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最後の作品

 戸惑ったブーツの踵が木張りのフロアに音を立てた。スーツ姿の女性は驚いて肩越しに振り返った。自分が占拠していた空間に足を踏み入れた女性を見止めた時、若い女性は弱々しい笑顔を作り、そして俯いた。音の無い世界に気まずさだけが溶け込んできた。

 その場に立ち尽くしていた女性は目を閉じて深呼吸を一つすると、再び足音を響かせた。そして、スカートの裾を押さえながら若い女性の隣に座った。相手はそれだけを確認して、再び絵画を見上げた。

 二人の正面に据えて沈黙を守る絵画はあの日の浜辺を歩く少女を描いたものであった。照明の光が静かに降り注いでいる。隙のない化粧を施したスーツ姿の女性はただ顔を上げたまま身動き一つしない。その目にどんな思いが潜んでいるのかは分からなかった。

 後からブースに入ってきた女性は相手の横顔を見つめ、幾度か俯き、そしてようやく口を開いた。

 「この絵、好きですか?」

 「えぇ」

 間を置いて返ってきた返事を横に眺めたその顔には言い知れない寂しさが漂っていた。

 「これ、私の大叔父が描いたものなんです」

 驚きを隠せない相手は言葉を一つ飲み込んでしまった。白いコートの女性は優しく微笑んで絵画に視線を戻した。

 「大叔父は昔から絵描きでした。私が物心つくかつかないかの頃に遊びに行くと至るところ絵画で埋めつくされている。そんな空間に住んでいた人だったんです」

 若い女性はいきなり出て来た話し相手の横顔を見つめた。若かったが、口元の線にそれとない苦労の痕が見えないでもなかった。

 「そして小学校の高学年になった時、ひょっこり居なくなっちゃった」

 「居なく…なった?」

 「黙って田舎に引っ込んじゃったの」

 そう言って相手はスーツ姿の女性に笑いかけた。若い女性は微笑み返すことなく、伝えられた真実を頷きながら咀嚼しようとしていた。その頷きがゆっくりと止まった。

 「こんな綺麗な場所に生まれ育っていらっしゃったんですね」

 「いえ、これは大叔父の田舎ではないんです」

 今度は白いコートの女性は息をついて俯いた。当然、困惑の表情が相手の顔には浮かび上がっているだろう。

 「死に別れた奥さんの故郷にふらっと行ってたんですよ。いいえ、ふらっと寄ったつもりだったんでしょうけど、そこに住み着いちゃった」

 そう言って相手は笑った。だが、若い女性の見つめ返す顔にはこれまでになく糸が張り詰めたような緊張が見えていた。

 「奥さんの為に余生を過ごそう…そういうことだったんですよね?」

 満面の笑みは線香花火のように萎んでいった。

 「それくらい大事な場所だったんですね?」

 白コートの女性は視線を逸らし、ほんの微かだが辛いものを吐息と共に吐き出した。

 「そうね」

 若い女性は夕日に染められる赤い浜辺にその姿を残す老いた絵描きを思い浮かべた。

 「本当は亡くなる前にそうしてあげるべきだったと思うわ。大叔父は病に倒れた奥さんを付きっきりで看病していたわ。父が大叔父の世話になっていて、私たち家族はしょっちゅうお見舞いに行ってた」

 驚きは隠せなかった。その若い女性にとって、その俯いた顔を正視してはならない雰囲気がそこには漂っていた。

 「長かったと思う。病室から院内までが叔父にとって足を伸ばせる範囲だったから。無理やり画材を病室に持ち込んで奥さんとそれまで過ごせなかった一緒の時間を過ごそうとするのに大叔父は懸命だったわ。その頃に描いていたものは明るい色を使った物が多かった。でも、描いている本人は何かに憑かれたみたいだった。奥さんが眠りについている傍らで」

 掛ける言葉がどこにも見つからない。

 「ずっと看病してたけど、病人が病人を看取っているようで怖かったって私の母が言ってた」

 「長い間寝たきりだったんですか?」

 白コートの女性は顔を上げた。オレンジ色の光を受けるその瞳は涙が零れ落ちそうなほど潤んでいた。

 「ごめんなさい、余計なことを聞いてしまって…」

 相手は無理に笑って首を振った。

 「見舞いに行く度に画材道具とキャンバスが増えて行ってたの。小さい頃の私にとって触れたことのない面白い物が一杯あるんだけど、個室の病室はかなり歩きづらくなっていて」

 そう言うと、一頻り笑い声が上がった。若い女性も首を傾けながら微笑んだ。

 「お医者さんに叱られながら、それでも絵を描いて。どれもこれも風景画だった。叔父さんが仕上がった絵を叔母さんの目の前にかざすんだけど、叔母さんただ首をほんの頷いてみせるだけなの」

