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ワタシが助けます

 中間考査の当日、ティーちゃんは、教室に現れなかった。まあ、それが妥当だろう。試験中に、ティーちゃんに質問したら、不正行為になるからだ。

 だが、俺は、この一週間、ティーちゃんにみっちりと教えてもらったことがしっかり定着したのを感じ、これまでにない手ごたえを、定期試験に感じた。――これは、いい結果が期待できそうだ。

 そして、テスト返却。「九十点以上の人は、このクラスは、三名。秋風悠和さんが九十五点、園山由佳里さんが九十六点、そして、清瀬登くんが九十二点ですね」というように、九十点以上の人として、名前を呼ばれることの多い中間テストとなった。そのたびに、「へぇー、清瀬、あったまいいなぁ!」という、からかいのような持ち上げ方をされた。まあ、凛人に言われる分には、悪気を感じないから良いのだが、中には、「ふぅん」とつまらなさそうな顔をする奴も少なくなかった。

 更に、物理基礎の返却のときには、

「このクラスに、学年唯一の百点が居ます」

 と言われ、みんなが「へぇ! 誰ー?」とさざめく中、

「清瀬登くんです!」

 と俺の名前が呼ばれて、驚いた。しかし、言われてみれば、丁寧に解いたため、時間はぎりぎりだったが、自信がないから、という理由で飛ばした問題もなかったし、全部解ききったため、おかしくはなかった。

「すごーい。清瀬くん、物理得意なんだねぇ」

 採点ミスの交渉の列に並ぶ由佳里が、俺の席の近くで並んでいた時に、そう声を掛けてきて、俺は、いやいや、と手を振った。

「いや......その、ティーちゃんに教えてもらったってだけで――」

「そっかー、私ももっと今度から、ティーちゃん活用したいなぁ」

 由佳里がのんびりそう返すと、隣に居た凛人も、

「そうだぞ、清瀬、TA一人占めにすんなってー♪」

 と肩を突いてきた。俺が、肩をすくめながら、「すんません」と会釈をすると、例の、ティーちゃんをいじめようとしていた男子連中の視線を感じた。きっと、また俺のことをキモイだのなんだの言っているのだろう。そう感じて俺は、はぁと机に突っ伏して、寝ることにした。


