始まりの物語
その日、空は白銀色であった。
ライフェリスにおいて日中の空とは淡いマゼンタであるが、この日はどうやら様子がおかしい。だが、それを知覚している人はいない。皆が皆一様に、さも当たり前かのように歩みを止めることはなかった。
仕事に向かう者や学校へ歩む少年少女も、早朝に散歩をする老人夫婦もその不思議に気付くことはない。
ただ一人を除いて。それは一人に向けられた魔法のようなもの。
一星の姫君であるレイリア=L=ライフェリシアだけがその異様な光景を視認していた。
珍しく早朝に目を覚ました彼女は、その輝きを唯一その目に焼き付ける。
まず先に身の毛がよだつような恐怖を感じたが、あたかもそれが日常的な風景であったかのように解け込み、少しずつその美しさに魅了されてゆく。
「……外で、観たいな」
窓の外を眺める彼女は、決して自由が与えられた人間ではない。
勘違いしてはならないが、身分や地位が低いというわけでもない。寧ろ真逆であり、全てを手に入れている側である。将来の王女であるのだから当たり前ではあるのかもしれないが。
王族に自由は有って無いようなものだ。
民にとって敬われるべき存在であらねばならない上、定められたスケジュールを誘導されるがままに行わねばならない。
それは彼女にとってまるで懲役かのように苦痛であった。
だからこそ、レイリア=L=ライフェリシアは普通の女の子に憧れた。
彼女にとっての普通とは、王族ではないということ。すなわち民としての平穏を過ごすこと。
「はぁ、綺麗……」
吐息と共に声がこぼれ落ちる。
景色に心が吸い込まれていき、何かを奪われていくような心地になる。
自然と心が躍る。これから何かが起きそうだと予感をさせるぐらいに。
「いいよね。窓を開けるぐらい」
あとで何とでも言えるだろうから……と自分に言い聞かせると時計を確認する。
あと30分ほどで友が起こしにやってくるだろう。だが、その間に(来ないとは思うが)父親や使いに来られては面倒だ。部屋の扉に鍵をかけ、窓を開く。
窓を勝手に開けて、誰か見知らぬ侵入者が出たら大変だと、要らないお節介を宮中の者に言われたら面倒ではあるが、それよりもその景色を直に観たい気持ちが勝っていたのだった。レイリアはアクティブに生きたかった。
「――…………?」
そこは確かに銀色である。
しかしそれは空だけの話では無い。
「……窓を開けると、そこは一面の銀世界でしたとさ?」
別に外が雪化粧をしていたという訳ではない。
そも、ライフェリスは暦上は夏を目前としている。夏に雪が降るということが起きた訳でもなければ、それに類する天候による異変という訳でもない。
だがレイリアの銀世界という表現に間違いはない。
「――って……なに……これ!?」
脳が認識を阻んだそこは、全てが銀色で出来た謎の空間だった。
先ほど窓越しに観ていた景色とは打って変わって、外の景色など見えやしない。人の気配の一切ない、謎の空間だった。
何かがおかしい。そう察知した彼女は直ぐに鍵を開けて宮中の誰かを呼びに行こうとする。
しかし。
「――――。」
唖然。
そこもまた、銀色。
出口のない、この部屋を除く全てが銀色となっていた。
無と同義の空間に閉じ込められたということだ。
レイリアは数歩下がると腰を抜かし、その場に倒れ込む。
これは夢か何かだろうか。それともタチの悪い悪戯だろうか。
夢であってほしい。今意識を現実に持っていけば元通りの世界で起床できるのではないか。
意識を現実に向かせようとしても無駄であった。何故ならここは夢ではないのだから。
いっそここで眠ってしまおうか。起きたら元通りになっているかもしれない。
いつものようにミーアが起こしに来るだろうし、いつも通りの儀礼が始まるだろう。
自由になりたいとは願った。
だが孤立したいなどと願った訳では無い。
決して、独りにはなりたくはない。
想起した。最愛の姉が亡くなった日から抱えていた思いを。
もしやここで、命の灯火が消えるその日まで孤独に過ごすのだろうかと怯えてしまうほどには。孤独が明らかな状況はレイリアにとっては死と同義の恐怖に他ならない。
「お姉さま……」
涙が床に滴る。
まるでその涙に呼応するかのように、誰かが呼びかける。
「――レイリア」
誰かの声が聞こえた。聞いたことがあるような、懐かしいような。
懐かしいどころではない。
「……お姉さま?」
レイリアはこの声を知っていた。
忘れるはずがない。五年前に病死した姉の存在を。決して。
「レイリア……」
レイリアをじっと見つめていたのは、彼女の姉。
五年前に亡くなった、『失われた未来の王女』によく似た者だった。
死した者が再び眼前に現れたとしたら、誰であっても、どのようなシーンであったとしても「何故」という疑問が生じてくるはずだろう。状況によっては怯えてしまう者も居るかもしれない。
レイリアは怯えることはなく、寧ろ歓喜した。
自分以外、誰一人として居ない世界に人間が居た。それが自分の愛した人間だった。ならば命の壁など気にするに値しないということだろう。
「ごめんねレイリア。誰にも聞かれてはいけない話だったから」
「え、それはどういう……」
エルテートと思しき少女は、続けた。
「貴方をこの空間に閉じ込めたのは私です」
「お姉様……一体どうして……?」
「先ほども申した通りです。何人にも聞かれてはならない、大切なお話があります」
聞かれてはならないのなら、ここまでする必要はないのでは。時間を選んで、深夜に語りかけてくれればいいのでは。そのような疑問が普段であれば浮かぶレイリアだが、この時ばかりは頭がそれほど働かなかった。
ただそこに姉がいる。その素敵が彼女から思考を奪っていた。
「レイリア。貴方に一つ質問があります」
一呼吸置いて、死者の空似は全てを始めるための言葉を紡いだ。
「自由に、なりたい?」
勿論ですと、レイリアは即答した。
「貴方が今から視るのは、これから先の運命に他ならない。理想的なものから、悍しいことまで」
亡き姫君の空似はレイリアの額に触れ、優しく撫でる。するとたちまちレイリアに睡魔がやって来る。やがて思考はエルテートから離れ、やがて視界をも暗く染まっていく。
「……貴方はきっと、理想のみを見つめるのでしょうけれど」
その声がレイリアに届くことはなかった。既に、彼女は理想の夢へと旅立っていた。
ライフェリスの、今は亡きもう一人の姫君。エルテート=R=ライフェリシア。
髪色の異なる姫君の空似は、レイリアを異星へと連れ出す計画を始めたのだった。




