第5話:裏山
――アレン・ラングモアの生誕から四年の月日が流れた。
新たに一人の息子が増え、四人となったラングモア家。
サットン村では大きな事件もなく、のんびりと平穏な日常を過ごしていた。
「母よ」
ある日の昼下がり、昼食の片付けを終えたシエラに、七歳になったシオンが言った。
「少し外に出てくる」
「構わないけど、暗くなる前に帰ってくるのよ?」
「うむ。承知した」
シオンが首を縦に振り、踵を返して外へと向かう。
七歳になり、彼女はその可憐さに更に磨きをかけていた。
腰まで伸びた絹のような白銀髪に、一流の芸術家が彫ったような整った顔立ち。
そして何よりも、まだ幼い子供とは思えない凛とした佇まい。
まるで社交界で注目を一挙に浴びる令嬢のように、ピンと伸びた背筋と一切ブレない体幹は、母親であっても見惚れる程に美しかった。
しかし、その優美な外見とは裏腹に、シオンは外で遊ぶことを好んだ。
日中、母が家事に勤しんでいる間に外へとフラッと出かければ、夕食時まで帰って来ないことも多々あった。
ただ不思議なのが、それだけ長時間外出していても、いつも服は染み一つなく、清潔に保たれていたことだった。
「む……?」
扉に手をかけたところで、シオンは背後から僅かな抵抗感を覚えた。
「弟よ。どうした」
振り返ると、四歳になった弟のアレンが無言でシオンの服の裾を掴んでいた。
父親譲りの青い瞳で、姉の顔をジッ……と見つめている。
言葉はないが、伝えたい意思ははっきりとしていた。
「ふむ……そうか……。母よ」
「どうしたの?」
「弟が、自分も連れていけと言っているようだ」
「あら、そうなの? アレンはお姉ちゃんが大好きだものね」
姉の服の裾を掴んでいる息子の微笑ましい姿に、シエラが頬を緩める。
アレンは無口な子だったが、姉であるシオンにはとりわけ懐いていた。
「そんなに遠くまでは行かないんでしょ?」
「うむ。ちょっとした近所の散歩だ」
「そう。なら、アレンも連れていってあげて。それで、できれば食べられそうな山菜を摘んできてくれるとお母さん嬉しいかな」
ラングモア家の裏手には、なだらかな丘陵が広がっている。
村の子供たちの格好の遊び場であり、季節になれば様々な山菜も取れる場所だ。
近くで遊ぶとなれば、まずそこだろうとシエラは考えた。
「承知した」
「行ってらっしゃい。アレンから目を離さないであげてね」
扉を開けて出ていくシオンを、まだ少しもたついた足取りでアレンが追う。
まだ外に出すのは危なっかしいが、年齢以上にしっかりした姉がいるなら大丈夫だろう。
すっかりと姉が板についてきた娘の成長を喜びつつ、シエラは家事に戻った。
***
――ラングモア一家が住まうサットン村から北に400km。
大陸北端を横断するヴェルテブラ山脈。
人々は畏敬を込めて、その長大なる連なりを『沈黙の背骨』と呼んでいた。
天を穿つ鋭鋒はさながら巨獣の背骨のようであり、『沈黙』が示すように、万年雪に覆われた峰々には音という概念が存在しない程の極寒の吹雪が吹き荒れている。
そんな神々の恩恵すら届かぬ生死の境界を、一つの影が進んでいた。
それすらも生存のためと言うような、豊かな白い顎髭を蓄えた壮年の男性。
筋骨は隆々で、不毛の地で生き抜くための脂肪もたっぷりと蓄えた巨体。
片手に弩を持ち、もう片方の手には砕氷斧を持っている。
男は狩人であった。
文明から離れた過酷な自然へと踏み込み、獲物を狩る者。
しかし、男には狩人として最も重要なものが欠けていた。
男には視力が無かった。
両目を縦に断つような大きな傷跡があり、その機能は完全に失われている。
視界は常に闇の中。
光という概念は、とうの昔に記憶の彼方へと消え去った。
しかし、男には全てが見えていた。
両の眼に代わり、それ以外の全ての感覚器を用いて世界の形状を把握する。
肌を刺す風の唸りが、前方にそびえる岩肌の凹凸を教える。
踏みしめる雪の音が、足元に潜む氷河の裂け目の存在を知らせる。
鼻腔を擽る血の匂いが、獲物の位置を告げる。
そして何よりも雄弁なのは、万物に宿る『気』の流れであった。
雄大な山脈そのものが発する、巨竜の如き気。