 その日の放課後。図書館横の机に腰かけた俺に、ティーちゃんは、

「登クン、百点、おめでとう」

 と言って、拍手をした。片方の手を動かさず、もう片方の手でパチパチと叩いている。まるで、ものすごく改まった式典の参加者みたいだ。

「ありがとう」

 俺がそう言うと、ティーちゃんは、にっこりと笑った。

「――そういえば、明日は、遠足だよね」

 ティーちゃんがそう呟いて、俺は、かつて、ティーちゃんが、遠足の班決めをExcelで作ったとき、その中に「ティー」と自分の名を入れていたことを思い出した。

「そういえばたしかに」

「楽しみ?」

「んー......嫌なメンツではないから、嫌じゃないけど、別にめちゃくちゃ楽しみ♪ ってほどでもねぇかなぁ」

 俺がそんな感じでやる気なさそうに答えると、ティーちゃんは、「そう......」と短く呟いた。俺はそんなティーちゃんを見ながら、

「うらやましいの?」

 と質問した。

「うらやましい......?」

 ティーちゃんはきょとんと目を丸くする。あぁ、これが「うらやましい」、って感情ってことを知らないんだな、と俺は思った。

「うん。ティーちゃんも、行きたいなぁ、って思う?」

「えぇ、まぁ。そうね」

「じゃあ、それは、『うらやましい』っていう感情。それも、人間の心の一つだよ」

 俺はここぞとばかりに、そう言って、人間の心を教えた。ティーちゃんは、キョトンとした顔をすると、

「これが、『うらやましい』ということ......」

 と呟いて、首元から、ウィーンという音を立てた。

「そう。そうなのね。うらやましいなぁ」

 ティーちゃんがそう言って、俺は、思わずクスリ、と笑った。新しい言葉を覚えて、使ってみている幼稚園生みたいで、かわいらしい。

「じゃあ、一緒に来る?」

 俺のその言葉に、ティーちゃんは、一瞬ぱぁっと、嬉しそうな顔をしたが、それも束の間、あきらめたように、ゆっくりと首を振った。

「イイエ。沙理奈さんも言っていたけれど、ワタシが、求められていないところにまで行くのは、余計なお世話で、人間の意にそぐわない行動だから、行ってはならないの」

 仕方なさそうにそう言って笑うティーちゃんに、俺は、そう、と相槌を打つ。ティーちゃんは、俺と目を合わせると、にこっと微笑んで、

「そう。だから、ワタシのことはお気になさらず。楽しんでいってらっしゃい♪」

 そう言って、最敬礼するティーちゃんは、ホテルのフロントの人みたいだった。

「うん――ありがとう」

 俺がそう頷くと、

「えぇ。テストも終わったし、明日も遠足だから、今日はもうおかえりになって」

 ティーちゃんはそう言って、にこっと微笑んだ。自分の気持ちを隠そうとするときになると、言葉が丁寧になっている。そんな発見をしながら、俺は、あ、あぁ。と呟いて、荷物を片付けはじめた。すると、ティーちゃんがふいに、

「あ」

 と、呟いた。俺が、ん? と首を傾げると、彼女は、

「登クン、虫が」

 と言って、宙を指さした。俺が、え? と指さされた方を見たときには、虫のようなものは、何も見えなかった。俺は、ティーちゃんの顔を振り返る。彼女は、気まずそうに、「あ」と漏らすと、

「あ、すみません。もう、飛んでいきました」

 と言って、うふふ、と手を口元に当てて笑った。俺の頭に「?」が浮かぶ。そんな、話や指導に関係のない注意を促すなんて――それに、今、本当に虫は居たのだろうか?

「あ......そう? じゃあ、また、明後日? かな」

 頭に疑問を抱えつつも、特に突っ込むことなく、俺がそう言うと、ティーちゃんは、こくりと頷いた。俺は、鞄を肩に掛けて歩き出す。

「登クン」

 去りゆく俺の背中に、ティーちゃんがふとまた声を掛けた。

「――ワタシには、登クンに助けてもらったことが、永遠にメモリーに記録されます。つまり、永遠に忘れないということです。だから、登クンが困ったときは、ワタシが助けます。ご心配なく」

 俺は、心を揺り動かされた。振り返らないまま、思わず立ち止まってしまう――なんだって、急に、こんなことを言い出すんだろう?

「いや、そんな......俺は、今回の中間で良い点数取れただけで十分ティーちゃんに助けてもらってるよ、ありがとう」

 俺の言葉に、ティーちゃんは、そう。と呟いて、指をぴたり、とくっつけて美しく俺に手を振った。その仕草はまるで、高貴なお方のようだった。

 しん、と静まり返った校舎を歩きながら、俺は自分の心臓がトクントクン......と高鳴るのを感じていた。


 次の日。東京駅に集合した俺たちは、学年主任の安藤の、「梅雨のはじまりと重なり、あいにくの雨ではありますが、ぜひ皆さんの知恵を絞って、楽しい遠足を作り上げていってください」というようなスピーチが、聞こえているのか聞こえていないのか微妙な顔をしながら、まばらに拍手をした。普段より早起きをした人が多いのか、ふわあ、と手で押さえることも無くあくびをする生徒など、眠そうな人が多かった。

 今回の遠足は一応、「目的」の一つに、「二〇二〇年、東京オリンピックの際に、外国人に観光案内が出来るように東京に詳しくなろう」というものがある。また、この最初の集まり以外は、もう全員で集合することはなく、必ず通るべきスポット二つに担当の教員が付き、最終地点の東京駅銀の鈴に午後四時までに戻ってくれば、あとはチームごとにどこに行っても良いことになっている。他の駅に行くことも出来、俺たちには一人ひとり、「東京都区内一日フリー乗車券」なるものが配られた。TA導入の件といい、この乗車券といい、お金がある学校なのはわかるが、使い方が変わっているなぁ、と俺は感じた。

