第50話 朝の熱
それから毎日、朝に母さんのもとへ行っては気の巡りを正す作業をしていた。死んでほしくないという思いがそうさせるのである。母さんも、使用人も、みんなしてほほえましいような顔で俺のことを見ている。それに対する恥ずかしさはあるが、それ以上に、母さんに死んでほしくないという思いの方が大きい。なのであれば、なんて思われようとも恥ずかしいなんて思うわけがない。ただ、俺のしていたことが無駄ではなかったのかもしれない。なにせ、今では起き上がって話せるようにまでなっている。だが、まだまだ立って歩くほどには回復できていない。それに、俺がやっていることをやめてしまったら、再発してしまうのではないかという恐怖から、安心は出来ない。これは応急処置のようなものでしかないのではないだろうかと思っている。しかし、俺にはこれ以外の方法は思いつかないのであった。
今日も、朝起きてすぐに母さんのもとへと行き、いつも通りに手を握って気の巡りを調整していた。たとえ、気休めだとしても、それによって母さんの顔色がよくなっているのは感じるわけである。今では見れるほどなのだ。最初のころのいつ死んでもおかしくない容態ではない。それがたまらなくうれしかった。まだまだ、一緒にいられるという喜びに打ち震えているのだ。
俺が毎朝、母さんと顔を合わせている限り、母さんは元気な姿を見せてくれる。俺の前で笑ってくれる。愛する家族として、俺の愛を受け入れてくれて、俺を愛してくれる。それがしっかりと伝わる。そうであれば、やめることなんて出来るわけがないのだ。たとえ、これから一生母さんと過ごすことになるのだとしても、俺は喜んで受け入れるのである。それだけの気持ちでなければ、こんなことなどしていないのだから。それほどまでに、俺は母さんを愛しているということでもある。
「毎日来てくれてありがとう、アラン。おかげで、私は寂しくないわ。こうして、朝あなたと顔を合わせることがここ最近の幸せだわ。そうすることで、また明日も、その次も、また更にその次も、絶対に生きて顔を会わせたいって思うのだからね。あなたのおかげで、弱気になったり、諦めたりしなくて済んでいるわ。ありがとう……」
「大げさだよ母さん。俺だって母さんの顔が見たいから毎日来ているだけだし。だから、感謝しなくていいんだよ。これは当然なんだ。俺が母さんと一緒にいたいからこうしているだけなんだし。むしろ、俺の方が感謝してもしきれないさ」
これは俺の本心である。息子が母親の快復を願うのは当然のことである。だから、俺は毎日のように元気になっていく母さんを見るのが嬉しく感じ、楽しいのである。俺が常に笑顔で母さんの元へ来ているからか、母さんは最初からあまり悲しい顔を見せなかった。親の強さかとも思った。美しいと感じるのだ。
だから、俺も同じく悲しい顔なんて見せない。笑みを浮かべる。どれだけ弱っていってしまおうとも、俺は母さんの前では笑顔を見せ続けると誓うのだ。それこそが最大の親孝行であると思うから。不孝息子でいたくはないのだ。愛しているだけではどうしようもないところで、更に一歩進むためには、何か動かなくてはならない。俺は、まず一つとして、それをするわけであった。
「いいえ、あなたが来てくれると、とっても元気になれるのよ。体がふっと軽くなって、力が湧いてくるの。なんだか、病気が治ったみたいにね。それが嬉しいの。死んじゃうかと思っていたけど、もしかしたら治るかもしれない。いえ、絶対に治るんだって思えてくるのよ。だから、ありがとう。私に勇気をくれて」
「母さん……」
俺は母さんに抱きついた。母さんも俺のことを両腕でしっかりと抱きしめてくれる。この力だ。この力が、母さんの生を教えてくれるし、俺の努力を讃えてくれる。間違っていないのだと。無駄になっていないのだと。その力強いものに触れて俺は、笑みがこぼれてくる。涙がわずかに溜まってきているが、決して流すことはしない。喜びの涙は今流すものではないのだ。完治しなくては。そしたら死ぬほど泣けばいい。俺はその時まで大事に取っておくべき涙だと感じ取っているわけであった。
顔を上げて、母さんの顔を見る。にこやかに微笑んでいる。暖かい笑顔である。俺もつられて笑う。たとえそうでなくても笑っただろう。母さんに笑顔を見せないことは罰当たりにも近かった。