その中を流れる汎ゆる生命の気配は、男の脳裏にその全体像を映し出していた。
――いる。
その鋭敏な感覚により、彼は進行方向に獲物の気配を感じ取った。
体躯は大きくないが、その内在する『気』が外へと多量に溢れ出している。
視覚という檻からの脱却に成功した彼は、見た目に騙されることなく、最大の警戒心を以て弩を構えるが――
「待て」
僅かな引き金に僅かな殺気を込めたのと同時に、獲物が声を発した。
吹雪の中でもはっきりと通じる、鈴を転がすような少女の声。
「己はシオン。ただの武人だ。貴様は狩人であろう。ならば我が比武の相手ではないが、撃てば話は別だ」
幼い少女の声が、凍えるような冷たさを帯びて続けていく。
「死合いを避けたければ、その弩を降ろせ」
男は戦慄した。
この吹雪の中、気配を完全に殺していた自分の殺気を感知したのかと。
「すまない。とんでもない化け物がいたように見えた」
男は指から引き金を離し、両手を上げた。
***
「武器を向けた詫びだ。食え」
男が焚き火で炙った、串焼きの肉塊を差し出す。
「うむ。詫びられる程のことでもないが、美味いモノには目がない。戴こう」
シオンが年齢の割に長い手を伸ばして、それを受け取る。
ヴェルテブラ山脈南壁の中腹地帯にある洞窟で、二人は焚き火を挟んで向かい合っていた。
視力を失った古強者と、まだ幼き娘。
本来であれば交わることのない二人が、互いに求道者である一点において奇妙な連帯感を覚えていた。
「この時期の肉は脂が乗っていて美味い。特にこの辺りの鳥は、極寒に耐えるために皮下脂肪に魔力を蓄えるからな」
シオンが骨のついた肉を、小さな口で豪快に噛みちぎる。
「ふむ……確かにこれは旨いな」
その味に、彼女は珍しく素直な感想を口にした。
まず、一口目で包んで焼いた香草の匂いが口腔を通って鼻腔を刺激する。
そこから更に噛めば噛むほどに、ジュワッと油が溢れ、口内に肉の旨味が充満した。
肉には芯までしっかりと火が通っていて、吹雪で少し冷えた身体を内側から温めていく。
「むっ……どうした、弟よ。貴様も食いたいのか?」
シオンの言葉に、後ろから物欲しげに見ていたアレンが深々と首肯する。
彼女は両手に持っていた串の片方を弟へと手渡す。
アレンはしっかりした手つきでそれを受け取ると、まだ生え揃って間もない乳歯で肉に齧り付いた。
「小さいのがいると思えば、獲物ではなく弟だったか」
「うむ。弟のアレンだ。母の命で連れてきた。まだ幼い故に、道中でくたばるのも已む無しかと思ったが……意外にも骨がある」
「なるほど、武人の弟もまた武人というわけか」
その称賛に対し、アレンはまた言葉を発さずにただ深く首を縦に振った。
「ところで狩人よ。貴様は何者だ? 名はなんと言う?」
「名は捨てた。かつて愚かだった男が死んだのと一緒にな。今はただの名無しの狩人よ」
男は目の傷を指で触りながら、見えぬ瞳を虚空へと向けた。
「かつての俺は自らの力を過信した傲慢な男だった。武器を手に戦場を駆け巡り、何百何千もの敵を屠った。連中は恐れ慄き、俺のことを北嶺の『千眼』と呼んだ」
久方ぶりの人間との会話に、口が軽くなった男が独白を続けていく。
「俺の目は特別だった。飛ぶ鳥の羽ばたきが止まって見え、達人の剣技でさえも欠伸が出るほど緩慢に見えた。故に俺はこの目を持つ俺こそが世界で最も強い者だと疑っていなかった」
だが、と区切り男が更に続けていく。
「ある時、俺はこの山に『死銀』と呼ばれる強大な怪鳥が現れると聞き、功名心に駆られて入山した。それを打ち倒せば、俺の名は更に轟く。金も名誉も女も……この世の全ては俺のモノになるのだと」
「それで? 返り討ちにあったか」
「……いや、戦いにすらならなかった」
男が肉を一齧りし、過去の自分を唾棄するような苦々しい表情を浮かべる。
「奴が銀色に輝く両翼を開いたと同時に、俺はその美しさに心から見惚れた。そして、それは俺がこの両の眼で見た最後の光景になった。光も名声も全てを失い、命からがら下山した俺に残されたのは煮えたぎるような復讐心だけだった。俺から全てを奪ったあの怪鳥を、今度は俺が八つ裂きにしてやる。その執念だけで、俺は盲目の身で再びこの死地へと這い戻ったのだ」
