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 そうして三日がたった。



「やってられっかあああ!」

 かあああ、と甘斗の叫びは清らかな谷川に吸い込まれ、やがて消えていった。

 後は何事もなかったように鳥たちの鳴き声が聞こえるばかりである。

 風は青々とした響きとなって吹き抜ける。

「…………クッ」

 なんとなく自分が恥ずかしくなって、甘斗は背負っている籠をずらさない程度に急いで踵を返した。

 あれから何かと雑用を申しつけられ、今は薪拾いの最中であった。

 ここ数日は驚くことの連続だった。

 まずは師について。往診だとか言って連れて行かれた先は近くにある民家で、住んでいた老夫婦とお茶を飲みながらお喋りすること一刻。次に行った先でも似たようなことをして数刻。三つ目でとうとう日が暮れた。結局、医者らしきことはしなかった。

次。家に帰ると、まともな食事が出てきたことに驚いた。

それ以上に、あの狐面の人が食事を作って持ってきたことには、また腰を抜かすかと思うほど驚いた。まともに料理できるのか、あれは。

その狐面の人(楽浪という名前らしい)が言うことには、

「ああ、こちらの食材ですか? これは、ヌシ様がご近所様からおすそ分けいただいた戦利品、もといご厚意の品々ですね。ヌシ様は、それはもうご婦人方からの評判が高うございますから。男子としてはうらやましい限りですねぇ、ほうほう」

 と聞いた時は、さすがに開いた口がふさがらなかった。そういえば、往診の帰りに何か包みを持たされていたのはそれだったのかもしれない。荷物は甘斗が全て持っていたのだけれど。

 次。あの麦穂色の髪の子は一切口を利いてくれない。

鈴代か楽浪の後ろに隠れたまま、声をかけようとすると飛び上がって逃げ出す。

 門の前で毬を付いている姿を見かけても、

「あ。あのー」

「…………!」

 と、このように逃げられる。

「なんなんすか、一体……」

 甘斗はため息をついた。確かに目つきが悪いとか言われることはあるが、ここまであからさまに避けられることはなかった。

こうやって逃げられると、ちょっとだけ傷つくことにも驚いた。

薪を庭に置いて、履物をそろえて家に上がる。

 鈴代の家に入ると、いきなり居間が現れる。土間には桶や甕が詰め込まれ、やや狭い。土間を上がると囲炉裏もあり、普段この部屋で食事を取ったりしているようだ。

 火の入っていない囲炉裏の周りには藁を編んだ円座が四つ分用意してあるが、今は鈴代が横になって寝入っている。

顔には本を載せ、着物も崩れているが気にはしていないらしい。春の日差しに泥のようにうたた寝している猫に勝るほどのだらけっぷりだ。

「…………」

 甘斗は無言で握った手をわななかせた。

 何よりも許せないのはそこだった。

 三日間、師はただの一回も医者らしき仕事をしていないのだった。



「え、仕事?」

 叩き起こされたせいか、まだ眠そうに口の端をぬぐっていた。隠そうとしてもよだれの跡は残っているのだが。

「してるよー。してるしてる。往診もしてるし、薬も作ってる。うん、僕ってすっごく働き者でしょ」

「往診も『たまに』してるし、薬も『気が向いたら』作ってるの間違いじゃないんすか?」

「そうともいうかもしれない」

 真顔で返す鈴代に、甘斗は大きくため息をついた。

「オレもよく知らないですけど。医者って人の病気とか治す仕事でしょ? なんでこんな山奥に引っ込んでるんですか? もっと町の中とかで色んな人を診た方がいいんじゃないすか? 医者なんだったら」

 甘斗は、ずっとそこが疑問だった。

江戸で見かけた医者は駕籠に乗って、大きな家に住んで、偉そうにふんぞり返っていた。薬代は高いので金のない庶民はかかることのできない雲の上の存在だった。

鈴代はと言えばどこにも歩いて行って、こんな山奥の家に住んでいて金もない。貧乏な農家を回って、往診と言っても話し込むだけで薬も与えていない。

 だから、色々な点で鈴代は医者っぽくないのだ。

 が、鈴代は困ったような顔をした。

「って言ってもね。僕は普通の医者じゃなくて、ごく一部の病気が専門だし。普通の病気の人が来ても治せないし」

「は?」

 甘斗の目が点になる。

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 なおせない、なおせない、なおせないとたっぷり三回ほど内心で繰り返して、

「は、はあああああ!?」

「いや、もちろん簡単なのは治せるけど。あんまり難病でも困るっていうか。ほら、薬って作るのも高いからお金かかるし。なるべくすぐ治る人の方がいいっていうか。女の人は特別だけど」

「そうじゃなくって、普通の医者じゃないってどういうことっすか!? ヤブ? ヤブ医者なんすか!?」

 よくわからない言い訳をする鈴代へと、甘斗は噛みつかんばかりに食ってかかった。もはや、最初っからないにも等しい紙屑のような師への尊敬の念は、山の向こうへ吹き飛んでいる。

 ヤブ呼ばわりに、さすがの鈴代もむっとしたように言い返した。

「じゃあ聞くけど、江戸の医者の中に僕より腕の良い医者がどれくらいいるのさ。医者なんて名乗った者勝ちだもん。どうせ本でちょこっと処方をかじっただけのヘボ医者が大半じゃん」

「仕事してる分、あんたよりマシだろ!? ……はあ」

 甘斗はぜえはあと肩で息をした。

「じゃあ、あんたは何の医者なんすか? それを教えてくださいよ」

 そう言うと、鈴代は初めて口ごもった。

 もごもごと言いにくそうにしてから口を開く。

「物の怪」

「は?」

 なぜか鈴代は、苦々しくつぶやいた。頭を掻きつつ、恥じ入るようにため息をついた。

「物の怪医。たまに神医って呼ばれることもある。そんなに大したことはしてないけど。厄介な病で、身体ばかりでなく心を殺す。悪化したら、人によっては死ぬ以上の苦しみを味わうことになる」

「――もういいです」

 甘斗の胸に浮かんでいたのは失望ではなく、静かな怒りだった。

 腹がかっと熱くなるが、なぜかそれと同時に無性に泣きたくなった。それをごまかすように、ごく静かに告げる。

「あんたもそういう大人ってことがよくわかりました。それじゃ、失礼します」

「甘斗」

 後ろを向いた背に、声がかかった。

「僕のことはどう思ってくれてもいいけど、一つだけ師として言い渡しておくよ。夜の山には入っちゃいけない――これだけは守ってくれ」

「…………」

 答えも振り向きもせず、ただ甘斗は歩を速めた。


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