第2話 「持参金の行方」
夜気は冷たく、肺の奥まで澄んでいた。
大広間を出た瞬間から、私はようやく“監査官”に戻れる。泣かないための仮面は、社交の中では必要だったが、仕事には不要だ。
石畳の回廊を歩き、王城の外郭にある小さな控室へ向かう。
国境監査官――名ばかりの称号ではない。私は王都の華やぎよりも、関所の埃と帳簿の匂いのほうが落ち着く。
控室の扉を閉め、蝋燭に火を点ける。
机に置いたのは一枚の紙。赤い印璽が押された“写し”。
王太子アルベルトによる、婚約解消の文書。
私はゆっくりと紙面をなぞった。
理由は「国益」。
つまり、私の側の非ではない。責任は私にない――と、文書の形式上はそう読める。
だが同時に。
「私の名誉への配慮」も「損失への補填」も、どこにも書かれていない。
――やはり。
私は紙を折り、胸元の内ポケットに入れた。
この写しは剣ではない。
剣は振れば血が出るが、紙は振っても何も起きない。
代わりに、紙は“連鎖”を起こす。
歯車を噛ませて、静かに回るものを止める。
コン、コン。
控室の扉が叩かれた。
警戒はするが、驚きはない。舞踏会の夜に婚約破棄をされる女は、扉を叩かれる運命にある。
「……誰です」
「王室会計局、補任書記官。マルセル・ド・グランヴィル。監査官殿に、急ぎの確認が」
会計局。
名前を聞いた瞬間、私は小さく息を吐いた。
「入って」
扉が開き、痩せた青年が入ってきた。目の下に疲れが溜まり、手には封筒と帳簿の控え。
彼は礼をすると、言葉を選ぶように喉を鳴らした。
「……今夜の件、伺いました。お悔やみを申し上げるべきか、祝意を申し上げるべきか、判断がつきません」
「どちらも要りません。要件を」
青年は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「はい。監査官殿。あの……婚約解消が“正式に”成立した場合、ヴァルフォード家から王家へ納められた持参金――その扱いが問題になります」
来た。
最初の歯車だ。
「問題、とは」
「返還規定が適用されるか否か、です。王室婚約の持参金は一般の婚姻とは別枠で、通常は……」
青年は口籠もった。ここから先は、王家に不都合な話だ。
私は助け舟を出す。
「通常は、“王家側の都合”で解消した場合、返還。さらに名誉回復のための補償が付く。違いますか」
「……その通りです」
青年は封筒を差し出した。
「会計局としては、監査官殿のご意見を……。今夜、殿下が“国益”を理由にされたことで、返還の筋が濃くなります。ですが――」
「ですが?」
「殿下は、持参金の一部を既に……別の用途に充当した可能性があります」
蝋燭の火が、微かに揺れた。
別用途。つまり、使い込んだ。
私は青年の目を見る。彼は嘘を吐いていない。恐れている。
「具体的に、いくら」
「全額は不明です。ただ、春季の軍需費が予定より増えており、帳簿の整合が取れません」
軍需費。
国境の緊張が増していると聞いてはいた。だがそれと持参金は、本来繋がらない。
私は机に指を置き、心の中で点検する。
持参金は王室の“信託”扱い。
勝手に動かせば、会計規律に触れる。
さらに――私の家、ヴァルフォード家は辺境。国境線に関わる。
そして私は、国境監査官。
……つまり、これはただの婚約破棄ではない。
王家の財布と、国境行政が繋がる。
「マルセル。あなた、今日の文書の写しを見ましたか」
「いえ。監査官殿が写しを取られたと聞いて……」
私は内ポケットから写しを取り出し、机の上に置いた。
青年は喉を鳴らし、紙面に視線を落とす。
すぐに顔色が変わった。
「……補償条項が、ない……?」
「ええ。殿下は“この場で十分”と言いかけていました。だから写しを求めた。効力が生まれた時点で、こちらの手が打てるように」
青年は紙面を追い、唇を噛んだ。
「ですが、これ……理由が“国益”です。相手方に非がない。返還の筋が……」
「返還の筋は、濃い。だから殿下は条項を外した」
私は淡々と言う。
「返したくないから。返せないから」
青年の肩が小さく震えた。
可哀想だとは思う。だが、この青年は王家の帳簿で生きている。王家が倒れれば、彼も巻き込まれる。
私は一度、目を閉じた。
呼吸を深くする。胸の奥がまだ少し痛むが、ここで痛みを仕事に変える。
「マルセル。持参金の入出金記録、今すぐ持ってこれますか」
「……会計局の閲覧権限が必要です。監査官殿なら――」
「なら、あなたが持ってくる」
「私が?」
「あなたが“監査官の要請に基づく補助”として持ってくる。正式な手続きです。あなたの身は守る」
青年は迷った。だが迷いの奥に、救いを求める顔がある。
私はそこを見逃さない。
「あなたが黙っていた場合、責任はあなたにも落ちる。帳簿の矛盾は、必ず露見するから」
青年は唇を開いて、また閉じた。
最後に、決意したように頷く。
「……分かりました。今夜中に、可能な範囲で」
「よろしい」
私は紙に短い指示を書き、監査官の印を押す。
それを封筒に入れ、彼に渡した。
「これは閲覧請求。あなたが途中で止められたら、これを見せなさい」
