第9話:友達
息を切らし、足がもつれるのも構わずに走り続けた。
村の境界を超え、薄暗い森の中へと。
木々の影に身を隠すようにして、カノンはその場に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ……ど、どうしよう……」
心臓が、早鐘を打っている。
恐怖で指先の震えが止まらない。
脳裏の蘇るのは、吹き飛ばされて白目を剥いたドランの姿。
彼はこの村で絶対的な権力を持つ家の跡取りだ。
そんな相手に手を上げてしまった。
いや、手を上げるところか気絶させてしまった。
今頃、村では大きな騒動になっているに違いない。
最悪の事態を想像し、カノンの全身が冷たい汗が噴き出す。
両親を亡くした自分にとって、村長の家での下働きだけが唯一の生きる術だった。
それすら失えば、待っているのは野垂れ死にだけだ。
「うぅ……どうしよう……ごめんなさい。お父さん……お母さん……」
膝を抱え、絶望に涙を流すカノン。
しかし、どれだけ後悔しても過ぎ去った時を戻すことは叶わない。
破滅を受け入れ、罰を待つしかないと思い始めた……その時だった。
「何を怯えている?」
頭上より凛とした声が降ってきた。
ビクッと身体を震わせて、カノンは顔を上げる。
そこには、高い木の枝の上に腕を組み、仁王立ちしているシオンの姿があった。
「其れ程の力を擁しながら、何故怯える?」
シオンは軽く膝を曲げると、数メートルの高さを物ともせずに飛び降りる。
トンッ……と音もなく足取りで着地する身のこなしは、まるで野生の獣のようであった。
「先刻、貴様を『腑抜け』と呼んだことは撤回しよう。貴様は強い。あの力はなんだ?」
「あ、あれは……その……あうあうぅ……」
詰め寄るシオンに、カノンは言葉を上手く紡げずに口籠る。
「あうあうでは分からぬ。先のあれは、如何なる理によるものかと問うているのだ」
「い、言えない……」
迫りくるシオンの威圧感に恐怖を覚えながらも、カノンは必死に言葉を絞り出す。
「言えない? 何故だ」
「誰にも言っちゃダメだって言われてるから……」
「誰にだ」
「お父さん……もう何年も前に死んじゃったけど……」
「むぅ……」
シオンが困ったように唸る。
今は亡き父親との誓約だと言われれば、流石の彼女も無理強いはできなかった。
とはいえ、己の魂に僅かながらでも恐怖を刻んだあの力の正体。
それを解明せぬままにはいられないのも事実であった。
あの時感じたのは、世界を構成する『理』そのものを歪めるような、根源的な力の奔流。
彼女ですら未だ達していない、一つの境地にあるものだった。
その正体がどうしても知りたい……と、最後にシオンが取った行動は――
「然れど、己はどうしても知りたいのだ」
まるで童が駄々を捏ねるかの如き、純粋な探究心の発露であった。
「えぇ……そ、そんなこと言われても……」
「あの力は素晴らしい」
「す、素晴らしい……?」
予想外の方向から出てきた称賛の言葉が、カノンの心に突き刺さる。
「そうだ。以前、『ねつかくへいき』なるものと武を競ったこともあるが、あれよりも更に純粋なる力の奔流を感じた」
カノンにはその言葉の意味など理解不能であったが、自分が強烈に肯定されていることだけは伝わってきた。
「そ、そうかな……」
「うむ。己は今、お前に興味を抱いている。非常に、だ」
憧憬の対照からの手放しの称賛に、カノンの頬がほのかに朱に染まる。
これまで奴隷と罵られ、加護を持たない無能と蔑まされてきた彼女にとって、それは初めて浴びる承認の言葉だった。
それが父との約束という強固な錠に守られていた彼女の心の扉を、ゆっくりと開いていく。
「じゃあ、その……誰にも言わない……?」
「安心しろ。己は他者の秘め事を吹聴するほど軽薄ではない」
シオンが真剣な眼差しで頷く。
その言葉に嘘はないと直感したカノンは、少し安堵したように息を吐き、ポツリポツリと語り始めた。
「私もよく分かってないんだけど……昔からあんな風に『危ない!』とか『だめっ!』って思った時に出るの……」
「自らの意思で放ったわけではないのか?」
シオンの言葉にカノンは深々と頷いて答える。
「ただ、お父さんは危険な力だから絶対に使っちゃダメだし、誰にも話しちゃダメだって言ってた……」
「ふむ……あの小太りが使っていた加護なるもの力とは別のものなのか?」
「多分……加護を持ってる人は身体のどこかに聖痕っていう痣があるらしいけど、私には無いし……」
カノンがやや悲しげに呟いた言葉に、シオンは得心がいったように頷く。
