第93話
兄さんは去っていった。背中を見せて、去っていった。彼女の元へと向かうのだろう。駆け足で向かって言っているのだ。俺たちは追うことなどしない。そのあとのことは気にはならないのだ。気にしてはいけないのだ。ここまでが、俺たちが見送れるところということ。俺たちが関われる限界のラインがここであったということである。それ以上踏み込んではいけないのである。静かに兄さんの後姿を見送ることしかしてはいけないのだ。
出来ることなら、もしできるのならば、なにも関わらずに、兄さんが一人で答えを出すことが正解だっただろう。あの様子で出たとは思えないが。だからなのだろうか、俺はどうもまだまだ、人間であるらしく、手を差し伸べてしまった。救いの願いであるだろうか。そうではないだろう。ただの苦悩でしかなかったはずだ。自分の中でため込んだままでも生きていくことは出来ただろうこと。切羽詰まった特大の悩みではない。だが、どうもそれに手を出してあげたくなってしまったのだ。まだまだであると言わざるをえなかった。
人を愛するということ。皆を愛するということ。それがどれほどまでに高い壁なのかというのを実感せずにはいられないのである。山であれば、登ることは出来るだろうか。登山を成功させられるだろうか。そう思えてならない程に、険しい世界である。恐ろしい世界が広がっているのである。簡単なことではないのだ。宇宙よりもおそらく広い世界なのである。発狂するほどに迷宮なのだから。だが、俺はそれが心底愛おしく愛せてしまうということである。
俺は溜息を吐いてしまった。彼に対してではない。自分自身に対しての呆れが表に出てきてしまったのだ。彼女たちに聞かれてないことを祈るのみである。男としては強がっていたいのだ。弱い姿を見せたくないのだ。おかしい姿を見せたくないのだ。意地っ張りであるのだ。俺は、そんな俺自身も好きであった。そもそも、自分が好きでなければ、人を愛せない。だから、自分をまずは愛するのだ。ナルシストだと言われようとも、俺は自分自身を愛していると叫ぶことが出来るだろう。それだけの信念を持っているということなのだから。
彼の姿は見えなくなった。これからのことは全て妄言でしか語ることが出来ない。ならば、俺は口を閉じるだろう。彼の、彼としての生を俺が勝手に語ってはいけないだろう。それは、彼に対する冒とくとしか言い表せないだろう。だから俺は、静かにしているのだ。笑みを浮かべて、空を見よう。赤く染まり始めている。太陽が帰っていってしまう。寂しくなる。黒くなるのだ。静かに、しんとして何もなくなるのだ。悲しい程の寒さが訪れてしまう。俺は太陽に別れを告げる。また明日と、手を振ってもいいだろう。もうすぐ今日が終わるのだ。
「あれでよかったのかな? 失敗しちゃったらすごく落ち込むと思うよ。二度と人前には表れないかもしれない。そんな傷を負ってもおかしくはないと思うよ。それでも大丈夫だと思うの?」
「いいや、大丈夫じゃないだろうさ。心の傷が出来るのならば、一生消えなくたって不思議じゃない。大きな傷跡が残ることは間違いないだろう。だけど、それでいいじゃないか。人を愛することは、苦しいことなんだ。発狂するほどに、死んでしまうほどに。愛しているという一言が、たったそれだけの言葉が、何万と存在するありとあらゆる侮蔑の言葉よりも、恐ろしいということなんだから。誰にだって、この言葉は牙をむいてくるんだ。ならば、それから逃げてはいけないんじゃないのかな。いいや、逃げられないだけかもしれない。どれだけ避けたくても、絶対に避けられない道というものの上にあるのだと思うんだ。まあ、兄さんがどうなるかはわからないけれどね」
ルーシィは、疑問を解消できていないようで、もやもやとしたままであるが、そういうしかないわけである。無理に納得してもらおうとは思わないが、いつか理解できる日が来ると思う。どういう立場でそれの意味を理解できるかはわからないが。そう思えば、理解できなくても一向にかまわないのだが。この苦しみが理解できることは、やはり、避けていたいことなのだから。世界で最も危険な苦しみなのだから。
