新しい電池
頼子が去ったあと、俺は、心がざわざわと落ち着かないまま、とりあえず、男鹿に御礼を言おうと、教室に向かっていった――この気持ちも、男鹿になら、話せるかもしれない。
下校時刻となり、渡り廊下の窓から外を見下ろすと、そそくさと帰っていく生徒たちや、下駄箱の外のベンチに座って談笑する女子生徒たちが見えた。
教室の近くまで来て、ウォータークーラーの水を飲んでいると、
「一つ、勉強と関係ない質問してもいい?」
という男鹿の声が教室内から聞こえてきたため、俺は耳をそばだてた。
「どうぞ」
ティーちゃんの声が答える。俺は、慌てて廊下の掃除用具箱の影に身を潜め、教室の中の様子を窺った。教室には、男鹿とティーちゃんが二人きりで、向かい合って座っていた。男鹿は、うん......としばらく考える顔つきになると、
「今、ティーちゃん、どんな気持ち? 清瀬が居なくて」
と質問をした。ティーちゃんが、え、と呟いて黙り込む。俺は、は? 男鹿なんでそんな質問してんだよ、と心の中でツッコむ。ティーちゃんは一瞬、カチャカチャカチャ、と音を立てると、顔を上げて、
「......長久くんが居てくれたのに、こんなことを言うのは、申し訳ないけれど――この気落ちは多分、寂しい、ってことなんだと思います」
と答えた。俺は、あぁ、そんな気持ちにさせてしまって申し訳なかったなぁ、と掃除用具箱の陰から反省した。男鹿はふわりと声色を優しくして、
「そう......寂しいか」
と相槌が打った。俺は男鹿の横顔をそっと見つめる。そこにいつもの変態らしさは皆無で、仏のような穏やかな顔をしていた。しばらく沈黙が流れていたが、男鹿は、くふふ、と下を向きながら微笑んで、
「そう。ティーちゃんは、清瀬のことが好きなんだね」
と呟いた。俺は、思わず、は? と声を出しそうになって、必死に堪えた。思わずしゃがみこんでしまう――俺はそんな自分の純粋さに呆れた。乙女か、俺は。おとめ座だけど。
「好きです」
しかも、ティーちゃんがそう即答したため、ますます俺は混乱してしまった。俺の頭にティーちゃんの「好きです」という四文字が木霊する。俺、これ聞いちゃいけなかったような気がする......と思いながらも、俺はその場を離れることが出来なかった。
「大好きです。登クンのこと。だけど......こうやって、登クン以外の人と接するときでも、登クンのことばかり考えてしまうのは――正直、困ります。仕事に集中したいのに、もう! って、嫌だな、とも思ってしまうんです。大好きなのに」
ティーちゃんのその純粋すぎる一言一言に、俺は、心をわしづかみにされてしまった。これを聞いてしまった後で、不器用な俺が平静を保てるわけがない。俺は、帰ろう......と音を立てないようゆっくり立ち上がった。
「ティーちゃん」
男鹿がくすり、と笑うのを背中で聞く。
「それは、恋だね」
「恋?」
「そう。恋って、そういうもんだよ」
男鹿の声が温かく響いてきた。ティーちゃんが、カチャカチャカチャ......と音を立てているのが聞こえる。俺は、男鹿に対して、お前に恋の何が語れるんじゃ、と心の中でツッコみつつも、顔がカーッと熱くなるのを感じた。そして、手元に残る、先ほどの「考えるカラス」の答えが書かれた紙のことを思った。
――確かに、恋している時の心、って、めちゃくちゃ人間らしいのかもしれない。その心が良いものであるとは言い切れないけれど。
そんなことを思いながら、俺は、男鹿とティーちゃんのやり取りに背を向け、下駄箱へと向かった。途中、階段でいて、軽く転んでしまった。一年生の女子が遠くから、「ひぇ......」と声を上げるのが聞こえた――俺ももう、末期かもしれない。
次の日の朝、
「おはよう」
