箱
「いい? ここに入っておきなさい」
目の前には真っ暗な部屋。
そこはどれほどの大きさで、中に何があるのかも見通せないほどの暗黒が広がっていた。
そんなところに母から押し込まれそうになって、私は地面を踏みしめて必死に抵抗する。
「ここに!? やだよ! 真っ暗で怖いよ!」
「いいから入るの」
「何で!? どうしてこんなとこに入らないといけないの!?」
「いいから、急いで! 時間がないのよ……っ!」
母にグイグイと容赦ない力で押されて、抵抗虚しく部屋の中へと入れられる。
少しだけひんやりとしたそこは、暗闇なのも相まって外界とは隔絶されているような空間だった。
「いい? 自分から出てきてはダメよ。あと、誰が来ても絶対に開けちゃダメ。私がお迎えに来るから。お母さんがちゃんと貴女を迎えに行くから、それまで中で待っていてね。約束よ」
「いつまで待っていればいいの?」
「終わるまで。必ず終わりが来るから。それまで待っていてね」
「終わりって何? どういうこと? ねぇ、お母さん、待って!」
母に縋りつこうとするも、身体を強く押されて尻餅をつく。
私が必死で「やだやだ! 待って! 行かないで!」と叫ぶも、無情にもそのまま目の前で閉まる扉。
辺りは一瞬で暗闇と静寂に包まれる。
ただ自分の大きな心臓の音が煩いくらいに聞こえるだけ。
「暗いよ。怖いよ」
何も見えない。暗い。寒い。怖い。
今まで味わったことのない恐怖に怯える。
何も見えず、何も聞こえず、自分が今どこにいて外はどんな状態かもわからない異様な状況に脚が震えてくる。
何もかもわからない恐怖が身体にまとわりついて、ゾクゾクッと寒気が背筋を駆け上がった。
「やだ……やだ……早く迎えに来てよ……お母さん、怖いよ……早くここから出して……」
虚空へと消えていく自分の声。
この声が誰にも届いていないというのはわかる。
それでも声に出さないと恐怖で頭がおかしくなりそうだった。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
ジッと目を凝らしているはずなのに、一向に薄らとすら見える気配のない暗闇。
手を伸ばしても何かに触れる気配すらなく、どれほどの暗闇がそこに広がっているのかわからないこの状況。
迎えが来るまで出てはいけない。
それがいつまでなのか、どれほど待てばいいのか。
何もかもわからないまま、真っ暗な場所においてけぼり。
私は一歩も動けず、ただそこにしゃがみこむしかできなかった。
さわ……さわ……
「……っ! 誰!?」
何かが髪に触れた感覚。
私は身体を大きくビクリと震わせると、叫ぶように声を荒げる。
「誰かそこにいるの!?」
声が震える。何もわからない。とにかく怖い。
今にも泣きそうになりながら、私は身体を強張らせて精一杯の威勢を張る。
そうでもしないと恐怖で我を忘れそうだった。
それほどまでに何も見えない暗闇は怖かった。
ぐんっ
「何!? やだ……っ!」
不意に強い力で腕を引っ張られる。
それに抵抗するように脚に力を入れて踏み止まる。
「っ! やめてよ! 誰かいるの!? いやっ」
今度は背後から強く背を押される。
それを必死になって身体を振って拒絶した。
「やめてよ! 何なの!? 私が何をしたって言うのよっ。……もう、やだよ。怖いよ。お願いだから早くここから出して……お母さん……」
ギュッと縮こまるように、その場に蹲る。
できるだけ小さくなって、身を守るように自分で自分の身体を掻き抱いた。
『ねぇ、出ちゃいなよ』
「!?」
先程まで聞こえなかった声が聞こえてくる。
それも近くから。耳元で囁くように言われて、私は慌てて手で耳を塞いだ。
『怖いんでしょう?』
『こんな暗いところ怖いもんねー』
『出ちゃいなよ』
「やめて! 話しかけてこないで!」
耳を覆っているはずなのにダイレクトに聞こえてくる声。
その声はいくつもいくつも聞こえてきて、私に向かって話しかけてくる。
『ほら、怖いんでしょう?』
『今なら出られるよ』
『こんなとこ、出ちゃったほうがいいよ』
『出なよ』
『早く』
『さぁ!』
『今だよ!』
『出ろよ!』
「いや……っ!」
追い立てられるように声が迫ってきて、それを打ち消そうと大きな声で拒絶する。
(ダメ。ダメ。ダメ。ダメ。出ちゃダメだってお母さんが言ってたから。出たら絶対にダメ)
何かわからないものが私を追い立てるように外に出そうとする。
どうして私を外に出そうとするのか、どうしてここから出ちゃいけないかもわからない。
でも、なぜか母の言うことを守らないといけない気がして私は頑なに自分から出ようとはしなかった。
(早く来て。早く迎えに来てよ、お母さん)