 そういえば、俺はグループの奴らと、どこに行くか、何も話していなかったが、どこに行くつもりなのだろう。俺は、しおりの路線図と、スマホを交互に見ている凛人に、

「な、俺らどこに行くの?」

 と聞いた。

「ん。取りあえず、東京タワー行きたいかなぁ。スカイツリーでも良いけどさ、でも、東京タワーの方が、なんかThe Tokyoって感じがするじゃん、やっぱり」

 淡々とそう言う凛人に、言われてみれば、確かに、と俺は相槌を打つ。

「実際俺らもノープランだし、清瀬も行きたいところ、言っていいぞ。どっか、行きたいとこある?」

 俺は、あぁ、この気楽さ良いなあと思いながら、

「んーと、浅草? 雷門? が、気になる。テレビとかで外国人がインタビュー受けているところ」

 と答えた。他の同じチームの奴ら――神内(じんない)(ゆう)()と、霧島(きりしま)三郎(さぶろう)も、あぁーと諸々呟く。

「俺は、秋葉原行きたい!」

「は? お前いつでも行けるだろ」

「いやー、ちょうど推しキャラのグッズの発売日でー」

「遠足のあとに寄って帰れよ」

「えぇー、でもアニメやアイドルも大事な日本文化じゃん? それを求めて日本に来る外国人だっているわけだし、日本人はみんなコスプレしている、って思っている人も多いらしいよ。みんなはもともとそんなにアニオタじゃないから、めったに行く機会ないでしょ? 知って損はないと思うなぁ」

 俺は、はじめてまともに神内が喋っているのを見たが、言うことになかなかに説得力があって、面白いと思った。また、霧島の丁寧なツッコミも、絶妙だと感じた。

「んー......まぁ時間あったらな。あぁ、でも行くなら遠くから攻めて戻ってくる方が良いな。んー」

 そんなやりとりを交わして、俺らは、最初に東京タワーに行き、そのあと東京駅からちょっと遠い方の秋葉原から、浅草に行き、東京駅に戻る、というプランを立てた。

 運賃は保証されていることもあって、ちょっと高かったが、俺らは東京タワーの展望台まで登ることにした。機会がないと、登ることはないだろうと思ったからだ。雨であまり遠くの方までは見えなかったが、それでもずいぶん高いところまで来たなぁ、と感じた。神内が、少し高いところが苦手なのか、なかなか窓辺の方まで来ないのが、おかしい。

「あれー?じんちゃん、どうしたのー? お前ん家どの辺か教えろよ~」

 と言いながら、彼の腕を引っ張る霧島に、

「え? あ、あの辺、あの辺。わかるだろ?」

「どこ指さしてんのか、全然わかんねぇよ、あはは!」

 と、必死に抵抗する姿が面白かった。俺は、窓辺に立って、いろんな角度から写真を撮った。あいにくの雨であんまり綺麗な景色じゃないけど、ティーちゃんに見せてあげられたら良いなぁ、と思いながら。

「ね、もう十分楽しんだよね? そろそろ降りよ、降りよ」

 神内のその言葉に、俺らはくすくす......と笑って、東京タワーをあとにした。


 秋葉原に向かう電車の中で、

「お腹空いたなぁ」

 と凛人が呟いた。そろそろ十二時である。確かに、いつもより早く朝ごはんを食べ、いつもよりたくさん移動している分、お腹がペコペコだった。

「あ、じゃあ、俺秋葉原に良い店知っているから、そこでご飯にしよ!」

 神内の言葉に、

「あはは、それって、大丈夫なのかー?」

 と霧島がツッコむ。

「大丈ブイ! 絶対楽しいよ。俺が保証する」

 神内がそう言って、にっこりと笑った。クラスに居ると分からないけれど、今日の神内はなんだかキラキラしていた。いつもはそんなに気にしないけど、夢中になれる趣味があるって、やっぱり良いことなのかもしれない。

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 俺らは、神内の案内したお店に絶句した。そこは、メイドカフェなるものだった。

「ただいまー。あ、四人でーす」

「かしこまりました」

 慣れた様子で、一人のメイドさんについていく神内にあっけにとられながら、

「な、ここって、行ってセーフな場所なの?」

 と、俺が残りの二人に尋ねる。

「しおりには、未成年に不適切な場所には入るな、って書いてあったけど......」

「いやまぁ、別に居酒屋とかパチンコとか競馬場じゃねぇんだし、『未成年に不適切』というわけではないんじゃね?」

 との答えに、俺もなんとなく納得し、メイドカフェの椅子に腰かけた。コスプレと、ばっちりメイクと、ぶっ飛んでいるヘアスタイルで完全にアニメキャラと同化したメイドのお姉さんに、お冷を出される。

