第20話:必殺
「武の道に終わりはあるのか、ですか?」
皺深い顔の老拳士が、対面に座る記者へと向かって聞き返した。
「ありませんよ。断じて、ありません。武というのは例えるなら、無限に湧き出る泉を柄杓ですくい続けるようなものであり、登れば登るほどに頂上が高くなる山を登り続ける如き行為です。技術に果てはなく、肉体の衰えという壁もある。故に、終わりはありません」
老拳士はそこで言葉を区切り、遠くを見るような目をした。
「しかし……終着点はなくとも、一つの『到達点』は存在します」
それはなんですかと聞く記者に、老拳士は夢を見るように語っていく。
「一人の人間が、来る日も来る日も、ただ愚直に握った拳を突き出す。一日に一万回。あるいは十万回か、それ以上。その祈りか、狂気のような時間に人生の全てを擲つ。そうした果てにようやく、生涯で一度打てるかどうかの極みの一撃。神速でもなく、剛力でもない。必要なのは在るべき位置に、在るべき形で身体が存在するという奇跡。我々は、その一瞬のために、果てのない道を歩き続けているのかもしれません」
老拳士は言った。
自分はそこに至れなかった、と。
だが、もし至った者がいるとすれば、それはもはや人ではなく、『武神』と呼ぶべき存在であろう……と。
***
シオンが深く腰を落とす。
左手を前に、右の拳を腰溜めに。
それは、武術を志す者なら誰もが最初に教わる、基本中の基本である『突き』の構え。
だが、その姿は異様だった。
殺気がない。力みがない。
予備動作による『起こり』すら存在しない。
深海のような静寂だけが、彼女の周囲に満ちている。
筋肉の弛緩と収縮、重心移動、骨格の整列。
あらゆる無駄が極限まで削ぎ落とされ、純粋な武道を歩む者だけがそこに在った。
シオン・ラングモアは、自分以外の汎ゆる全てに帰属しない。
故に流派を持たず、型や技も用いない。
しかし、唯一彼女自身すらも認識していない『必殺の一撃』と呼べるものがあった。
「……しっ!」
短く、鋭い呼気と共に、右拳が突き出される。
それは遍く求道者たちが求め、夢見続け、ついぞ辿り着けなかった極致。
しかし、シオン・ラングモアにとっては、単なる平常動作の一つ。
ある者はそれを、畏敬を込めて絶対無二の一撃――『絶拳』と呼んだ。
接触の瞬間、音はなかった。
ただ、世界が白く弾けた。
拳の前面が大気を押した刹那、凄まじい衝撃波がドラゴンの背中側へと突き抜けた。
硬質な鱗も、強靭な筋肉も、魔力による防御障壁さえも意味を成さない。
運動エネルギーは寸分の減衰もなく貫通し、その背後に広がる原生林を根こそぎ薙ぎ払った。
強い指向性を持った衝撃波は尚も止まらず、射線上の岩山は粉微塵に砕け散り、地平線の彼方に浮かぶ雲海をも両断し、一直線に天空へと駆け上がる。
蒼穹を裂き、大気圏すらも突き破り、虚無なる宇宙空間へ到達してもなお、その拳圧は星の輝きを揺らした。
重力に引かれた僅かな衝撃は全地表を奔り、世界中の強者たちへと『彼女』の存在を伝える号砲となり――。
「ちと、弱いな。女の身体はまだまだ扱いが難しい」
フワリ……と、最後に白銀の髪を優しく撫でて、消え去った。
***
「終わった……か?」
カグラは谷の入口で、呆然と立ち尽くしていた。
彼女はその決着を、直接目にしたわけではない。
だが、肌を刺していたピリピリとした重圧が消え、代わりに世界そのものが震えるような衝撃を感じた。
静寂が、辺りを支配している。
決着は成された。
どちらが勝った?
天災か、それとも武か。
もし、武が破れたのであれば……。
カグラは剣の柄を握りしめた。
足が震える。本能が逃げろと叫んでいる。
だが、師が破れたとするのなら仇を討つのが弟子の務め。
一方的な押しかけであったとしても、その道理は曲げられぬとカグラは暗闇を見つめる。
やがて、奥からズルズル……という重い音が響いてくる。
闇の中から現れたのは、衣服を半ば失い、それでも己の足で歩いているシオンだった。
彼女は片手で、巨大な何かを引きずっている。
「ご、ご無事で……!」
駆け寄ろうとしたカグラに向かい、シオンは無造作に腕を振るった。
「受け取れ」
「えっ? わっ!」
放り投げられた巨大な物体が、ドスンとカグラの眼前に落ちる。
それは、巨大な竜の頭部だった。
眼球は白目を剥き、かつての威厳など見る影もない。
「こ、これは……」
「お前の手柄にしておけ」
「は?」
カグラは師の勝利を喜ぶよりも、発せられた言葉に戸惑う。
「な、何を仰るのですか! これを討ったのは貴方です! 何故、私が――」
「己の武に、名誉などという不純物は不要」
シオンはカグラの言葉を遮り、吐き捨てるように言った。
「『竜殺し』の称号など、己にとっては雑音に過ぎん。貴様にくれてやる」
あまりに一方的な物言いに、カグラは言葉を失い、俯いた。
唇を噛み締め、拳を震わせる彼女の顔を覗き込むように、シオンが問う。
「泣くほどに嬉しいか?」
悪魔的な問いかけだった。
――所詮は女よ。
そう言われ、家督を継げずに国を出て、大陸へと渡った。
全ては大きな名声を手にして、自分を軽く見た者たちを見返すために。
「……この上ない、屈辱です」
だが、それは自分ではない者の手によって、いとも容易く成されてしまった。
自分自身が、心のどこかで『女だから』と諦めていたことを、女の身でいとも簡単に。
それは希望にして、途方もなく大きな屈辱であった。
カグラの目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
彼女は顔を上げ、涙に濡れた瞳でシオンを睨み返す。
その瞳には、殺意に近い憎悪が籠もっていた。
武門に生まれ、誇りを胸に生きてきた。
だからこそ、自分が振るってもいない剣で得た栄光など、施しで与えられた名誉など、死ぬよりも辛い侮辱だった。
だが、今の自分にはそれを『不要』と跳ね除けるだけの実力がない。
その無力さが、最も悔しくてたまらなかった。
「なら、強くなれ」
シオンは背を向け、歩き出す。
「強くなって、いずれ全て己に突き返せばいい。『我が武には不要』と、力づくでな」
夜風に白銀の髪をなびかせ、背中で語る。
「其れが、己が貴様に教える最初で最後のことだ」
その背中はあまりに遠く、そして大きかった。
カグラは涙を拭い、竜の首を見つめ、そしてシオンの背中に向かって声を張り上げた。
「はい……! いつか、必ずや……!」
その返事は、夜空に高く響き渡った。




