他人に押し付ける人には「押し付けるな」を押し付けよう
他人に押し付ける人は嫌いだ。それが悪であろうが、はたまた善であったとしても、決してそのことを他人に押し付けることはあってはならない。善はもちろん正しい(とぼくは思っている)のだが、そのことによって他人さえも自分と同じような考え方を持って欲しいとすることは到底甘い。だから、他人に押し付けないことは他人に押し付ける、それだけは押し付けなければならないという方法論を持って日々行動している。だって、そうだろう。そうしなけりゃ他人に押し付ける人がそれをやめないと思うし。
こういった「何々をしてはいけないという人には、同じように何々をしなければならない」という物事は他にもある。例えば、いじめはしてはならない。してはならないけれども、いじめをする人間はいじめなければならないだろう。これはいじめの問題の根本を解くには至っていないとする主張も確かに当たっている。しかし、考えてもみよ。昨今の学校でのいじめの問題が微量でもいいから根本的に解決するに至った時があるかということである。やはり、今できるのは応急処置しかない。
でも、慌てないで。いじめの問題が深刻だとして、いったい何をどうすれば良いのか。ぼくのこのエッセーでのいじめを無くしたいという主張は本当に学生たちの心の中に届くのであろうか。まず、無理。だから私はこう考える。いじめはこの世界のどこかで必ず、そして頻繁に存在する。だからといってそれを認める必要はないし、受けて堪えることが一つの安心なのだろう。いじめは受けることに一つの人類の「救い」がある。だから、頼むから堪えておいてほしい。自分もそうだったんだよね。
ぼくの場合はかなり酷かった。クラスにいじめてる奴がいて、癪にさわったから歯向かってやったら、そのヤンキーに太ももを思いっきり蹴られた。その次の日からいじめのターゲットが自分に変わったんだよな。しかし、ぼくは暴力は振るわなかった。振るうと相手の手法と同じになるから。それがぼくには不都合だった。でも、いっさい関わらないようにしていたら、自然とやられなくなって、学校も変わり、心の傷も癒えた。ぼくはいじめっ子がこわい。けれども、怖いからと言って友人のせいにしたり、なすりつけたりということがなかったことが「『誇り』という意味での『プライド』」となって今も生き続けている。