Prologue
良い歌だ。
良い声だ、と言った方がいいのかもしれない。この曲の主役は、歌詞でも旋律でもなく、間違いなく彼女の声だった。
細く、寸分の歪みもなく、それでいてしなやか。張り詰めた苦しさも、今にも壊れそうな脆さも全く感じない。どこまでも余韻が気持ち良く伸びていく、そんな力強さがある。
スピーカーの音質でさえ感じるそれは、耳の中に心地よい風を吹き込んでくれる。二人だった頃と同じく、低い音程は十把一絡げだが、高い音程は神がかっている。天性のものもあるが、弛まぬ努力こそが、彼女の声を支えているのだと、私は知っている。
━━高音域は私の独壇場よ。
そう言って得意げに眉を上げた顔を思い出す。まだ20代前半にもかかわらず、可愛い、というよりは、綺麗な、という形容詞が似合う人で、彼女自身もそれを理解し、常に大人っぽさを意識していた。そんな彼女が見せた、イタズラ好きの子供がするような無邪気さが新鮮だった。
彼女は、私にとって、まさにお姉さんだった。何もかも私より先輩で、綺麗な声の出し方も、バレない彼氏の作り方も、上手に業界を立ち回る方法も、全て彼女から教わった。常に優しく、時に厳しく。世間知らずの小娘が慕う要素は全て揃っていた。彼女を本当の姉のように慕っていたのだ。
たとえその全てが私を見ていなくても。
パラパラと幼稚園から子供達が出てきた。甲高い声を上げながら、有り余った元気を発散するように駆け出してくる。周りのお母さんたちは、自分の子供を迎え入れるために腰をかがめ始めた。音楽に気を取られていて、慌てて子供たちの顔ぶれを確認する。しかし、娘の姿はない。
小さく息を吐く。
いつだったか、引っ込み思案の娘は、団体行動が苦手らしい、と幼稚園の先生に忠告を受けた。輪に加わるにも直庵がかかり、加わっても解け込めない。いつの間にか一人で遊んでおり、見かねた先生と二人で遊ぶそうだ。幼稚園児に社交性を求めても仕方がない、と楽観的に考えてはいたが、このまま、一人の世界に寂しさを覚えないかもしれないと思うと、少し心配になる。頭を悩ませるが、なかなかいい方法が思いつかない。私には、なかなか掴みにくい感覚なのだ。
子供たちの第二陣が駆け出してくる。案の定、娘はいない。今日も、誰もいなくなった後で、おずおずと制服の胸のあたりを握りしめて出てきそうだ。
それからしばらく、幼稚園のスピーカーが流す、彼女の声を聞きながら娘を待った。まだ3歳の長女。私は、自分で社交的な性格だと自負しているし、夫も外交的な方だ。
━━誰に似たんだか。
そう言って笑う夫に、疑念は感じられなかった。私にも、彼に対して疑念など微塵もない。おそらくは、娘の性格というやつなのだろう。成長と共に何が変わっていくのかはわからないが、不安とも期待ともとれない心配は、少し心を躍らせる。
今の生活は幸せだ。そろそろ1歳半になる次女も夜泣きが少しずつ減ってきて余裕が出てきたし、長女の成長を見守るのも楽しい。夫の収入は平均よりもやや高いし、夫婦仲も良好だ。本当に幸せだ。
彼女の声を聞いて、少しだけ胸がざわついたが、自分に言い聞かせると、ちゃんと納得している自分がいる。納得している自分に安心する。
彼女の声が止まった。
帰宅の合図として流されるこの音楽が止まるまで娘が出てこなかったことは一度もない。実際、今日は3回はフルでこの音楽を聴いていたと思う。
なんとなく嫌な予感がして、門に寄りかかるのをやめ、建物の中に入ろうとする。まさにその時、背後から少ししゃがれた声が、私の心臓をつかむように追いすがってきた。
「京、久しぶりね」
ゆっくりと振り返ると、あの時の面影を残した、相棒にして姉である高柳紗凪が立っていた。