第二十四話『俺』後編
私は驚きに歩を止め、金髪の男はきょとんとした様子で目を見開く。それでも少年は、何もなかったかのように立っていた、ただ平然と。
流れるのは不気味な沈黙、でも少年はそれすら楽しむように、平然と立っていた。今ではもう少年が本当に声を発したのか、それすら怪しく思えていた。
我に返っただろう男は、意地悪な笑顔を浮かべる。
「何を言っているのですか、恐怖で気でも触れましたか? 私に『おっさん』とは全くもって不愉快な、やはり貴方は自分の立場が分かっていないようです。何もしなければ貴方は助かるというのに、これが最後です、もう何かおかしなことをすれば……わかりますね」
ナイフが押し当てられているところから血が流れた。それは少年への警告と、私への見せしめ。「早く来い。こいつがどうなってもいいのか」と副音声が聞こえた。
ただ私は――少年に傷ついてほしくなかった。だからこそ、私は最後の一歩を踏み出した、その一歩は少年のために、そして自分のために。
その時、読人は「ふあああ」と大きく欠伸していた。我関せず、そんな言葉が今の彼には似合って見えた。大きな欠伸を終えると、少年は首をガキリと男へ向け、いつもより何倍も低い、ドスの利いた声で2言呟いた、それがまるで当然かのように。
「だから放せって言ってんだろうよ。聞こえねえのか、それとも日本語わかんねえのか」
「やっぱり分かっていないようです。本当に残念だ、貴方はここで終わりです。私は散々注意しました。さすがに――問題もないでしょう」
言っていることに反して、男の声は終始喜びの響きに満ちていた。
ゴトッ
ボーリングの玉が床に落ちたような鈍い音が響くと、狂ったような甲高い笑い声が聞こえた。
前を見るなと、幻聴が聞こえて、どくどくと高鳴る心臓の音に深い不安を覚えた。誤魔化すように視線を落とす、そこに黒く暗いまるで『血のような』水たまりと、まるで『誰かの一部のような』黒い塊が転がっていた。そして、私は……
目をそらす、自然と視線は上へとスライドした。私は勘違いしていた、いや勘違いしようとしていたのか、どちらにしろ、上へと目を向けたのは勘違いではなく間違いだった。
少年の真っ黒な服装が眼に映る。真っ暗な服装、私はそれが不思議で首を傾げた、なんせ少年は今のさっきまでそんな恰好をしていなかったのだから。
「あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
ゆっくりと立ち上る血のにおいは、私の腹をグジャグジャにした。次々に吐き気はこみ上げ、私はその吐気のままに吐いた。
私は否定しきれなかった、水たまりは血で、黒い塊は血にまみれた彼の首で、そして彼はもう殺されてしまっていることを。そのことから逃げようとして――でも逃げ切れなかった。だから、私は今こんな醜態をさらしているのだろう。
でも、どうして彼は逃げてくれなかったのか。彼に生きてほしかった、それが私の犠牲の上に成り立つものだとしても。
涙がポロポロと落ちた。地面に落ちた涙は、すべて黒い液体に飲み込まれ消えた。
涙が私たちで、飲み込む黒い液体は金髪の男、そんな気がする。逃げられないことはもう運命、夢だったら……。強く目をつぶり、つぶる前より大きく開く。
少年が笑っていた……幻想を見た。
本当に目の前にあったものは――首の無い少年の死体と、狂気の笑みを浮かべた男だった。現状は何も変わらず、ただの事実として。
死刑台に上がった囚人はこんな気持ちなのか。私は逃げる気力すら無くしてしまったようで、そんな戯言しか私の頭には浮かばない、私は立ち上って固く目を閉じた、もう二度と開くつもりはないみたいに。体は立ち上ることはできたが、私の心はぽっきりとどこかで折れてしまったみたいだ。もう何も感じない、この心が再び立ち直ることは二度とないだろう。
ただ未来の私が今の私を見たら、馬鹿にして笑う。だって、すぐに私の心は立ち直るのだから、もう響くはずのない声が再び響くことによって。