祈るように母が来るのを待つ。
来るか来ないか、いつ来るのかどれくらい待てばいいのか、それすらもわからないのに私は必死に母が早く迎えに来ることを願った。
____ドンドンドンドンドンドン!
強く叩きつけるように外から扉をノックをされて、私はびっくりして身体が跳ねる。
「誰? お母さん……?」
声をかけるも反応はない。
「お母さん? もうここから出てもいいの……?」
私は立ち上がって外に出ようと前に出る。
そして、扉を開けようと手を伸ばしたときだった。
____ いい? 自分から出てきてはダメよ。あと、誰が来ても絶対に開けちゃダメ。私がお迎えに来るから。お母さんがちゃんと貴女を迎えに行くから、それまで中で待っていてね。約束よ。
先程、母が言った言葉が蘇ってくる。
自分から出てきてはダメ。誰が来ても開けちゃダメ。お母さんがちゃんと迎えに来る。
この三つを思い出し、私は開けようと伸ばした手を引っ込めた。
『もう大丈夫だから出てきなさい』
私が出てこないことを察してか、外から声をかけられる。
けれど、私は頑なに出ようとはしなかった。
すると、声はだんだんと焦りと憤りを感じ始めたのか、先程と同じくらい強い力で扉をドンドンと叩き始めた。
『出てきなさい!』
『早く!』
『今すぐ出てこい!』
(違う。この声、お母さんじゃない……!)
私にここから出てこいと言ってくる声は、私を急かすだけでドアを開けてくる気配はない。
(私が開けなければ入って来られない……?)
理屈はよくわからない。
でも、どうにかして私をここから出そうとする何かがいることだけはわかった。
『ほら、呼んでるよ?』
『出たほうがいいよ』
『みんなが待ってるよ』
外と中。
どちらからもたくさんの声が聞こえてくる。
脅すように、寄り添うように、手を替え品を替え私を唆そうとしてくる。
私の思考を奪おうとしているのか、畳み掛けるようにいくつもの声が私にここから出ろ、扉を開けろとけしかけてきた。
(ダメだ。ダメだ。ダメだ。絶対に出ちゃダメだ)
蹲って耐える。
絶対に奴らの言うことなんて聞かないぞと私はギュッと目を閉じた。
『本当にいいの?』
『出ないことを後悔しない?』
『キミはそれで幸せ?』
『キミのお母さんはキミを迎えに来ないかもしれないのに』
「煩い。煩い。煩い」
聞きたくなくて耳を塞ぐ。
それでもそんなの関係ないとでも言うように、私の耳元で何かが囁いてくる。
『ほら、自分でも不安なんでしょう?』
『もしかしたらキミをここに閉じ込めたのもキミを捨てるための口実かもしれないよ?』
「そ、そんなことない!」
『なら、何でお母さんはまだ来ないの?』
『理由を言わずにどこかへ行ってしまったの?』
「それ、は……」
『普通なら、こんな部屋に突然入れられるなんておかしいと思わない?』
『キミのお母さんはもう迎えになんて来ないよ』
『それにキミ、本当はお母さんのこと嫌いなんでしょう?』
『いつもケンカばかりして、自分のことわかってくれてないっていつも不満を持ってるじゃない』
『もし……万が一、お母さんが迎えに来たとしても、そんなお母さんと一緒にいてキミはいいのかい?』
「…………」
思考が、感情が、ぐらぐらと揺れる。
確かに、お母さんとものすごい仲良しかと言われたらそうじゃない。最近は、しょっちゅう喧嘩をしてる。
今やろうとしてたことをやってないとせっつかれたり、買ってほしいものも買ってくれなかったり。
あれしろこれしろ勉強しろ。もっと手伝え、片付けをしろ。
いつもいつも私のことばっかり怒って、意地悪してくる。
うんざりだった。
何度も何度も同じことを言われて、腹が立ってむしゃくしゃして、大声で怒鳴り返すこともしばしばあった。
