第十話『空っぽ』
家の中には何一つ音を立てるものはなかった。
どうして流は泣いていたのだろうか?
布団の上で転がってぼんやりと考えるのはそのことだけ、いっそ電話をかけようかと思う。しかし僕が知っているのは流の実家の電話番号だけで、流のケータイの番号どころかメアドすら知らない。今まで必要にならなかった、そんなシンプルな理由だけど、必要にしなかった自分を少し恨んだ。
自分と流の間にあった糸は自分が思っているよりも細く、そして大切なものだったのに、僕はそれをいままで知らなかった、いや知ろうとしなかったのか、ヒントは多くあったはずなのに。
とにかく謝ろう、今度会ったら謝ろう、理由はわからないが泣かせてしまったのは僕なのだから。決意したのは、悩みはじめて一時間以上たった後だった。
ふとスキャナの言葉が蘇る。「まっくらなぶぶんがいっぱいあった」
涙の理由が分からないのは、僕が『空っぽ』のせいだからなのか? 自分の中にある『真っ暗な部分』、もしかしたらそこに答えがあったりしないのだろうか。
そんなわけがない、それも心では分かっていた。どうしてそんなことを思ったのか?
「空っぽか……」
口に出してみても、言葉は空気にほんの少しだけ響いて消えるだけ。
返事なんてあるわけない、でも待っていたら答えが見つかりそうな気がした。
ただ待ちきれずに、僕は眠りに落ちる。
次の瞬間、自分がいたのは公園だった。しかし、実際自分はその場にいない、なんとなくわかったのだ。現実感というのだろうか、そんなものがここには無い。例えるなら、自分は映画の観客だった。いくら叫んだとしても、シナリオに影響を与えることもできず、ただ傍観するだけの存在。ただ行動が制限されていないだけ映画の観客よりはましだった。
ぐるっと公園を見回す。
所々が真っ暗で、それは世界が欠けているかのようで、砂場には二人の子供。
一人は男の子で、もう一人は女の子。泣いている男の子を女の子が一生懸命に慰めている。
どうしたのだろうか、二人にゆっくりと近づいていく。
どちらの人物にも見覚えがある。
女の子は流、そして男の子は僕か。
しかし泣いている僕の、様子がおかしい。
幼い子供が泣いている。そこは別段おかしくない、おかしいのは僕の表情だった。泣いているようにも怒っているようにも見える、子供が見せる表情にしてはひどく追い詰められていた。
でも僕には、僕なのに、なぜこんな表情で泣いているのか分からないのだ。
なぜならこんなシーンを見たことが無かった。忘れてしまったのか? しかし子供の僕は深く怒りそして悲しみ泣いている。普通なら忘れるわけがないだろう。
ではなぜ? 悩んでいる間に、子供の僕は地面を殴りだした。
慌てて止めようと、子供の僕の腕を掴もうとするが、僕の腕はすり抜けて触れることは無い。
代わりに流が全身でとめた。
「やめて読人やめて」
なにも言わず振り払い、子供の僕は地面を殴り続ける。
すぐに拳は真っ赤に染まった。
どれくらい経っただろう、急に殴るのは止めた。
「僕が悪いんだ」
そう一言だけ呟いて。
何かを思いだしそうになる。しかし、それより早く――夢から覚めた。
ケータイがぼやぼやと光っていた。汗で湿った額を大雑把に拭い、ケータイを開く、一件のメールを受信していた。
差出人 的場 浩二
題名 あだ名決まったか?
内容 『個人』の名前はともかく。あだ名だけでも決めとけよ。
咲に決めとくように言われてただろ。お前のことだから、どうせ忘れてんだろ?
あと俺は決まったぜ、『個人』とあだ名、両方な。教えてやるから、参考にするといいぜ。『個人』は『粘土細工』、あだ名は『アース』だ。特に『個人』の名前はがんばってみたぜ。語感ってやつを大事にしてみた。じゃ、お前もなんか考えとけよ。まだ『個人』分かってないんだから、もしかしたらめちゃくちゃ強い能力になるかも知んないんだからな。じゃあ、また。
メールを見て、やつあたりをしていた自分が嫌いになった。コージには感謝しなくてはならない。自分を見直すチャンスをくれたのだから。
それにあだ名を決めることも忘れていた。
「ふあ」
まだ頭はまだ完全には目覚めてないみたいで何も思い浮かばない。
コージは自分の『個人』の能力から「あだ名」と『個人』の名前を決めている。
とりあえず僕もそれに従うべきだろうか。
コージに従うと考えたら少し癪だけど、思いつかないのだから仕方ない。
でも、僕に今のところ『個人』は無いのだ。
つまり、無いということが『個人』とも言えるのか。
「無い無い無い無い……」
口に出している内に、スキャナの言葉がまたも蘇る。
「空っぽ」という言葉。
空っぽってのは、なんか格好悪い……。
だからそれを英語にして『エンプティ』。僕はあだ名を『エンプティ』することにした。
『空っぽ』だしちょうどいい。自嘲もしっかり含まれている。
「ふふっ」
未だに流の涙を引きずっていた。
でも自分にしては的を射た名前だなと、感心する。『個人』も『空っぽ(エンプティ)』でいいだろう。別にあだ名と一緒でもいいだろう、のちのちに重大な意味を持つ決断をそんな簡単に決めてしまったことに、僕は気づいていなかった。
忘れないうちに咲にメールを送る。
宛先 タイム
題名 読人です。
内容 あだ名と『個人』どちらも決まったので報告しておきます。
あだ名は「エンプティ」、『個人』は「空っぽ《エンプティ》」です。
あだ名と『個人』の名前は一緒でも構わないんでしょうか。
すぐにメールが返ってくる。
差出人 タイム
題名 Re:読人です。
内容 一緒でもいいわよ。でもメールだと話し方変ね。
なんか丁寧ぶっていて気持ち悪いわ。べつにどっちでもいいけどね。
あとメールではタイムと呼ぶようにね。
貴方のこともエンプティと呼ぶことにするから。
でも直接の会話のときは咲って呼ぶように。
じゃあまたね〜。
変とは失礼な。メールはほとんどしないから、慣れてないだけ。
でも『咲とタイム』名前使い分けて呼ぶなんて、めんどくさい。もうずっとタイムでいいのではないだろうか?そう思ったけど、それを問いただすこともめんどくさいのでやめた。
時計を見ると、午前十時。
今日も1日が始まる。ああ、めんどくさい。