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先客

 あの時の興奮に不安が混ざり、輝きが無くなってしまったのは何時からだったろうか?眉毛は「ハ」の字に歪み、眼窩には違った光が今や溢れ出さんばかりだった。

 辺りは赤く染まった空気が立ち込めようとしていた。少女はこの先どこで途切れるか分からない畦道の彼方を眺めた。溜息が口から這い出てきた。こうやって一人でいなくなってしまえばきっと父も母も慌てて自分のことを探しに来てくれるだろう。そんな期待が胸の内を占めていた。だが、少女を包むものはただの孤独であった。

 遠くには海へ突き出ている桟橋を支えるコンクリート壁とテトラポッドの先端が見えた。道がどこで途切れているのか分からないが、それから先へ進む勇気などとうに無くなっていた。

 ふっくらとしたつま先は進行方向から垂直に向きを変えた。そして、小さく一歩前に踏み出す。

丈の高い雑草が親指の付け根を擽った。

 身に纏う物を靡かせる海風を受け、少女はなだらかな丘陵の頂点に立った。海は黄金色に輝き、日が落ちていく延長線上には輪郭線が白んでいた。

 少女は草地を真っ直ぐに誰も居ない浜辺へと歩いた。だが、草地から砂地への境目には思わぬ段差があった。

 大きな窪み。

 それに気付いた時には景色が縦に流線を殴りつけていた。両足が宙をもがいた。膝頭に痛みが走り、打ち付けた胸の辺りで息が断ち切られ、顎と唇に強い衝撃が走った。頭から落ちた麦わら帽子が目の前で風に煽られ、裏返しになった。

 海の方から吹き付ける風はその息吹を潜めようとしていた。

 だが、その小さい身体には風が爪を立てるように吹きつけていた。改札口付近で身体をぶつけても謝りすらしない大人と一緒だ。余所見している隙に迷惑だといわんばかりにぶつかり、そして自分に背中を向ける他人。流れを変える風は都会の雑多に紛れ込んだ人の冷たさを彷彿させた。

 両目の端を涙が伝う。

 少女は顔をくしゃくしゃにして泣いた。身体を起こそうともせず、ただしゃくりあげた。握り締めた両の拳が砂の波を引き裂いた。涙でぼやけている景色に影が差さなければ少女はいつまでもその場から動かなかっただろう。そして少女は周りで起きている出来事にも関心を示していなかった。何が迫っているのかさえ少女は気にも留めていなかった。

 

 縦に走る黒い影は何の前触れも無く現れた。


 ズボンの裾が大きくはためき、毛で覆われた足首が一瞬見えた時、涙がほんの少し引いた。現状を理解しようとする少女の頭上に、しわがれて破所的に大きくなる声が降ってきた。

 「嬢ちゃん、お願いだからそう泣かんでくれんか?」

 穏やかと言うべきだったかもしれない。が、それは少女にとって困っているのか悲しんでいるのか区別のつかない声色だった。

 少女は顔を上げた。涙の筋が仄かに光る頬から表情は消え、その瞳は空虚をさまよっていた。夕日を背に顔の見えない大きな影はぎこちなく足を折った。少女はそれが自分を傷つけるものなのか、助けを差し伸べてくれるものなのか、全く分からないといった困惑の眼差しをその影に掲げた。

 向き合う大きな身体は後ろへ傾ぎ、その場に胡座を組んだ。両手がそれぞれ膝の上に預けられ、両肩が緩い曲線を描いた。赤い景色に馴染まない黒ずんだ緑色の上着には皺が寄り、その上にほつれた長い髪が風に揺れていた。銀色に輝く筋が幾つも宙に舞っていた。


 男。それも少女が見たことの無い大男だった。

 その男が長い髪を風に任せたまま目の前に座っている。見ず知らずの他人が近くに居ることの恐怖より、そちらの方に興味が走った。

 少女はぎこちなく身体を起こした。

 目の前に構える顔の口元が下向きに弓を引き、前髪に見え隠れする瞼の下がり具合が一層顕著に表れた。皺の多い目元だった。前髪に隠れて片方の目しか見えない。それでももう片方の眼差しに悪意が全く見えないことを少女は直感的に悟った。

 「近くの子かい?」

 少女は慌てて首を振った。

 老人は二度うなずいて、上半身を捩らせると傍らに落ちていた麦わら帽子に手を伸ばした。少女はきょとんとした目で老人が息を吹き掛け、優しい手つきで砂を払い落とす様を見つめた。そうして帽子は持ち主へと返された。

 「はぐれたのか?」

 少女は力を込めて首を横に振った。老人は灰色の長髪を掻き上げ、耳の上あたりを掻いた。黄色に染まった前歯が初めて顔を出した。

 「そうかい。それじゃあ、おじいちゃんが何かご馳走してあげよう」

 少女は不安を顔に浮かべながらも俯いた。老人は軽く少女の頭を撫で回すと腰を上げた。「どっこらしょ」と、母親が立ち上がる時に何時も言う台詞と共に老人は身体を起こした。背面についた砂を払いながら老人は背伸びを一つすると、ポケットに両手を突っ込んで少女を肩越しに顧みた。

 「ついといで」

 そう言って老人は歩き出した。

 少女はどうしていいか分からず、帽子を胸に抱いたまま前を行く大きな背中を見つめていた。老人はほんの少し先に落ちていた洋式の凧を拾い上げて何事も無かったかのように歩き出した。背中は丸く曲がり、足取りは砂に取られているのかどこかおぼつかない。だが、そんな足取りでも老人は少女を一気に置き去りにしていく。少女は慌てて走り出した。

 砂に足を取られ幾度かよろめき、急に遠くへ行ってしまいそうな老人の背中をひたすら追った。少し長めの前髪が視界をゆらゆらと遮る。少女は帽子を片手で押さえつけながら視界を邪魔する前髪をこめかみに撫でつけ、そして走った。

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