『だろう? やっぱりキミは愛されてないんだよ』
『捨てられたんだよ』
『だから、ほら。お母さんなんて待たないで出ちゃいなよ』
『ここから出ようよ』
『お母さんなんていらないだろう?』
(ここから出る……お母さんなんて、いらない……)
扉を開けることは簡単だ。
ただ扉についているノブを捻るだけ。難しいことは何もない。
『さぁ』
『毒親から解放されよう』
『自由になるんだ』
「自由に……毒親から自由に……」
だんだんと熱に浮かされるように、ふらふらと立ち上がる。
(お母さんは私を嫌いだからこんな暗い部屋に閉じ込めたんだ。お母さんにとって私はいらない子だから捨てられたんだ。だったら、私がお母さんを捨てる)
意を決してドアノブを握りしめる。
これを捻ったら扉は開く。
邪魔するものは何もない。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
呼吸が荒くなる。
胸がドキドキする。
やってはいけないことをしているような背徳感が込み上げてくる。
(ここを捻りさえすれば)
『いいよ。その調子』
『開けろ』
『開けろ』
『開けろ』
ギュッと目を閉じて勢いよくドアノブを捻ろうとした瞬間に浮かぶ母の顔。
「やっぱりダメ!」
嫌いなときもある。腹が立つときだってある。
けど、お母さんのことを信じたい。お母さんは絶対に迎えに来てくれるはずだ。
(言われた通りちゃんと待とう)
そう思ってドアノブから手を離そうとした次の瞬間、グッと何かから押さえつけられるようにドアノブに手が固定される。
「や……何……!? やめて……っ」
必死に手を離して引っ込めようとするも、何者かが私の手首を握ってドアノブを離さないように押さえつけてきた。
『早く開けろ』
『今すぐ開けろ』
『外に出ろ』
『早く出せ』
『出せ』
『出せ』
『出せ』
『ここから出せ』
暗がりで何も見えないのに、感触だけでいくつもいくつも手が伸びてくるのがわかる。
怖い。怖い。怖い。
ここから出たいとは思うのに、ここにいる奴らを出したら絶対にダメだと私は必死に抵抗した。
「やめて! 離して!」
『ダメだ』
『ここから出せ』
『出せ』
『出せ』
『出せ』
数の多さに押し負けそうになるのを必死に抵抗する。
けれど、だんだんと押し負けてドアノブがゆっくりと回転していく。
『いいぞ』
『これで出られる』
『あともう少しだ』
「いやぁぁぁぁ!!」
半狂乱になって自分の手を必死に押さえ込む。
けれど、自分ではどうしようもできないほどの力に動かされる。
『よし』
『これで』
『やっと』
あぁ、とうとう開いてしまう。開けたくないのに開けちゃう! と思ったときだった。
思いきり身体が扉に引っ張られる。
それと同時に差し込む光と温かな体温に包まれた。
「お待たせ。ごめんなさい、貴女をずっとこんなところに置き去りにして」
「お母さん……!」
力強く抱きしめられて、それに応えるように抱きしめ返す。
先程まで感じていたはずの恐怖はどこかへと消え、私の心は安堵感でいっぱいだった。
「さぁ、帰りましょう」
「もういいの?」
「えぇ。もう大丈夫」
外に出るとそこには何もない。
ただの殺風景な景色が広がっていた。
(あれ……? 来たときこんなとこだったっけ……?)
不安になって振り返ると、そこには自分一人しか入れなさそうな掃除ロッカーみたいな箱がポツンとあるのみ。
そして自分の腕を見下ろせば、そこには赤い手の形をした痕が無数に広がっていた。
「ひっ!」
「ほら、何してるの? 行くわよ」
「う、うん」
私は違和感を感じつつも、気にしないフリをして母のあとについて行くのだった。
終




