浜辺のアトリエ
海風が今日一番強い一息を浜辺に吹きつけた。
帽子のつばが風に撓み、少女の身体は僅かながら横に流された。煌々と光る海が目の前に広がる景色をどんどん占領していく。波間は様々なうねりを描き、それが砂浜の斜めに交錯する窪みと綺麗な正対称を模っている。こんな景色、どんな絵本にも図鑑にも載っていない。思わず辺りを見回した。そうさせられたと言うべきかもしれない。
そこで初めて少女は浜辺の中央付近で老人がフライカイトを鷲掴みにした手を振っているのを見つけた。その足元には乱雑に散らばったものがあった。近づくにつれ、砂浜の上に散らばっているものがトランプカードであることに気がついた。
老人は少女に向かって手招きした。
落日の光景に佇むその姿はスクリーンに切り取られた様に現実離れしていた。初めて向き合う幻想感な情景を前にして心躍る気持ちを無理やり仕舞い込んだまま少女は老人の元へ駆けて行った。
降り注ぐ太陽の熱は砂の中に潜り込むよりも早く潮風に攫われていった。だが、砂粒の隙間から舞いあがる温かい砂粒がサンダルを通して少女の足の裏をくすぐっていく。胸の芯からはしゃぎ声が飛び出してきそうで、少女はいつしか笑いをかみ殺しながら老人の元へと歩いた。その様を見ていた老人は不意に海へと身体を向け、フライカイトを傍らにおいた。袖に潜りこむ風に角張ったその手は夕日に背を向けるキャンバスを立て掛けてある、良く使い込まれたイーゼルの傍に落ち着いた。
少女は帽子を強く抱きしめると、老人がイーゼルからキャンバスの縁を優しく撫でていく様を眺めた。
見開いた目に潮風は冷たく当たった。だが、少女はこの一瞬、目を閉じる術を忘れてしまっていた。
そのキャンバスには夜に飲み込まれる前の凪の世界が小さく切り離されていた。そのキャンバスに納められた風景は老人の手によって脇に置かれた。自然に感嘆がその小さな口を衝いた。
「本当に夜みたい」
老人は押し黙っていたが、やがて満足そうな笑顔を浮かべた。
そして、老いた身体はキャンバスの傍にあった木箱に手を掛けた。その木箱の隣には同じ物が置いてあり、その上にはパレットや脂絵の具などが散乱していた。
水平線に沿って広がる浜辺にあるものといえば、絵を描くための道具以外ほとんど何もなかった。キャンバスが数枚、それを持ち運びするためのバッグからはみ出している。そのバッグは砂を被っていて、その傍には重ねる年月に痛んだ木箱が二つ置いてあった。後は長い間使い込んでいると思われるキャンピングチェアが一脚あるだけだ。そしてその傍らにはもう一つ私物を詰め込んでいると思われるキャンピングバッグが寝そべっていた。
それでも少女は目を輝かせた。用途も分からない、初めてお目に掛かる物がそこにあるのだ。
瞳を輝かせている少女を前に、老人はキャンピングチェアの隣に鎮座する木箱の上に座を取り、キャンピングチェアの肘掛を軽く叩いて見せた。座れということらしい。
少女は麦わら帽子を胸に押さえつけながら椅子に腰を下ろした。顔にかかる髪をもう一度ゆっくりと耳の後ろに撫で付けながら海を見つめる。これから干潮を迎えようとしている海原の波は高く、宝石のような輝きがそれぞれ集まっては離れるといった動作を繰り返し、ある一定のリズムを取りつつ波間に煌きを湛えていた。少女は長い息をついた。
隣で老人がバッグの中に手を突っ込んで何かを探す音が聞こえた。
少女が顔を向けた先には、何かを両手に抱えたまま幅のある体躯を起こした後姿があった。円らな瞳に自分ではその定義さえ分からない哀愁が色を帯びて日の光を反射させた。
やがて老人はさっきと同じようにどこか危なっかしい足取りでその場から離れていった。
少女は前屈みになって老人の行く先を凝視した。スカートが肌から離れ、日が傾くと共に若干冷たくなった潮風が脚の付け根まで忍び寄ってきた。立ちあがったらこの寒気を押さえつけられるかもしれなかった。
その間、老人は近くに投げ出されていた、所々破れかけているビニル袋に手を突っ込んだ。その節くれだった右手には薪が見えた。老人の背中が右に傾き、その先には赤錆がこびり付いている一斗缶が見えた。老人は炎が見え隠れする一斗缶の内側を薪の先で突ついてからそれを中に放り入れた。
海は淡い赤色に染まった波の放物線を幾重にも重ね、延々と広がっていた。西に大きく傾き始めた太陽は橙色に染められた砂浜に細長い影を幾つか作った。
一斗缶に放った薪に火が移るのを確認すると、老人は黒ずんだ網をその上に被せた。新しい薪に燃え移った火の先がちらちらと見え始めた。腰に両手を添え、真正面から向き合う格好で万物の母に例えられる広大な海を見つめる老人に、少女は切っ先の欠けた不安を覚えた。腹が出っ張っているその大きな影は無造作に後ろ髪を引っ張り、掻きむしると、両手をだらりと下げた。そうして老人は木箱と椅子が置いてある方へ戻ってきた。
ふと、誰かが語りかけているような気がした。
少女は辺りを見回した。まただ。しわがれた声だった。だが、何と言ったのかは聞き取れなかった。少女は立ち上がった。それにつられたのか、老人の足が止まった。右手を口元に添えて、老人の口がまた動いた。
「ペットボトル、そこにあるから取ってくれんか?」
少女は手を落ち着き無く遊ばせながら辺りを見回した。あの声は一体何だったのだろう?
