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「はあ、はあ――ふう」

 甘斗は息をついて、うらめしげに月を見上げた。できればもう少しだけ足元を照らしてくれると嬉しいのだけれど。何事も思うようにはいかない。

 ここまでの道のりは順調に、とは言えなかった。見えない斜面にすべりかけ、土や緑の匂いは鼻を突く。江戸の町育ちの甘斗にとって、山道を歩くのは厳しい。

昼間ですら道なき道だったが、いわんや夜には獣すら見えない無明の道だ。

それでも、甘斗は山を下ることを選んだ。何日もかかって江戸の家に帰ることを。

改めて一歩踏み出すと、ずるりと下草に足が滑った。それと水の匂い。

「っと――」

転げた小石が闇の中に消え、それから水の音がして、甘斗は慌てて足を止めた。月明かりに目をこらすと足元は川で、危うく転げ落ちるところだった。安堵もあって甘斗はへなへなとその場に腰をおろしてしまった。

川は嫌いだった。水がどうしても苦手で、ちっとも泳げない。けれど、夜も更けて疲れきっていたために、もう場所を選ぶ気力もない。

「くっそ……」

 辺りは完全な暗闇で、小さなうめき声には誰も気づかない。夜に浮かぶ、ちっぽけな存在だ。

 家に帰って、その後はどうすると言うのだろう?

 甘斗にとって、江戸の実家は居心地の良い場所とはいえなかった。

 父は後を継がない三男には興味もなく、ろくに口もきいたことがない。異母兄弟である兄二人も同様。そして、顔も覚えていない母は既に他界している。

 弟子に行けと言われた時、何も感じなかったというのは嘘だ。

 裏切られたような気がした。もう、ここにいてはいけないと甘斗はわかっていた。

 なら、どこに行けばいいというのだろう?

 たった三日だけの師の元にはもう帰れない。

 鈴代に嘘をつかれていたと知って、甘斗は怒るよりも先に泣きたくなった。裏切られたと思ったから。

 師に対して文句を言う弟子はもういらないだろう。こんな素直じゃない弟子なんか。

 途方に暮れて滲む視界を、甘斗は慌てて手でぬぐった。

と。

 ふいに甘斗の鼻を、つんと嫌な匂いが突いた。

「あっつ……!」

山のむせかえるような緑の匂いではない。清涼なものではなく、それと真逆のものだ。腐った魚か、膿のような酸味の利いた匂いが霧のように容赦なく鼻を突き刺す。

 胃からこみあげてきた吐き気に、思わず顔を押さえてうずくまると、声が聞こえた。

「おい。子供だぜ」

「子供だな」

 どちらとも錆びついた声で、まるで遊ぶように一人の言葉尻をもう片方がとらえている。言葉を吐くたびに、辺りに汚泥の詰まった沼のような異臭が漂う。

 いる。すぐそこに。

囁く声に、甘斗はただ息を殺し、動かない。

 動かないのではなく、動けない。あまりの恐ろしさに呼吸すら忘れてしまった。

 うずくまったまま、固まってしまった甘斗の身体が、急に持ち上がる。足を持たれ、乾物でも作る時のように逆さに吊られる。

「うわ……っ!」

 悲鳴も途中でかすれて消えた。

 目に映ったのは逆さまになった顔だった。目には魚のように表情がない。

 蒼黒くでこぼことした肌、人間によく似ているがやけに大きな口とそこから見える牙と、その姿は草紙に出てくる鬼に酷似していた。が、鬼というには胴も顔も膨れ上がり、まるで水死体のようだ。

それとそっくりのものが後ろにもう一つ。兄弟か双子だろうか、と思うだけの余裕は甘斗にはなかった。

それまで凍っていた甘斗の表情が、くしゃりと泣き顔に歪む。

気付かなければ良かった世界。

知らなければ良かった世界。

こんな力があるばっかりに見捨てられて、ここできっと死ぬ。

甘斗の胸中など知らず、白くて分厚い唇が言葉を紡ぐ。

『俺たちが見えてるようだぜ』

『見えてるようだな』

『ちょうどいい。腹も減ってるし、旨そうな子供は食っちまうか』

『食っちまうか』

 目を見開いたまま、息を喘がせた。

 震えて動けなくなったのは見た目が恐ろしかったせいばかりではない。

 匂いが良く似ていた。

母親と沈んでいく水底で見た、化け物たちに――


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