絵画の輪
「そう怒らんでくれ」
「怒ってなんかないもん!」
少女は振り返ることなく荷物を抱え上げた。有無を言わせない足取りで数歩進んだところで、疲れを露わにした声が三つ編の髪を引き止めた。
「悪かった。ちょっと待ってくれんか。ワシの宝物を見て行ってからでも遅くなかろう?」
砂のこびりついたサンダルが地面に浅く突き刺さった。老人は難儀そうに腰を折り、膝に手をついた。その姿は斜陽を背負い、微動だにしなかった。
片方のつま先をその場に捩じらせながら、小さい肩が左右に揺れた。
「里香、おうちかえりたい」
「なぁに、そんなに時間は取らせんよ」
老人は自分の手荷物が置いてある方に進んだ。少女は黙ってそれを見つめた。老体から伸びる影に包まれた手がバッグに伸び、小振りのキャンバスを引き抜いた。老人は口をきつく締める。そのキャンバスを丁寧に浜辺へと横たえると、老いた手は周りに放置してあったもう一枚の絵画を掴んだ。そしてイーゼルやキャンピングチェアが置いてある場所から離れていく。
少女は老人の背中を目で追った。そして、大きく見開かれた瞳が輝きを灯した。その瞳孔が焦点を搾る。
いつしか老人の周りには等間隔に並ぶ絵画の丸い輪が出来上がっていた。
どれもこれも風景画だ。だが、街の夜景や滝が流れ落ちる瀬、山間の茅葺家など、様々な景色がそこには描かれていた。それが砂浜の上に横たわったまま、円を象っていた。ビニル製のサンダルを履いた小さなつま先が意識しない内に前へと進んだ。
「おいで」
一瞬だけ白い肌の足が竦んだ。老人はどことなく照れたように手招きをしている。小さい踵がようやく地面を蹴った。少女は恐る恐る絵画の合間を縫った。そして絵画の円の中央に立った時、何かが変わった。風景画が周りを取り囲むと、その長方形に縁取られた様々な浜辺の景色が急にざわめき始めた。
青い空と輝く海。碧色に霞む山並みにはっきりとした輪郭を描く雲が覆い被さっていく。
テレビ越しに見る風景…いや、小さな描写のそれぞれは現実のものとは比べ物にならないほど粗が目立つものであった。が、その粗さこそ現実と一線を画するものであり、模写されたその景色が躍動感を持って己の意思を持ったように細部の形を変えていっているのだ。現実離れしていることが更に幻想的だった。
少女は円周に沿って駈けた。
月を構えた浜辺。夜明けを待つ静かな海。雲間から射す光が荘厳な雰囲気を醸し出している空。どの絵画もそれぞれの顔を持った個々の世界を携えていた。
少女は入道雲が猛る浜辺の景色の前に膝座をついたまま、老人を見上げた。老いた画家はいつしか左手にキャンバス、右手に使い古した筆を握っていた。
「そこにあるものはワシが出会った人達の故郷なんじゃ」
「こきょう?」
白髪髯が一つ頷いた。
「人が帰りたいと思う場所じゃ」
「おうち?」
髯が今度は左右に揺れた。
「もしかしたらそうかもしれん。じゃが、ワシの言っているのは心の中にある場所じゃ」
「ふぅん」
少女は心ここにあらずといった様子でそう曖昧に相槌を打った。
「誰しもがいつかは帰りたいと心に思い描く場所。それが…」
「すごーい、絵ってうごくんだ」
少女の嬉々とした声が辺りに木霊した。