「ご注文は、いかがいたしますか?」

 俺たちは、そう言われて、迷ってしまう。

「んー。じゃあ、取りあえず、オムライス四つで」

 と、神内が言うと、凛人が、

「あ、それと、この萌え萌えパンケーキとやらを一つ」

 と注文した。メイドのお姉さんが去り、俺らはポカンとした顔で、凛人を見つめた。

「ん? あ、いや......甘党なのよ、俺」

 そう言って頭を掻く凛人に、俺らは、へぇー! 意外。と言って、ケタケタ笑い転げた。

 しばらくして運ばれてきた、オムライスとパンケーキに、メイドさんは、アニメ声を発しながら、ケチャップやチョコソースで、ハートや猫の絵、「Love」や「萌え」と言う字を描いていった。その器用さ、また描きながら話すトーク内容の豊富さに、俺は感動した。この若さで、この人は何年ここでメイドをしているんだろうという素朴な疑問が浮かんだが、聞けるはずもなかった。


 緊張と楽しさで、実際お腹いっぱいになったメイドカフェを出ると、

「本当、一瞬だから、オシのグッズ買ってくるね!」

 と神内が言って、俺らは、しょうがないなぁとばかりについて行った。平日の昼間で、そんなに多いわけではなかったが、それでもちらほらと、ロリータを来た女の子や、水色の髪で、コスプレをした女性など、日本のアニメ文化がどーんと反映されているような景色がそこにはあった。

 みんなが、店に入っていくなか、俺は外で待っていた。待ちながら俺はふと、ティーちゃんと毎日一緒に過ごしている俺は、ここに数あるポスターに映る彼女たちに貢いでいるオタクの人と同じなのかなぁ、と考えたりした。だとすると、俺は「ティーちゃんオタク」なのかもしれないな。

 そんなことを考えて、ぼんやりとしていると、

「お兄ちゃん♪」

 というアニメ声が聞こえてきた。背中にゾワーッと寒気がした――その、「お兄ちゃん」というのは、俺のことか、と俺は後ろを振り返る。

 そこには、黒髪を後ろでお団子にまとめた、ナースのコスプレ姿の、顔にまだあどけなさの残る少女が立っていた。口を閉じて微笑んでいるが、八重歯の先端が、上唇の両端からちょこんと顔を見せていた。メイクをしているから分からないが、おそらく俺と同い年か、年下のように見える。

 その少女ナースは、俺と目を合わせると、

「そう、あなた」

 と言って、悪戯っぽく微笑んだ――一体何の用だ、と思いながら、俺は、はぁ、と頷く。

「ちょっと、道に迷っちゃって」

 そう言って、彼女は、俺に近づいて来た。地図を俺の目の前に広げる。俺が、いや、俺も秋葉原来るのはじめてなんですけど......と、内心断ろうとしながら、地図をのぞき込むと、バンッと広げた地図を俺の顔に当て、目隠ししてきた。俺は、パニックになる。

「ちょ......ぶぁっ」

「――静かに。ついてきて」

 さっきのアニメ声が嘘のように低い声でそう言われ、俺は、必死に抵抗しようとしたが、すさまじいスピードで、引っ張られて、俺はその力に耐えられず、彼女にさらわれた。一体彼女のどこに、そんな力があるのか、と思いながら。

 目隠しを外されると、俺には、もうそこがどこなんだか分からない、建物と建物の間の狭い通路に立たされていた。俺は内心びくびくしながら、

「――俺なんかさらって、何か良いことあんのか」

 と彼女に語り掛けた。ナース姿の彼女は、俺のことをちらり、と一瞥すると。

「最初は誰でも良かったわ。だけど――あなたを見たとき、あなたじゃなきゃ嫌、あなたが良い、って思ったのよ」

 「あなたが良い」の部分を強調して彼女にそう答えられ、俺の何にだよ? と俺は心の中でツッコむ。彼女は、俺の横にぴたりとくっついて体育座りをした。一応、上には屋根があって、そこで雨に濡れるということはなかった。

「お願いがあるの――ねぇ、私と心中しない?」

 そう言って、彼女は、俺の瞳を見つめた。――......は?

