第4話 「神託と写本」
光は、確かに帳簿を舐めていた。
淡く、しかし確実に。
インクが滲み、数字がほどけ、承認印の輪郭が霞んでいく。
玉座の間に、歓声と畏怖が混ざったざわめきが広がった。
「神は我らを認めた!」
王太子アルベルトの声は高く、震えている。
だがそれは勝利の震えではない。
安堵だ。
――救われたと思ったのだ。
私は胸の奥を静めながら、もう一冊の写本を掲げる。
「監査は、原本・副本・保全写本の三部管理が原則です」
蝋引きされた封印を切る。
そこには、先ほどと同じ出納記録。
同じ金額。
同じ承認印。
滲んでいない。
完全な形で。
ざわめきが、逆流する。
「ば、馬鹿な……」
聖女セレスの光が、揺らいだ。
彼女の額に汗が滲む。
レオンハルトが低く呟く。
「対物改変……だが限定的だな」
私は横目で彼を見る。
「限定的?」
「触れている物質のみを書き換える術式だ。広域保存記録までは干渉できない」
なるほど。
つまり。
奇跡は万能ではない。
私は一歩前へ出る。
「聖女様」
穏やかに呼びかける。
「今のは“神託”ですか? それとも“術式”ですか?」
セレスの唇が震える。
「……神は、虚偽を正されました」
「ではこの写本も、虚偽ですか?」
私は保全写本を高く掲げる。
重臣たちがざわめく。
「確認を!」
「両方照合せよ!」
書記官が駆け寄り、震える手でページをめくる。
「……一致しております」
完全に。
一字一句、同じ。
王太子の顔が蒼白になる。
私は静かに告げる。
「奇跡が事実を消すのではありません。奇跡は、見せたい事実だけを照らす」
玉座の間が凍る。
そのとき、セレスが叫んだ。
「わ、私は神に選ばれたのです! 王太子殿下の正しさを証明するために!」
光が再び強まる。
だが今度は、不安定だ。
揺らぎ、ちらつき、制御を失いかけている。
レオンハルトが私の前に半歩出る。
庇う位置。
私は小さく息を飲む。
「下がって。私は監査官よ」
彼は低く言う。
「監査官でも、人は燃える」
一瞬、胸が熱くなる。
だが私は首を振った。
「なら、燃える前に終わらせる」
私は重臣に向き直る。
「王家の婚資信託は、王権と同格の信用制度です。そこに不正があれば、問題は個人ではなく制度の崩壊」
ゆっくり、はっきりと。
「そして今、奇跡で帳簿を改変しようとした事実が加わりました」
どよめき。
「監査妨害です」
その言葉は、刃より鋭い。
王太子が叫ぶ。
「待て! それは誤解だ!」
「誤解ではありません。証言者はここに多数」
私は振り返る。
「境界局特命交渉官、レオンハルト・クロイツ殿も立ち会っております」
視線が一斉に彼へ向く。
彼は静かに礼をする。
「帝国境界局として、事実確認を記録した」
重臣の一人が呻く。
「……国際問題になるぞ」
そう。
なるのだ。
私は最後の一手を置く。
「よって、持参金即時返還と、軍備費再監査を正式に請求いたします」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて老宰相が立ち上がった。
「……王太子殿下。これは看過できませぬ」
アルベルトは唇を噛みしめる。
聖女セレスの光は、消えかけの燭火のように弱まっている。
「……返還、だと……」
「はい」
私は微笑む。
昨日と同じ微笑み。
だが今は、痛みはない。
「“国益”のために解消なさったのでしょう? ならば国益に則り、規律を守っていただきます」
王太子は崩れ落ちるように玉座に座り込んだ。
「……分かった。返還する」
その瞬間。
空気が変わる。
勝負は決した。
だが、終わりではない。
レオンハルトが静かに告げる。
「再監査は合同で行う」
王太子が顔を上げる。
「合同……?」
「国境軍備費が絡む以上、我々も関与する」
重臣たちがざわつく。
私は頷く。
「透明性の確保です」
王家は、もはや拒めない。
奇跡も。
権威も。
帳簿の前では、等しい。
玉座の間を出たあと。
回廊の静寂が戻る。
私は大きく息を吐いた。
脚が、少し震えている。
「……終わったわね」
「第一局はな」
レオンハルトの声は低い。
「聖女はどう見る?」
私は少し考える。
「術式は本物。でも未熟。利用されている可能性が高い」
「同意見だ」
彼は歩きながら続ける。
「王太子は焦っている。軍備を急ぎすぎている。何かに追われているようだ」
私は足を止める。
「……戦争?」
「あるいは、内部の圧力」
彼は私を見る。
「合同査察は危険になる」
「怖いと思う?」
問い返すと、彼はわずかに目を細めた。
「君が?」
「ええ」
ほんの少しの沈黙。
そして彼は言った。
「怖くないと言えば嘘だ。だが――」
一歩近づく。
距離が、昨日より少しだけ近い。
「君と組むなら、悪くない」
胸の奥が静かに波打つ。
私は視線を逸らし、外套を握る。
「合理的判断?」
「個人的判断だ」
不意打ち。
頬が少し熱くなる。
私は咳払いをする。
「……合同査察は三日後。境界局執務室で打ち合わせを」
「了解した、監査官殿」
彼は敬礼のように軽く頭を下げる。
そのとき。
遠くの塔で鐘が鳴る。
重い、警告の鐘。
城内がざわつく。
兵が走る。
「何事?」
私が問うと、兵が叫んだ。
「北部国境より急報! 未確認部隊接近!」
北部。
ヴァルフォード領。
私の家。
私は凍りつく。
レオンハルトの表情が変わる。
冷静から、即応へ。
「……始まったか」
「何が?」
彼は短く答えた。
「誰かが、戦争を急いでいる」
鐘が鳴り続ける。
持参金問題は決着した。
だが本当の火種は――
国境にある。
私は彼を見る。
彼も私を見る。
言葉は要らない。
「行きましょう」
「ああ」
紙の戦いは、終わらない。
今度は帳簿だけでなく、
国境そのものを守るために。