私は開かないと誓った目をあっさり開いた。でも何も見えない――目は涙で滲んでいた。その涙は黒い液体に飲み込まれることはない。ないものに飲み込まれることなんてできないのだから。少年は立っていた。今朝見た少しダサい、その恰好で。
「あーあ、何してくれてんだよ、おっさん」
確かに聞こえる。口調は異なっていても――それは確かに少年の声。男の下卑た笑い声はピタッと止まった。そして私は涙を拭いて前を向く。
首のなかった彼は恐怖が見せた夢だったのか、自分はここまで打たれ弱い人間だったのか、両親を失ったときに強くなると誓ったはずなのに。
「いてえなあ、もう」
少年は首を擦る。その動作は、私が見た夢が現実だとと証言していた。
「それが貴方の『個人』(チカラ)ですか。どうやら私は貴方を侮っていたようだ」
男は警戒と喜びのどちらともを浮かべていた。それが戦士の性なのか。
「さあな。でもなあ……お前は俺を侮ってなんかいねえよ。『僕』は所詮『俺』じゃねえんだからな」
そして、けらけらと嗤った。少年ははっきりと男を侮辱していた。男は怒りを露わに、縄張りを侵された獣のように吠える。先ほどまでの紳士ぶった男はどこにもいなかった、それがその男の本質なのだろう。
「黙れ犬っころ。何をビビってる?俺はまだ何もしてねえぜ」
引く様子などまるで見せず、友達に軽く話しかけるように少年は言う。
「俺は武器だって持ってねえのにな」
少年は手をぶらぶらと振った。その動作すべてが余裕に満ちて、男を嘲笑っていた。その余裕は普通なら命取りになるはずだった、男に自分のアドバンテージを思い出させてしまうのだから。
はははと乾いた笑い声をあげた男は、トランプを引いて破り、ナイフを握りしめた。
次の瞬間に少年の後ろに現れ、ナイフをズブリと少年の背につきたてる。
ごぼっ
少年の口から血が流れ、板が倒れるように、前のめりに倒れていく。まるでデジャヴのように、男の狂った笑い声が響いた。
しかし完全に倒れる前に足を一歩前に踏み出し、少年は持ちこたえる。普通なら致命的な怪我、怪我のはずなのに、少年は何もなかったように仁王立ちで地を踏みしめ立っている、手には刺されたはずのナイフが握りしめて。
「いってえな、こんなもん背中に刺すなんて、いい度胸してる。それにしてもお前のそのチカラ、単に移動速度だけを上げているみたいだな、身体能力を上げているなら、こんなもの使う必要なんてないはずだし。てゆうかそんな簡単に見抜かれるチカラってどうなのよ?」
ナイフをぶらぶらさせながら言う。ナイフには血が全く付いておらず、少年の背中の突き立っていたとは思えなかった。
「そして、そのトランプ。条件付けによってチカラを縛り、出力を上げるためのものだろう」
『条件付け』?それはどういうことだ。どうして最近超越者になったばかりの少年がそんなことを知っているのか?疑問はたくさんあった。でも金髪の男の表情を見る限り、それらはすべて本当のことのようだ。少年は一歩ずつゆっくりと男へと進んでいく。
男はじわりじわりとそれに合わせて後ろへと下がっった。すでに狩人と獲物は完全に逆転している。それは本当に奇妙な光景だった。
「お前は勝てないよ、絶対に」
少年はその場で屈んで何かを拾う。
「これで、もうお前に『個人』を使えない」少年の手にはトランプがひと束、握られていた。
男は自分の懐に手を突っ込む。男の顔には信じられないと、はっきり書かれてあった。しかし、それでも男は戦士。チカラ無きままでも、ナイフを握りしめて少年へと走る。
「チカラのないお前なんて、ただの屑だ、犬でもねえよ。トランプがなけりゃチカラは使えないんだろう?それが条件ってもんだ。ナイフに刺されてやってもいいが、あいにくな……もう痛いのは嫌なんだよ」
少年はそんなことをぼやきながらも、特に身構えることもなく突っ立っていた。
がん、ざっざっざーーー!