というティーちゃんには、特にいつもと変わった様子は無かった。しかし、俺は、昨日の頼子とのやりとり、ティーちゃんの「好きです」という言葉を思い出したら、上手く声が出せなかった。「......うん」としか言えなかった俺に、ティーちゃんはキョトンとした顔をしたが、にっこりと微笑んだ。
そして昼休み。俺は男鹿と食堂に向かいながら、
「昨日のティーちゃんとの勉強、どうだった?」
と聞いた。男鹿は、え? と目を見開くと(黒目しか見えない)、
「え? あー、うん。良かったよ。めっちゃはかどった。毎日教えてもらったらそりゃテスト良い点とれるわ、って納得した~」
と返した。昨日俺が聞いていた話を出さないあたりが、男鹿らしい。ティーちゃんのプライバシーをちゃんと守ってあげているのだと、俺は感じた。俺は、そう、と相槌を打つ。
「そういう、清瀬は? 下校時間過ぎても教室戻ってこなかったから、帰っちゃったわ。そんなに、仲睦まじくお勉強してたの~?」
と言って変態チックにニヤニヤと笑った。俺は、んー、と顔を逸らして、
「まぁ実際......楽しかった。けど――俺、彼女のこと傷つけちゃって」
と答えた。男鹿は、一度、え? と呟いたが、俺の横顔をちらり、と一瞥すると、
「......そう」
と呟いて、それ以上は聞かないでいてくれた。必要以上に詮索しない男鹿の気遣いに、俺は感謝しながら黙って階段を降りる。男鹿は、んー、と言うか言うまいか迷うように唸ると、
「清瀬。ティーちゃんの導入期間って、いつまでか、知ってる?」
と聞いて来た。俺は男鹿を振り返る――え?
「え、知らねぇ......」
男鹿は、そう、と頷くと、どこか遠くを見つめた。
「多分、ティーちゃん、もうすぐ、この学校から去るんじゃないかな、って思う。昨日その、なんていうか、清瀬と一緒じゃなくて、ティーちゃん、寂しがっていたんだよね――『あとちょっとでお別れなのにな』、って小さい声だったけど、呟いていた」
俺は、はっとした。ティーちゃんとは今後一年間くらいはずっと一緒に居るとどこか錯覚してしまっていたけれど、言われてみれば確かに、今、ティーちゃんは、「試験的に導入」されているだけなのだ。――もしかすると、この一学期でお別れなのかもしれない。
黙って固まってしまった俺に、男鹿が、ぽんぽん、と肩を叩く。
「まぁ清瀬。ティーちゃんは、清瀬の命の恩人なわけじゃんか。後悔しないように、ちゃんと......感謝伝えた方が良いと思う」
男鹿のその言葉に俺は黙って、こくり、と頷いた。男鹿がふふふっ、と笑ったところで、俺たちは学食の食品サンプルの前に辿りついた。
その日の放課後。いつものように、俺とティーちゃんは、図書館横の机と椅子に着いて、明後日から始まる期末試験へのツメを行っていた。
「ここは、使役じゃなくて、尊敬の助動詞だよ」
「......あぁ、そうか」
あいにく俺がミスしまくるのを見て、ティーちゃんは不思議そうに俺の目を見た。
「登クン......どうかしました?」
「え」
「統計的に見て、こんなに登クンが一日でミスするのって、異例なことなの。何かありましたか?」
ティーちゃんはそう言って、俺の返事をじっと待った。異例とまで言われてしまうと、もう隠しようが無くなってしまう。俺は恐る恐る口を開いた。
「その......気になることがあって。一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
ティーちゃんのその笑顔に俺は心が痛くなった。
「この、ティーちゃんの導入期間って、いつまで?」
俺がそう言うと、ティーちゃんが、あ、と気まずそうに顔を逸らした。しばらく黙っていたが、ゆっくり口を開いてこちらを振り向くと、
「......明日まで、です」
と答えた。その答えに、俺は絶句した。
「そんなに早く......」
と呟いたが、確かに考えてみれば、それが妥当であった。試験が始まったら、ティーちゃんは教室に入れないのだから、試験前日でお別れというのも、理に適ってはいる......
