第1話 「写しをください」
春の大広間は、花の匂いと香水と、期待で甘く濁っていた。
白い天井画の下、貴族たちが扇を揺らし、王家の旗が揺れ、楽団の音が波のように寄せては返す。
その中心に、私――リュシア・ヴァルフォードは立っている。
辺境伯爵家の娘。国境監査官。王太子殿下の婚約者。
――だった。
アルベルト殿下が、私の前まで歩いてくる。
その腕には、見慣れない少女が寄り添っていた。白い衣。無垢を装う微笑み。背中には、過剰な同情と期待を背負わされたような目。
周囲が息を止めたのが分かった。
こういう夜は、空気が先に言葉を知っている。
「リュシア・ヴァルフォード。君との婚約を、ここに破棄する」
大広間がざわめきに沈み、次の瞬間、ざわめきが跳ねた。
私の胸の奥――肋骨の内側が、きしむように痛む。
息が、少しだけ浅くなる。
これは慣れている痛みだ。戦場の血ではない。社交の刃だ。
でも、私は泣かない。
泣かないと決めている。
殿下が続ける。
「そして私は、聖女セレスと共に国を導く。彼女は神より加護を授かった、真の救いだ」
聖女。
その単語が出た瞬間に、何人かの貴族が“決着”を見た顔をした。
勝ち馬に乗る準備をしている顔。
私はそれを、国境の検問所で何度も見た。
殿下は私を見下ろして、最後の一押しをくれる。
「理解してくれ。君のような……計算ばかりの女では、国母は務まらない」
笑いが起きる。小さく。湿った音で。
誰かの扇が、わざとらしく鳴った。
――計算ばかり。
そう、私は計算をする。税を。通商を。輸送を。
そして、嘘も計算する。
私は一礼した。
あまりに丁寧だったのか、殿下の眉がわずかに動いた。
「殿下。お言葉、承りました」
場が静まる。
泣き叫びや罵倒を期待していた観衆が、拍子抜けしたように息を吸う。
私は、聖女とやらに視線を向けた。
少女は、勝者の顔を作るのがまだ下手だった。口角が上がりすぎて、目が笑っていない。
「……よかったですわ。殿下が“国のため”と仰るなら」
私は微笑む。
その微笑みが、私の胃の奥を少しだけ焼いた。
昔、誰かに向けて同じ笑顔を作った夜がある。思い出すたび、息が苦しくなる。
――でもここで崩れたら、終わりだ。
殿下が勝ち誇ったように頷く。
「分かってくれたか。なら――」
「ひとつだけ、事務的に確認を」
殿下の言葉を、私は優しく切った。
優しい刃は、切られた側ほど気づかない。
「婚約破棄……いえ、正式には婚約解消ですね。王家の手続きに従うため、今夜の宣言を文書として起こしてくださいませ」
殿下の目が細くなる。
「文書? この場で十分だろう。皆が見ている」
「ええ。ですので、なおさら必要なのです」
私は声を落とさず、けれど柔らかく続けた。
「公開の場での宣言は“事実”になります。でも“効力”を生むのは、署名と印璽と、証人です。
殿下の御名、王家の印、立会人の署名。――それが揃って初めて、王室婚約の解消は確定します」
貴族たちの視線が、殿下の手元に集まった。
手元には、今日の舞踏会の式次第が載った紙束しかない。
「何を……。君は私を侮辱しているのか」
「いいえ。私は殿下を守っております」
私は微笑んだまま言う。
「手続きが曖昧なままですと、後日『破棄は無効だった』と争われます。
殿下は潔白で、聖女様との未来も正しいのに、無駄な争いで汚されます」
“潔白”。
その言葉に、殿下は安心したように肩の力を抜いた。
――ここだ。
「……確かに。なら、書記官を呼べ」
殿下の命令で、王家付きの書記官が駆け寄ってくる。
ざまぁは、まだしない。
“ざまぁの準備”を、相手に気持ちよくやらせるのが一番速い。
書記官が羊皮紙を広げ、殿下が口述する。
私は内容を聞きながら、頭の中で静かに数える。
婚約の解消。
理由は「国益」。
私の名誉への配慮は、ない。
慰謝の条項も、ない。
持参金返還の扱いも、曖昧。
――なるほど。
殿下は、私を“泣き寝入りする女”として扱っている。
書記官が最後に訊ねた。
「立会人の署名を。どなたが――」
殿下が顎で示す。
貴族たちが我先にと近づく。勝ち馬の証人になりたいのだ。
扇が揺れ、羽根ペンが走り、羊皮紙が埋まっていく。
私の番が来る。
私は署名をしない。署名は当事者として不要だ。
必要なのは、“写し”だ。
「殿下。写しを、私にも」
「写し?」
「はい。国境監査官としての記録です。王室婚約の解消は、通行税・関税・婚資の移動に影響します。
ヴァルフォード家の帳簿も、王家の帳簿も――これから変わりますので」
殿下は、面倒そうに頷いた。
「好きにしろ」
書記官が、素早く写しを作る。
王家の印璽が押される。乾ききっていない赤い蝋が、光を吸って黒く見える。
私はその紙を受け取った瞬間、指先の震えを袖の中に隠した。
震えは恐怖ではない。
体が、“次にやるべき仕事”を理解した合図だ。
私は再び一礼した。
「殿下。今夜の決定、確かに承りました」
私は踵を返す。
背中に突き刺さる視線と、勝者の笑いと、同情と、好奇心。
それらを全部、春の匂いの中に置いていく。
大広間の扉へ向かう途中、柱の陰に立つ男が目に入った。
黒に近い濃紺の礼服。軍人でも貴族でもない、実務者の立ち姿。
こちらを見ているのに、視線が騒がない。観察する目だ。
――誰。
目が合った、気がした。
男は笑わない。ただ、ほんのわずかに顎を引いた。
敬意とも警戒とも取れる、短い礼。
私はそこで初めて、胸の奥の痛みが少しだけ和らぐのを感じた。
理解されることは、こんなにも息がしやすいのか。
扉の前で、私は写しの紙を開く。
乾きかけの赤い印が、確かにそこにある。
「……よろしい」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声で。
「これで、詰ませられる」
その瞬間、背後で殿下の高い声が響いた。
「今夜からだ、セレス。君が新しい光だ。皆に示そう、旧いものを捨てた我々の未来を!」
未来。
ええ、未来は示される。
ただし、あなたが思っている形ではない。
私は扉を押し開け、夜気の中へ出た。
冷たい空気が肺に入り、ようやく呼吸が深くなる。
国は、紙で動く。
そして―紙で、倒れるのだった。




