人間の心
「私に......人間の心を、教えてください」
ティーちゃんからこう言われたとき、俺は結局何も答えることが出来なかった。
確かに、俺はその直前で、
「だから俺は、人間の心、知りたいって思うし、ティーちゃんにも、知ってほしいって思うんだ」
と言ってしまった。だが、いざ人間の心を教える、となると、どうすればいいのか、と思う。人間同士でさえ、それは難しいことだ。
一瞬、心理学を一緒に勉強すればいいのか、とも考えたが、それでは不十分だ。なぜなら、それは、ティーちゃんの中に、心理学の「知識」が増えるというだけだから――それでは、本当の意味で、「人間の心」を知る、感じるということには繋がらない。
俺は、難しいなあと、考えながら、帰り道を歩いていた。夏になりかけている今の時期の空の複雑な色味に目を向けて、のんびり歩いていると、後ろから、誰かに二本の指で、とんとん、と背中をつつかれた。
「清瀬くん♪ 久しぶり~」
その声、語尾に「♪」が付くような喋り方には、聞き覚えがあった。振り返ってみると、昨年同じクラスで、最後の席が前後だった、ふんわり・不思議ちゃん系女子、紺野頼子が悪戯っぽく笑っていた。
「あぁ。どうも」
俺はそう言って会釈をする――しばらく会っていない間に、髪がだいぶ伸びたのだなぁと思った。前は肩ぐらいのショートヘアだったが、今は長い髪を校則に従って、ゆったりと二つ結びに結っている。そんな頼子は、ふふふ、と笑って、
「ねぇ、一緒に帰ってもいい?」
と言って、俺の横に並んだ。
「え? あぁ、うん。帰りましょう」
俺がモノトーンなヴォイスでそう返すと、頼子は嬉しそうに微笑んで、下を向いた。ふわりと柔軟剤だか、シャンプーだかの良い香りが俺の鼻に入ってくる。
頼子はしばらく下を向いたまま、んー......と何かしら考えていたが、ぱっと顔を上げると、思い切ったように、
「こないだ、清瀬くんさ、ケガしてなかった?」
と真剣な面持ちで聞いてきた。
「え?」
「なんか、氷、当てているの、食堂で見かけて。突き指?」
頼子は、指を一本頬の横に寄せて、心配そうに顔を傾けた――俺は気づいてなかったけど、紺野さんは、こんな俺のこと、気にかけてくれていたんだな、と俺はちょっと意外に思った。
「え? あぁぁ、うん。ちょっと、体育で」
と俺が言葉少なに答えると、彼女は眉尻を下げて、
「そう......心配していたの。本当、怪我には気を付けてね」
と前を向いたまま、優しい声でそっと呟いた。お母さんみたいというか、お姉さんみたいというか。彼女のくるんと綺麗に上を向いた睫毛を横から見ながら、俺は、なんと答えて良いかわからず、
「あぁ。はい......あざす」
とまた軽く会釈をした。頼子は、眉尻を垂らしたまま、俺の顔を見つめて、んふふ、と微笑む。
少し沈黙が流れそうになったところで、頼子がすかさず顔を上げた。
「清瀬くんのクラスってさー、今、TAっていうロボットが居るんでしょう? どんな感じ?」
そう問われて、俺はさっきまで、ティーちゃんに、どう人間の心を教えたらいいのかで悩んでいたことを思い出した。
しばらく黙ってしまった俺に、
「清瀬くん? おーい! お茶!」
と頼子が声を掛けた。俺は、「ん?」と振り返る。
「んー......噂通り、そのロボットちゃんにぞっこんみたいだね――そんなに、かわいいの?」
頼子から上目遣いにそう言われ、俺は、「あ、いや、その、ごめん」と呟いた。正直、何に謝っているんだか分らなかった。
「今さ、悩んでて」
俺が口を開くと、頼子が目を丸くし首を傾げながら、興味津々な表情で、
「悩み?」
と聞き返してくれた。俺は頷く。
「うん。そのティーチング・アンドロイド――ティーちゃんっていうんだけど、に、『人間の心を教えて』って頼まれたんだけど、どう教えていいか分かんなくて」
「え?」
俺の打ち明けに、頼子はさらに目を丸くさせた。そして、
「......そのロボットの方から、人間に対してそんな質問してくるの?」
と、静かに問うた。俺が頷くと、
「ふぅん。へぇ、良く出来てるね......ずるいなぁ」
頼子はそう言って、どこか寂しそうにくすり、と笑った。横に並んで歩いていた彼女は、タタタッと駆け足で、俺の正面に立ちはだかると、
「そう。......じゃあ、人間の心を教える方法のヒントを教えてあげようか」
と言って無邪気に微笑んだ。彼女の長くなった髪がゆるりと揺れる。
「えっ、何?」
俺が思わず、聞き返すと、
「うん――私はね、去年、清瀬くんに会って、清瀬くんから、人間の心を教えてもらったの。なぜなら、私は......」
頼子は、そこまで言ってから、んー......と唸ると、どこか躊躇ったように、うふふ、と微笑んで、くるり、と背中を向けた。
「はーい。ヒント終了。ここから先は、自分で考えよう。これからは、みんなが、考えるカラス♪」
物理の時間に聞き覚えのある、番組のキャッチコピーを用いてそう言うと、頼子は、こちらに背を向けたまま、
「清瀬くん、あっちでしょ? 私こっちだから、じゃあね」
と後ろに居る俺に向かって、ひらひらと手を振った。
――私はね、清瀬くんに会って、清瀬くんから、人間の心を教えてもらったの。なぜなら、私は......
