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第3話:母と川

 シオン=ラングモアの生誕から早三年の月日が流れた。


 その間、王国では大きな事件もなく、住民たちは平穏な日々を過ごしていた。

 それは、シオンたちが暮らすサットン村郊外の小さな家でも同じこと。


「母よ」


 ある日の早朝、ジョナサンが仕事へ出かけてすぐに、シオンが珍しく母を呼んだ。


「どうしたの? シオン」


 呼びかけられたシエラが、娘へと優しく返答する。

 生後間もない頃、その異常な成熟の速さに、名状しがたい恐怖を抱いたこともあった。

 しかし、あれからシオンの奇行はすっかりと鳴りを潜めていた。


 壁に向かって正拳突きを繰り返すことも、深夜に不気味な呼吸法で瞑想することも。

 少なくとも、シエラが見ているところではしなくなっていた。


 そうなれば、彼女は天使のように愛らしい我が子でしかない。

 両親は揃って、シオンを溺愛していた。


 無論、シオンも武を諦めて新たな人生を凡百の少女として生きることを選んだわけではない。

 彼女は自らの思い上がりを反省し、幼少期を学びの期間として定めた。

 まずは世界について、そして新たに得た自分の身体について知らなければならぬと。


(おれ)に何かできることはないか?」


 そう訪ねたシオンの視線の先には、シエラの膨らんだ腹部があった。

 彼女は半年前に、その身体に新たな生命を宿していた。

 歩くたびに腰をさすり、椅子から立ち上がるのも一苦労している母の姿を、シオンは静かな瞳で見ていた。


 シオン・ラングモア、あるいはその魂は究極の求道者である。

 故に、彼女は人、物、集団、国――あらゆる全てに帰属しない。


 しかし、唯一の例外が存在した。


 それは己が生命の主たる母、シエラ=ラングモアだった。

 文字通り自らの血肉を分け、本来はあり得なかった二度目の機会を与えてくれた母にだけは、敬意と感謝の念を持っていた。

 故に身重の身体を押して、家事に励むを彼女を手助けしたいとも思っていた。

 かつて、『武』以外の全てを切り捨ててきた彼女にとって、それは驚くべき心境の変化であった。


「あらあら、お手伝いしてくれるの? 嬉しいわね」


 シエラは嬉しそうに目を細める。

 だが、シオンはまだ三歳の幼子。

 本気で家事や力仕事を任せようなどとは思うはずもない。


「それじゃあ、お水を汲みに行ってくるから家で良い子にして待っててくれる?」

「承知した」


 二度の人生で初めて、他人のために働こうと思ったシオン。

 融通など利くわけもなく、母にそう言われれば素直に従った。


「よいしょ……っと、それじゃ行ってくるから留守番お願いね」

「うむ」


 両手に大きな木製の桶を持って、シエラが扉を開けて家から出ていく。

 彼女の日課で最も大変な仕事がこの水汲みだった。


 付近で綺麗な水を汲める場所は二箇所ある。

 一つは家の近所にある、緩やかな谷を降りた先にある小川。


 しかし、こちらはいくら道があるとはいえ、谷は谷。

 万が一にでも転倒でもすれば、母子ともに命に関わる事態となりうる。


 となると必然的にもう一つ、村にある井戸まで行くことになる。

 だが、そちらも村の郊外に居を構える彼女からすると重労働には変わりない。


 片道二十分の道程を、身重の身体で往復しなければならないのだ。

 加えて村の中心部にある井戸は他の利用者も多く、厳しい日差しの中で順番を待たねばならない。

 谷のような危険はないにせよ、こちらも母胎に負担を与えているのは自明であった。


 それでも、水は生活する上で必需のものだ。

 日々の料理や洗濯だけでなく、鉱山での仕事から帰ってきた夫の身体を清めるのにも使う。

 なくなればたちまち生活は破綻してしまう以上は、多少の無理を押しても汲みにいかなければならない。


「ただいま。あ~……重たい……」


 数十分後、額の汗を拭いながら帰ってきたシエラが桶の床に置く。

 たった一往復で全身は汗に濡れ、衣服と素肌の間の不快感に顔をしかめる。

 肩には桶の紐が食い込んだ跡が残り、息も絶え絶えだ。

 これを少なくともあと一往復はしないと、一日に使う水を賄えない。


「母よ」