 薄暗く灰色の路地裏。壁にスプレーで書かれた、意味不明な赤いロゴ。都会の喧騒や雨の音は、漏れてきたものしか聞こえてこない。その中に、ナースのコスプレの少女と俺が二人きり。この異様な光景の中に居ながら、俺の心は、「は?」の一文字に占められていた。

 何も言い返さない俺に対し、彼女は、ため息を吐きながら、

「なんで、何も言わないのよ、私が今言ったことが聞こえなかったの? 心中よ、心中。知らないの? 曾根崎心中の心中よ。近松門左衛門、習ったでしょ? なんで驚いた顔、おびえた顔の一つもしないの? ......何か言いなさいよ」

 呆れたようにそう言って、彼女は、顎を自分の膝の上に乗せた。俺は、何を言おうか、と考え、

「今日、学校は?」

 ととりあえず、素朴な疑問を投げかけた。彼女が、視線だけをこちらに向ける。

「そういうあんたはどうなのよ」

「今日は、遠足の東京観光で。で、班行動で、ここまで来たところ」

 俺がそう答えると、彼女は、びくり、と顔を上げた。

「え、なにそれ。じゃあ、あなたはサボりじゃないの?」

 あいかわらず語気強く、ませた喋り方をする彼女に対し、

「あぁ、まぁ......」

 と、抜けたように答える自分が、なんだか間抜けみたいだった。

「なんだー......仲間だと思ったのに。学校で、ぼっちで、学校みたいな集団行動の場が嫌いな――そんな仲間」

 彼女はそう呟いて、あーぁ、つまんないのー。と俺の肩に頭を預けた。まぁ実際、俺も群れるのは好きじゃないけれど、まさか、自分にそんなことで期待をされるなんて、考えたこともなかった。

「名前はなんていうの?」

 俺がそう聞くと、

「んー。名乗りたくないな。ナースのナス子でいいわよ」

 と彼女が答えた。その名乗った名前が全然可愛くなくて、俺は思わず、くすり、と笑った。ナス子はびっくりしたように、膝から顔を離し、ひたと俺の顔を見つめた。

「――そんな風に笑うのね。ちょっと意外」

「いやだって、ナス子って、ナースというより、むしろナスにつくような名前じゃんか」

 俺がそう言うと、彼女は、ちょっとぎこちなく、恥ずかしそうに、ふふ、と笑った。

 少し、沈黙が流れた。俺は、そのまま去ろうと思えば去れたのかもしれないけれど、引っかかることがあったから、また口を開いた。

「心中って言っていたけど、死のうとしているのか」

 俺の問いに、また顎を膝の上にのせて、ナス子は、つまらなさそうに、こくりと頷いた。

「そう」

「それは、どうして?」

 俺がそう聞くと、彼女は、顔を上げて、

「聞いてくれるの?」

 と、問うた。俺が頷くと、彼女は、こちらを振り向いて、唇をふるふると震わせると、ゆっくりとまばたきをして片方の目から、ツーッと涙を流した。そして、俺からそっと目を逸らして、

「私は、ずっと......一人だった。家にも、学校にも、居場所がないの。だから、二次元の世界に救いを求めた――だけど、二次元に居る彼らは、現実に居ないの。私が死のうとしても、止めてくれる人は......居ないのよ? 誰も。それって、結構......いやすごい、辛くて」

 その後、ナス子は、俺に詳しい話を聞かせてくれた。親の離婚、再婚を通して、心を許せる家族が自分には居ないこと、家の事情のこともあり、人が信じられず、学校でも、心から信頼できる友達というのを作れずに、ずっと孤独な思いをしていたこと、最近は、ときどき学校に行く振りをしながら、コスプレをして、ここによく遊びに来ていること......

「でも、最近は、ここに来ても、虚しいの。結局、一人だから......」

 消え入るようなその声を聞いて、俺は、彼女の横顔をじっと見つめた。この「お兄ちゃん♪」とアニメ声で、俺に話しかけてきた、積極的な女の子が、そんなバックグランドを持っているなんて......少し、信じられなかった。だが、せめて、俺だけは彼女のことを信じてあげようと思った――彼女が一人ぼっちだという思いを抱いているのは、事実のようだから。その部分においては、俺にも、理解できる共通したものがあると思ったから。

「そんな時、あなたを見つけたの。あなたはね、私の好きなキャラクターに似ているのよ」

 そう言うと、ナス子はまた悪戯っぽく笑った。

「はじめてよ。死のうとしているのを知って、私の話を聞こうとしてくれた人――大体の人には、『そんなこと言わずに、生きていこうよ』って言って流されたから。......うふふ。私も、最後に人を見る目が出来たのかな」

