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キョウ  作者: 三山零
Stage.1
9/12

Stage.1-⑦



「駄目だ」


 父、立花良平は、そう言ってにべもなく切り捨てた。こちらを見ようともしなかった。


「まだ私の話を聞いてもいないのに」


 聞く耳をまるで持たない父は、私の言葉に応じるそぶりすら見せず、もう食事に意識を奪われかけている。舌打ちしそうになるのをなんとかこらえる。

 

 この男は、いつもこうだ。


 行動は早い方がいいと思い、喫茶店ポポルから帰ってきた私は、帰宅した父が落ち着くのを待って話を持ちかけた。スカウトされた旨を説明し、「アイドルになりたい」と言ったそれだけで、先ほどの一言だ。

 母はともかく、この男を言いくるめるのが難しいことはわかっている。どこだかの一流企業の人事部長で、全てが論理的、現実的でないと許さない、リアリストの堅物。16年間親子として付き合ってきて、その嫌味ったらしい理屈に、幾度となく私の願いは跳ね除けられてきた。しかし、今回ばかりは引き下がるわけにはいかない。喉が渇いたからジュースを買って欲しい、とはわけが違うのだ。

 

 感情で言葉を吐き出しそうになるのをこらえようとするも、悪態が出そうになる。唇と唇が少し離れたその時、前のめりになりそうな頭を抑えるように上から湯のみが降ってきた。はっとして顔を上げると、母、立花雅子がにっこりと笑っていた。その笑顔に、怒りを押し出そうとしていた底が削ぎ落とされ、口から飛び出そうになった怒りが、するすると胸の中に戻っていく。母は、私の顔の筋肉から力が抜けていくのを確認し、食卓から少し離れたソファへと戻った。


 目を閉じて大きく息を吐く。落ち着きを取り戻してから、目を開くと、父は、箸を置いてこちらを見ていた。


「そもそもどうしてアイドルになりたいと思ったんだ?」


 来た。


 ジュースが欲しいのはどうしてだ。

 お小遣いを上げて欲しい理由は?

 それをした暁に、お前は何ができる?

 自分へのメリットは?

 

 ここで間違えてはいけない。

 冷静に、論理的に。父が納得できるだけの答えを。それでいて、嘘とは思えない本音を。家族を騙せなければ、女優なんてなれやしない。それどころか、芸能界で生きていくことすら難しいはずだ。


 大丈夫だ。嘘も織り交ぜるが、本当のことであることは嘘じゃない。


「初めてできた、私のやりたいことだから」


 父は、少し目を細める。


 何か間違っただろうか。そんな不安がいたる所の不備を浮かび上がらせるが、後戻りをするほど余裕がない。


「私は、私に自信がある。客観的に見ても、私の容姿は魅力的に映る。その武器を使って、みんなを感動させたい。みんなの心の支えになりたい。みんなの元気の原動力になりたい。そう思った時、みんなにより見てもらうためには、みんなの目にたくさん触れるには、やっぱり、芸能界が強い。ネットが普及したとはいえ、テレビの影響力は未だに根強いものがあるから。ネットに芸能人が進出しているのもあるけど、どちらにせよ、芸能界に入ることは私のやりたいことの最短距離なの」


 頭の声が何度も落ち着け、と囁くが、どうしても早口にまくし立ててしまう。

 真実を散りばめろ。大きく風呂敷を広げて、覆い隠せ。


「高校に入ったばかりで早すぎると思うかもしれないけど、本気で芸能界に食い込もうとしている子達は、もっともっと早い段階から芸能界に入って闘ってる。私のスタートダッシュは遅いし、たまたまスカウトの目に止まっただけのチャンスだけど、このチャンスを逃したくない。もしも、本当に芸能界に入るなら、もうこのチャンスが最後かもしれない」


 父は、私をじっと見て動かない。私の目から、心を読み取ろうとするかのように。

 私は、その探るような目を真っ向から見返してやった。父がどう思おうと、これが私のすべてであると、錯覚させるために。


「芸能界が華々しいだけの世界じゃないことぐらいわかってる。苦しいことも、辛いことも、きっとたくさんあると思う。だけど、絶対に投げ出したりしない。諦めたりしない。だから、お願いします」


 茶色のテーブルが頭の影で黒くなる。深々と娘が頭をさげる光景は、父も初めて見るはずだ。図抜けてプライドが高いことは私自身が、一番自覚している。だからこそ、食いしばった歯の痛みを忘れない。

 ややあってから、頭頂部の先から、「京、頭を上げなさい」と相変わらず感情の読み取りづらい声がする。早くもなく、遅くもなく、ただし堂々と頭を上げ、背筋を伸ばす。まっすぐにこちらを見る父の表情は、いくらも変わっていなかった。


「お前の気持ちはわかった。芸能界に興味を持っていることはなんとなく知ってはいたが、そんなに強い思いを抱いているとは思わなかった」


 思わず、テーブルに隠れた拳を握る。あとは母だけだが、母は父よりは容易いはず。


「だが、どうしてアイドルなんだ?」


「え?」


 思いがけない質問に、咄嗟に言葉が出ない。聞き返すだけの一文字が、父の警報を鳴らしたかもしれない。


「お前の気持ちはわかった。本気だということもわかった。だが、どうしてアイドルなんだ? アイドルじゃないといけないのか? アイドルじゃなくても、お前の気持ちを満足させることができるものは他にないのか?」


『いや、そもそも、アイドルとしてしか事務所に入れてもらえないんだって』


 そう反論しているはずだった。しかし、口は動いてはおらず、声は出ていなかった。なぜ、頭の中では出来上がっている文章を父に言えないのかが分からず、そして、それを言えないことが、どうしようもなく気持ち悪かった。


 私の本当にしたいことは、女優。

 

 そうだっただろうか。


 アイドルでも、踏み台にでもなれば。


 モデル? モデルってなんだ。


 芸能界に、なぜ入りたかったのだろう。


 みんなの、笑顔? 元気?