「私は全然苦しくないよ? アランのことを愛しているって言うのは、とっても特別で素敵なことだから。こんなに幸せな気持ちになる言葉なんてこの世に存在しないもの。愛しているって言葉と愛されているっていう言葉は、神様が私たちにくれた素敵な魔法なんだよ。今も、こうしてアランに愛してるっていうの。そうすれば、気持ちが穏やかになって、私の心の奥底を見せることが出来ている。気持ちを届けることが出来ている。素敵なことでしょう。私はそう思うな」
「俺も、そうであってほしいと思っているよ。愛しているの、このたった一言の魔法が素晴らしいものであり続けるのだと、信じている。信じていれば、それが真実であり続けられるのだからね」
ハルはにこりと笑った。とても素敵なことだから。とても大事なことであるから。忘れてはいけない。どちらとも取れるのだ。嘘と同じなのだ。言葉というものがどれほどの力を持っているのかということを深く理解し続けていなくてはいけないのである。天使にも悪魔にも変貌してしまう。それが言葉という使徒の力なのだから。
こつんと、足音を鳴らしながら、俺たちは寮へと帰る。途中で三人と別れて、今はルクトルと二人のみ。彼はどうも、皆が見えなくなってから腕を組んで歩き始めるわけである。恥ずかしがり屋なのだろうか、隠しているのだろうか、それとも、遠慮しているのだろうか。俺にはそれのどれだかはわからない。もしかしたら、そのどれでもないのかもしれない。聞こえる音は、俺たちの足音のみである。その中で二つの影がくっついて伸びていく。真っ直ぐに伸びているのである。二つが一つになって、すうすうと動いているのである。
俺は歩きながら、それをじっと見ていた。なんとなく、目を離すことが出来なかったのである。不思議なものだろうか。引き寄せられていってしまうのである。宝石よりも美しく見えて仕方がなかったというわけであった。
ルクトルは手を前に伸ばした。すると、影はゆらゆらと本来の動きからは大きく逸脱した動きを見せていく。二つに、そして一つに、さらにはねじれるように混ざり合い、弾けるように別れてしまう。影の劇を見ているのである。彼の演出によって、それは開催されているのであった。
「綺麗だな。黒と赤。それが踊っている。奇形に踊っている」
「そう思いますか。わたしも、同じです。わたしが演じさせているのですから、わたしが綺麗だとか、美しいだとか思うのは、まあ当り前だとは思いますが、それをアラン様にも同じように思っていただけることは、わたしにとっては幸福の極みでございます。心が充たされております」
彼が俺とつながっている腕に入る力をわずかに強めた。俺も返すように強めた。わずかに力を入れたり、抜いたり。二人だけにしか届かず、この二人の間だけで完成されている言葉であった。
部屋に帰ってくれば、ルクトルは静かにベッドに腰かける。俺も隣に座った。静かな部屋に二人でただ座っているだけであるが、それが非常に心地よかった。目の前には窓があり、そこから、赤から黒へと変化していく空が見えている。俺は一瞬たりとも見逃さないというばかりにか、じっと見続けているわけであった。
窓のふちに小鳥がとまった。俺たちのことを見ている。目が合っているのだとはっきりとわかるほどである。彼か、彼女か。小鳥は俺たちを見て離すことがない。俺たちも同様である。一声鳴いた。高くきらきらとした音である。木管のような優しさを持ちつつ、金管の美しさを押し出すような鳴き声であった。
「きっと、小鳥さんはわたしたちがとてもお似合いなカップルのように見えるとおっしゃっているのでしょう。とてもよくわかっている小鳥でしょう。わたしとアラン様がそれほどまでに相性がいいということを一目見ただけで見出してしまうのですから。慧眼というべきでしょうか。すくなくとも、彼は大成することでしょう。わたしたちの人間関係が一目でわかってしまうということなのですから」