「バッグの中だよ。キャンピングバッグの方だ」
しわがれた声がもう一度老人の口から発せられた。少女は老人が先ほど手を突っ込んでいたバッグに目を留めた。少女は身体を起こすとバッグの方に回り込んだ。恐る恐るバッグに手を入れてみると、汗をかいたプラスチックの容器が掌に触れた。少女はペットボトルを取り出して上半身を起した。再び歩き出した老人の姿が見えた。老人はしぶく波際を静かに見つめていた。
天然水と銘打たれたペットボトルを抱え上げると、その重さで身体が後ろに傾いだ。そして、少女はそのまま尻餅をついた。小さな身体を包み込む大きな影が掛かり、老人はパレットの傍に置いてあったポットを手にすると、擦れた笑い声を立てた。
「すまんなぁ、重かったろう?」
起き上がろうとして腕に力を込めると、プラスチックの容器が音を立てて凹んだ。思わず力を緩めると、ペットボトルは少女の腹部を滑り落ちて砂にその底を埋めた。目の前に迫る大きな影はペットボトルをポットと一緒に持ち、もう片方の手を少女の手首に持っていき、顔を顰めながら身体を起こした。老人は苦笑しつつ腰に手を添えた。
「やれやれ、ワシも耄碌したもんじゃ」
そう言って、老人はペットボトルを持ち替えた。
海を見据えて、二つの影は風が吹き止まない海辺に向かって腰を下ろした。少女はキャンピングチェアに、そして老人は砂浜に下半身を預けていた。放射状に降り注ぐ光は二人とその周りに漂う時間までも優しく包み込んでいた。少女は太陽の通り道に浮かぶ雲の回廊を見上げた。老人は伸ばし放題の髯を撫でながら、海のどこかをあても無く眺めている。
「ここは地元の人も滅多に来ないんじゃよ」
聞き取れない驚きの声が小さい口から漏れた。
「ここに来る人はいっつも一人ぼっちだ。一度会って別れて、それから二度とお目にかかることはない」
アーミージャケットのポケットに手を添える老人の横顔が景色に映える。
「小さい女の子がこのアトリエに来るのは初めてだ」
そう言った後、しわがれた笑い声が聞こえた。少女は上半身を前に傾けながら相手の顔を下から覗きこんだ。
「あとりえ?」
両足に手を預けて、老人は立ち上がった。
「おじいちゃんがお絵描きする所だよ」
「ここが?」
老人は歩きながら人差し指を突き出すと、丘陵一帯を指した。
「ここら辺り全部」
少女は椅子の背凭れに手を回すと、後ろに広がる景色を見渡した。老人はポケットに手を入れたままの姿で猛る炎の姿を隠す一斗缶に向かって歩いていく。ふと擦れた歌声が少女の耳を擽る。思わず海の方を見る。だが、そこには波飛沫が飛び交っているだけだ。少女は老人の後姿を再び見やった。
老人は傍に置いたペットボトルを持ち、金網の上に置いた銀色のヤカンへ飲料水を注いでいた。心持ち低いハミングと共に、その巨躯は水が熱される様を眺めている。歌詞という顔を損なっている歌声は絶え間無くその場に漂い続けた。やがて、その歌声は波模様を描く砂地を這い、細く小さな足首に絡み付いていった。
小さな身体は椅子の幅に納まるほど互いを抱き締めた。視線は焦点が定まらないまま膝の上をさ迷っていた。距離をいた二つの影は何時しか海原を見つめていた。言葉も無く、歌も終わり、景色は最後の一塗りを終えた絵のように押し黙った。