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第7話:加護

「えー……と、それでは今日の授業はこれで終わりです。皆さん、気をつけて帰るように」


 神父が少し疲れた様子で、授業の終わりを告げた。

 その言葉を合図に、子どもたちもガタガタと椅子を鳴らして帰り支度を始める。


 そんな中でシオンは一人、少し落胆した面持ちで椅子に腰掛けていた。


『学校では、神様の色んなお話を聞けるのよ』


 母にそう言われ、少しでも奴に繋がる情報が得られると思い来てみたが、まるで見当違いだった。

 『天にいる』『見守っている』などという抽象的な話ばかりで、具体的な座標も、武力に関する情報も、何も得られなかった。


 これならまた山にでも入った方が幾分かましだった。

 二度目はないな……と思い、彼女は徒労感を覚えながら帰宅しようとする。

 しかしそこで、ふと教室の端に不穏な空気が漂っていることに気がついた。


「おい、聞いてんのか? 無視すんなよ。この『奴隷』が」


 数人の少年が一人の少女を取り囲んでいた。

 獲物を囲むハイエナのような、卑しい陣形だ。


「父さんが言ってたぞ。村長は、あの奴隷の下女に下の世話をさせてるってな」


 少年の中の一人、見るからに不健康そうな小太りの少年が下卑た口調で言う。


 彼の名はドラン・ボルツ。

 この地の領主、ルードヴィング伯より村の主要産業の鉱山の管理を任されたボルツ家の一人息子である。

 贅肉に埋もれたその目は、他者の尊厳を踏みにじることに何の躊躇いもない、腐った色をしていた。


「そ、そんなこと……村長さんは……」

「口答えすんな! 奴隷の分際で!」


 ドランが反論しようとした少女の身体を乱暴に突き飛ばす。

 それは子供の行いであるとしても目に余る暴虐だった。


 それでも周囲に彼を止めようとする者は誰もいない。

 シオンの父親のジョナサンを含め、村で働く大人たちの多くは彼の父が管理する鉱山関係の仕事に従事している。

 彼の機嫌を損ねることは、そのまま一家の生活を脅かされることに繋がると子供ながらに誰もが理解していた。


「汚い奴隷には汚い床がお似合いだな! もっと汚くしてやるよ!」

「や、やめて……」


 倒れ込んだ少女に対し、ドランは更に追い打ちをかけるように足を振り上げる。

 抵抗もできず、ただ涙を流して身体を丸める少女。

 周囲の子供たちが、これから怒る暴力に思わず目を背けようとした時だった。


 ドンッ……と、横から入ってきた何かがドランの身体にぶつかった。


「おわっ……いてっ!!」


 不意を突かれたドランは体勢を崩し、そのままドスンと尻もちをついた。

 その丸々とした身体が床に転がる無様な姿に、張り詰めていた空気が一瞬で緩む。

 

「ぷっ……」


 その間抜けな姿に、周囲から堪えきれない失笑が漏れる。

 それはまるで、膨らみすぎた風船が割れたような滑稽さだった。


「な、何しやがる! 誰が! ぶつかってきたやつは!」


 顔を真っ赤にしたドランが、弾かれたように立ち上がって、ぶつかってきた者を睨みつける。

 そこに立っていたのはシオンだった。


「ん? なんだ?」

「なんだ、じゃない! わざとぶつかってきただろ! 謝れ!」

「断る」


 鼻から荒々しい息を吹き出すドランに向かって、シオンが端的に告げる。


(おれ)は出口へと向かって真っ直ぐ歩いていただけだ。お前の身体が無駄にデカいだけで、体幹が脆弱なのが悪い」

「なっ……! お前、俺が誰だか分かって言ってるのか!?」


 ドランが顔を更に赤くして叫ぶ。


 この村で、これまで彼に対してこのような態度を取る子供はいなかった。

 いや、子供だけじゃない。大人であっても彼に注意の一つもできる者はいなかった。

 生まれて初めて侮辱された怒りと、信じられないという困惑で彼は顔を大きく歪ませる。


「俺はドラン・ボルツだぞ! この村は俺の父さんの村だ! 俺に逆らったらお前の親父だってクビにして、この村から追い出すことだってできるんだぞ!」


 彼は切り札である父親の権力を持ち出し、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

 