 両足を伸ばし、コート姿の女性は両手を椅子に預けたまま背伸びをした。

 「母が一度だけお葬式の時の話をしてくれたわ。大叔父が泣いてた時のこと」

 若い女性は身体を出きるだけ白コートの女性の方へ向けようとした。真摯な眼差しだった。

 「大叔父が言ったらしいの。『ワシはあれだけ長い時間を過ごしてきて、あいつが好きだった景色をどうしても描けなんだ。どう色を塗り足しても反応すらせんかった。人には喜んでもらえた物が、一番大事な人の前では何も役に立たん』って」

 白コートの女性はそこで一旦言葉を切った。隣に座る女性は話し手の横顔を見守っていた。

 「悔しかったんだと思う」

 哀しみに溢れ出る大粒の涙となって雨はスポットライトを浴びる窓を殴りつけるように降り注いだ。 白い壁に囲われたブースに啜り上げる音が聞こえた。熱い息を溢しながら、白コートの女性は目頭を押さえていた。そして十分間を取ると、彼女は顔を上げ無理に笑った。

 「ごめんなさいね」

 スーツ姿の女性は肩を丸めたまま相手を見た。浮かべた微笑には柔らかい相手を労わる色が滲み出ていた。白コートの女性は頬に伝う涙の筋をそのままにその絵を見上げた。

 「私、高一の時に一人で叔父を訪ねていったの。訪ねた先のあばら家で叔父は絵を描いていたわ。その時既に、叔父は片目を患ってて。『病院に行こう』ってどれだけ引っ張っても、叔父は笑って首を振るの。『こっちの方がいいんじゃ。今まで見えなかったものがよぉ見えるようになったわ』って言って」

 聞き手は黙って絵画を見上げた。話し手はそれとなく気配でそれを悟っているのか、話を続けた。

 「大叔父が描いた絵はね、人の心を読むの。動くのよ。そして、この絵画は大叔父が最後に手掛けた作品なの」

 聞き手からの反応はなかった。

 「と、言ってもこの絵が動いたのを見たのは二回だけなの。一度目は亡くなった叔父の遺品を整理していた時。そしてもう一回は…」

 話し手はそれから先を続けるようなことをしなかった。スーツ姿の若い女性は絵画を見上げたまま一筋の涙を頬に残していた。白コートの女性はバッグからハンカチを取り出した。スーツ姿の女性は手を小さく振ってその親切を拒んだ。

 「一つ尋ねてもいいでしょうか?」

 「何かしら?」

 「あの人はどんな最後を遂げたのでしょうか?」

 「…医者の見解だと衰弱死ということになっているわ」

 「お話を聞けて良かった。あの人はやっぱり優しい人だったんですね」

 白コートの女性は相手を見つめ返した。その若い女性は涙を浮かべたまま笑った。

 「間違いないとは思うけど…」

 その言葉に相手はゆっくりと頷いた。そして、その若い女性はおもむろに腰を上げた。その挙動はぎこちなかった。腰を上げた時、彼女は右足をかばうような姿勢を取っていた。歩く様でその行動が何を意味するのか、朧気ながらも分かったような気がした。彼女は乾き始めた涙をそのままに口を開いた。だが、言葉が出てこなかった。

 「あの人が言った通り、辛いことが何度かありました」

 「辛いこと?」

 「ええ、他の絵もそうだと思うんですけど、絵画が反応するのはそんな辛い出来事に遭遇した時に感じる悲しみや痛さなんだと思うんです」

 「じゃあ、あの時私が見たのは?」

 「さっきも言った通り辛いことが何度もありました。その中で死ぬほどつらいと思ったことが一回だけ。その時、私はこの風景のことを思い出しました」

 白コートの女性はスーツ姿の女性の横顔を見つめていた。そしてその若い女性は再び言葉を紡いだ。

 「あの人は…」

 そう言って、その女性は目を閉じた。胸の内に蠢く何かを堪えるかのように。そして、彼女は再び目を開いた。一縷の涙がもう一筋、頬を伝っていった。

 「もっと多くの悲しい出来事を看取って行ったんだと思います。自分ではどうすることもできなかった悲しい出来事を。その思いを誰かに伝えたかった。そしてあの人…いえ、おじいちゃんにとってそれを伝えるには絵画を描く以外方法が無かった。そういうことだったんだと思います」

 二つの視線はもう動くことのない風景に注がれていた。

 「そう」

 優しい返事が返ってきた。

 若い女性は一礼すると、ゆっくり時間をかけて出口へと向かった。白いコートの女性はその後ろ姿が灰色に包まれた街の風景に消え入るまでずっと見つめていた。

 雨はいよいよ本降りになり、空は黒い影を一層強めていった。

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