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第1話:修羅

 ――シオン・ラングモアの旅立ちの三年前。


 セルバニア王国の北東部に位置する城塞都市ガリア。

 隣国との国境線付近にあり、堅牢な城壁に囲まれた街の片隅に、小さな剣術道場があった。


『護命活心流』


 流派の名前こそは広く知られていないが、道場の師範を務める老剣士『ベルンハルト』の名は武芸を志す者なら誰もが知っていた。

 それは、かつて『剣聖』と呼ばれた伝説的な武人であり、彼の振るう剣は文字通りの神技であった。

 切っ先が音速を超え、大気を切り裂く音すら置き去りにする『音斬りの太刀』。

 鋼鉄の鎧を薄紙のように両断し、戦場においては単身で一個師団を壊滅させたという逸話は今も尚語り継がれている。


 しかし、ある日のこと。

 戦場での勝利の後、彼は湖畔の水面に映る自分の姿を見た。

 そこにいたのは『剣聖』などと呼ばれる戦場の英雄ではなく、返り血に染まり、どこまでも武を求める『修羅』そのものだった。


 このままでは、私は『人』ではなくなってしまう。


 そう思った彼は剣を置き、武から退いた。

 以来、彼は『人を斬る剣』を封印し、平和な世を作るための『人を活かす剣』を説く指導者となった。


 ガリアの街に素朴な剣道場を建てて、数十年。

 何件もの縁談の話もあったが、人を殺しすぎた自分に家族を持つ資格はないと断り続けた。

 しかし、老齢に差し掛かった頃、彼に一人の家族が出来た。


 名を、レインと言った。


 色素の薄い茶髪に、どこか悲しげな瞳をした今は十七歳の青年である。

 彼は幼少期、狂乱した実の父が母を殺害し、その直後に自刃するという地獄を目の当たりにしていた。

 ベルンハルトが彼を養子として引き取った理由は、その現場にかけつけた際の縁……と、もう一つあった。


 レインはまさに、『剣の申し子』であった。

 教えずとも理合いを悟り、一度見た技は即座に模倣し、自分の技へと昇華させる。

 更に、彼には人には見えていない『何か』を捉える第六感があった。

 それをまさに剣聖と呼ばれたベルンハルトさえ、戦慄するような天賦の才と呼ぶ他なかった。


 だが、レインは優しすぎた。

 過去のトラウマからか、彼は他者を傷つけることを極端に恐れた。

 自分が傷つけるのは当然、自分の預かり知らぬところで誰かが傷つくのにすら涙を流す程に、心根が優しかった。

 剣を持たせれば、誰にも負けない才能を持っていたが、そこに殺気は一切ない。

 

 周囲の人間は口々に、『もったいない』『剣聖の名を継げたのに』と惜しんだが、ベルンハルトはそれでいいと思っていた。

 彼のような才を持ちながらも心優しい者こそが、自分の目指す『活人剣』の象徴と成り得るだろうと。


 ***


 ある晴れた日の午後、道場には弟子たちの元気な声と竹刀を打ち合う乾いた音が響いていた。

 ベルンハルトが腕を組んで稽古を見守っていると、道場の入口から不意に風が吹き込んだ。


「……ん?」


 弟子たちの動きが止まる。


 入口に、一人の少女が立っていた。

 腰まで届く見事な銀髪に、宝石を埋め込んだような煌めく瞳。

 年齢は十二、三といったところか。

 この世のものとは思えぬ美貌を持ちながら、身に纏う空気は鋭利な刃物のように鋭い。


 少女は道場内を値踏みするように見回すと、ふむ……と退屈そうに息を吐き出した。


 そして、最奥にいるベルンハルトの姿を見ると、真っ直ぐに彼のもとへと歩みだした。

 無礼を咎めようとした弟子たちが、彼女の気迫に押されて道を開けていく。


「貴様が、噂に名高い剣聖か?」


 少女はベルンハルトの目前で立ち止まり、不躾に言い放った。

 その瞳には年長者への敬意などは欠片もなく、あるのは純粋な強者への渇望のみ。


「……そう呼ばれていた者なら、もう居らぬよ」


 ベルンハルトは静かに答えた。


 奇妙な雰囲気の娘だ。

 帯剣はしていないが、立ち姿に隙がない。


「隠しても無駄だ。気配で分かる。貴様の中には、まだ錆びついていない刃がある」

「買いかぶりすぎだ。今は見た目通りの老いぼれに過ぎんよ」

「腕が鈍っておらんのなら構わぬ。(おれ)と比武しろ」


 少女は全く耳を貸さずに、一歩踏み出てベルンハルトを射抜くように見据える。


「やれやれ……困ったお嬢さんだ……」


 ベルンハルトは溜息を吐き出すと、傍らに控えていたレインを呼んだ。


「レイン、まずは道場の外で礼儀から教えてあげなさい。子供の道場破りごっこはその後だ」

「え? は、はい……!」


 養父の言葉に、レインが困ったような顔で前に出る。


「あの、君……入門したいのならまずは挨拶の仕方から覚えないと……ほら、一旦道場の外に出て……」


 彼は少女の背中に手を置いて、そのまま外へと連れ出そうとする。

 瞬間、少女の瞳がギラリと光った。


「己の身体に気安く触るな」


 少女がレインを跳ね除けるように、裏拳を放つ。


 それは少女にとって、暴力ではない。

 ただ、自分の周りを飛び回る蝿を払う程度のことだった。

 しかし全力には遠く及ばないにせよ、それでも達人ですら視認できない不可視の一撃。

 まともに喰らえば、ただでは済まない威力が彼へと迫る。

 

