を決して声を出した。
「明日からはもう俺の前に来ないでくれ」
「……!」
雪乃智子は。
俺の娘は。
元父親の言葉にあからさまに傷ついた顔をした。
それと同時に、分かり切っていた、と落ち着き払う顔をゆっくりと形作っていった。
自分の胸がじくりと痛む音が聞こえる。
落ち着け、落ち着けと自分の中で言い聞かせながら、「だから」と言葉を続ける。
「今日まで。今日までは君と一緒にいられる」
「……どういうこと」
俺は精一杯のやるせなさと勇気と照れをごちゃ混ぜにした表情で彼女に訊いた。
「何か、今日『お父さん』と、したいことはあるか」
呆気に取られた顔をした彼女は、口を何度か開けて閉じてを繰り返し、何かを堪えたように瞳を潤ませ、表情筋を力ませたまま。
「映画を、お父さんと一緒に観たい」
と言って彼女は昨日借りたDVDを鞄から取り出した。
自分の家に娘を迎え入れて、何もないがらんどうの部屋を興味深げに見渡した彼女を横目に、DVDをセットする。
着々と準備してから、テレビの前にある革張りの黒いソファの端に座ると、智子は何も言わずにソファ一人分空けて隣に座った。
始まってからは、鈍い画質の古い映画をどちらも無言で眺めた。
俺が昨日勧めた映画の内容は、実はさほど面白いと断言できる内容では無い。
終わり間際まで主人公の意図を汲み取れなかったし、世界観の曖昧さを全て伏線を回収できるものでもなかったから。
それでも、俺が彼女にこの映画をおすすめしたのは、主人公のこれからに希望を持てる結末だったからだ。
エンドロールが終わったあと充足感に溢れていた智子に向かって、俺は一言呟いた。
「どうして映画を俺と観たかったんだ」
俺の言葉に、彼女は照れくさそうに笑う。
「エンドロールを最後まで観る人なのか、席を立つ人なのか気になったからです」
「なんだそれ」
キャストや映像制作、カメラに提供先。
一つの作品の中でどれほどの人物が関わったのかが一目で分かるエンドロールが、俺は確かに嫌いではないから、クレジットの最後まで観続ける。
「他人の人生を切り取って観られた敬意は払うつもりで、最後まで観ているよ」
なけなしにかっこつけながら、同時にふと、また疑問が沸いた。
「俺に、おすすめの映画を教えてくれって言った理由は?」
その問いには、彼女はふふ、と小さく含み笑いをした。
「引き出しの奥から、お母さんの旧姓の時の証明書とは別に大量に映画の半券が出てきたんです。でも、お母さん、映画好きじゃなかったし……もしかして連れて行ったのは武井さんだったのかなって。だから……」
一呼吸いれた彼女は、目を細めて、俺にこう返した。
「『お父さん』の観ていた世界に、触れてみたかったから、かな」
彼女はそこまで言うと、喉が渇いたのか、生ぬるい麦茶の入った紙コップを口につけて二口飲んだ。
ゆっくりとコップを下ろしてから彼女は淡い期待を滲ませて、呟く。
「また来ちゃ、だめ……ですよね」
「……だめだ」
本当は一瞬思い悩んだ。
でも、俺達はもう「またね」を言ってはいけない。
明日からは家族でも何でもない赤の他人なのだから。
それは先ほど自分の中で決めた。
「そう……ですよね」
俺の言葉を受け止めた彼女は、ゆっくりと真っ直ぐに俺を見つめて伝えた。
「貴方と出会えて良かったです」
心の底にあった言葉を吐き出したのか、反射的に堰を切って涙まで流す彼女の姿は、赤子だった頃と変わらない。
昔あやしていた頃のように、少し躊躇はしたが、彼女の髪を何度か撫でた。
「俺も会えて良かった」
本心をしっかりと伝えて。
俺達のこの期間はきっと、俺の人生の中でも、彼女の人生の中でも、本編では無くおまけのおまけ。
外伝に収録されるだろう、そんな出会いと別れの物語。
せめて俺の愛する娘だった君の人生にはまばゆいエンドロールが流れますように。
それくらいは、元父親として、願わせてほしい。