「母さん……愛してるよ、母さん」
「ふふ、私もよ、アラン。私もあなたのことを愛してる。世界があなたを愛さなくても、私だけはずっと愛し続けてあげる。どれだけの敵がいたとしても、嫌われ者になってしまったとしても、母さんだけは、味方でい続けてあげるからね。安心してね」
「ありがとう母さん。俺も同じ気持ちだよ。ずっとずっと、今までもこれからも、母さんのことを愛し続けるよ。この気持ちが変わることなんてこれから先決してあり得ないと思えてしまうほどに、絶対だと言わんばかりに、愛し続けているよ」
「ありがとう、アラン。でもね、ハルやルーシィのこともしっかりと愛してあげなきゃだめよ。私ばっかりにかまってないでね。嫉妬しちゃうかもしれないからね。悲しませることだけはしちゃだめよ」
「うん、もちろんだよ、母さん」
俺たちは力を抜いて、離れる。母さんの笑顔はまぶしいものだ。心が温かく包まれていく。素敵な女性だった。俺は、母さんをこんなくだらない病気なんかで死なしてはいけない、殺させてはいけないと心の底から決意した。母さんはこんなところで死んではいけない人だと、思うのだ。
俺の強い決意は母さんに気づかれてしまっているようで、くすくすと笑われてしまった。だが、それでも構いはしない。なんてことはない。むしろ、俺の気持ちに気づいてくれているということだけで、誇らしくすらあるのだから。強い気持ちでいるのであった。
「お義母さま、おはようございます。……やっぱり、アランはここにいたんだね。最近すぐに部屋を出て行っちゃうんだもん。寂しいよ」
部屋に入ってきたのは、ハルだった。ハルは、しゅんとした様子で俺のことを見ていた。母さんばかりにかまけていたから、拗ねているのかもしれない。それは申し訳ないことをしたと思う。言い訳はしない。母さんを愛しているのはもちろんだが、ハルたちも愛しているのだ。誰か一人ばかりにかまけてはいけない。愛するもの全員に平等に接しなくてはいけないのだ。
「あらあら、ハルは私に嫉妬しちゃったのかしら? ごめんなさいね、あなたの大好きなアランを一人占めしちゃって」
「あ、その……えっと……そういうわけじゃ……。……はい」
「ほら、アラン。あなたは婚約者を悲しませちゃダメでしょ。私なんかより、彼女たちをいっぱい愛してあげなさい」
母さんは、俺の背中を押した。俺は母さんの方へ振り向くと、にこっと笑っている。大丈夫だと言わんばかりの笑顔であった。静かに、笑ってくれていた。俺も笑い返す。母さんは満足げに頷いて手を振った。俺も手を振り返して、ハルの方へと向き直る。そして、手をつないで部屋を出た。
食堂までの道を、ハルと二人で静かに歩いている。ハルは俺の手を握る力を少し強めた。俺も同じようにしてみる。ハルも負けじと力をさらに加えてくる。俺も、痛くしないように加減をしながら力を入れていく。
「アラン、ハル! おはよう!」
と、背中に何かがのしかかる。声だけでわかった。背後を振り返るまでもない。彼女はすぐに俺の背中から降りて、空いている手を握る。そちらを向いてみると、獣の耳と尻尾をピコピコと揺らしながら、ルーシィが笑っていた。
「おはよう、ルーシィ。今日もルーシィは朝から元気だね」
「うん! やっぱり、サラお義母さまが元気がないからあたしが元気でいないとね。お義母さまが「ルーシィが元気で私といてくれると、自分も元気になる」って言ってくれたんだ。だから、あたしはお義母さまの分まで元気でいるの。そうしたら、お義母さまも一緒に元気になってくれるでしょ」
ルーシィは顔を明るくしながら言った。確かに、母さんに落ち込んだ顔を見せたって病気がよくなるわけじゃない。それがわかっているから、ルーシィはいつも以上に元気にしているのだろう。しかし、その元気はどこか歪んでいるようにも見えた。普段の様子とは違うような、仮面をつけた元気さである気がしたのだ。無理やりに絞り出すようなものだと感じるのだ。
「そうだな、ルーシィ。母さんも元気な姿を見たほうが嬉しいよな。だったら、俺も今まで以上に元気に振る舞おうかな。そうしたら、母さんだってすぐに病気なんか治っちゃうよな」
「じゃあ、私もする。そうしたら、アランが母さんのことを心配しなくて済むし、そしたら、また私のことをたくさん愛してくれるもんね」
