はるしにゃんについて語る幾つかの事柄。
死とは、生存の過程を美化する効能がある。
今の僕が、はるしにゃんの死から想う事は、彼の人間性(その類まれなる異端さ)以上に、[学問]は人を救う事はしないという冷たい現実だ。現代思想、文学、社会学等は、彼に喜怒哀楽を表出させ、小さなコミュニティと接続させるような〈動機づけ〉の効果はあったが、人の生命維持の機能(=緊急的安全弁の様な最終装置)は皆無であった。文字は無力だ。人の生命に対して、何もする事が〈出来ない〉。文字はインクでしか無い。直接的効果性などない。彼が体験した飛び降り自殺は、僕に、この事実を教えてくれた。役立たず=無能性。ドゥルーズの思想的自殺やヘーゲルの有名な一文を瞬間的に連想もした。何かを連想させる刺激は僕にとっては新鮮な体験だった、悲しい物語を見たような読後感も味わいはしたが。
「文字や学問に〈何か〉を期待しすぎでしょう」そんな声も聞こえそうだ。中沢新一について肯定的に語る浅田彰の様に、罪の居場所を語る知的スノッブたちの亡霊のような声が...。その声はある種、説得力があるだろう。しかし、人は死んでいるのだ。
はるしにゃんについて語ろう。彼は本質的に「人間のクズ」であった。又、そういう一面が、僕を惹きつけたのかもしれない。彼には異常性へ飛翔しようとする欲望があった。宮台真司的二項対立である内在系/超越系でいう所に超越系に位置されていた。彼は「どこか」を求めたのである。行為の動機は「ここ」に満足出来なかったからである。異常性の追求は彼の日常において、安いドラッグの摂取という形で超越した知へと接近を試みていた。その行為を間接的に伝達された他者は引いてしまう。比較的当然の反応だと僕は思う。現実的な話をすると、彼は尊敬の念から、東浩紀に接近したが、東の眼には反社会的存在として認知された。ゲンロンでの批評再成塾における一件の事である。東浩紀は〈社会的〉に正しい判断を下したと僕は本気で考えている。彼は社会的にまともな人間ではなかった。
最初の死の定義についての一文へと回帰しよう。彼の死後に、批評好きの僕にこのような文章を書かせている事実は、死から何かを生産させているという意味において、美化していると言えるだろう。生産やドゥルーズ的に言うならば、死からの生成変化は無という状態以上に美しいのだから。
さて、彼の死から先について考えていこう。彼の死は、僕に次の事を思索させるような強迫性が感じられた。自殺という行為についての行為論、その正体についてである。存在が辿る最後の状態は死であると語ったのはハイデガーであっただろうか。僕は、彼の死を体験し、自殺という行為における「死」とは、独立した主題ではないと考えた。自殺という行為は突発的に起きるものではなく、多様な身体や心情の要素=記号が1つの線として、関連化した果てに自殺という行為が起きると、考えている。死は論理的過程の終点に位置されている概念だと感じている。
僕の想像を語ろう。はるしにゃんの肉体は焼かれ、灰となった後でもメンヘラを叫ぶ躯の姿は滑稽だと笑われようか。今、彼の精神は終点にて、批評を続けている。学問の限界に気が付きながら、何も変えることは出来ずに、ドゥルーズやデリダと逢いながらわいわいやっている様子は正に[器官なき身体]そのものである。はるしにゃんを知る人間は、彼の為ではなく、彼の〈代わり〉に、彼と〈共〉に批評してゆくのだ。彼の彼岸を夢見て、神の栄光を歌いながら。