 ナス子は、そう言うと、涙を拭って、目の色を変えた。「さあ」と低い声色で言うと、ポケットから二本の注射器を取り出した。不敵な、笑み。

「......良い心中相手が見つかったことだし、一緒に逝きましょうか、お兄ちゃん♪」

 その注射器の針がピカンと光るのを見て、俺は、ゾッとした。注射器の中にある、緑色の液体――それが青りんごジュースだといいんですけど......と心の中で思いつつ、いや、青りんごジュースであったとしても、なんか注射で入れられたら、やばいことになるかも、などというどうでもいいことが頭に浮かんでくるのを必死に振り払う。

「ナス子――生きろ」

 気付くと、俺は、そう呟いていた。ナス子の手が、ピクン、と震えたのがわかった。

「嫌。無理」

 そう微かに首を振って、ナス子は、俺に注射針を近づけた。俺は、彼女の手首をガシリ、と掴む。ハンド部時代に鍛えた握力のお蔭で、どうにか抑えているが、ブランクもあって、いつ力尽きるか分からない。

「やめろ」

 俺が彼女の目を睨みつけて言うと、彼女は、「やめない」とドスの効いた声で言いながら、俺にドン、と壁ドンをした。俺の背中のリュックが、壁にゴスッとぶつかったそのとき、

「ピンポーン」

というくぐもった音が聞こえてきた――え、今の何? 

そう思った瞬間、激しい風が吹いて、ナス子の手中にあった注射器が、どこかへ、スコーンと飛んでいった。そして飛んでいった注射器は、何かレーザーのような光に当たったかと思うと、瞬時にして、消えてなくなった。

 風が吹いてきた方を見て、俺は絶句した。

 ――そこには、ティーちゃんが立っていた。

「......誰よ、あんた」

 ナス子が恐る恐るそう聞いたとき、ティーちゃんは、足に付いたキャスターを動かし、スーッと俺たちの目の前にやってきた。

「ワタシは、ティーチング・アンドロイド。ティーちゃん、って呼んでくださいね」

 と、いつもの自己紹介をした。俺は、これは一体どういうことか、と考えを巡らせた。

「あ、登クン、虫が」

「あ、すみません。もう、飛んでいきました」

 昨日のティーちゃんの言葉が頭の中に木霊する。つづいて、さっき鳴った、「ピンポーン」という音も。

 ――そうか、あのとき、何言い出したのかと思ったけど、あの時、俺が顔を逸らしていた間に、ティーちゃんは、俺のリュックの中に、ファミレスボタンを入れていたんだ、ということが頭にいた。

「――ワタシには、登クンに助けてもらったことが、永遠にメモリーに記録されます。つまり、永遠に忘れないということです。だから、登クンが困ったときは、ワタシが助けます。ご心配なく」

 その言葉を思い出しながら、なんてロボットなんだ、ティーちゃんは。と俺は泣きそうになった。

 そして、注射器からの恐怖から解放された俺は、立ち上がって、ナス子の両肩を叩いた。

「ナス子。死ぬなよ」

 俺の言葉に、ナス子は、涙でうるうるした目で俺を見つめた。何か言うかと思ったが、何も言わなかったため、俺は、目を逸らしながら、言葉を次いだ。

「俺さ、このちょっとの時間しか一緒に居なかったけど、ナス子が持っているポテンシャルっていうかが、すげぇな、って思ったんだ、切実に。声の使い方が声優みたいで。俺を引きづり駆け回るだけのすげぇ体力があって。あと意志というか、自分の思いがちゃんとあって――たしかに、一人って、たまにはいいけど、ずっとはつらいよな。俺も時々、孤独を感じて、つらくなる。でも俺は、ナス子みたいに、そういうつらい想いをした人が、将来苦しむ人に寄り添って、幸せに出来る人間になれる、って思う。だから、そういう可能性秘めているナス子には、生きていてほしい」

 ナス子はじっくりと俺の瞳を見つめて俺の話を聞いていたが、わなわなと、道に膝をつくと、顔を両手で覆いながら、大きく、「......ありがとう」と、こくりこくりと頷いた。

