二年ぶりの海
海へのドライブは二年ぶりだった。
一年前、父親と約束していた海水浴は予定を大幅に早めて生まれてきた妹のために延期となった。
償いとして買ってもらったフライカイトも結局、夏に間に合うことなく物置で一年近く埃をかぶる羽目になってしまった。一日千秋の思い。それが過ぎ去っていく夏を見送りながらただ待ち焦がれることで過ごした少女の心境であっただろう。
砂のベールが被さっている駐車場に足を下ろした時、少女の興奮は最高潮に達していた。砂に足を取られながら浜辺を走り、のろのろ歩く父親を急かす。糸の結わえを確かめながら手順を教える父親の声を一言も聞き漏らすまいと真摯な目を向ける少女。じれったくて足の先が動きの悪いワイパーのように砂をなぞった。
父親が遠くの海際でピンク色のフライカイトを掲げる。
手に伝わる軽い緊張に心地よさを覚えながら少女は二つの握り手を強く引いた。米軍偵察機ステルスをパステルピンクに塗りたくったように見えるフライカイトは空中を右に左に泳いでいった。そしてカイトは「8」の字を描いて地面に墜落した。
少女は軽く声を上げていた。
だが、父親は少女の斜め後ろ遥か遠くにビニルシートを広げた母親と小さい妹の方に向かい、背中を向けたまま振り返りすらしなかった。
少女は父親の後姿を顧みた。波線模様の砂浜に半身を突っ込んだフライカイトの傍に辿り着くまで何度も何度も…。しかし、その小さな手がピンク色のカイトを拾い上げた時、背の高い父親はイチゴのロゴがプリントされた水着に身を包まれた妹を抱きかかえていた。
カイトと共に抱かかえた麦わら帽子に蛍光色の凧糸が垂れかかっていた。
どこで分かれたのだろうか?平らに均された道路はいつしか突起の多い畦道に変わり果てていた。海から吹く風は、今はその勢いを弱めていた。歩く速度にこれまでの勢いは無く、少女の顔は沈んだままだった。スカートの裾の下から交互に見え隠れする脛から下は一層赤く染まっていた。
足首の辺りがひりひりし出した。鈍い痛みが所々に足首へ長く巻きついている。少女は漸く足を止めた。元来た道を振り返ってみる。舗装すらされていない歩道は黄昏色に塗り潰され、長く伸びていた。見下ろす海は夕日に溶けるように紅かった。
少女はもう一度、まだ見ぬ行き先へ視線を投げた。身体だけが海と向き合い、その細い首だけが何度もうねり曲がる道の先を向いた。
再びフライカイトを抱え直す。その動作が忘れてしまいたい昼の情景を引き摺り出してきた。
母親に肩を抱かれ、ビニルシートの中央に鎮座する弁当箱の前に座ったのは昼を大きく過ぎてからだった。父親と妹の姿は無く、バッグのストラップに片隅を止められているビニル袋から使い終わった割り箸が覗いていた。プラスチック製の弁当箱に敷き詰められたおかずやおにぎりは体温を奪って行くぐらい色褪せて見えた。少女は両膝を抱え、海を見つめた。遠くにぽっかりと頭を出した人影がまばらに見え隠れしていた。
隣で水筒から飲み物を注ぐ音が聞こえた。母親の着ているトレーナーの袖が視界の端に飛びこんできた。
「それじゃ、お弁当食べようね」
弾んだ声が聞こえた。
少女は所々隙間がぽっかり空いたおかず詰めの弁当箱を一瞥した。冷え固まったウインナーの切れ込みを入れた部分が脂を失ったせいか歪に歪んでいた。母親が隣で割り箸を割った。その小さな破裂音が聞こえると同時に紙製の皿に盛られた御握りとおかずが少女の膝元に差し出された。
「どうしたの?お腹空いてない?」
首を傾げる母親の後ろ髪が風に泳いでいた。少女は母親の顔を見ずに足を崩した。母親は今、怒った顔をしているのか困った顔をしているのかどちらかなのだろう。ただ、そんなことは今の少女にとってどうでもいいことだった。
少女が紙皿を受け取ると同時に母親は別のバッグに手を伸ばした。誰とも視線が合わない浜辺。少女は回りの人との距離が急に遠くなっていくように感じた。寂しさに頭を押さえつけられたかの如く少女は俯いた。手にした皿の上には鮮やかさの欠けた卵焼き、黒ずんだ海苔に包まれたおにぎりと脂が白く浮き出ている豚の生姜焼き二切れが乗っかっていた。
生姜焼きはあまり好きではなかった。
海際は耳鳴りがする風を受けて一層飛沫を上げていた。少女は下唇を噛み、紙皿を腿の上に置いた。そんな少女の頭上を母親の尖った声が飛び越していった。見上げた母の姿は既に太陽を背に黒く沈んでいた。母の影は少女の肩に手を置き、「ちょっと待っててね」と、言い残すと、海の方へ駈けて行った。タオルを片手に砂の境界線を浮き沈みするその後姿は焦りが滲み出ていた。やがて母親は駈け出した。
急に少女は自分がここで何をしているのか分からなくなった。
その小さな手は紙皿を置き、傍らに置いていた麦わら帽子を掴んだ。その身に風をうねらせているカイトが視界に飛び込んできた。少女の唇は真一文字に引き締められた。意を決したと言わんばかりに。帽子を受け皿にカイトを抱きかかえると、少女は立ち上がった。履物に足を突っ込み、小学校に上がったばかりの子供は丘陵の方へと走った。草地へ後もう少しというところで前につんのめりそうになった。サンダルが片方砂の窪みに裏を向けて転がっている。
少女が慌ててサンダルを履き直そうとした時、海際で顔を上げた人影と視線が合った。
豆粒ほどの大きさしかない母親と、この距離から目が合ったかどうかなど分かるはずも無いのに、少女は母親が凝視していると確信した。
動けなかった。
だが、少女が見つめる先に居る母親はふっと視線を逸らした。何かを抱え上げようとするその姿が砂の向こうに沈む。少女は正面を向き、草地を登りきった。そして、その円らな瞳は二度と後ろを見ようとはしなかった。遠くに見える山は青く、幾重にも重なる雲はその輪郭線さえ数え切れるほど鮮やかだった。
少女は走った。
鬼ごっこの鬼になった子が十数える間に逃げる時の緊迫感にも似ていた。浜辺から遠ざかるほど、少女の瞳は輝きを増していった。