派手な音を立てて男が転んだ。男は信じられないといった顔で、すぐに立ち上がる。しかしまた転んだ。何度も立ち上がろうとするが、そのたび繰り返し転んだ。
「何してんだよ。早く殺しに来いよ」
少年はけらけらと嗤っている。
男は必死に起き上がろうともがいていた。
「どうしてだろうな、どうしてこけるんだろうな。まっタネを教えるマジシャンなんていねえけどよ。それにもう飽きた」
少年がそう言うと、男は派手に転び後ろ向きに頭から落ちた。
「まっそういう未来もあったってことだ」馬鹿にしたように、男を一瞬だけ、少年は見た。
男はもう意識を失い白目をむいていた。
「でっそこの少女、名前は? 読人が守りたいと言ってたから、てっきり流かと思っていたんだが?」
少年はいきなりそう言って、微笑んだ、その表情だけは読人のものだった。
「咲……時宮咲」何を言っていいのかわからず名前だけ告げる。それに流って誰なんだろうか。なぜか不思議とその名前を聞くともやもやするのはどうしてなのか。
「ふーーん、でお前さん何歳だ、中身違うだろ?」少年は唐突にそう言う、後にも先にも私の歳を見抜いたのは彼一人だった。
「まあね、これでも二十二歳。で、私からも質問させてほしいんだけど」
「ああ、いいぜ、答えられるものには答えてやるよ。ただし、読人にはまだ何も教えるな。いつか俺自身で読人には伝えるからな。だが、その前に、そいつ……どうすんだ?まだ当分意識は戻らないと思うが、ほっとくと危険だ」
少年は横たわっている男を指さす。
「そうね……少し失礼するわね」
袂から携帯電話を取り出し、あるナンバーに電話をかけた。用件だけ伝え、電話を切り、前を向く。
「これで大丈夫。彼は組織がなんとかするから、でもここで話すのもなんだから、私の家で話すってのはどうかしら?」
「――いやだめだ。そこまで俺が持つかわからない。だから質問があるなら、今しろ」
「そう、じゃ……貴方は誰?」
「やっぱりそうだよな、そう来るよな。ややこしいんだが、読人の別人格ってやつになるんだろうな。細かく言うと完全に別ではないんだが、まあそこは、おいおいにするとして、俺が裏で、あいつが表だ。俺が表に出てきたのは今日が初めてだし、俺はあいつを知っているが、あいつは俺を知らない」
「わかったような、わからないような……ね。じゃあなんであなたは出てきたのよ?」
「当然、守るためだ。そもそも俺が生まれた理由も『守るため』だしな」
「じゃあ貴方は何を守るために生まれたの?」
「生まれたより、別れたに近いな。はじめ、あいつと俺は一つだったからな。なんで生まれたかは知んない。交通事故が境だとも思うんだが、あいつが記憶を失う以前のことはほとんど知らない。守るために生まれたってことだけで、なんで生まれたのかはさっぱりわからない」
「貴方の『個人』は?」
矢継ぎ早に質問を繰り返す。
「それは内緒」
「……」
この少年はいったい何者なのか。あそこまで強い『個人』は……初めて見た。精神的に何か人と違わないかぎり精神を糧とする『個人』があそこまで強くなるなんてありえないはず……。
「あいつがこのチカラを使えないことは知っているか?」
私がうなずくのを確認するとまた口を開く。
「それは俺があいつのその部分を持っているからだ。言い換えればあいつが持っているチカラは俺は使えない。他に俺が知っていることと言えば、あいつと俺はまた一つに戻るってことぐらいだな」
少年はふらふらし始めていた。もう表にいる限界のようだ。
「そう。じゃあ、最後に……ありがとう」
絶対に今私の顔は真っ赤だ、真っ赤に違いない。こんなにどきどきしているのから。
「気にするな。感謝は読人にしてくれ。ああもう限界だ。俺は裏に戻る。あいつには俺のことは言わないでくれ。またいつか会うときに」
少年は手を振ると、私に寄りかかるように倒れた。私は彼を支えようとして、彼に押しつぶされた。
今回は結構話が進みました。いろいろと先を考えるとなかなか思いつかず、投稿は遅くなってしまいました。まだまだ続くので引き続きよろしくお願いします。