第五十話『僕と君の……』
コンコン……
「今大丈夫?」
「……ん、鍵開いてるよ」
声の主は咲のようだ。彼女の声はいままでより明るい。
僕は寝そべって漫画に目を向けたまま扉に返事した。
「じゃ、じゃ失礼します」
ぎぎぎとのっそり扉が開く。なのに、なぜかそこから何も入ってくる気配がない。
「ん、どうかした? あんま片付いてないけど、適当に座って、掃除はされてたみたいだから、ほこりがつくこともないと思う」
それでも何も動く気配がなくて、初めて僕は扉に目を向ける。
彼女は申し訳なさそうに、まるでいたずらのバレた子どもみたいに立っていた。
なぜかガッチリ固まったままで、部屋に入ってこないで、目が合うと
「あ……う……」
苦しそうに呻いて、視線を地に落とす。
僕にはその反応が何を指しているのか理解できない。
「えっと……?」
だから言葉を濁すだけで何も言えない。
その間も咲の様子は変わらない。
僕はその空気に耐えかねて、何も知らないままなのに、静かに立ち上がって俯いた咲に近づく。
自分が何をしたいのか? それすら知らないのに、よくわからないまま咲の手を掴んだ。
「あ〜えっと……あ〜、ともかく何の用だ?」
咲は顔を一度上げたあと、僕がつかんだままの手を見る。
「悪い……手掴んだままだったな」
急いで手を話す。
「……うん、それはいい。……ああもう!」
咲はまっすぐに僕の目を見て、自分の頬を思いっきりひっぱたたく。
「よしッ! こうじゃないと」
僕はそんな咲をただぼんやり眺めている。
「ごめんッ! とにかくごめん」
咲は大声で叫ぶ。
「へっ……?」
大体急に謝られても意味が分からないわけで、僕は余計にポカンとする。
「あ……うん、そう、意味分かんない……よね。けじめっていうのかな? ほんとはこの家に帰ってくる前にふっきれたつもりだったんだけど」
彼女は苦笑いを浮かべて、自分の頭をかく。
「……顔を見たらやっぱ無理だったのよ、情けない話だけど。それでも君は君で、やっと…
…ね」
次は本当に笑顔で笑っていた。
「俺は……本当にごめん」
僕にはただ謝るしかできない。
「何謝ってんのよ。謝るのは私で……、あんたじゃないの。ま、うじうじしてた私もどうかしてたのよ。とりあえず中に入っていい? ここで立ち話ってのも……あれだし、あははは」
さっきまでの彼女とは思えないぐらい、明るい声でそう言って、部屋の中に入ってくる。
別にそれを邪魔する必要もなく、咲と僕は向かい合って座った。
「えっとそれで……?」
「それで?」
なぜか彼女は首をかしげてオウム返しで、加えて頬を赤く染めていた。
「なんの用かってことなんだけど、何かあってきたんじゃない? 別に用事がなければ来ちゃいけないってこともないし、それならそれで別にいんだけど」
でもあるんでしょ? そんな目で咲を見るが、彼女は黙ったままだ。
「でも、こんな時間に来るのはやめたほうがいいよ。俺だって一応は男だし」
言葉を聞いて咲の顔が瞬間沸騰する。
「ななな、何言ってんのよ。わ、わあ、わたしみたいなチンチクリンになにするっての。こ、このケダモノ。怪獣、ミトコンドリアッ!」
何が言いたいのか分からないが、彼女は腕を振り回して暴れている。
自分のことをチンチクリンと言ってしまっているし、冷静になった後が怖い気もする。
そもそも僕はミトコンドリアなのか。
「えっと冷静に、冷静にね」
それでもそう促すと、ハーハーと荒い息を吐いているが大分落ちついて来る。
「とりあえず、一回、大きく息吸ってー」
言われるまま咲は大きく息をする。
「吸ってー」
なんとんなくイタズラ心がムクムクと。
「吸ってー」
もう息を吸う余裕もないのに、なぜか咲は言われるままに息を吸い続ける。
だんだん顔が蒼くなってきて、肩もプルプル震えてきている。
だんだん悪い気がしてきた。そもそも息吐けばいいのに、そう思わなくもない。
「あーと――ごめん」
僕が謝ると咲はフンっと息を巻いてガッツポーズをする。
「勝った……はあ、はあ!」
そう言って薄い胸を張る彼女はどう見ても勝ったようには見えない。
「NOッ!! そうじゃない、私は話をしに来たのよ、話を」
目が合うと、また少し赤くなった。
深呼吸? でせっかく取り戻した冷静は、今度は羞恥心と戦っているらしい。
そして彼女が我を取り戻すのにはたっぷり十分以上かかったのだった。
「えっと、読人?」
あきらめて再度漫画を読んでいると、申し訳なさそうな声が聞こえる。
「ああ、お帰り」
咲の顔はまだ赤いが、ほんのりピンクなくらいで、妄想の世界から帰って来て大分落ち着きを取り戻したみたいだ。
「ただいま。それで……えっとまあ、ここまでかかったのは私のせいなんだけど、そろそろ本題に入ってもいいのかしら」
「うん、それは別に、もう今日は寝るだけだしな。要はさっきみんながいたときに話せなかったことだろ? 明確な根拠があるってわけでもないし、それがどうかするわけでもないけど」
ないのは根拠だけで、確信はあった。
要はあの時に泣かせたのはやはり僕だったってコトだ。
あのときはただの疑惑だった、彼女が今部屋に来たこと、それに彼女の今の態度、その二つがなければそのまま流れていくような、その程度の。
「俺は君を傷付けてしまったのか」
だから確信になったのは、この瞬間。
見ぬふりを止めた、今の瞬間。
彼女が部屋に入って来た時から、自分は気付いている、
忘れたという事実が傷付けたものの在処と、その罪は知らないとはごまかせないことを。
知らないのが罪で無いのなら、僕はもう僕に戻れない。
「知ってる、傷付けた。僕は君の何を知ってた? それで君は僕の何を知っていた?」
咲の言葉を全て代弁して、その罪を追求する、彼女はきっとそうしないから。
「僕のものじゃない君の記憶。僕のものじゃないけど、僕が、その記憶を与えたことを忘れたら、意味をなくしてしまう記憶」
この世に意味のないものは無い、誰かが言った励ましの言葉が君に教えたの?
『意味のないものはこの世に存在出来ない』んだって。
「教えて、俺に。その記憶にもう一度意味を持たせてあげて。その時とは違うかもしれないけど、今の僕なりの意味をその記憶にあげる」
僕は精いっぱい、目つきの悪い顔で微笑む。
彼女は――また泣いた。
僕は彼女を泣かせてばかりだ。
でも彼女はそれでも笑っていた。僕もそうなのか、頬を何かが流れていた。
今回は少し長く期間がかかってしまいました。
次はもっと早く投稿できるよう頑張ります。