俺の言葉にハルは賛同してくれたが、少し目的が違うような気がした。もしかしたら、ハルは母さんですらライバル関係を持っているのかとすら思えてくる。瞳の奥で何を考えているのかわからない。黒目がただただ黒く感じている。全てをのみ込んでしまうかのような恐ろしさと、それにのみ込まれてしまいたいとも思える美しさを兼ねていた。俺の魂が彼女の瞳に吸い込まれていく感覚を覚える。逃げられないし、逃げる気もないのか。俺は見とれてしまっている。頭を振って、意識を戻した。
……そういえば、ゴブリンには近親交配を忌避するという概念がなかったな。血が濃くなると、奇形児が生まれるということがゴブリンでは起きないからだそうだが。それほどまでに、ゴブリンという種族は子孫が残りやすいようになっているのだ。アダムとイブの様に、一組の男女がいるだけで、爆発的に増えることが出来るのだ。だからこそ、他の生き物に間引かれてしまうわけだが。
彼女の精神はゴブリンが軸だから。俺たちとは根本的な価値観として違うものがあるのではないかと思っている。だが、大きく違うと思ったことはない。小さな違いは個人の差としてしか思わない。彼女なりに今の生活になじんでいる結果なのだと思うと嬉しく思うのである。
「だよね、だよね。やっぱり元気なのは間違っていないよね!」
ルーシィは無理に張り付けたような笑顔で言った。俺は心配になった。何か隠しているのではないかと思ったのだ。母さんが病気なのに、ここでさらにルーシィに何かあったら俺はどうにかなってしまうかもしれない。気が狂ってしまうかもしれない。保っている平静とした心が壊れてしまうことがあり得る。一人だけなら耐えられるかもしれないが、二人三人と増えていけば、それだけ壊れやすくなってしまうというのも当然だろうから。そうならないように気を付ける必要があるのだ。
指摘するべきだろうか。隠しているということは、言いたくないということなのだから。それでありながら無理やり言わせることはあまり好きではない。ただ、変に心のうちに溜め込んでしまって、爆発してしまうほうが恐ろしい。それこそあってはならないだろう。彼女は、心が強いとは思うのだが、だからといって限度があるはずだ。それに気づいてあげなくては、吐き出させてあげなければならない。
「ルーシィ。何か隠していないか? ハルもそうだが、何か隠し事があるのなら、言ったほうがすっきりすると思うぞ」
「ん? 私はないよ。夫婦になるんだから、隠し事なんてしないよ。私はアランのものなの。だから、アランには何でも見せられちゃう。どんなに恥ずかしいことだって、アランには教えられちゃう」
ハルは、顔を赤くしながら俺の耳元でひそひそと囁いた。俺の顔も熱を持ち始めるのが感じられた。というか、今まで出会ってきた女性の中で、最も俺のことを深く愛しているのはハルではないかとすら思えてくる。そもそも、この言葉をどこで覚えてくるのか。本にでも書いてあるのだろうか。いや、書斎にはなかったはずなのだがなあ。
「そうか、ありがとう。俺だってハルには絶対に隠し事をしないよ。どんなことを聞かれたって、ちゃんと教えてあげるよ」
「ほんとう? じゃあ、あとで聞きたいことがあるの。だから、あとで教えてね。絶対だからね」
「わかった」
ハルは、何を聞こうというのだろうか。その目つきは少し背筋が寒くなったが、悪意のある質問ではないだろうと思う。それだけ、俺はハルのことを信頼しているのだ。それに、悪意があったとしても、その罰があったとしても、ハルに対する愛が変わるわけではないこともわかっていることであった。
「あ、あたしもないよ。アラン達には隠し事なんて一つもないよ。あたしがわざわざアラン達に隠し事をするわけないじゃん。ねえ。だから、安心して」
ルーシィもないと答えた。しかし、その声はわずかに震えていた。俺は、彼女が何かを隠していて、俺たちに言えないことに少し悲しくなったが、よくよく思えば、女の子だけにしか相談できないような恥ずかしいことかもしれない。そう思ったから、それは指摘しないことにした。しかし、もし、本当に何かを悩んでいて、俺に打ち明けたら迷惑だと思っているのだとしたら、その悩みを解決してあげたいと思う。俺には、迷惑なんてことはないのだから。