青年は深く礼をした。
「監査官殿……ひとつ、よろしいですか」
「何」
「なぜ、そこまで冷静でいられるのです。私なら……」
私は一瞬だけ、言葉に詰まった。
冷静なのではない。冷静に見えるように、体を縛っているだけだ。
昔、同じように“理不尽な決定”を突きつけられた夜がある。
泣いた。縋った。何も変わらなかった。
その後、紙を読めば世界が変わると知った。
「泣いても帳簿は変わりません」
私はそう答えた。
「でも、帳簿が変われば。泣かなくて済む人が増える」
青年は息を飲み、そして頭を下げて出ていった。
扉が閉まると、控室は蝋燭の音だけになった。
私は椅子に腰を下ろし、指先を見つめる。
まだ少し震えている。
怒りか、恐怖か、あるいは、期待か。
――持参金。
それは私の家が王家に預けた“信用”そのものだ。
返ってこないなら、婚約破棄の痛みではなく、国家の規律が崩れている証拠になる。
そのとき、控室の窓の外――回廊の影が動いた。
私は反射的に立ち上がり、窓辺へ寄る。
庭園を横切る黒に近い濃紺の礼服。
以前も見かけた男だった。
彼は護衛も連れず、音も立てず、王城の外郭へ向かっている。
“客”の動きではない。
“仕事”の動きだ。
私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
彼は――私を見ていた。
見られていたのは、恥ではない。
危険だ。今夜の文書、持参金、帳簿の矛盾。これらを嗅ぎつけているのなら。
私は窓枠に指を置き、冷えた石の感触を確かめる。
落ち着け。まだ何も決まっていない。
だが決まっていることが一つある。
私は明日、王室会計局へ入る。
そして持参金の行方を、数字で確かめる。
……その前に。
私は机に戻り、写しを開く。
そこにある殿下の署名と印を、もう一度だけ見た。
「国益」
彼はそう書いた。
ならば私は、国益で返してもらう。
――法と帳簿で。
蝋燭の火が、また微かに揺れた。
控室の外で、誰かの足音が止まる。
コン、コン。
今度のノックは、さっきよりも短く、迷いがなかった。
「監査官殿。夜分に失礼する」
声が低い。落ち着いている。
私は息を吸い、吐いた。
「……名乗りなさい」
扉の向こうの男は、間を置いて答えた。
「レオンハルト・クロイツ。――帝国境界局付、特命交渉官だ」
帝国境界局。
国境。
監査官。
――来た。
私の背筋が自然に伸びた。
涙ではなく、仕事の姿勢で。
「入ってください」
扉が開く。
あの濃紺の礼服の男が、静かに部屋へ入ってきた。
彼は私を見て、笑わない。
ただ、必要最小限の礼をする。
「婚約解消の文書、写しをお持ちだと聞いた」
情報が速い。
私は机の上の写しに手を置く。
「どこから聞いたの」
「聞くべきところから」
彼は余計なことを言わない。
――実務者だ。
「監査官殿。今夜の決定は、明日には国境線にも影響が出る。通商税、関税、軍需。
そして持参金の移動。……あなたは、もう気づいているはずだ」
私は返事をせず、彼を観察する。
目は冷たいが、敵意ではない。
危険なのは、感情で動く男ではなく、目的で動く男だ。
「用件は」
男は一拍置き、言った。
「取引をしたい」
取引。
この夜に、私へ取引を持ち込む男。
私は胸の奥の痛みが、別の形に変わるのを感じた。
怒りでも悲しみでもない。
――戦場に立つ前の、集中だ。
「内容を」
レオンハルトは、蝋燭の光の下で、静かに告げた。
「あなたが欲しいのは、持参金の返還と名誉の回復だ。
私が欲しいのは、王家の帳簿の“矛盾”が国境を越えて燃え広がる前に、火種の位置を確定すること」
彼は近づかない。
だが、言葉だけで距離を詰めてくる。
「監査官殿。あなたは紙で国を倒せる。
だが倒した後に、誰が立て直す?」
……挑発ではない。問いだ。
私はゆっくり答える。
「私は倒すために紙を持つんじゃない。正すために持つ」
彼の目が、ほんの僅かに細くなる。
評価のサイン。
「なら、なおさらだ」
彼は言う。
「明日。境界局の執務室へ来い。
あなたの“正しさ”を、国の形に落とし込む契約を提示する」
契約。
この男が、恋の言葉を使わずに差し出したもの。
私は、返事をする前に一つだけ確認した。
「私を守ると言うのなら、条件がある」
「聞こう」
「私の意思決定は、議事録に残す。あなたの側も同じ。曖昧な善意は要らない」
一瞬、彼の口角がほんの少しだけ動いた。
笑ったのではない。理解したのだ。
「合理的だ。――それでいい」
レオンハルトは踵を返し、扉へ向かう。
「監査官殿。今夜のあなたは、泣かなかった。
その代わり、国を泣かせる準備をした」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
私は机の上の写しを見つめたまま、動けなかった。
胸の奥がまだ痛い。だが、その痛みは私を止めない。
明日、帳簿を開く。
持参金の行方を確定する。
そして契約を、紙で結ぶ。
――紙は、血を流さない。
けれど国は、紙で死ぬことがある。
私は蝋燭の火を指で覆い、静かに消した。