 なぜ?


 私の根底にあるものは、なんだ?


「京、聞いてるか?」


 我に返って父を見ると、初めて見る、優しげな表情をしていた。


「まだ、わからないんだな?」


「あ、いや」


 もう巻き返せない。突っ張っていた肩の力が悲しいほどに抜けてしまった。


「恥ずかしがることはない。それが普通だ。まだ、自分のこともわからないのが普通だよ」


 父の言葉は普段とは違って、とても優しかった。

 そういえば、父に本音を語ったのはいつ以来だっただろうか。いつからか、どうせ、ダメだと言われるに決まっていると決めつけ、話すらしなかった。父は、厳しい人間だと思っていた。


「どうしてそんなに焦っているのかわからないが、お前はまだ16歳だ。焦る必要はない。もう少し、考えてみなさい」


 父の優しい言葉は、とても心地よかった。ぬるま湯で満たされた浴槽の中に沈んでいれば、降り注ぐ光を浴びるだけでいい。そして、少しずつ手を伸ばしていけば、いつの間にか浴槽の中から寒いのか、暑いのか、傷のないまま外に出られる。


 ああ、そうか。


 父は、そうやって私を守ってくれたのか。たとえ、私から嫌われたとしても、私が危害を加えられても耐えられるようになるまで、私が傷ついても立ち直れる強さを持ち合わせるまで、守っていてくれたのだ。


「京、お前はまだ子供だ。ゆっくり時間をかけて大人になっていけば良い」


 父は立ち上がり、母に「温め直してくれるか」と声をかけている。私は、いつの間にか父から、目の前にある豆腐の味噌汁を見つめていた。


 味噌汁の味噌だろうか、お湯の中でもくもくと煙のように揺らいでいるそれの中に、いくつかの白い豆腐がぷかぷかと浮かびあがろうとしている。しかし、豆腐同士が、お互いを邪魔して、全ては浮かび上がって来られない。


 これは私だ。


 浮かびあがろうとしているのに、邪魔が入ってなにもできない。いや、浮かび上がるだけじゃ物足りない。私は、この器からすらも、出なくてはならないのに。


 私を、この中で飼おうっていうのか?


 この、私を?


 ぼんやりと、記憶の中にイメージが浮かんでくる。

 私よりも背が高くて、私よりも髪が長くて、丸っこい眼鏡をかけた、綺麗なお姉さんが屈んでいる。顔を寄せ、人差し指を口の前で立てて、いたずらっぽく笑っている。



ーーふふっ。私は、あなたが思うようなお姉さんじゃないのよ?



 嫌らしさの一欠片もない、その煌めきが、私の不屈を燃え上がらせる。

 この人を超える。それだけの何もかもが、私にはある。



「嫌だ」


 言葉にした時には、もう立ち上がっていた。

 小さな声だった。しかし、母と入れ違いにソファに座ってテレビを見ていた父も、父の夕食を温め直そうとしていた母も、その声をしっかりと聞き取っていた。

 こちらを見ている。心配そうに、不安そうに。

 

 ああ、鬱陶しい。


「そりゃ、焦るよ。今まで私がいた場所じゃ、もう満足できない。そんな気持ちがずっと前からあったのに。すり減ってきたその気持ち、もうなくなってしまいそうなのに、また逃げ出すわけにはいかない」


 白くて柔らかいそれは、浮かび上がるその時を待っている。だが、待っているだけで良いわけがない。この癪な器を壊す力を、つかみ取らなくては。


「京、焦る気持ちだけでは、何もうまくはいかない。もう一度、落ち着いて考えて」


 どん、とお椀に勢いよく拳を振り下ろす。中に入っていた味噌汁が巻き散らかされ、まだ熱いままのそれが、拳にまでかかる。その中の一つの豆腐が、人差し指と親指が作り出した溝に落ちた。


 父の優しい言葉が腹立たしい。その優しい言葉が、私の弱さが招いたことで、父にその役を担わせていたことが、どうしようもなく不甲斐なかった。


 いらない。


 この情けない自分は、もういらない。

 

 たとえ、それに付随する全てを捨てることになったとしても、それでも。

 

 今までの誰かが知っている立花京でなくとも。


 力が入りすぎてうまく開けない拳がほんの少しだけ開くと、柔らかい豆腐は無様に穴の中に滑りこんでいく。


「私の道は」


 もはや、私は、人間では。


「私が決める」


 蕩けきった、まだ熱い感触を握りつぶした。



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