男がギリリと奥歯を噛みしめる。
当時の凄惨な記憶が蘇ったのか、その全身から冷たい殺気が滲み出した。
だが、一拍空けて『ふぅ……』と息を吐くと、その殺気は霧散した。
「だが、光なき世界で死と隣り合わせの日々を過ごす内、俺の中で何かが変わっていった。目は人を惑わす。色や形、表面上の情報に囚われ、本質を見誤らせる。視覚を閉ざされた俺は、生きるために風の声を聞き、雪の匂いを嗅ぎ、万物に宿る『気』を肌で感じる術を身に着けざるを得なかった」
男は自身の胸に手を当てる。
そこには、かつての傲慢な若者ではなく、自然と調和した老練な武人の魂があった。
「そうして俺はかつて『千眼』と呼ばれた頃よりも、鮮明に世界を『視られる』ようになっていた。俺が失ったと思っていたものは、なんと些末で、矮小なものであったのかを知った。そして、かつての自分がどれほど無知で、傲慢だったのかを思い知らされた。だから今は、奴に対して感謝の念こそあれど恨みはない。ただ、次に狩るのは俺だというだけの話だ」
「貴様も求道者というわけか」
狩人の言葉に、シオンは深く同調した。
敵意が害意を持って行うのではなく、純粋にどちらが優れているかを比べる。
彼女が行う比武もまた、同様の行為であったが故に。
「そんな大層なものでもない。さっきも言ったが、名無しの狩人。それが今の俺の全てだ。ところでシオンよ。主が持参したこの鳥の肉は本当に美味だな。どこで狩ったんだ?」
「そこらにいた鳥だ。鬱陶しく飛び回っていたが、軽く気をぶつけたら落ちたので食うことにした」
「そうか。『死銀』の奴もこれだけ美味いと狩り甲斐があるんだがな」
その言葉に、シオンと狩人はワッハッハと声を上げて笑う。
補足すると、今二人が食べている肉がその『死銀』であるのだが、男がそれを知る由もなかった。
「ところで狩人よ。この辺りで山菜は採れるか?」
「山菜? この当たりは万年雪で覆われているからな。まともな植物は育たんぞ」
「むぅ……それは参ったな……。母の命を果たせぬではないか……」
「いや、待てよ……。雲を抜けた先には、雪で覆われていない緑の地があるという噂を聞いたことがある」
それはこの辺りでまことしやかに囁かれている噂だった。
山岳地帯で最も高い南壁の上の更に上。
厚い雲を抜けた先には、まるで楽園と見紛うような緑の大地が存在する。
「そこには万病に効く霊薬の元になる『天嶺花』と呼ばれる花が咲くらしい。あくまで噂だが……『死銀』の存在が事実であったならこれもまたあるのかもしれん」
「それは良いことを聞いた。感謝する」
「行くのか?」
「ついでだ。そこらに生えているなら摘んでから帰ることにしよう」
シオンが立ち上がる。
その背中には、眠気に目を擦るアレンが背負われていた。
「馳走になったな、名無しの狩人よ。生きていればまた会おう」
「ああ、お前もな」
別れの言葉は短かった。
シオンは凄まじい轟音と共に吹雪が吹き荒れる洞窟の外へと迷うことなく踏み出していく。
その小さな背中が白銀の世界へと消えていくまで、男はずっとその方向を光なき双眸で見つめていた。
***
――夕刻。
空が茜色に染まる頃に、シオンとアレンは家に帰り着いた。
「母よ。帰ったぞ」
「あらおかえりなさい。少し遅かったわね」
「うむ。頼まれていた山菜を取るのに、ほんの少しだけ難儀した」
「あら、ちゃんと採ってきてくれたのね。ありがとう。シオンは本当にいい子ね」
シオンが差し出した山菜を受け取ると、シエラは彼女の頭を優しく撫でた。
「アレンも、お姉ちゃんに遊んでもらって楽しかった?」
シエラの言葉に、アレンはコクコクと頷いた。
「なら、良かった。ところでこれ……見たことのない山菜ね。本当に食べられるのかしら……?」
シエラは娘が持ち帰った、ほんのりと淡い光を放つ美しい花を不思議そうに見つめた。
「うむ。向こうで知り合った者が言っていた。滋養によく効くとな」
「へぇ……そうなんだ。じゃあ、スープにでも入れてみようかしら」
シエラは微笑むと、その草花を無造作に夕食のスープへと放り込んだ。
今日この日以降、ラングモア一家は病とは無縁の、異常なほど健康的な日々を過ごしたとか……。




