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老人のもてなし

 ヤカンの蓋がカタコトと音を立てて踊り始めた。水蒸気が不規則なリズムを刻みながら外に飛び出してくる。老人はヤカンの取手を持ち、湯気を従えながら少女の傍へ戻ってきた。椅子の傍らに寝そべっているバッグからステンレス製のポットを取り出し、木箱の上に置いた。老人はポットの蓋を開け、沸騰した飲料水をポットに注ぎ入れた。注ぎ口から吐き出される湯気は確かな暖かさを纏っていた。

 「あの歌は…」

 老人は軽く、だが、どこか引き摺るような咳払いをした。

 「あの歌は…」

 少女は老人の方に注意を払っていなかった。老人は首を傾げて空を見上げた。

 「はて?あれは誰が歌っていたかいの?」

 少女は老人を見上げ、両手を座台の上に預けた。老人はにんまりとして、ヤカンを砂の上に置くと自分の木箱に腰を落ち着けた。元々はパレット置きとなっている木箱にはポットが鈍い光を反射させていた。老人は更にバッグを手にすると、中からインスタントコーヒーの詰まった瓶とマグカップを取り出した。

 「こう、他人と真正面から衝き向き合えない人と巡り合うと一緒になると記憶があやふやになる」

 マグカップを置き、瓶のキャップを取り外すと、封を破り、細かく刻まれたコーヒー豆をカップに注ぎ入れていく。ジャケットの内ポケットから細長い砂糖の包みを幾つか取り出す。老人は砂糖をカップに注ぎ入れ、そこにお湯を注いだ。少女は湯気立つマグカップを覗きこんだ。老人は再びバッグに手を突っ込んだ。

 少女は一連の作業をつぶさに見ていた。瞳には好奇心が宿っていた。バッグの中からコンビニで売ってある小振りの牛乳パックが出てきた。だらしない開封音が聞こえ、牛乳は一縷の白い線をマグカップに落とし、音も無く褐色の飲み物の中に吸い込まれていった。

 老人はどことなく自慢気に微笑み、紙パックに貼り付けてあるストローを空に翳し、それをカップに差してゆっくりと描き回し始めた。

 決してご馳走と言えるものではなかった。だが少女は何かを与えてもらえることだけで胸が一杯になった。少女は微笑を浮かべ、差し出されたミルクコーヒーのカップを両手で受け取った。掌に吸いつく丸みはほんのりと暖かい。マグカップに口を付けた。熱い甘味が口の中に優しく広がる。心持ち吹き付ける風が微熱を纏って細い腕を撫でていった。少女はカップを下ろし、声の混じった吐息をついた。

 老人は何時しか煙草を咥えていた。ついと斜めを向いた顎の辺りに白煙が舞った。

 「落ち着いたか?」

 少女は瞳だけ上に泳がせた後で、軽く頷いて見せた。相手も短く幾度か頷いた。

 二人の後ろ彼方に夕闇がようやく蠢き出した。波は高く、寄せる飛沫は心持ち前へ前へと進んでくる。少女は地に付いていない両足を前後に遊ばせた。

 「おじいちゃんはいつもここに居るの?」

 老人は履いていたサンダルの裏に煙草を擦りつけて火を揉み消した。

 「そうじゃね。大体ここだなぁ」

 「ベッドはどこ?」

 乾いた笑い声が上がった。口元から白煙が飛び去って行った。

 「家はここじゃないんじゃ」

 「どこ?」

 灰色の眉が片方だけ吊り上った。右手が髯に隠れた顎の先を掻いた。老人は後ろに身体を向けつつ、首を傾げた。

 「ずーっと遠くじゃよ」

 老人と同じように後ろを見ていた少女は椅子から身体を乗り出した。老人は膝の上に頬杖をついていた。「はて、あれは住所上、どこになるかいの?」と言うと、肩を竦めてみせた。少女は頬を膨らませた。

 「忘れてばっかり」

 少女は椅子から跳ね起きた。その拍子にカップが小さな両手から滑り落ちた。温いミルクコーヒーが脛を濡らす。老人は前屈みになってうろたえた。「火傷しなかったか?」と、老人は咄嗟に尋ねた。だが、少女は微笑んだまま首を横に振った。

 「洗ってくる」

 少女は言い終わるが早いか、海の方へ駆け出した。老人はバッグから取り出したタオルを手にしたままだった。

 「気をつけるんじゃぞ。波にさらわれるな」

 それを聞かずに少女は引いて行く波へ飛び込む。返し寄せる波が膝を飲んだ。思わず両手を首元の高さまで上げてその小さい体は硬直した。少女は恐る恐る振り返った。老人は軽く溜息をついていた。そうして少女の方に向かって手招きをしてみせる。少女はゆらゆらと動く波間から動けず、その場で震えていた。


 少女は椅子に座り、ある程度まで拭いてもらった両足をぶらぶらと振っていた。老人は裸足のまま、サンダルを前後に大きく振って水を切っている。

 「やれやれ世話のかかる子じゃのぅ」

 少女は縮こまった。

 「ごめんなさい」

 「まぁええ。小さい分、手間はそう掛からん」

 そんな言葉の後ろにまた笑い声がついてきた。

 「年頃の女の子だと、そのままざぶんといってそれっきりじゃ。そうする前にこっちから声を掛けると叱られる」

 お下げ髪の大きな頭が傾いだ。

 「水泳してたの?」

 老人はサンダルを地面に落とした。

 「そう。服着たまま水泳じゃ」

 少女の顔にあからさまな嫌悪感が現れた。

 「里香、水泳キライ」

 しわがれた笑い声が上がった。

 「そうか。まぁそれはそれでええんじゃがのう。大体、ここにくる人達は泳ごうという気がこれっぽっちも無いんじゃ」

 少女の心の中には苛立ちの上に困惑が覆い被さってきた。

 「言ってる意味が分かんない」

 少し曲がった背が大きく後ろに反った。

 「遠くに行って帰って来ないつもりだったんだ」

 少女は不機嫌なまま身じろぎし出した。

 「どういう意味?」

 「まぁ嬢ちゃんには分からんでええんじゃよ」

 「もう分かんない!」

 少女は膨れて腕を組んだ。そっぽを向く少女を前に老人は後頭部を掻いた。

 「分からん方がええんじゃよ」

 「分からない方がいいってなに?」

 「…いや、嬢ちゃんは知らん方がええ」

「里香おうちかえる!」

 老人は腰に手を当てて、頭を振った。せせら笑いが垂れ落ちてきた。

 少女は椅子から飛び降りていた。背中で押しつけていた麦わら帽子を取り、椅子の傍に寝かせてあったフライカイトに手を伸ばす。老人は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

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