第三十二話『勘違い』
――バタン!
読人が後ろ向きに倒れて、だらだらと汗を流していた。苦しそうに空気を掻くその動きは、何かに抵抗しているように見える。胸は大きく上下に揺れて、その様子はあまりに普通と程遠い。
駆け寄るべきその光景を前にして、私は座ったまま、呆然と眺めていた。
「読人……」
彼の名だけが浮かんで消える。
思うまま、ずるずると、彼と触れる距離まで身を寄せる、。立ち上がるということすら、その時には浮かばなかった。なぜ彼が倒れたのか、考えるための頭もどこにもない、あるのは、原色のような真っ黒な混乱だけ。
彼に近づいて何をするのか、それすら頭になかった。
「咲! 離れろ」
真っ黒な頭の中、一筋の光のように修羅の声が響く。
私たちの目の前に座っていたはずの彼女は今、少し遠くに立って鬼気迫る様子でこちらを睨んでいた。
「どうして? どうしてそんなことをいうの!」
彼女の言葉が何の為なのか、その時の私には分からなかった。もう少しで彼に触れられるのに、『どうして』それだけだった。
「冷静になれ、咲。君は彼の『暴走』に巻き込まれているだけだ」
「え……?」
改めて目の前の少年を見る。さっきまでの異様な感情は消え失せていた、しかし、胸の奥に燻ぶるものは、変わらず胸の奥にあった。本当に『暴走』にあてられたなら、この胸に残るものは何?
それに自分が『暴走』に当てられるなんてありえない。これでも組織で、十何年も生きて来た、この程度の暴走には何回もあったことがある。
「意識を強く持てば、あてられることなんてないはずなのに……」
場違いだけど、答えは簡単だった。
「ああ、そうね」
強く思いを確かめる。ひとつだけ浮んできた感情がある。――彼を守りたい。
しかし時間はもう過ぎた、異変は真に始まり、守るためには少年を傷つけなければならなくなってしまっていた。
「阿あア唖Aあぁぁaaa……はははHAはha」
壊れたスピーカーから出たような、耳をつんざく音が、目の前に転がる読人の喉から響いた。
彼は体中の関節を一切曲げず、カカトを支点にして浮かぶように起き上がり、そのまま直立不動に石化したように動かなくなる。
彼の目はあまりにも虚ろで、何も見えていないようだった。苦しそうに空気を掻いていた手すら、今はダラリとぶら下がって揺れている。
「咲……わかるな?」
修羅は真剣な表情で私の方を向いた後、竹刀を構えた。切っ先をまっすぐと読人の胸に向け、空いた方の手で真ん中を支えた突きの形で、ピタリと静止する。
「……」
修羅の問いを無視して、求めるべき最高の答えをただ考える。彼の『暴走』をヒントに、彼にチカラをもたらすために。
時間はない、ならば体を意識から切り離して、その分頭を回すしかない。頭の中にある情報を、一度並べて、置き直す。
彼は完全に暴走してしまっていた。
普通ならば『個人』を無作為に使用するはずなのに、『個人』がないせいか、その兆候は見られない。
加えて、それ以外にもおかしいことがあった。
前提条件として『暴走』は『個人』の酷使により起こるのだ。なのに読人は『個人』を使えないのに、暴走していた。
前者も後者も、考える間もなく異常だった。
ならば……どこかに間違いがある、そう考えるしかない。
一番簡単なのは「読人は『個人』を使えない」という前提が間違いであること。そうならば、彼はチカラを使え、『暴走』も起こりうる。
しかし、それを否定すれば、スキャナの「読人のは普通の人のそれ」という言葉に矛盾してしまう。それに事実として、読人は『個人』を使えず、裏の読人もそれを認めていた。
考えは堂々巡り、まだなにか足りない。そして時間も足りなかった。
意味がないと分かっておきながら、堂々巡りを駆け巡る。
「止めてくれるなよ」
答えが出るより早く、修羅は読人を止めるべく動き出す。
さながら撃鉄を上げるように、竹刀を持った腕を思いっきり後ろに引く。
ためらいなく、引き金は引かれた、竹刀が体中のバネをしならせて打ち出される。
彼女だけに使える奥儀、高速で打ち出された竹刀は、目にはただの線にしか映らない。
まっすぐと彼に向かう切っ先の前に、現れるは矢印で出来た奇妙なリング、その中心をそのまま突き抜ける。
瞬間に、リングを粉々に粉砕し、その犠牲を糧にして、竹刀はさらに加速。
竹刀はまっすぐと読人へと突きたたる。
――そのはずだった。
パキンッ!
