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背の高い草をかき分け、土に何度か足を取られて。
汗だくの上に擦り傷だらけで、やっと辿り着いた先に、その家はあった。
「うっわぁ……」
一目見て、甘斗は絶句した。数え年で十。同世代と比べても小さい身体に、今は旅用の最低限の荷を背負っていた。世の中を悟りきったような醒めた目も、今はびっくりして大きく見開かれている。
三棟がくっついた形で、それぞれが渡り廊下で結ばれている。格子がはまった窓といい、漆喰が塗られた白い壁といい、穴の一つも開いていない障子といい、この辺りに点在している農民の家には似ても似つかない。僧が隠遁する庵のようなもので、こんな山奥にあるのはおかしいとも思えるほどだ。
甘斗は家の大きさに驚いたわけではない。ここに家が実在したことに驚いていた。
まず木の隙間に埋もれかけた門があった。その時点では半信半疑だったが、先に明らかに人の手が入っている石段があり、さらには家まで現れた。
もしも間違っていなければ、ここに住む鈴代という医者に弟子入りするはずだった。
(まさか、本当にあるとはなー)
江戸の町からここまで、かれこれ歩いて三日ほど。
それまで甘斗は、家柄のそこそこある武家の子だった。ここまで長い時間歩いたことも、江戸を離れたのも初めてだ。
剣や学問が優れているわけでもなく、三男坊であるから後継ぎになれるわけもない。だから、どこかへ養子にやられるか丁稚にやられるかのどちらかだとうっすら思ってはいた。
だが、まさか住み込みで医者の弟子になれと言われるとは思っていなかった。
三日前に弟子に出すから急にここまで行けと言われ、山に入った時点で弟子入りというのは口実で、単純に捨てられたのではないかと疑っていたほどだ。
目の前を過ぎていく虫を振り払い、甘斗は大きくため息をついた。
(ま、どうでもいいけど。どうせロクな大人じゃないだろうし)
親に期待されていないのはわかっていたから勉強も道場もそこそこで切り上げた。
そんなに頑張っていたところで、得られるものもないし面倒くさい。自分の人生でできることなんてたかが知れていると、とっくに悟りきっていた。
だから今は医者の勉強をそれなりに終わらせて、一刻も早く江戸へと帰るのだ。そして目立たず、地味だが堅実な一生を送る。それが甘斗の唯一の夢だった。
(普通に勉強して普通の大人になる。これが一番だ)
決意を新たに固めると、甘斗は庭先へと足を踏み入れた
季節は春も盛り。庭には散りかけた桜が降り積もり、若葉がいっせいに芽吹いている。江戸でも見られる光景だが、ここまで緑が濃いのは初めてだ。
初めて見る物珍しさに、さすがの甘斗も興味を惹かれて庭を見まわす。かぐわしいほどの自然の匂いだ。
家の中はしんと静まりかえっている。もしかしたら留守なのかもしれないが……
と。
「ふえ?」
いきなり声が聞こえた。門の横に立っていた少女だった。薄紅色の着物を風にはためかせ、珍しいものを見るようにぱちくりと目をしばたかせている。
ぽかんと口を開けたまま、甘斗も少女に目を奪われた。
背も小さく、甘斗よりも年下だろう。大きな目と白い肌が可愛らしい。そこまでは別に普通なのだが、肩くらいの麦の穂色の髪を結いあげ、空のような青い目をしている。
こんな髪と目の色をした人間を甘斗は見たことがなかった。十年住んできた江戸の町ではみな、黒髪に黒い目だ。
つい見入ってしまっていると、誰かが甘斗のすぐ横の茂みから顔を覗かせた。
「輪廻さん? こちらに毬はございましたよ。ささ、惜しくも九十七回で終わってしまいましたので、三度目の挑戦をさせていただきたく……おや?」
「……はぁ!?」
出てきたのは、さらに甘斗の度肝を抜く人物だった。
まず背が高い。甘斗よりも頭ひとつどころではなく、見上げなければならないほど高い。その痩躯に白い単衣をまとい、神社の縁日で売っているような狐の面をして、なぜか手には色とりどりの糸で花模様が縫いとられた毬を持っている。
これだけで十分に珍妙であるが、腰には刀を差している。黒巻鞘に鎬の高い刀だ。物腰や雰囲気は柔らかく浮世離れしているのに、それだけが武骨で現実的だった。
その狐面を見るなり、少女は大慌てでその長身の後ろに隠れてしまった。が、甘斗はそれどころではない。大道芸人なら江戸の町でも何人か見たことはあるが、ここまで変質者然としているのは見たことがない。
「な、な、な……」
「ほうほう」
甘斗が腰を抜かさんばかりに驚いていると、狐面の人物は頷いてくるりと家の方を向くと大声をあげた。
「ヌシ様ー! ぬーしーさーま! お客さまですぞー! おられませんかー!?」
「しゃ、しゃべった!?」
つい愕然としていると、しばらくして奥の家の障子がのろのろと開いた。
「んー? なぁに? 昨日飲みすぎたせいでまだ眠いんだけど。ふああああ」
大あくびをしているのは、まだ若い青年だった。整って涼やかな顔にやや幼げな表情を浮かべている。そのせいで二十を過ぎているかも怪しく見える。
黒い羽織に、緑の着物、ちらりとのぞく赤い襦袢。成人しているだろうに、月代も剃らずに黒い髪を赤い飾り紐で一つに束ねている。こんな山奥なのに、見るからに派手派手しい装いだ。
青年はそのまま出ようとして、窓から身を乗り出し、
「うわあ!?」
ものの見事に転落した。どうやら寝ぼけているらしい。
「おやおやヌシ様、ご無事ですかな? いえ、転落した方ではなくて頭がですが」
「先生、だいじょうぶ?」
快活に笑う狐面の後ろから顔をのぞかせ、少女もさすがに青い目を丸くしている。
「……センセイ?」
ひょっとして、と甘斗は嫌な予感に襲われた。ここの家に住んでいるはずの医者に弟子入りするはずだ。まさか、こんな派手で若い医者のはずが……
落ちた青年はしばらくうめいていたが、やがて何事もなかったように起き上った。寝ぼけ眼をこすり、頭まで草まみれになって首をかしげた。
「あれ? もしかして、君が新しい弟子? 甘斗くんだったっけ?」
甘斗はその問いに、頷くことができなかった。
普通に勉強して普通の大人になる。
――なんか、無理っぽいかも。
普通ではない家の真ん中で、甘斗はそう痛感していた。