「......ありがとう。こういう......死にたい、って思ってしまったときに、会えた人が、あなたで、本当に、良かった」

 ナス子は、そう言うと、涙できらきらした顔を上げて、キュッと唇の端を上げて、八重歯を見せて微笑んだ。


 俺は、その笑顔を見ることができて、本当に良かった、と感じた。

「最後に、あなたの名前を聞かせてくれますか」

 ナス子にそう言われて、俺は頭の中で、「前前前世」の曲が掛かるのを感じつつ、自分の名前を言っていなかったことを思い出した。

「俺は、清瀬登。......ナス子の本名は?」

 俺がそう言うと、ナス子は、ふふふ、と笑って、

「聞いて驚かないでね。私は、那須(なす)()(べに)

 那須湖紅......ナス子、べに。俺は思わず、ふっ、はは! と吹き出した。那須湖紅も、ふわりと微笑んだ。

「ありがとう。登。私の命の恩人――いつか、恩返ししに行くから、待っていてね、また会える日まで」

 湖紅は、そう言うと、大通りの人込みの中へ消えていった。

 あっさりと、人込みの波に飲まれ消えていくナス子を見送ると、俺は、ティーちゃんの方を振り返る。

「ありがとう。ティーちゃん」

 ティーちゃんは、嬉しそうに微笑んで、こくり、と頷いた。

「ていうか、学校からここまで、距離結構あるけど、来んの超早くなかった?」

 との俺の問いに対し、

「ワタシは、ボタンを押されてから三秒以内にボタンを押した人のもとに駆け付けなければならないように、プログラミングされているのよ」

 とティーちゃんが答えた。光のようだな、と俺が思っていると、

「一秒間に地球を七回半回ったりは出来ないけれど、日本からブラジルまで三秒で行くことは出来るかもしれないわ。前例はないけれど」

 と無邪気に付け加えた。俺は、その高機能性に唖然とする。――すげぇ。一体誰がつくったんだろう、このロボット......

「他の皆さんは?」

 とティーちゃんに言われ、俺は、とっさに、神内たちをアニメイトの前で待っていたときに、湖紅にさらわれたことを思い出した。

「ヤッバ。ねぇ、ティーちゃん、凛人たちのこと探せる?」

「では、大通りに出て、虹彩検索で海棠 凛人さんのことを検索します」

 ティーちゃんは、そう言って、大通りでしばらく、目をピカピカと光らせると、「発見」と呟いて、俺の手首をひんやりとしたその手で掴むと、キャスター付きの足で、俺のことを、ピューッと引っ張っていった。まさか同じ日に、違う女の子から、秋葉原の街を引っ張られていくことになるとは――

「おぉー清瀬、探してたんだぞ、どうした?」

 振り返った凛人にそう言われ、俺は、

「あぁー、と、ナースのコスプレの女の子に、心中を迫られ、話を聞き、生きろと説得していました」

 と説明すると、霧島に、

「はぁ? 何寝ぼけたこと言ってんの?」

 とツッコまれた。

「あれ、ティーちゃんじゃん。どうしたの?」

 神内にそう聞かれ、

「えっとー、俺が殺されそうになったときに、助けに来てくれた」

 俺がそう言って苦笑いすると、

「この小一時間の間に、だいぶ波乱万丈な時を過ごしたんだな、まあ無事でよかったけど。もう、浅草行く時間ねぇから、浅草すっとばして、東京駅行くぞ。通過ポイント、何も通過してねぇからな」

 と凛人にまとめられた。

「あ、あのさ」

 歩き出した三人の背中を俺は追いかける。

「ティーちゃんも一緒でいいかな?」

 俺のその提案に、三人は、顔を見合わせ、

「ん? あぁ、まぁ、ティーちゃんが、こんなド変態男子チームと一緒で良いなら」

 と答えた。俺がティーちゃんの方を振り返ると、

「ありがとう。同行させていただきます」

 と、にっこり笑った。

 その後、秋葉原から、最終地点の銀の鈴にたどり着くまで、電車や、歩いているときに見えるスポットの一つ一つを、ティーちゃんが、俺たちに面白おかしくガイドしていってくれた。

「え、なんでティーちゃん、そんなに東京のこと知ってんの?」

 との凛人の問いに、

「ワタシ、もともと、観光用ロボットとして作られそうになっていたので」

 とティーちゃんが答えた。ティーちゃんのいつもより、ちょっと得意そうな微笑みに、もし、ティーちゃんが、TAじゃなかったら、彼女の拠点が、俺の隣じゃなかったら、俺は今日、死んでいたのかもしれない、 と、俺はそれらの偶然の重なりに、心のどこかでひそかに感動しながら、予想外にも楽しく、遠足を終えることが出来た。


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