速度に耐えうる強度を持つはずの竹刀は、読人に当たる寸前で真っ二つに折れ、半分から先が宙にはじける。
そして、運よくダメージを逃れた読人は、何も無かったかのように不動。
修羅は流れる動作で、半分の長さになった竹刀を大きく振りかぶり、振り下ろす。
――ガンッ!
竹刀は奇妙な軌道を描いて、あさっての方向へ空を切った。
宙を舞っていた竹刀の半分が、振りかぶった竹刀に激突したのだった、それにより読人はまたもや危機を回避する。対して、渾身の一撃が外れたせいで、修羅は今死に体だった。
そして―――最悪なタイミングで読人は動きだす。
ただ目の前の敵に手をかざす、彼の動作はそれだけ、殴るわけでも蹴るわけでもなく、本当にそれだけだった。一秒もしない間に手を下ろし、焦点の合っていない虚ろな目で彼女を見ていた。
「えっ……なんで」
修羅は目を見開いて、驚いたように呟く。
「どうして、『わたし』? ぶきももってるのに」
それが最後の鍵。
その瞬間に、すべてが頭の中で繋がった。
砂に埋もれた鉄片が磁石に引かれて表面に出てくるように、埋もれた記憶が鍵に引かれて情報を補完する。
いつかの、スキャナとのの会話の一部、情景が思い出せないほどの前のこと。
「ねえ、スキャナ、貴方って他人の中を見れるのよね? それでどうやって超越者を見分けて、個人のチカラを調べてるの?」
「どうして知りたいのかは知んないし、大したことはしてないからがっかりするかも知んないけど、あのね、『超越者』なら、シンボルがみえるんだよ」
「シンボル?」
「ん、そうシンボル、それは『個人』が“しょうちょうか”したものなんだよ。そうだね……サキのときはたしか……そうそう“はしらどけい”だったね。しかも、ものすごくおおきな、ね」
それだけの会話。しかし、ここには大きな落とし穴があった。
「シンボルのない超越者」が存在しうる可能性。
それが答え、その超越者こそが読人だった。
間違いの始まりは『スキャナのチカラへの過信』、『読人のチカラの特異性』。
生まれるは読人のチカラへのヒントと、その驚異。
「スキャナは協力してくれる? 」
上ずった声でスキャナに尋ねた。
「これちょっとまずいみたいなのよ。解決策も一つしかないし、それも命を賭けたギャンブルよ。だから貴方に強制はしない。冷静にでも急いで考えて、協力してくれるかどうか」
そりゃ心では協力してほしい、でも同じだけ強制するわけにはいかなかった。これはあくまで私の我が儘なのだ、これに賭けられるのは私の命だけだ。
スキャナはすぐに答えを口にする。
「いいよん、シュラというか、わたしがまいたタネでもあるしね。それにサキはたすけたいんでしょ、ドクトのこと」
スキャナの名は伊達ではないらしい、全てお見通しのようだ。そして、その上で私に協力してくれるとスキャナは言う。ならば確認はいらない。私のするべきは少しでも成功率を高めること。
「ありがと、じゃあ私が合図したら、読人にダイブして、そして――読人を探して。そのときになれば分かるから、私を信じて!」
スキャナは一言だけ「うん」と返事をして、未だに、ふらふらとしている読人から距離をとり、意識を集中させるように、目を閉じた。
そしてついに、一生一大の賭けが始まる。
いまいち納得できず、三回くらい完全消去が行われました。が、どうにか落ち着いた感じになったと思います。
この話より次話が、主題というか大事なところなので、次を早めに出せるよう頑張ろうと思います。楽しみにお待ちください。いうより、お待ちしてくれていると嬉しいです。