個展
その日は小糠雨が降っていた。
淡い檸檬色に染められた雨雲が空を覆っていた。夕暮前に訪れる嫌な空模様だった。季節は冬である。網目状に走る主要道路の上に広がる遊歩道は霧立つ雨に霞んでいた。人々は着ているものさえ違えど、一様に塞ぐ気持ちを背負って歩いていた。
そんな雨に濡れる遊歩道にタングステンの灯りが街に漂う寂しさを引き寄せるように煌々と光っていた。老若男女問わず、訪問客は水滴が筋を幾重にも垂らしているガラス扉の前で傘を閉じた。扉は幾度となくゆっくりと開き、もっと遅い速度で閉じていった。
入り口近くには雨に濡れないよう移動された丈の高い衝立が置かれていた。不意に足を踏み入れた人々にとって衝立に書かれたその画家の名はあまりにも馴染みのないものだった。『個展』と記されているその衝立を一瞥し、色々な人が受付へ足を運んでいった。
白い壁に木製の額縁がいくつも構えている。画一化されることを嫌った内装は掲げられている絵画の雰囲気と調整を取るための配慮からのものであるようにすら見えた。だが、その絵画の一つ一つはどれも近代美術史の教科書に敷き詰められたものをそっくり移してきたようなものばかりであった。次第に見物客の姿が一つ二つと消えて行った。それを受けてか、入り口近くの二人組の足元付近に囁き声が振り落ちてくる。
「現代の…だね」
「…半生とか見ると…」
「あったかい色が多い…」
「…っていうより独創的過ぎる…?」
「もしかして最後は狂ってたのかな?」
「…ゴッホみたいに?」
「でも、肖像画は無いよね…?」
「実際、どんな人だったのかしら?」
沈黙の合間に潜めた声のかくれんぼがあちらこちらで起こっていた。
雨脚がはっきりしてきた時、赤い傘を畳んだ一人の人物が扉の取手に手を掛けた。中の様子を一瞥すると、やや年配の女性が柔らかい笑みを浮かべて扉を引き開けた。肩に掛からないくらいの髪は顔に刻まれた皺とは反して黒く艷やかだった。
受付に構えられた長机には背広を着た長身の男性が立っていた。その男性は入ってきた人物を見止めると、頬に刻まれた立て皺を露わに会釈した。その女性は一礼して奥へと進んだ。この個展を待ち望んでいたと見える見物客やカップル達はそれぞれの絵画の前で鑑賞とその合間に交わされる会話を満喫していた。白い厚手のコートにマフラーを巻いた件の女性は人々の様子を窺いながら更に奥へと足を進めていった。
展覧場には一定の間隔を置いて長椅子が設けられていた。目指した場所は凹型に窪んでスペースであり、見物客達は予想していた通り、その空間に掲げられている絵画を一瞥しただけで次へと進んでいた。人が織り成す流れは確実にペースを上げていた。白いコートに身を包んだ女性は寂しそうな微笑を湛えてその空間へと足を踏み入れていった。
掲げられていた絵画は確かにこの個展のコンセプトから言えば最も型に嵌ったものだった。
逆さまに言えば、「こんな風景のどこが面白いんだろう?」という疑問さえ浮かんでくるありきたりな浜辺の情景だった。そこに描かれていたのは誰もがどこか見たことがあるような印象を受けるなんの変哲もない風景画であり、題名や完成の日付を記したプレートすらも取りつけられてはいなかった。そう、誰もが洒落っ気のない余興だと思って注意を払わなかったのだろう。そして、そのブースからはどんどん人が居なくなっていった。白コートの女性は溜め息をつきながらそのブースへと進んでいった。
しかし、女性は不意に足を止めた。
その絵画の前には幅の狭い長椅子が置かれていた。誰も座ることのない筈の椅子。そこには上から下まで黒色に統一されたスーツを着た二十代前半の女性が座っていた。
そして彼女が見据える絵画は…。白コートの女性は両目を見開き、手を口元に添えた。




