第6話:学校
――シオン・ラングモアが生誕から十年の月日が流れた。
サットン村の朝。
ラングモア家の玄関先では、今日も壮絶な戦いが繰り広げられていた。
「……!」
六歳になったアレンが、無言でシオンの服の裾を強く握りしめている。
「弟よ。服から手を離せ。今日は連れていけんのだ」
シオンが淡々と言うが、アレンの指は万力のように食い込んだまま。
父親譲りの青い瞳で姉の顔を見上げ、『連れて行け』と無言の圧力をかけている。
その力は非常に強く、シオンでさえも僅かな抵抗を感じる程であった。
「ダメよ、アレン。お姉ちゃんは遊びに行くんじゃなくて、今日は学校に行くんだから」
シエラが困ったように笑いながら、アレンを優しく諭す。
その手には、アレンの好物である焼き立てのパンが握られている。
「そういうことだ。理解せよ」
「……」
アレンはしばらく母と姉の顔を交互に見つめる。
やがてコクリと小さく頷き、不承不承といった様子で指を一本ずつ剥がすように手を離した。
「では行ってくる。弟よ。母を頼んだぞ」
「ええ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
シオンは一つ頷くと、迷いなき足取りで歩き出した。
サットン村の学校は、都市部にあるような整った教育機関ではない。
村の小さな教会を使い、神父が教師を務める簡易な学び舎である。
机や椅子も不揃いで、教科書も古い数冊を皆で回し読みするような環境だ。
授業内容も学問というほどではなく、主に神話を通じて簡単な読み書きを学ぶだけのもの。
しかし、武を極めることのみを至上とするシオンが何故、座学の場へと通うのか。
その理由としては母からの勧めというのが一つだが、それだけではない。
彼女はある目的、あるいはその目的へと至るに必要な知識を得るためにそこへと向かっていた。
シオンが学校に到着すると、既に村中の子供たちがそこに集結していた。
娯楽に乏しい辺境の村において、新たな知識を得られる学校は新たな遊び場所でもあった。
教会の高い天井からは埃の舞う光の筋が差し込み、子供たちの賑やかな声が反響している。
皆、目を輝かせて神父の登場を待ちわびている。
そんな中、シオンは空いていた席に腰を下ろして、周囲の喧騒を他所に腕を組んで瞑目していた。
「皆さん、お集まりのようですね。それでは授業を始めたいと思います」
やがて、初老の神父が古びた聖典を抱えて入ってきた。
彼が教壇に立つと、子どもたちは一斉に静まり返り、その言葉に耳を傾ける。
「さて、今日は我々人類の起源でもある『神の布告』についておさらいしましょう」
神父は子どもたちを見据えながら、穏やかな声で語り始めた。
それは、この国に生きる者ならば誰もが一度は耳にする、創世の神話。
「その昔、世界は混沌の中にありました。そこで神は地上に向けて、最初の『布告』を行いました。混沌ではなく、秩序と調和を持つようにと。これが『原初の布告』あるいは『第一の布告』と呼ばれるものです。これにより地上には数多くの命が生まれ、荒野は緑に覆われ、海には魚が泳ぎ始めました」
子供たちから『へぇ~……』と感嘆の声が上がる。
「そして神は、その中で最も優れた生き物である我ら人類を見つけました。そして、人類がこの地上をより良くしていけるようにと『第二の布告』を行いました。これにより、人類は『加護』と呼ばれる神秘の力を手に入れました」
それを聞いた子供たちがにわかに騒ぎ出す。
加護――それは現実としてこの世に存在する、神より与えられし理外の力である。
その力を得し者は英雄として崇められ、多くの国の興亡に関わり、歴史にその名を刻んできた。
子供たちも口々に、『俺も加護が欲しい!』『どうやったら手に入るの!?』と、夢を膨らませている。
「しかし嘆かわしいことに、人はその力を争いの道具として使い始めました。力ある者は弱き者を虐げ、国同士は領土を巡って血を流し続けています。神が与えた慈愛は、今日も暴力として利用されているのです」
教室がしん……と静まり返る。
子どもたちなりに、神父の憂いを感じ取ったのであろう。
少し重くなった空気を変えるように、神父がパンッと手を叩いた。
「さて、ここまでで何か質問のある人はいませんか?」
その言葉を合図に、再び教室に活気が戻る。
「神父様! 神様ってどんな姿をしてるんですか!?」
「加護ってどうやったらもらえるんですか!?」
次々と飛び出す無邪気な質問に、神父は一つ一つ丁寧に答えていく。
そうしてしばらくは穏やかな時間が流れていたが、あることをきっかけに教室に空気が一変した。
スッ――。
最後列にいた、シオンが手を上げたのだ。
それはただ手を上げるという動作でありながら、一切の無駄がない洗練された行動だった。
身体から指先までがまるで天を貫く切っ先のように鋭く、子供たちもその得も知れぬ気迫に息を呑んだ。
「えー……シオン。シオン・ラングモアさんですね。何か質問ですか?」
神父が少し居住まいを正して、手元の名簿で名前を確認しながら彼女に尋ねる。
「うむ。神とやらについて聞きたいことがある」
シオンが立ち上がり、鈴の鳴るような声で言う。
「奴は今、どこにいる?」
「……え?」
予想外の質問に、神父が目をぱちくりとさせた。
「どこに、とは……神は天におられます。雲の上にある天の国より我々人類を、常に見守ってくださっているのです」
「ほう、天か……だが、先日山に登った時に探してみたが、そのようなものは見当たらなかったぞ。いたのは妙な鳥と名無しの狩人くらいだ。奴はどこかに隠れているのか?」
シオンは大真面目だった。
以前、ヴェルテブラ山脈に登った際、ついでに神の住処がないか雲の上まで確認しに行ったのだ。
だが、雲海の遥か彼方まで見渡しても、神の痕跡らしきものは影も形も見当たらなかった。
「ええっと……そ、それはその……神は霊的な存在であり、物理的にそこにいるわけではなくてですね……」
この少女に、子供騙しの言葉は通用しない。
長年、子供たち相手に神話を語ってきた神父をしてもそう思わせるだけの迫力がシオンにはあった。
「そ、そもそも……シオンさんは、どうして神のいる場所を知りたいのですか? 何かお願いしたいことが?」
この妙な流れをどうにか修正しなければならない。
そう考えた神父が、子供を諭すような口調で尋ねるが――
「無論。奴をこの手で打ち倒すためだ」
返ってきたのは、彼の理解を遥かに超えた言葉だった。
「う、打ち倒す……? 神を、ですか……?」
「そうだ。彼奴は己を侮った。見下し、哀れみ……己が甘言に飛びつくであろうと侮ったのだ。許しがたい屈辱だ」
かつて死の淵で出会った存在。
己の人生を賭した武を憐れみ、安易な力を与えようとした高慢な存在。
力とは自らの足で歩んだ果てに得るべきもの。
他者から与えられる施しに何の価値がある。
あの時感じた屈辱は、転生して十年経った今でも、彼女の魂に焼き付いて離れていなかった。
教室の時が止まり、皆が己の耳を疑っている中でシオンは更に続けていく。
「故に己は、この拳で奴を殴り倒さないと気が済まんのだ」
そう言いながら拳を握りしめ、力説する十歳の少女。
そのあまりにも罰当たりで、しかしあまりにも真剣な口調に、神父は口を開けたまま絶句するしかなかった。