俺の頭に、その言葉が響いて、「なぜなら、私は......なんなんだよ!?」と心の中で呟いた。
次の日、学校に着いて、ティーちゃんを見ると、いつも通り、姿勢を正して、俺の隣のスペースに腰を下ろしていた。
「おはよう」
と声を掛けられはしたが、特に、「いつ、人間の心を教えてくれるの?」と言ったようなことは聞かれず、安心したと同時に、いつどのようにその話を切り出せばよいものか、と俺はずっと気がかりだった。
今日で中間テストの一週間前となった。昨日は、あのトラブルのせいか、なかなか、生徒からティーちゃんへの質問が無かったが、自習の時間がちょくちょく出てきて、質問量がグンと増え、ティーちゃんは再び、一生懸命教室中をあちこち走り回るようになっていた。だが、俺のところに戻ってくる度、「ふぅ」とため息を吐く頻度が増したように思えた。
そして、帰りのSHRで、
「起立ー気を付けー礼」
「さようなら」
と言っても、放課後、部活が無いため、教室に残って勉強する奴らが、ちらほらと残っていた。試験期間に周りの奴らが、音読しているのを聞くのは、暗記に繋がるし、正直教室で勉強しても良かったのだけれど、やはり問題集を解くときなどに周りがだべっているのを、邪魔だと感じてしまう俺は、いつものように、図書館横の机へと、教室を後にした。
下校時刻二十分前になったとき、俺は、今日帰ってやろうと思っていた問題集を、教室横にある個人ロッカーに置いてきたことに気が付いた。そして、荷物を片付け、階段を上がり、二年一組の教室へと向かった。
「TAさんってさー、なんでも教えてくれるんでしょー?」
廊下を歩いていると、そんな男子の声が聞こえてきた。
「えぇ、まぁ。ご用件は?」
ティーちゃんがそう答えると、男子生徒たちのクスクス......という下品な笑い声が聞こえてきた。
「俺、女の子の身体がどうなってんのか、知りたいなぁ」
「脱いでもらってもいいー?」
そんな言葉が聞こえてきて、俺は、はっとした。そして、急いで教室の扉をガラガラガラッ! と開いた。見ると、ティーちゃんが着ている女子の制服の一番上のボタンが、一人の男子生徒によって外されようとしているところだった。
「登クン......」
ティーちゃんはそう言って凄まじい勢いで立ち上がると、全速力で、俺の方へ向かって、ピューッと走ってきた。そして、俺の背中に回ると、
「......怖かった」
と低い声で呟いた。俺は、黙ってその男子連中を睨みつけた。
「――なんだよ、清瀬、TAとデキてんの?」
「『勉強が友達、勉強が恋人』っていうような顔してるくせに。侮れねぇわー。てか、キモ」
「あーあ、せっかく面白いこと出来るところだったのに。帰ろ帰ろ、つまんねーのー。あ、清瀬。このこと、誰にもチクんなよ」
各々、そのような言葉を吐き捨てて、彼らは教室を出ていった。散々なことを言われたが、俺は自分が起こした行動に対して悔いは無かった。ティーちゃんが苦しむのを知りながら、何もしない臆病でいるより、悪口を言われても、ティーちゃんを守ることを選べた自分をちょっとだけ誇りに思えた。それも、こないだの男鹿の言葉のお蔭だろう。
そんなことを考えながら、俺は、ティーちゃんの方を振り返った。
「ありがとう、登クン」
そう言って微笑む顔が、やっぱり相変わらずのアルカイック・スマイルで、俺は心を痛めた――あんなことをされたあとでも、そうやって笑えるのは、傷ついていないからなのか、それとも、無理をしているからなのか......
「ティーちゃん......」
俺は中腰になって、彼女の瞳をじっと見据えた。そして、さっき一人で勉強をしながら、ずっと考えていたことを口にした。
「放課後、ここに居るのは、危険だ。だから......今後は俺と放課後、図書館横にある机で、一緒に勉強しないか? 俺らが、はじめて会った所。そうすれば......まだ具体的な方法を知らねぇけど、その中で、俺もティーちゃんに、人間の心、教えられるかもしれない」
ティーちゃんは、そう聞くと、口を嬉しそうに開いた。
「ありがとう。そうします」
五月の夕日が窓から優しく射して、ティーちゃんの顔を照らした。そこには、他の機械にはない、ぬくもりのようなものが宿っていた。