 そんな母の姿を見て、シオンが再び憐れむように声をかける。


「どうしたの? お昼ご飯ならちょっと待ってね。もう一回、水を汲んでこないと……」

「大変そうだな」

「そう……ね。でも、自分たちで選んだ道だから仕方ないよね」


 シエラが弱々しい笑みを浮かべる。

 駆け落ち同然で移住してきた彼女たちには、村に頼れる身内もいない。


 自分なりの幸福を掴むために、全てを捨てて移り住んできた。

 それなら多少の苦労は仕方がないことだ。

 何よりも最愛の夫と娘と一緒にいられる幸福は、それを遥かに勝るのだから。


「そうか」

「でも、せめて綺麗な水の川が、うちの側を流れてくれたら助けるんだけど……なんてね」


 (みずがめ)に水を移し終え、再び木の桶を両手に持ったシエラが笑う。

 彼女としては当然、その言葉は冗談以外の何物でもない。


「承知した」


 しかし、融通の利かない娘にとってはそうでなかった。


 ***


 ――その日の夜、両親が寝静まった頃。

 シエラとジョナサンの眠るベッドから影が宙を舞い、床へと静かに着地した。


 時刻は草木も眠る丑三つ時。

 両親は深く寝静まっているが、娘のシオンは昼間と変わらぬ覚醒状態にあった。


 眠気を堪えているのではなく、元より彼女は睡眠を必要としない。

 前世における山籠りの日々で、脳の一部だけを順に休息させる術を身に着けていた。

 それは生物界において、長距離航行する水生哺乳類などが用いる方法と同様である。


 二人が目覚めないのを確認すると、シオンは音もなく窓から外へと降り立った。

 自宅を出て東に数十メートルほど進んだ先に、谷の下へと降りる道がある。

 その更に先、闇の中へと目を凝らすと月明かりを反射して煌めく清流が見えた。


『せめて綺麗な水の川が、うちの側を流れてくれたら助けるんだけど……』


 昼間、母が発した言葉を思い出す。

 一足飛びで川の側へと降り立ち、片手で一杯の水を(すく)って匂いを嗅ぐ。


 身体に害を為すものは含まれておらず、そのまま飲んでも大丈夫な清水だ。

 つまり、母が述べた条件は満たされている。


 シオンは静かに目を閉じ、意識を世界へと拡張させる。

 視覚、聴覚、嗅覚といった五感を超え、第六感を以て大地の脈動を感じ取る。

 地中深くを流れる水脈、岩盤の重なり、そして大地を巡る気の流れ――龍脈。

 足元から続く小さな流れが、幾重にも合流し、やがて大きなうねりとなり、巨大な龍を成している。


「ここか」


 川の中央に立った彼女が呟く。

 その第六感は、地中深くにある龍の急所を捉えていた。

 急所さえ分かれば、後はそこを突く為の武があればいい。


 シオンは深い呼吸をし、緩く握った拳を弓のように引く。

 力は必要なく、必要なのは芯を的確に打ち抜く正確性と浸透剄。

 大地の表面ではなく、その遥か奥底にある『点』へと衝撃を到達させる技術。

 全てを見抜いた双眸が開眼したのと同時に、垂直に振り下ろされた拳が川底を叩いた。


 ***


 翌朝、シエラは屋外の洗濯物を取り込もうとしたところで異変に気づいた。


 川がある。


「は? えっ? な、なんで……?」


 そう、川があるのだ。

 家の横、昨日までは何もなかった場所に清らかな小川が流れていた。


 まるで谷底が隆起してきたかのように平然と流れている。

 数千か数万の年月を経て起こるような地殻変動が、一晩の内に起こった。

 まだ夢現かと思い目を擦るが、そうしている間にも耳は川のせせらぎを聞いていた。


「母よ」


 いくら目を擦っても晴れぬ幻覚を眺めていると、後ろから娘の声が響いた。

 振り返ると、娘のシオンがどこか誇らしげな顔で立っていた。


「良かったな」

「え? よか……良かった……え、ええぇ……?」


 激しく困惑する母親を尻目に、どこか満足げなシオンが家の中へと戻っていく。


 理解不能な現象と、娘のしたり顔。

 その因果関係を疑うには、あまりにも事象の規模が壮大すぎた。


 シエラは急いで夫のジョナサンを叩き起こし、この不思議な出来事について話した。

 彼は、『珍しいこともあるものだな! わっはっは!』と大いに笑って仕事へと向かった。

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