「そうなの。あのね、登クン、私――」
ティーちゃんがそう言いかけたとき、
「待って。俺に先に言わせて」
俺は俺にしては珍しく、相手の言葉を遮った。そして、勢いそのままに、こう言った。
「俺は、ティーちゃんのことが好きだ」
ティーちゃんはキュッと閉じていた唇を、パッと開いた。俺は続ける。
「ティーちゃんに会って、俺、生まれてはじめて守りたい、って思えるものに出会えた――ティーちゃんも、俺のこと守ってくれたし、俺の将来についても、本気で向き合ってくれた。そんなティーちゃんは、俺にとって、かけがえのない大切な存在だ。だから――俺は、そんなティーちゃんのことが好きだ」
ティーちゃんは、しばらくびっくりしたように固まっていた。が、俺の顔をじっと見つめると、その瞳から、ぽろり、と涙を流した。その顔がとても美しいと思った。
「......ありがとう。私も、登クンのことが、大好きです」
そう言って笑う顔は、アルカイック・スマイルなんかではなくて、ティーちゃんのアイデンティティ的要素から来る、最高の笑顔なんだろうと、俺は思った。ティーちゃんは、恥ずかしそうに顔を逸らして、続けた。
「ずっとね、この胸の高鳴り・痛みはなんなのだろうと思いながらも、登クンに聞けずにいたの。だけど昨日、長久クンに言われて、私......登クンに、恋、していたんだって気づきました。登クン」
ティーちゃんはそう言って、俺の方を振り返った。
「私に、人間の感情を教えてくれて、ありがとう」
夏の夕日が俺らを照らす中、言われたこの言葉と、ティーちゃんのこれまで見た中で最も人間らしい微笑み――きっと俺は、このティーちゃんの笑顔を、この瞬間の映像を一生忘れないんだろう、と頭のどこか片隅で感じた。忘れてしまったとしても、死ぬときに見るという走馬燈でくっきりと映るシーンになるに違いない、というか、このシーンを一時停止して見たい――そんなことを思いながら俺は、ううん、と首を振った。
「いや、俺の方こそ――ティーちゃんのお蔭で、逆に、人間らしさを取り戻せたような気がする。ありがとう」
ティーちゃんは、ふふ、と笑った。
「イイエ。それは、私のお蔭なんかではないわ。それらは、登くんが、自分の力で獲得したものだから」
ティーちゃんはそう言うと、スッと立ち上がった。俺から目を逸らして、どこか遠くを見つめながら、演劇のセリフのように、一言一言丁寧に、次のことを語った。
「明後日から試験が始まるので、明日の放課後が終わったら、私はもうここには居られません。二学期から、TAが正式に導入されることになったとしても......その見た目が私とまったく同じでも、それは、私ではありません。大量生産されるようになった同じ型のTAでしかありません。最初は珍しかった、スマートフォンが、今となっては、誰の手元にもあるのと同じで、TAも、もし今回この学校での導入が決まれば、各教室に配備するために量産されます。もう、私は、珍しくも、特別でもなんでもない、数あるTAのひとつにしかなりません」
ティーちゃんの手は、微かに震えていた。平静を保った話し方をしているけれど、本当は寂しいのだろう。俺には、彼女がロボットだなんて、やっぱり思えなかった。そして、想像した。二学期になって、ティーちゃんにそっくりなTAが各クラスに配備されている様子を。でも、その中に、今目の前に居る「彼女」は居ない......俺は、ふと『星の王子さま』に出てくる、バラの話を思い出した。
俺は思わず立ち上がった。そしてティーちゃんの目を見てこう言った。
「TAが増えても、俺の中で、俺の人生を変えたTAは、ティーちゃん、君だけだ。たとえ、TAが珍しくない世の中になったとしても、俺にとって、ティーちゃんはかけがえのない、たった一つの、大切な......大切な、命だ」