「大成するのか。どんな偉業でも残すのかい? オーケストラでも結成するというのかな。小鳥のみで結成されたオーケストラ。世界中の小鳥たちが一堂に会して、歌を歌うのだ。きっと綺麗な音色が紡がれることだろうね。想像だけでも心が躍る話だ。今すぐにでも、見てみたいと思ってしまう。少なくとも、その程度のものではないと、大成ということは出来ないのではないかな」
彼は、静かに頷いた。何に頷いたのだろうか。小さく首を縦に振ったのである。そして、飛び立ってしまった。彼の歌声はもう少し聞いていてもよかったのだが、飛び立ってしまったのならば仕方がないだろう。俺は静かに窓を閉めた。
俺が振り返れば、彼は俺の首に腕を回してくる。鼻先がくっついているほどの近距離に俺たちの顔がある。息がかかっている。暖かい。彼は静かに目を閉じるのだ。俺は腕を回して、彼を抱き寄せる。触れ合うのである。柔らかく、そして優しい感触である。すぐそこにいてだんだんと、魅惑的といえばいいだろうか。美しくかたどられていくのをだんだんと感じていっているのだ。男性的で女性的。中性の極致まで来ることが出来たのだろうか。彼はある意味で神格的なのだ。美しさが、漏れ出すことなく浴びせてきているのである。愛おしくて仕方がない。彼は、始祖なのだ。全ての母であるのだ。そして、すべての父でもある。両性が奇跡的な割合で噛み合っており、そのバランスの一切が崩れることなく存在しているのだ。ああ、これが素晴らしいものだと、俺の心の奥底までに深く入り込んできてしまっているわけである。それにおれが触れてもいいのだろうかとすら思えてくる。愛でも越えられない境界線に彼はいるのではないかと、思えて仕方がない。
手は届く。全てが届く。だが、届いてはいけないのではないだろうか。触れてはいけないのだろうか。お互いの愛ですら越えられない壁を悠々と超えてしまっているのではないか。俺ごときがこれほどの芸術に対して指一本でも触れてはいけないのではないのだろうか。そう、思ってしまうのだ。だが、とても素敵なことだろう。めちゃくちゃなのだ。法則がねじ曲がってしまっているのだ。それほどの狂気的なまでの、絶対的な要素であるのだ。宇宙が正常に保つために存在していいものではないとさえ思ってしまう。だが、俺はこれを手放せそうにはない。麻薬であるのだ。我慢が効かないのだ。
肉体はだんだんと離れていく。大気が俺たちを押しのけて間に入ってきているのだとわかる。だが、つながったままなのだとお互いに理解している。まだあるのだ。一本の線がお互いに伸びており深く結ばれているのであると。救いようがないのだ。あまりにも愛おしすぎて。手を伸ばしたところではない。それよりももっと高位的な次元にいるのである。理解の範疇をこえて理解できているのだとわかるのだ。
彼は再び近寄る。体が触れ合う。熱がお互いに混ざり合っている。ほんの布一枚でしか阻まれていないのだ。彼の指先はそっと俺の頬を張っている。優しく目を細めているのである。今この瞬間は写真である。絵画である。一枚の画にして収めたい衝動に駆れるほどであるのだ。ああでも、彼のこの美しさを俺一人で独占していたいという惨めな欲望が渦巻いてしまってもいる。
「届いていますよ、アラン様。こんなに近いのです。目の前にいます。奥底にもいます。どこにでもいます。体を巡ってすらいます。わたしは、わたしのすべては、アラン様なのです。ふふ、わかりませんか。アラン様とわたしは、一つなのです。精神も肉体も全てが一つなのです。私の美しさがあるのならば、それはアラン様の鏡となって、わたしに表れてしまっているのでしょう」
彼は俺の唇に指を乗せる。その笑顔は全てを包み込むかのように温かく優しみにあふれた母のような笑みであると言わざるをえないのであった。




