8
甘斗の母は、甘斗が四つの時に死んだ。
その時のことはよく覚えていないが、ある一つのことだけは、はっきりと目に焼き付いている。
小さい頃、甘斗は母親の後に常にくっ付いて歩いていた。正妻の子ではなく、父や兄、家の者、他に頼れる人もいなかった。それは母も同じだったはずだ。
だからだろうか。
ある冬の日、甘斗は母と大堀の近くを歩いていた。冷たい空気を日が透かして、空には雲ひとつなかった。あの時の柳の香りを今でも覚えている。覗きこんだ御堀の魚の鱗のきらめきも。ゆらりゆらりと過ぎる影をひとつ、ふたつと数えていた。
それが、一瞬後にはすぐ目の前に近づいていた。
透き通ってはいるが、綺麗とお世辞にも言えない水面が、目前に近づいて――
気付いた時には真っ暗な水の底に沈んでいた。
あの冷たさは死の手に掴まれたようで、今でも水を見るとどうしても身構えてしまう。
母親が甘斗を連れて入水したのだと知ったのは全てが終わって、甘斗だけが一命を取り留めた後だった。
助かったとはいえ真冬の堀に飛び込んだのだ。その後、熱を出して生死の境をさまよったこともある。けれど、そんなことは些細なことだった。母親が死んで、とあることで甘斗の生活は一変した。
そのせいで単に疎遠だった父親や兄弟や家人にすら厄介者扱いされ、結局はこうして遠くに弟子という名目で捨てられた。
放っておかれたり、得体の知れない腫れもの扱いも、もう慣れた。
けれど、いっそあの時に母親と一緒に死んでしまった方が良かったのに。
何度もそう思わずにはいられなかった。
ああ、確かに見えている。
山道すら見えない暗中で、そいつらの一挙一動もわかる。
最初は見えていなかった。そこにいることを知らなかったから。
けれど、匂いでそこに何かがいるとわかってしまった。
知ってしまったら、もう無視はできない。
目ならば閉じればいい。耳なら塞げばいい。
けれど、匂いは否が応にも伝えてくる。こいつはそこにいるのだと。
これが甘斗が家にいられなくなった理由だった。
数年前からわかるようになってしまったのだ。化け物や人外のものの匂いが。存在が。
『知ってるか? 見える奴を食うと旨えんだぞ。この辺の人間は滅多に夜に出て来ないけどな』
『旨えんだぞ。来ないけどな』
「…………っ」
つぶやきと吐き出される臭いに、ぞっと背筋が冷えた。心臓を掴まれたようで、声すら出ない。
この化け物たちが他と違うことは、それこそ見ればわかる。
江戸の町で見かけるものよりも大きく、そして危険だと。
夜の山に入ってはいけない――
この三日間、たびたび聞いた言葉。あれは忠告だった。裏切ったのは自分の方だった。
『そうだな、半分に分けるか。股より下はおめえにくれてやるよ』
『半分より少なくねえか?』
『少なくねえ。ちょっと待ってろ、今分けてやっから』
木の実でもねじ切ろうとするように、鬼は片手を甘斗の腰に当てた。
「ひっ――」
最後に浮かんだのは、後から考えれば自分でも陳腐な言葉だった。
あれほど何度も思ったというのに、目の前にすると泣き叫んで逃げ出したくなった。
死にたくない、と。
その刹那。
「山は境界。人の世界とあの世の接点ってよく言われてる。本当にそんな世界があるのかはともかく、良からぬモノがうろつく場所だからね。夜の山に入っちゃいけないよ」
声が聞こえた。と思うよりも早く。
はっきり見えていた鬼が消えて、視界が真っ暗になる。頭から地面に落ちたと気付くのはそのさらに後だった。
「――っ……うわあああ!?」
痛みにうめいたところを、何かに再び持ち上げられ、甘斗はさらに悲鳴をあげた。
『あ?』
鬼は間の抜けたような声で、自分の手を見やる。だが、それも叶わなかった。
指も手もない。丸太のような両腕の、肘から先が断たれていた。
『あ? あ? ……あああああ!?』
「おや、これは失礼。痛みすら感じさせぬ予定でしたが、多少手元が狂ってしまったようですな。何せ、乏しい月明かりしかございませんがゆえ。ほうほう」