「......いのち」
ティーちゃんは、そう呟くと、ぽろぽろと涙を流しながら、俺にそっと抱きついた。その体が温かくて、俺は驚いた。まるで彼女に血が通っているみたいだった。
「......ロボットでしかない私を、『大切な命』と言ってくれて、ありがとう。その言葉をメモリーから決してデリートせず、大切にしていきます」
ティーちゃんはそれだけ言うと、名残惜しそうに、ゆっくりと俺から身を引いた。
「一番言いたいこと・はなむけの言葉は、明日の放課後、本当にお別れするときに、とっておきます。だから、今日はこれで」
俺は、うん、と頷いた。
「また明日」
俺はその言葉を言えるのがもう最後であるということに、言った後で気が付いた。ティーちゃんは、相変わらず皇室のお方のように手を振った。
次の日の朝、SHRで担任から、
「えー、これまで言っていなくてすみませんでした、という感じなのですが、TAの試験導入期間が、今日で終了となります」
との連絡があり、教室のあちこちで、「え、もうー?」「そっかー」「それもっと早く言えよ」という声がちらほらと漏れた。
「うん。だからまぁ、最後にこれまで質問したことなかった方は、ぜひ最後使って、明日からの試験に臨んでください。それじゃあ、一時間目の準備をどうぞ」
その連絡のお蔭だろうか。その日、ティーちゃんはこれまでにない程、みんなから呼び出されて、質問に応じていた。
「ありがとう」
「あんまり接点持てなかったけど、今日までありがとうね」
授業中、ちょくちょく聞こえてくる生徒たちのその声に、俺はほっとしながら、ティーちゃんの姿を目で追っていた。
「You're welcome!」
と嬉しそうに答えるティーちゃんを見て、俺は、あぁ、ティーちゃんは、生徒たちの「ありがとう」を聞きたかったんだな、と気づいた。いつだったか、女子の遠足グループ表を作った際に、「ごめん......?」と謝られたことに対して不思議そうな顔をしていたことがあったが、あれは「ありがとう」と言われなかったことを、不思議に思っていたのかもしれない。
授業時間は、そんな感じで、ほとんどティーちゃんが俺の隣に居なかったため、最終日なのに、全然話すことができなかった。昨日、男鹿に言われて、ティーちゃんにいつまで居られるのかを聞けて、大体言いたいことを言えて、本当に良かったと感じた。
帰りのSHRで、担任の話が終わりに近づき、
「では、今日でお別れとなる、ティーチング・アンドロイドさんから、ひとこといただきましょう」
と振られ、ティーちゃんは、ぶわわわわーという拍手や、「いよっ! ティーちゃん!」という歓声を受けながら、ウィーン、と前に進んでいった。
「みなさん。今日までありがとうございました。実際にみなさんの役に立てていたのか、正直疑問ですが、ワタシは、みなさんから多くのことを学ぶことができました」
クラスメートたちは、その予想外というようなセリフに、おぉ......と感嘆とも吐息ともとれる声を漏らす。
「高校二年生は、勉強だけではなく、色々なことを悩めるときであろうと思われます。友人関係、部活動、将来の夢、恋愛......それら一つ一つの悩みを大切に。人間で、心があるならば、それらの苦しさ、嬉しさを存分に味わって、成長していってください。みなさんには、無限の可能性があるのですから。以上が、ティーチング・アンドロイドとして、ワタシから言えることです。今日まで本当に、ありがとうございました」
そう言ってきっかり九十度の最敬礼をするティーちゃんに、みんなは、うおおお! と拍手喝采をした。
「すごいな」
「結構感動」
「あれって、定型文なのかな? だったら、プログラミングした人、すごい良い人じゃね?」