「……それがどうした? 貴様と何の関係ある?」


 それでも、シオンの表情はピクリとも動かない。


「は……? 聞いてなかったのか!? 俺はボルツ家の長男なんだぞ! 父さんはルードヴィング伯の友達なんだぞ! 俺が言えば、お前なんて家族ごと――」

「己は、貴様は何者だと問うている」

「え? だ、だから……俺はドラン・ボルツ……」


 尚も全く怯まないシオンの胆力に押され、ドランがジリジリと後ずさる。


「名を聞いたのではない。粗暴に振る舞うなら親ではなく、自らの威を示せと言っているのだ。貴様は何者だ? 己の目に映っているのは自らは何も持たず、与えられた虚飾で粋がる一匹の蒙昧な豚だけだ」


 ドランにはシオンの言葉が理解できなかった。


 自分がボルツ家の長男であると知れば、どんな大人でさえも卑屈な笑みを浮かべて平服してきた。

 なのに目の前の女は微動だにしない。

 それどころか、目の前の少女はドランの背後にいる権力を一切見ていない。


「もう一度、問う。貴様は何者だ?」


 ただ、ドランという『個』の矮小さだけを見透かすように冷徹な瞳で見下ろしていた。

 家柄という虚飾を剥ぎ取り、その中にある魂の形だけを値踏みするような、絶対強者の視線。


「う、うるさいうるさい! 俺は特別なんだ! お前らのような無能な凡人とは違う! 選ばれた人間なんだよ!」


 言葉での反論が不可能と悟ったドランは、半狂乱になりながら右手を突き出した。

 プライドをズタズタにされた彼に残されたのは、もう一つの、そして彼自身が持つ唯一の拠り所のみ。


「ど、ドランくん……! それはダメだって……!」

「うるさい! 黙ってろ! ここまで馬鹿にされて黙ってられるか!」


 止めようとした男子の身体を突き飛ばして、ドランがシオンと向かい合う。


「コレを見ても同じ口が叩けるか!?」


 叫びと共に、ドランの掌から赤黒い炎が吹き出した。

 周囲の音頭が一気に上昇し、教室が朱色に照らされる。


「ひっ……!」

「か、加護だ……!」


 子供たちが悲鳴に近い声を上げて一斉に後ずさる。

 ドランが見せたのは、まさに先刻神父の口から語られた『加護』の力だった。


 神に選ばれし者の証であり、この世界における絶対的な暴力の象徴。

 それは与えられる者を選ばず、時にはこうして暴君の素質を持つ者にさえも宿る。


「これなら馬鹿なお前でも分かるだろ! これが俺の『操炎』の力だ! 謝れ! 地面に頭をついて謝れ!」


 ドランは掌に燃え盛る炎を浮かべながら、喉が裂けそうな程に叫ぶ。

 身の危険を察した子供たちは、次々と逃げるように教室から出ていく。

 もはやこれは子供の喧嘩の域を遥かに超えていた。


「……で?」


 それでもやはり、シオンは一切動じなかった。


「で、じゃないだろ! 加護だぞ! 神様の力だ! さっき、聞いただろう!」

「それも所詮は借り物の力だろう? 親の威光、神の加護……外付けの力に縋り、己自身の足で立とうともせぬその精神性こそが、貴様が弱者である何よりの証左だ」


 シオンが呆れたように肩を竦める。


 それは挑発ですらなかった。

 単なる事実の羅列。

 だが、それ故にドランの肥大化した矜持を最も残酷な形で打ち砕いた。


「お、お前ぇ……!」


 ドランの表情が憤怒で醜く歪む。


 自分は特別だ。


 誰もがそう認めた加護の力でさえも、侮られた。

 もはや言葉では勝てない。

 彼に残されたのは、暴力による排除のみだった。


「ゴミみたいに燃やしてやる!」


 理性を失ったドランが炎を大きく膨れ上がらせて、シオンへと投げつけようとした刹那だった。


 ――ゾクリ。


 ドランの全身を、極寒の氷河のような寒気が貫いた。


 それはシオンが発した、全力のほんの万分の一にも満たない殺気。

 しかし、平和な村で増長した少年にとっては致死量にも等しい恐怖を与えるには十分だった。


「ひっ、あ、あが……ッ!」


 ドランの膝がガクガクと震え、戦意の喪失と共に炎も消滅する。

 彼はそのまま糸が切れた人形のように、その場で崩れ落ちた。


 股間からはジワリと温かい染みが広がり、微かな刺激臭が教室を漂う。

 シオンはそんな彼に一瞥をくれることもなく、悠然と教室から立ち去っていった。

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