「い……!?」
見上げて目に映ったのは、まず刀だった。腐れきったような緑色が露のように散っていたが、一振りで消える。
「――楽浪さん?」
白い単衣を着た、狐面の青年であった。
「どうも、良い夜でございますな。花見にはちと早いですが。ついでに月見も。さらには鬼ごっこと洒落込みますか? お逃げになられた坊ちゃん」
白刃を片手に、甘斗を小脇に荷物のように抱え、楽浪は笑った。
「最後のは余計です。別に、逃げてなんて……」
甘斗はむっとして言い返したが。そこで、言葉が続かなくなってしまった。
気を抜いたら、即座に泣きだしてしまいそうだった。
「まあまあ、鬼から逃げるのは大層結構でございますよ。常に人とは追いかけるものから逃げ続ける定めです――っと」
ぺらぺらと話しながら、楽浪は後方に引いた。
腕を斬り落とされた鬼が、その場に飛び込んできた。
木がなぎ倒され、斜面が崩れて川へ土が流れる。その勢いに任せて鬼もまた、川へと転げていった。
その飛沫を避けるように、楽浪は離れた岩の上まで跳んだ。
「に、逃げるんですか?」
「五行にいわく、金は水を生むと聞いたことはございませんか? その証拠に――ほら」
見ている間に、川から飛び上がってきた鬼の肘に新たな腕が付いている。腕とも呼べぬ真っ黒のぶよぶよした水袋に、甘斗は目を疑った。
「あの化け物……」
「物の怪につかれた成れの果てさ」
声に振り向くと、傍らに立っていたのは鈴代だった。
錫杖を持ち、大きな木に背を預けている。夜に紛れてしまいそうな黒羽織なのに、その姿は際立って見える。
「お疲れ。後は僕がやるから」
「貴方様という方は、つくづく人使いが荒いですなあ。いえ、まったく構わないのですけれど。ほうほう」
答えるその声は、むしろ楽しげに笑っていた。
足を止めた楽浪と、入れ替わるように鈴代は木から背を離す。
人によく似た、臼状の牙を剥く鬼を引きつけてかわす。杖だけをその場に残して。
「ふっ――!」
すれ違いざまに軽く触れただけのように思えたのだが、弾け跳ぶような音とともに後ろへと転げる。
『があああああ!』
もう一体の鬼が一度は失くした腕を振り回し、身体ごと投げ出してくる。
鈴代は数歩、鬼はちょうど手前で止まった。飛び込んでくる距離を見切って、勢いを殺したのだ。
一瞬の間をついて鈴代はくるりと身体をひねり、鬼の顎を蹴り付けた。黒羽織が舞い上がり、あたかも蝶が羽を広げるがごとく。
甘斗は呆気に取られた。
「すご……」
「これだけで物の怪は祓えませぬ。水から生じるは木――」
確かに鬼たちは再び、川の中から起き上ろうとする。いくら倒してもきりがない。
鈴代は持っていた杖を掲げ、唇からは言葉が紡がれていく。
『色は匂えど 散りぬるを
わが世 誰ぞ常ならん』
四十七の言の葉は連なり、列なり、意味を為す。
それは歌だった。
『有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず』
唱え終わると同時、鈴代は錫杖を大地へと突き立てた。しゃん、と涼やかな音色が山の中に響き渡る。まるで、神事の鈴の音のように。
――!
甘斗が感じたのは山よりも強く、濃い緑の匂いだった。
最初は小さな変化だった。
ぽつぽつと、地面から若緑色が現れる。土を押しのけ、生えるのは双葉。
杖を中心として芽が生じ、山の地面から無数の木が伸びる。
「うわ、うわわ!」
鼻先を木がかすめて慌てる甘斗を抱えたまま、楽浪は高く跳び上がった。
芽から若木となり、やがて大木となって槍のように天高く貫いていく。その姿は、動く森に等しい。
その先には川と、鬼たちの姿があった。
『っ!』
あっという間に、川も鬼たちも森に飲み込まれ見えなくなってしまう。
山を支配するのは元の静寂のみ。
「鬼退治完了ですかな?」
枝まで降りてきた楽浪がそうつぶやいた。
杖をくるりと手に収め、鈴代が答える。
「これにて一件落着、なんてね」
残ったのは月夜を清めるような、清々しい空気だった。