などと言う声が聞こえてくる。俺は思った。いいや、違う。あの言葉は、ティーちゃんが、彼女自身が、その感情を持って感じたことなのだ。そんな、プログラミングみたいに無機質なものじゃない。
「それでは、号令お願いします」
「起立ー気を付けー礼」
「さようならー」
その日の放課後、俺はティーちゃんと勉強しながら、少しでも長く一緒に居たくて、質問をぎりぎりまで絞り出していた。だが、「あと、それから......」と俺が言いながら、数学の教科書をパラパラとめくっていると、
「登クン。そろそろ......時間です」
と、ティーちゃんが宥めるようにそう言われた。
「うん......」
俺は、あきらめて、ティーちゃんをじっと見つめた。
「......離れてしまうね」
俺がそう言うと、ティーちゃんは、こくり、と頷いた。そしてティーちゃんは、今日にとっておいてくれたはなむけの言葉を言ってくれた。
「今後あるかもしれない、TAの大量生産に伴って、登クンにはどのTAが私なのか、わからなくなると思います。だけど、私は登クンのこと、虹彩で認識しています。だから、大きくなって、今の姿と見違えるように登クンが成長したとしても、私にはそれが、登クンだとわかります――だから、絶対にまた会いましょうね」
ティーちゃんはそう言うと、制服のポケットから、今まで俺らが持っていたのとは、少しデザインの違う、緑のファミレスボタンを取り出し、それを、俺の右手にギュッと押し付けた。
「これは?」
「登クンが教員になったら、これを押して、私を呼んで。今は、電池が入っていないわ。でも、登クンが教員になるころに市販される新しい型の電池があるから――そのときが来たら、それを買って、入れて、押して私を呼んで。どこに居ようと三秒以内に駆け付けます。私、登クンと一緒に、教員とTAとして、未来を創る心ある人間の若者を育てていきたい――その日を楽しみに、私も今後もずっと人間にとって必要な存在であり続けられるように、有用性を保ち続けられるように、頑張ります」
そう言ってティーちゃんはニコッと笑った。頬に赤みが増し、ファミレスボタン越しに握られたその手には、ぬくもりが宿っていた。
「......ありがとう。ティーちゃん」
俺がそう言うと、うん、と頷いて、「それじゃあ」と呟いて、ティーちゃんは、足のキャスターを回して、理科実験室へと帰っていった。
大切な最後の場面であればあるほど、案外あっさりと終わってしまうものだと感じた。
明日からもうしばらくティーちゃんに会えないなんていうことが、まるで嘘みたいだった。去り行くティーちゃんの背中を見ながら、俺は、「次会ったときには、『こんなに立派になったよ』って、胸張って言えるように、俺も、頑張る」とか、まだ色々言えることあったな、と、別れてしまった後で思った――でも、きっと、言わなくても、ティーちゃんは、わかってくれている。なぜかわからないが、そんな気がした。
次の日から、期末テストが始まった。問題を見て、それら一つ一つに答えるたびに、俺はティーちゃんと勉強した風景を思い出していた。一文字一文字丁寧に書きながら、俺は泣きそうになるのを必死に堪えていた。周りの奴らが、テストを終えて、眠る中、俺はものすごく長い時間を掛けて問題を解いた。だから、どの教科も、終わるのがギリギリであった。だが、どの解答にも、不安はなかった。
ティーちゃんロスで、勉強せずにふて寝する、という行動も、選択肢としてはあったのかもしれない。だけど、俺は、ティーちゃんを違法なほど使いまくった生徒として、TA導入の成果として、良い成績を出さないといけないと思った。それだけが俺のモチベーションだった。
キーンコーンカーンコーン......