 ――死。

 彼の脳裏に明確な予感が駆けた。

 思考する時間などなく、肉体は意識を置き去りにして、本能的に駆動した。


 鋭い風切り音が、彼の鼓膜を揺らした。

 少女の拳は、レインの鼻先数ミリの空間を薙ぎ払っていた。


「……む?」


 少女が自分の拳を見て、怪訝な表情を浮かべる。


 わざと外したつもりはなかった。

 それはつまり、『避けられた』という事実を示していた。


 一方のレインは、ただただ困惑していた。

 彼は自分が避けたというつもりもなければ、そもそも少女に殴りかかられたという認識すら持っていない。

 全てが意識外の剥き出しの才による行動だった。


 この殺気の欠片も持たない青年が見せたその動きに、少女は強く興味を惹かれた。

 本来の目的だった耄碌爺には見えていなかった拳が、この男には間違いなく見えていた……と。


「ふむ……気が変わった」

「え?」

「おい、貴様。まず、礼儀とやらを教えてみろ」


 少女がレインを見ながら横柄な口調で言う。

 その瞳からは、先程までのベルンハルトへの執着が嘘のように消え失せている。


「あ……う、うん……だったら、ここだと邪魔だから外に行こうか……まず、道場に入る時はちゃんと一礼をするんだよ?」


 何事もなかったように振る舞う少女に、レインもまた同じように振る舞う。

 彼は竹刀を片手に、少女を連れて道場の外へと出ていく。


「やれやれ……最近の子供は血の気が多くて困る……」


 その姿を見て、ベルンハルトは安堵の息を吐く。

 道場は誰にでも門戸を開いているが、近頃はああいう礼儀のなっていない子供が増えていて困る。

 しかし、だからこそ『人を活かす剣』を、より世に広めねばならないと使命も強く覚えた。


「何をしている。稽古を再開しなさい」


 ベルンハルトが手を打ち鳴らして、弟子たちに向かって言う。

 そうして再び、道場内に竹刀の打ち合う音が響き出そうとした瞬間だった。


 パァァァァァァァァンッッ!!


 道場全体を震わせる程の、何かが破裂したような凄まじい音が外から響いてきた。

 それは単なる打撃音ではなかった。

 大木がへし折れるような、あるいは岩盤が砕けるような轟音。


「なんだ、今の音は?」


 ベルンハルトは嫌な予感を覚えて、慌てて草履を履いて外へと飛び出した。

 弟子たちもその後に続いていく。


 彼が飛び出した道場の前庭には、信じられない光景が広がっていた。


「……あ、あぁ……」


 レインが、地面に崩れ落ちていた。

 全身から滝のような汗を流し、顔面は蒼白。

 ガタガタと歯を鳴らし、自分の両手を見つめて慄いている。


 彼の足元には、縦に真っ二つに裂けた竹刀が落ちていた。

 折れたのではなく、切っ先から柄までは見事に両断されている。


「レイン、どうしたというのだ? 何があった?」


 ベルンハルトが駆け寄り、義理の息子の肩を揺する。

 あの少女の姿はどこにもなかったが、今の彼はそれどころではなかった。


「き……斬らされた……」


 レインは俯き、自分の手のひらを見つめたまま呟く。


「なんだと?」

「斬らされた……斬らされたんです……」


 レインは虚ろな目で師を見上げ、乾いた唇を震わせた。


「生まれて、初めて……何かを、誰かを斬らなければならないと思わされた……」

「どういうことだ? レイン! しっかりしなさい、レイン!」


 ベルンハルトが、レインの身体を揺さぶる。

 彼の瞳には、深い恐怖と共に、暗い昏い色が宿っていた。


 それは心優しい彼が、初めて抱いた明確な敵意、殺意。


「あれが……あんなものが、この世界にあってはいけない……」

 

 類稀な剣の才能を持ちながらも、その優しさが故に振るう相手を持たなかった。

 自分が傷つくことよりも、自分以外の誰かが傷つくことを極端に恐れた。


「斬る……斬らないと……世界の、ために……」

 

 故に青年は今、生まれて初めて自分が倒すべき『敵』を見出した。


「誰でもない、この僕が……斬る……あれを……! 斬らないといけない……!」


 うわ言のように呟きながら何も無い虚空を睨むレインに、養父は戦慄する。

 その顔はまさに、かつて自分が見た『修羅』そのものであった。

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