白髪に覆われた眼窩
老人は足を止めた。愕然とした表情が老いた顔には浮かんでいた。しかし、少女は砂浜に横たわる絵画を一心に見つめているばかりで、その表情の変化に全く気がつかなかった。
「嬢ちゃんにはその絵が動いているように見えるのか?」
「うん、この絵はそうなってるよ?」
「どう…動いているんじゃ?」
「え?こっちは木のえだが風にゆれてて、あ、こっちは波がうごいてるよ?あ、こっちはね、窓の光がきらきらしてる」
老人は腰に片方の手をあてがった。そして頭を振りながら深い溜息をついた。また強い風が吹いてキャンバスが音を立てて撓んだ。老人はやがて意を決したように自分が描いた作品の輪の中に入り込んで行った。
「嬢ちゃん、もう遅い。そろそろ帰る時間じゃよ」
「えっ?」
「お父さんとお母さんがきっと心配している」
少女は潤んだ瞳で画家を見つめた。老人が見せたこれまでの親切に縋ろうとする眼差しだった。画家は絵画が形取る輪の中心に立った。少女は足を崩したまま両手を砂の中に埋もれさせて老人の顔を覗きこもうとした。だが、片方の窪んだ眼窩は前髪に隠れてどうなっているのか見えなかった。
「この浜辺に来る人は何かを捨てに来るんじゃ。それが何か嬢ちゃんには分かるか?」
少女は強く首を横に振った。
「大事な思い出だ」
「おもいで?」
少女は夕闇に溶け始めた海の彼方を見つめてそう問いを投げかけた。
「ワシはそれを拾いに来る」
「ひろうって何を?」
画家は徐に背を向け、イーゼルに支えられているキャンバスの方へ歩いて行った。キャンバスの傍に立つと、老人は脇に抱えていたキャンバスとイーゼルに立てかけられたキャンバスを入れ替えた。その作業が終わると老人は彼女の方に向かって手招きをした。少女は素直に走り寄った。
老人は筆を取り直し、その黒く染まった筆先が迷いもなく見覚えのある、そう今二人がここに居る景色に降ろされた。
少女はその筆の一振りが降ろされた世界に目を瞠った。ほんの少し前に自分が眺めていた海風の吹き荒れる景色を見ていた。そして、その風景の中で浜辺を飲み込むように広がる金色の海を前に自分の後姿を見つけていた。平面の世界の中で少女は帽子を抱き、老人は自分のアトリエへと歩いていた。
筆がキャンバスから離れた。少女はついに完成した新しい風景画を覗きこんだ。
時が止まる。
画家は微動だにしなかった。それが無垢な心に込み上げた不満の炎を焚き付けた。
「この絵、うごかないよ?」
「それでいい」
優しい声だった。だが、少女は砂地を強く蹴って立ち上がった。
「つまんない!なんでこの絵だけうごかないの?」
「時が来れば分かる」
「里香、今知りたいの!」
「いや、それはまだ先にとっておくんじゃ」
「もういい!」
少女は足早にキャンバスが象る輪の外へと飛び出した。
「嬢ちゃん」
画家の大声が耳を掠めた。少女は振り向き様に膨れっ面を見せつけてやった。声を掛けた相手も笑ってはいなかった。
「今日見たことを忘れるんじゃない。悲しくなった時ここで何を見たのか、絶対に忘れちゃならんぞ」
サンダルが音を立てて後ろへ下がる。
「おうちかえるもん。パパとママのところにかえるもん」
「そうじゃ。それがええ」
「おじいちゃんなんて、大キライ!」
「一人じゃないぞ」
「里香ひとりじゃないもん!ひとりじゃないもん!」
「忘れるんじゃないぞ。一人じゃないってことを忘れるんじゃないぞ」
画家は初めて右目を隠す前髪を耳へ撫で付けた。
少女は言い返そうとして、そして口を噤んだ。目の前に構えているものを見据えたまま数歩後ろへと下がった。十分距離を取ったところで踵を返すと、少女はそのまま走り出した。急ぐ気持ちに追いつかない両足を無理やり前へ前へと押しやった。
立ち尽くす画家の右眼窩にはそこに在るべき瞳が無かった。
そこには真っ暗な空虚が穿たれているに過ぎなかった。その闇の中に何かが渦巻いていた。それは白い顔のように見えた。それが無数に浮かび上がり、何かを叫んでいた。
少女は走りに走った。
この浜辺から一刻も早く抜け出さなければ。彼女の本能がそう言っていた。
丘陵を必死に駆け上がる。フライカイトが幾度も胸から滑り落ちそうになった。ようやく遊歩道に出て、少女は休む間もなく更に駆けた。暗がりに包まれようとする元来た道を辿って。
それからどうやって父親の胸に飛び込んでいったのか、少女は覚えていない。ただ、抱きかかえられるまま、涙でも鳴き声でもないもっと辛い何かを吐き出そうとして胸がとてつもなく痛かったことだけは覚えている。
それから幾年かの月日が流れて行った。