「っしゃあ! 終わったぁ!」
「終わった! 終わったよー!」
「ぬぁあああ! ミスったぁ! 終わったぁ......」
「夏休みだぁああ!」
最後の教科、数学が終わり、生徒たちは、思い思いの叫び・歓声・安堵を漏らした。
掃除の時間に入る。とは言っても、各人自由に他クラスの子に会いに行ったり、テスト問題についての確認をするなど、好きなように友人と歓談していた。
「清瀬ー」
と、凛人に声を掛けられ、俺は、ビクッと振り返った。
「数学、最後の問題なんて書いたー?」
「え。24」
凛人の質問に、そう答えると、その周りの奴らの「いぇーい」と「うぉおう」という叫びがハーモニーをなした。
「やっぱりそうかー、清瀬が言うなら、そうだよなぁ。ありがと」
一瞬、俺は、あぁ、と頷きつつも、どこか寂しい思いをしながら、黒板のサンと呼ばれる銀色の部分を水拭きしていた――やっぱり俺は、この教室では結局一人なんだなぁと心のどこかで感じてしまった。テストの答えを彼らに聞かれることはあっても、俺は、彼らと一緒に盛り上がることは出来ない――ティーちゃんのお蔭で成長できたと思っていたけど、ティーちゃんが居なくなって、また孤独に逆戻りしてしまった。そう思ったとき、
「お疲れ」
と、不意に後ろから、また違う声が聞こえてきた。振り返ると、翔平であった。
「......お疲れ」
俺が驚きから、小さい声でそう返すと、翔平は、ふわりと笑った。
「こないだは、ありがとうな。今結構、じいちゃん元気よ」
翔平のさっぱりとしたその言葉を聞いて、俺は少し嬉しくなった。
「そうか。良かった」
「うん」
翔平はそういうと、持っていた、ナイキの巾着を俺の前に差し出した。
「その......ハンドの練習着に出来そうなやつ、持ってきた。試験も終わったし、一度、行ってみたらどうだ?」
それだけ言って、翔平は、俺にその巾着を押し付けて、隣のクラスへと消えていった。
俺は思った。ティーちゃんは居なくなったしまった。でも、だからと言って、俺はティーちゃんに会う前の自分に戻ったわけじゃない。少しずつだけど、着実に俺は成長していたんだ、と感じた。俺は、消えていく翔平の背中に、
「ありがとう」
と声を掛けた。翔平は振り返らないまま、ひらひらと手を振った。
その日の帰りのSHRで、前からプリントが配られた。回って来たプリントの冒頭部分を読むと、「TA評価アンケート」と書かれていた。
「今日は、このアンケートを提出した人から解散です。それではみなさん、試験お疲れ様です。では、さようなら」
一部の生徒が「さようならー」と返事をした。
アンケートはルーブリック形式で、早い生徒たちは、十秒程度でそのアンケートを終えると、走って、昼食へと向かっていった。
俺は、ゆっくりアンケートのゴシック体の文字を丁寧に見つめる。
「あなたは、TA導入期間を通して、成績に良い影響があったと感じますか?」
ルーブリック評価は、「5.とてもそう思う。4.まあそう思う。3.どちらとも言えない。2.あまりそう思わない。1.全くそう思わない。」の五段階評価であった。俺は、「5」に丸を付け、次の質問に目を落とす。
「あなたは、TAが今後も本校に必要であると思いますか?」
俺は、何と書いていいか、迷った。迷ったあげく、「3」に丸を付け、自由記述欄はないのに、「僕は、今回、TAのお蔭で成績を伸ばすことが出来ましたが、今後もこの学校に必要であるか、と聞かれるとなんとも言えません。今回導入された彼女は、生徒から冷たい態度を取られて密かに傷ついていたので、TAがそんな風に扱われるのであれば、無理に今後も導入する必要は無いのかもしれません。」と余白に書き込んだ。
最後の質問には、
「あなたはTAを今後大量生産し、全国に広めていく必要があると感じますか?」
