第十七話『「いつも」と「とくべつ」の境』咲編
「咲、もう着くから起きてなさい」
「ううん…すうすう」
静の言葉も、熟睡中の咲には届かなかったようだ。咲は再び寝息をたてて眠り始める。
「静ちゃん……いいじゃないか、起こすのは家に着いてからで」
幸一はルームミラーごしに咲を見る。
「……それもそうね。でもこんな幸せそうな顔して、いったいどんな夢を見ているのかしら」
静は、咲を見ながらそう言う。静は幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「んーどうだろうな。できれば俺達が、その夢に出てくれているとうれしいんだが」
幸一も屈託のない笑顔を浮かべていた。
「でもね……そうでなくとも咲が幸せだったら、それだけで私は、幸せだけどね」
「僕も最終的にはそうだけど、でも、できるかぎり咲の笑顔には関わっていたいじゃないか」
幸一は親バカだった。
「ふふっ」
「どうしたんだ?――急に笑ったりして」
「貴方と結婚できてよかったなって。急にそんなことを思ってね……」
幸一は車を路肩に寄せ停止させる。そして静の方へ体ごと向けて話しはじめる。
「静ちゃんがどうして、そんなことを言いだしたのか。僕にはよくわかんないけど…」
幸一の顔がどんどん赤くなっていく。
「僕もそう思うよ。今も…静ちゃん、君のこと…好きだよ」
よほど恥ずかしかったのか、言うとすぐに、幸一は再び車を発進させようとシフトレバーに手をかけた。
その手の上に、静の手が重ねられる。
幸一は驚き、静の方に顔を向けた。
「んぐっ」
幸一の唇に、静の唇が押し当てられる。
結婚して六年目ではあるが、二人はちょくちょく咲の目を盗んでは、いちゃいちゃしていた。大抵始まりは静からだったが、しかし、幸一が今日のように急に、「好きだ」と言うこと。そのことが、静の幸一への気持ちを、いつも燃え上がらせるのだった。
要するに二人は、未だ新婚気分だった。
しかし今日は、後ろで咲が眠っている。静は、完全にそのことを忘れていた。
キスの後のまどろみ、それを邪魔するように一台の救急車が通る。
ピーポー、ピーポー、ピーフォン、ピーポー、ピーポー……
その音で幸一は我に返る、しかし静は、どこ吹く風といった様子で、幸一を求め続けた。
「おいおい、後ろで咲が寝てるんだ。今はこれ以上は勘弁してくれよ」
トロンとした表情の静は、我に返りいっそう顔を赤らめた。
「続きは家で咲が寝てからな」
幸一は静を冗談交じりにそう言った。
「うん、そうよね」
静は真顔で幸一にそう返す。冗談のつもりだったのだが、幸一は何も言わずに、「明日は疲れるな」とか思ったりしながら、再び車を発進させた。
ブロロロッガタン音を立てて車が停止した。
「咲、もう家に着いたぞ。起きろ、起きろ」
「ううん」咲は目を擦る。
「咲、寝てないで、早く降りて。お風呂に入ってから、部屋で寝なさい」
静は、再び眠ろうとする咲にそう促した。
咲はふらふらと車から降りて、玄関へと歩いていく。
幸一は咲が入れるように、小走りで玄関に向かい鍵を開けた。
すぐに家に入り、廊下を通って、自分の部屋に向かう。
そして廊下にある電話の前を通り過ぎようとしたそのとき、
リリリリ……
咲は、何事かと驚いて回りを見回した。近くの電話が鳴っていることに気づいた。
いつもなら、咲は受話器を取らないのだが、後ろを振り向くと、両親はまだ玄関に入ったところだった。仕方なく咲は受話器を手に取る。
「もしもし」
すこし寝ぼけたような声で電話に出る。
「あっ時宮さんのお宅でしょうか?」
聴き覚えのない男の声が受話器を通して咲に伝わる。
男の声は震えていた。
「はい、時宮ですが、どなたでしょうか?」
最近両親に教え込まれた電話の応対を咲はきちんとこなした。
「望月です。いつも朔がお世話になって……」
咲は朔の名前が出てきた事を不思議に思った。そのことに気を取られて、男の声が震えていることに気づかなかった。
「朔ちゃん?もしかして朔ちゃんのお父さんですか」
男は、なんとか喉から声を搾り出し、一言「はい」とだけ話した。咲は朔の父に何回かあったことがあった。線の細い男で、朗らかな、いかにも良い人という感じの人物だった。その男を思いだして、やっと咲は相手の様子がおかしいことに気づいた。
「すいません、父に代わりましょうか?」
咲は、自分ではどうしたらいいか、分からなかった。
「いや、確か咲ちゃんでしたね。いつも朔から話は聞いています。だからあなたにも聞いてほしい」
「はあ」
まだ状況を咲は飲み込めていなかった。しかしそれも当然である。
「実は………」
男は言い出せずに息を詰まらせる。
「朔は……朔はもう……いないんです」
再び男は嗚咽の声を上げた。
咲はその言葉の意味が分からなかった。だから男の次の言葉を待った。
その間に母が近づいてきて、小声で言う。
「電話の相手って誰?」
「朔ちゃんのお父さんだって」
咲も同様に小声で母にそう告げる。
母は失礼があってはならないと、受話器を咲から受け取る。
「もしもし代わりました。咲の母ですが。いつも咲がお嬢さんにお世話になっているようで、これからも仲よくしてやってくださいね。それで今日は何の御用でしょうか?」
咲には、母がどんな話をしているのか、聞こえない。
しかし、どんどん母の顔が青くなっていく。そのことと、朔の父の嗚咽交じりの声、それだけが、咲に母が話していることが不吉な内容であると教えた。
母はゆっくりと受話器を置いた。
「いったい何があったの?」
しかし咲の声も届かぬようで、母は急いで父のもとへと駆けた。こそこそと話しはじめる。母は数分もしないうちに咲のもとに戻ってきた、強張った表情で。
「咲、落ち着いて聞いてね」
母の声も男同様に震えていた。
「……うん」
母の纏った重苦しい空気に、咲も息を飲む。
「朔ちゃん……交通事故で亡くなったって……」
「朔ちゃんが死んだ……」
一度咲の思考は止まり、そして次に激情とともに急速に回り出す。
そして咲は朔が死んだこと、それを理解した。
「きゃああああああ」
咲は、自分の理性を吹っ飛ばすように叫んだ。
彼女の意識は、誰も知らぬうちに、暗くただひたすらに暗い、そんな世界に落ちていった。
第十六話で、咲の能力が十七話でついに発動みたいなことを書きましたが、微妙なまま十七話は終わってしまいました。真偽のほど十八話までおまちください。
ちなみにラブラブはもう死語なのでしょうか?そこが少し気になります。ではまた十八話で会いましょう。