「では、神なる輩が構築せし機構に頼らぬ。貴様自身の力というわけか……ならば、話は早い」
シオンはニヤリと好戦的な笑みを浮かべると、カノンにビシッと指を突きつけた。
「カノン、と言ったな。己と比武せよ」
「ひぶ……?」
初めて耳にする言葉に、カノンが首を傾げる。
「武を以て、雌雄を決するのだ」
「ぶをもって……しゆうを……?」
「力比べだ! 己と貴様のどちらが強いかの!」
まどろっこしくなったシオンが、最も単純にして明白な言葉を告げる。
「ちからくら……ええええっ!? 」
「今の貴様は制御ができておらぬようだが、それでも己は一向に構わん。先刻のような全力でかかってこい」
「む、無理無理無理っ! そんなの絶対に無理だよぉ!」
「何故だ? 貴様には其れだけの資質がある」
「ないよ……そんなの……私、かけっこだって一番遅いし……重い物も持てなくて村長さんにはいつも迷惑をかけてるし……。そもそも、あの力を人に向かって使うなんて……」
「むぅ……」
欠片程の戦意も見せないカノンに、困り果てたシオンが唸った。
彼女は狂人ではあるが、武人である。
故に、戦う意志の全く見せない者を相手取るのはいささか遠慮があった。
「なら制御できるようになればいい」
「え……?」
「力があるのに使えぬのは、使い手たる貴様の器が未熟なればこそ。ならば鍛えればよい。肉体を、精神を、技術を。そうすれば、その強大な力は矛にも盾にも成り得る」
シオンの言葉はあまりに真っ直ぐで、力強く、そして自ら体現しているだけの説得力があった。
自分のような弱者には縁遠い世界の話のようにも思えたが、同時にその心身の強さへの憧れもまた事実であった。
「……私でも強くなれるかな? シオンちゃんみたいに」
「それは貴様次第だ。然れど、己は貴様という原石に確かな輝きを見た。泥に塗れたまま朽ちるか、磨き上げて天を衝く刃となるか。それは貴様の覚悟一つだ」
シオンは蒼色の瞳で、カノンの心の奥底を覗き込むように凝視する。
その視線に射抜かれ、カノンはギュッと拳を強く握りしめた。
怖い。戦うことも、傷つくことも、得体の知れない力も。
だが、それ以上に――目の前の少女のような揺るぎない強さが欲しかった。
両親を喪ってから、ただ怯えて暮らすだけの日々と決別したかった。
「……わかった。私、やってみる」
カノンは震える声を抑え込み、決死の覚悟で頷いた。
そして、おずとずと上目遣いでシオンを見つめる。
「でも……一つだけ、お願いしてもいい?」
「お願いだと?」
「その……シオンちゃんも、一緒にいてくれるよね……?」
「は?」
シオンが怪訝そうに眉をひそめる。
「私一人じゃ、どうしていいか分からないし……すぐに諦めちゃうと思うから……。だから、シオンちゃんが一緒にやってくれるなら頑張れるかも……」
それは、孤独だった少女の精一杯の懇願であった。
強くなりたいという願いと、憧れの存在と共にありたいという切なる想い。
しかし、それにシオンは露骨に顔を顰めた。
己は孤高に武の頂きを求める求道者。
弱者の守り役など、最も忌避すべき雑事である。
だが、あの力は惜しい。
あの道なる力の理を鍛え上げ、完成された状態で矛を交える。
それは己の武を極める上でも得難い糧となるはずだ。
「いいだろう。其れもまた、一興か」
心中で両者を秤にかけた結果、シオンは渋々と言った様子で了承した。
「本当に!? あ、ありがとう!」
カノンの顔がパァッと明るくなる。
彼女は歓喜のあまりにシオンの手を取り、上下に激しく振った。
「私、初めて友達ができた! 嬉しい!」
「と、友達……?」
二度の人生で初めて耳にしたような単語に、シオンが激しく動揺する。
求道者である彼女は己以外のあらゆるものに帰属しない。
故に友などという概念すらを、これまでに持ったことがなかった。
宿敵でも、弟子でもなく、『友達』。
その響きは、鋼鉄の心を持つ彼女にとって、どんな打撃よりも強烈な一撃となった。
「うん! 友達! いいよね?」
「……勝手にすればいい」
「あっ……それより私、どうしよう……ドランくんを気絶させちゃったんだった……」
「それなら心配は要らぬだろう。あれは自尊心の塊のような男だ。自分よりも劣っていると思っていた者にやられたなどとは、口が裂けても言えんはずだ。それより、やると言ったからには徹底的にやるぞ。まずは村の外回りを千周、それが終わったら滝行で精神統一だ」
「ええええぇぇっ!?」
カノンの悲鳴が、森の中に大きく木霊する。
後に世界を震撼させることになる二人の求道者の物語は、この薄暗い森から静かに動き出した。




