第5話 「国境は、誰のものか」
鐘の音が、城壁を震わせていた。
北部国境――ヴァルフォード領。
私の家。
私が守ってきた線。
「未確認部隊の規模は?」
私は走りながら兵に問う。
「およそ三百! 旗印なし、紋章なし!」
紋章なし。
それは国家軍ではない。
だが三百という数は、偶発的な盗賊ではあり得ない。
レオンハルトが隣で低く言う。
「試しだな」
「何を試すの?」
「王都の対応速度。境界局の動き。そして――」
彼は私を見る。
「君の判断」
北部監視塔の作戦室。
地図が広げられ、将校たちが怒号を飛ばしている。
「迎撃を!」
「いや、城壁内に引き込め!」
混乱。
焦燥。
私は地図に歩み寄る。
「最後の目撃地点は?」
「旧交易路沿い!」
旧交易路。
……今は使われていないはずの道。
私は息を吸う。
「兵を出さないで」
将校が振り返る。
「監査官殿!? しかし――」
「紋章がない。つまり“責任主体が不明”」
私は指で地図をなぞる。
「ここで王都軍が先に攻撃すれば、“我が国が先制した”と記録される可能性がある」
ざわめき。
レオンハルトが補足する。
「国境法第十二条。識別なき武装集団への即時全面攻撃は、越境戦争と見なされ得る」
将校が顔をしかめる。
「だが侵入されれば!」
「侵入はさせない」
私は断言する。
「税関線を閉鎖。交易門を封鎖。関税倉庫を盾に布陣」
「盾?」
「彼らの目的が略奪であれば、物資に向かう。政治的示威なら、旗を掲げる」
私はレオンハルトを見る。
「どちらに転んでも、こちらが“撃たない”限り戦争にはならない」
彼はわずかに頷く。
「合理的だ」
伝令が駆け込む。
「敵、停止! 旧交易路手前で陣形を取っています!」
やはり。
私は地図を見る。
「距離は?」
「弓の射程外!」
つまり、威嚇。
レオンハルトが低く言う。
「時間を稼いでいる」
「誰のために?」
彼は答えない。
だが私には、嫌な予感があった。
王太子は軍備を急いでいた。
持参金を流用してまで。
もし――
「……内部の誰かが、衝突を望んでいる?」
私の呟きに、レオンハルトの目が鋭くなる。
「可能性は高い」
私は決断する。
「白旗を出す」
作戦室が凍りつく。
「正気ですか!?」
「ええ」
私は机に手を置く。
「監査官として、交渉権を行使します」
「相手が応じる保証は!」
「保証はない。でも」
私は静かに言う。
「応じなければ、“彼らが侵略者”と確定する」
法は、盾になる。
私は外套を翻す。
「私が行く」
「私も同行する」
即座にレオンハルト。
私は睨む。
「帝国側の人間が前に出れば誤解を招く」
「だから後ろに立つ」
迷いがない。
私は一瞬、視線を逸らし――小さく頷いた。
城門が開く。
冷たい風。
遠くに、黒い影の集団。
紋章なし。
だが統制は取れている。
私は白布を掲げ、ゆっくり進む。
心臓が速い。
怖い。
けれど足は止まらない。
後ろにレオンハルトの気配。
それだけで、不思議と呼吸が整う。
敵陣の前、十歩の距離で止まる。
前列の男が一歩出た。
顔は隠されている。
「何用だ」
低い声。
私は名乗る。
「王国国境監査官、リュシア・ヴァルフォード」
一瞬、ざわめき。
「監査官だと?」
「はい。あなた方はどの国の所属ですか」
沈黙。
答えない。
私は続ける。
「所属を明かさない武装集団の越境接近は、国際法違反です。即時撤退を求めます」
男が鼻で笑う。
「応じなければ?」
私は一歩も引かずに言う。
「その瞬間、あなた方は“侵略者”として記録されます」
記録。
その言葉に、男の眉が動く。
「記録だと?」
「ええ。交易停止、資産凍結、通商制裁。あなた方の背後にいる勢力も含めて」
静寂。
彼らは傭兵だ。
背後に資金源がある。
資金が止まれば、動けない。
私はさらに畳みかける。
「目的は何ですか。挑発? 示威? それとも王都の反応確認?」
男の目が、わずかに揺れる。
図星。
レオンハルトが背後で低く言う。
「撤退したほうが賢明だ」
男がそちらを見る。
帝国の発音。
気づいた。
「……帝国が絡んでいるのか?」
私は即座に言う。
「関係ありません。ここは王国領」
事実。
しかし同時に。
帝国が“絡んでいない”保証もない。
緊張が走る。
風が強くなる。
そして。
男は舌打ちした。
「……退くぞ」
ざわめき。
「だが覚えておけ。線は、いずれ消える」
彼らはゆっくりと後退を始めた。
統制された撤退。
訓練された部隊。
ただの山賊ではない。
城門が閉まる。
私はその場に立ち尽くす。
膝が、少し震えている。
「……勝った?」
「いや」
レオンハルトは静かに言う。
「様子見だ」
私は彼を見る。
「あなたの国ではないの?」
彼は目を逸らさない。
「少なくとも、境界局の指示ではない」
その言葉は、重い。
つまり。
帝国内部にも、複数の意志がある。
「線を消したい者がいる」
彼は続ける。
「王国側にも、帝国側にも」
私は城壁に手を置く。
冷たい石。
この線を守るのが、私の仕事。
だが。
「……線は守るもの?」
思わず口に出る。
レオンハルトが隣に立つ。
「どういう意味だ」
「線があるから争いが起きる。でも線がなければ、秩序もない」
彼は少し考え、答えた。
「線は壁ではない。約束だ」
私は彼を見る。
「約束?」
「ここから先は侵さないと決めた証だ」
胸の奥が、静かに響く。
約束。
契約。
紙で結ぶもの。
私は小さく笑う。
「なら、守りましょう。約束を」
彼も、ほんのわずかに笑った。
「共同でな」
だがその夜。
王城に戻った私たちを待っていたのは、別の報せだった。
「聖女セレス様が失踪しました!」
私は凍りつく。
「失踪?」
「部屋が荒らされ、護衛が昏倒!」
レオンハルトの目が鋭くなる。
「……攫われたか」
私は嫌な予感を抱く。
奇跡を使う聖女。
戦争を急ぐ勢力。
線を消したい者。
全てが繋がる。
私は静かに言った。
「――彼女は“駒”だった」
レオンハルトが頷く。
「そして盤は、まだ動いている」
鐘が再び鳴る。
今度は、戦の鐘ではない。
陰謀の鐘だ。
私は拳を握る。
涙は出ない。
ただ、決意だけがある。
紙で守る。
線も。
約束も。
そして――
真実も。




