赤い糸のお話
運命の赤い糸が、無惨にも引きちぎれてしまったのだ。
大切な相手と、離れ離れになってしまった。この世に生を受けた時から一緒だったのに。これからも、ずっとずっと共に歩むはずだったのに。一人では、何もできない。
大げさではなく、存在価値すら失ってしまったのだ。
時には絡まるように互いを温め合ったこともある。あの柔らかな温もりが、恋しい。忘れることなんてできない。
一人になった彼は、暗く冷たい部屋に閉じ込められてしまった。
そこには、多くの同志がいた。みな一様に沈んだ顔をして、がっくりとうなだれている。陰気な雰囲気に彼は思わず息を止めた。この空気を吸ってしまったら、すぐに浸食されてしまいそうだ。
「けっ。お前も見捨てられたのか」
奥の暗闇から新入りに投げ掛けられた、冷ややかな言葉。続いて起こる、下品な笑い声の輪唱。彼は聞こえないふりで目を閉じた。反応してはいけない。無視するのが一番だ。
誰も、それ以上声を掛けようとはしなかった。
「ふん。つまんねーの」
周囲は口々に捨て台詞を吐いて、黙り込んだ。再び闇と静寂が襲い掛かってくる。重い。苦しい。
彼女とはきっとまた会える。絶対に会える日が来る。会えないわけがない。彼女だってそれを望んでいるはずだ。うぬぼれじゃない。彼女も、自分と一緒でなければ意味がないのだから。
その日まで、自分は耐え忍ぶ覚悟だ。待ってみせる。
彼はただひたすら、じっとしていた。永遠に続くかのように感じる時間。目を閉じれば思い浮かぶ、彼女の姿。一緒に過ごした楽しくて温かかった日々の思い出。
どうして赤い糸は切れてしまったのだろうか。何がいけなかったのだろうか。彼は悶々と悩み続けた。
一週間。
とてつもなく長い時間だった。
その間にも次々と同じ境遇の同志が増えていった。彼が来た時よりもさらに、部屋はごった返している。しゃべるのも億劫なのだろう。誰も一声も発しなかった。
この一週間、誰一人として、この部屋を出て行っていない。その事実が何より辛かった。彼より先にこの部屋にいたもの達は、押し潰されて身動き取れなくなっていた。
他のメンバーのように、暗く冷たい闇に埋もれてしまうのだろうか。存在を忘れられ、誰にも気にしてもらえなくなってしまうのだろうか。
彼は怖かった。
もしかしたら彼女にもう会えないのではないか。あれほどあった自信が、もうかけらほども残っていない。もう、このまま諦めてしまおうか。
観念しかけた、その時。部屋に光が差し込んできた。
まぶしい。
いつも開いたと思ってもすぐに閉められてしまう部屋。こんなに開け放たれるのは、彼が来てから初めてのことだった。
新鮮な風が入ってくる。彼は胸いっぱいに深呼吸した。
「ええ。ちょうど、一週間前です。ここに来るまでは確かに二つ揃ってたんです」
聞き覚えのある声がして、彼はハッと顔を上げた。隙間からわずかに見える女の顔。ウェーブのかかった長い黒髪。赤いフレームのメガネ。間違いない。あの女だ。
彼の心が弾んだ。
「うさちゃん」
小さなかわいらしい声に視線を下げると、女の前に、真っ赤なほっぺのおかっぱ頭が見えた。ああ、あの娘だ。
彼は勝ち誇ったように周りを見渡した。ほら、ちゃんと迎えが来たぞ。探しに来てくれたぞ。お前たちとは違う。もう、一人じゃないんだ。
「赤くて、うさぎのアップリケが付いるんです。この子の手に合うくらい小さい手袋です」
女が娘の手を指さしながら説明する。
「ああ、これですかね」
男の声がして、手がにゅっと伸びてきた。
この男は知っている。自分をこの部屋に閉じ込めた人間だ。まるでゴミを捨てるかのように投げ入れられた屈辱は、決して忘れないだろう。
男の手はガサガサと部屋をかき混ぜるように動き、やかて彼を「忘れ物」と書かれたケースから救い出した。
小さな赤いミトンは、一週間ぶりに持ち主の女の子に返されたのだ。
間に合ってよかった。彼は女の子の右手にはめられながら、心底ほっとした。
もう春がそこまでやって来ている。次の冬には、きっとこの子の手はもっと大きくなっているだろう。自分たちがこの子を温めてあげられるのは、あとわずかの時間しかない。
左手に、同じ赤いミトンがはめられた。
彼はそれを見てハッと息をのんだ。
ずっと会いたかった。ひたすら会いたいと願い望んでいた相手だ。やっと会えた。赤い糸で繋がれていた愛しい存在。
「よかった。本当にありがとうございました。娘のお気に入りだったんです」
女の子の母親が、深々と頭を下げた。
「いえいえ。よかったですね。繋がってた毛糸が切れちゃったんですかね」
男がにこやかに受け答えをする。決して自分たち「忘れ物」には見せなかったような笑顔だ。
「そうなんですよ。いつの間にか切れちゃってたみたいで。家に帰るまで全然気づかなかったんです。失くしたことに気づいてから娘が泣いて泣いて…ああ、見つかって本当によかった」
胸をなでおろす母の気持ちを知ってか知らずか、女の子は無邪気に笑っている。
「うさちゃん だいすき」
「もう落とさないようにね」
「うん」
バイバイ、と男に向かって手袋をはめた両手を振りながら女の子は歩いて行った。母親がもう一度頭を下げてから、慌てて追いかけていく。
「帰ったらまた、毛糸で繋いであげようね。さ、お手々つないで帰ろう」
彼の上から、女の子の右手は母の手に包み込まれた。内から感じる温もり。外から伝わる愛情。
彼は少し窮屈だったが、それ以上にとても幸せだった。
「見つかったのか」
すぐに、向こうから父親が近づいてくる。
「ええ。あったわ」
「そうか。よかったな」
女の子の頭を撫でる父親は、とても優しい目をしている。
空いていた女の子の左手が、父親の大きな手と繋がれる。
女の子は両親の手にぶら下がるように飛び跳ねながら、キャッキャと笑っていた。
これで、皆、一人じゃない。
彼は安心して目を閉じた。心地よく揺られているうちに、眠ってしまったようだ。一週間ぶりに熟睡できた。
次に目が覚めると、彼は大切な相手と、しっかりと繋がれていた。二人を繋ぐ赤い毛糸は、前よりも太く力強かった。これでもう、離れる心配はない。
「これからもよろしく」
彼は照れながら大切な相棒に微笑みかけた。
テーブルの向こうのソファでは、親子が三人並んでテレビを見ている。
時々上がる楽しげな笑い声。
明るくて温かい、この家に帰ってこられてよかった。彼は喜びをかみしめた。
主人公「彼」は手袋です。いつもと違って、ちょっと変わった視点の小説に挑戦してみました。