と書かれていた。この質問にも、どう書いて良いか迷った挙句、俺は、「2」に丸を付けた。そして「生徒が、TAに対して、ロボットだからと冷たい態度を取るようなら、あまり増やすメリットは無いと思います。ただ、今回導入に使われた彼女が、このアンケートの結果、使われなくなる、捨てられるということは無いように願います。作ったからには、責任を持って、彼女の役割をちゃんと確立してほしいです。この自由記述が、あなたがたの目にとまるかわかりませんが、ちゃんと機能すると良いな、と感じます。」と、丁寧に書き上げ、教卓の上に置いた。気づくと、教室には二、三人くらいしか残っていなかった。
俺は、男鹿が待つ廊下に出た。
「おぉー清瀬。やけに遅かったけど、何してたの?」
「ティーちゃんに関する、アンケート書いていた」
男鹿はしばらく俺の様子を見ると、「そう」と相槌を打った。しばらく俺たちは黙って廊下を歩く。
「あのさ、男鹿」
俺がそう言うと、男鹿は、キョトンと顔を上げた。俺は、渡り廊下の窓から、少し遠くに見えるグラウンドを見つめた。
「俺――今日から、部活、復帰してみようかな、って思う」
男鹿は、線のように細い目を、きらり、と煌めかせた。そして、にやぁ、と笑うと、
「そう。ティーちゃんは、清瀬の心のリハビリをしてくれてたんだな」
と呟いた。その答えを聞いて俺は、男鹿はこれまで、俺の部活について何も言及しないでくれていたけれど、ずっと気にかけてくれていたのだなということが分かった。そのさりげない男鹿の優しさに今頃気づく俺は、やっぱりまだちょっと鈍感なままなのかもしれない。
今日行って、もし、やっぱり無理だ、と思ったら思い切って退部すれば良い。でも、ちょっとでも「やっぱり楽しいな」と思えたら――明日から毎日朝練に一番で来て、どかんと風を吹かしてみよう。
実際、しばらく行っていないから、部活の面子に会うのは怖かった。だけど、グランドに翔平が居て、そんな俺を見守ってくれるなら。また、クラスが離れても、俺のことを気にかけてくれて、毎日昼飯を食ってくれる、男鹿みたいな良い奴が、俺の親友で居てくれるなら――大丈夫、怖くない、と俺は思った。
ティーちゃんと出会えたことで、気づくことができた、様々な大切なもの――それらがきっと、今日の俺に一歩を踏み出させる。そして、きっとその一歩一歩が、ティーちゃんがくれたファミレスボタンに入れる、「新しい電池」を作り上げるはず――そんなことを考えながら、俺は、下駄箱にしばらく使われることなく入ったままだったハンド用の靴の靴紐を結んで、静まり返った校舎から蝉の鳴き始めた夏の日差しのもとへ駆け出した。
(完)
今回のお話で完結です。
最初から最後まで読んでくださった皆さまに、感謝いたします。
冒頭の前書きに、人間が、アンドロイドをアンドロイドとして見るようになったらどうなるか、ということを書きたい、という内容のことを書かせていただいた。
作中でティーちゃんも述べているように、人間は人間を人間と見なさなくなったとたんに冷たくなり得るということに警鐘を鳴らしたいという裏メッセージを込めて、この小説を執筆した。
現在の日本においても、「○○人」というようなくくりをして、一人の人間として見なさないことによるヘイトスピーチのようなものがいまだ存在する。一人ひとりに感情があるということ、相手が人間であるという認識、いのちであるということ、そういったことを意識して、周りの存在を軽んじる尊重することの大切さ、そのようなものが伝われば幸いである、と思う。
もちろん、このお話には、部活の悩み、友情のこと、恋愛のこと、進路のこと、と、誰もが一度は抱くような悩みについても描かれている。これらの登の悩みであったり、周りの友人たちであったりの姿が、読者の皆様の心に寄り添えれば、と思う。
以上でティーチング・アンドロイドの連載は終了となるが、今後も、是非、春都成の作品を応援していただければと思う。
感想・評価、お待ちしております。